聞こえる?【秋ピリカグランプリ2024】
今日も気を使って疲れた……
私は会社の帰り、気分転換にと思って図書館に立ち寄った。
館内に入ると、何かおかしい。
あちこちで話し声が響いていたからだ。
(俺はそうじゃないと思う)
(村上さんと一緒に走りたい!)
(越後の笹飴って何だ?)
老若男女のさまざまな声が入り混じり、ざわめきとなっていた。
図書館でおしゃべり?
しかし見回すと、館内の人はみな口を閉じていた。
じゃ、誰?
ヒトじゃないとすれば……
本だ。
書架に近づいて耳を澄まし、声が聞こえてくる本を手に取った。
適当に開くと、声を発しているページがあった。
料理の本だが、レシピを読む声ではない。
(こんな難しいの作れない。そもそも材料多すぎ)
本のページに吸い込まれた読者の思いが、声になって再生されていた。
そして、それは私にしか聞こえていないようだった。
私は本を閉じて書架に戻し、足早に図書館を出た。
こんなことは初めてだ。
目がまわりそう。心臓がどきどきしている。
落ち着かなきゃ……深呼吸してみた。
すると、足元で――図書館の入口でうずくまっている男性に気づいた。
両耳を押さえている。
「ひょっとして、あなたも聞こえたんですか」
私は思わず話しかけていた。
それから私たちはつきあうようになった。
ものの考え方や感じ方が似ているのか、そばにいると心地よかった。
手をつないだり抱き合っていると安心できた。
言い争うこともすれ違うこともなく、一緒に暮らし始め、子どもを授かった。
子育てや仕事に追われて何年か過ぎた。
ある日子どもが言った。
「としょかんにいきたい」
仲良しの子が「としょかんには、おもしろいえほんがたくさんあるよ」と教えてくれたそうだ。
私は図書館を避けていたので迷ったが、子どものためと意を決した。
彼が入口前のロビーで待機することにした。
私は緊張しながら、子どもと手をつないで図書館に入った。
あのざわめきは聞こえなかった。
私は彼に電話した。
「聞こえない。大丈夫みたいよ」
彼も図書館に入ってきた。
「ぼくも大丈夫だ」
絵本をたくさん借りた子どもは、その夜満足そうに眠った。
彼も子どもの横で寝落ちしていた。
読み聞かせていた絵本が開いたままだ。
ページの端が少し波打っている。
以前読んだ誰かが、水でもこぼしたのだろう。
紙はこんなふうに湿気を吸ってゆがんだり、香りが移ったり、いろいろなものを吸い込んでいる。人の気持ちまで吸い込んでいる。
考えてみると、本から声が聞こえたあの頃、私は会社でいろいろなことを気にしていた。今思えば些細なことだ。
彼もあれこれ気に病む性格だったが、仕事や子どもの世話に追われていたら、あまり気にする暇がなくなったと笑っていた。
あの頃は今より純粋だったのかも、と思うと、ほんの少し寂しい気もするが、今の私は、水がかかったり染みがついたりして少し汚れても、紙のように受け入れることができる。
そして、また次の日に向かって行けるのだ。
(1181文字)
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