文芸誌『ホーレン』刊行の公示
いまロープの力によって
鐘は墓洞から揺られ引き上がる。
鐘よ、音の国へ、天宙へと
舞い上がれ。
ホーレンとは、季節の女神たち三人の呼び名である。繰り返す時間と秩序を司る女神たちを示す名である。そしてフリードリッヒ・シラーが主宰した雑誌の名前である。シラーもまた『ホーレン』という雑誌を編集した。シラーがその雑誌を、季節の女神たちにあやかりし名前とした意向は次のようである。
礼儀正しさと秩序、正義と平和が、それ故この雑誌の精神と規律となるでしょう。……これら神々の姿の中に、ギリシャ人は世界を保つ秩序を敬慕しました。そこから全ての善きものが流れ、太陽の運行に同形のリズムの中に最も相応しい象徴を得た秩序を。……物質世界で季節の移ろいを執り成し、精神世界で調和を保つものと同じ規則です。
繰り返す時間とは、私達が辛うじて覚えている感覚である。ここで言う「私達」の範囲は、場合によっては幾千年の距離がある人間を含む。人間が文字によって言葉を刻み、永年という観念の具現を志向し、後代への干渉をはじめ、それが少なからぬ結晶を留めるならば、その結晶を継承したならば、その者は「私達」である。
この完結見果てぬ文明という現象を、この雑誌『ホーレン』は肯認する。この雑誌もまた文明の恩恵に浴した産物である。尤も「世界を保つ秩序」は、二十一世紀前半には失われてきているものである。毎年地球上の氷の体積は漸減してきている。人類は望んでいないにも関わらずである。私達の内でも近代以降は「礼儀正しさと秩序、正義と平和」の限界が議論され、ないしは実証されてきた。二十一世紀に至ってなお、私達の魂は癒え難い。
秩序は必ずしも魂を癒さなかった。あるいは規則正しい秩序というものは、恩恵たる文明とは相容れなかった。礼儀正しさもまた、偽善に取り込まれて魂を癒さなかった。神がいなければ全ては許されるという命題を、ドストエフスキーのイヷン・カラマーゾフは口にした。私は二〇二〇年のカラマーゾフの姪にこう言わせる。「神がいないから偽善は許される」と。
現代で資本主義に隷属した市民性もまた、魂を癒さない。所詮は誰かの腹から生まれたに等しい人間同士の間には、生命の損傷を遠ざけないだけの格差があり、市民として遵守して収めた税金はどこに消えるとも知れない。
金に魂を売るよりは、悪魔に売った方が正しいだろうか? 何故なら悪魔は、魂の質と内容に最もこだわるからである。無論そう言うわけにはいかない。悪魔の所業とは、人の弱みを利用することである。この市民社会でも悪魔の手先は減ることを知らない。人間の弱みに向かって乱れ打ちし、それが当たってしまった個人に、法に触れない程度に加減したまやかしを処す仕事や社会構造は枚挙に暇がない。「神がいないから偽善は許される」のである。
それに付随して科学や学術も、魂を譲り渡すには値しない。それらは真理の体系ではなく、正しく疑う技術であり、正義と進歩の方舟ではなく、ただ人間が営む共同体である。
それでもなお、私達は、この雑誌は魂を癒す存在を見出すことに挑戦する。愛、生、未来の中に、魂の医術を見出す。そしてこの雑誌からあらゆる未来予測を放逐する。未だ来ない事象を断定的に語る不純な政党性と結社性とを、この雑誌はシラーの『ホーレン』に倣い締め出す。それは排他的な趣味と不安をもたらし、私達から思考と疑念を奪うからである。
この雑誌は、より面白きものを提供する。真に面白きものを提供する雑誌は数多にあったが、本誌のそれはより古典的なものである。尤も時代遅れの教養主義的に、読者がこの雑誌に魂の波長を合わせる必要は全くない。この雑誌の望むところは、読者がこの雑誌の鳴らす言葉から、自らの魂を合奏させるに相応しい対象を見出すこと、時には演奏の音域を広げることである。そして読者がこの雑誌を通じて見出した音を、自らの生活で再び奏で、身の周りの世界を美しく彩ること、それによって魂を癒し合うことを望むのである。私はここに『ホーレン』という一つの「鐘」を鋳造することを宣告する。
平時には定刻を、有事には警告を告げる標塔の如く、祝いには福音を、悼みには安韻を伝え、世界文学に鳴り響く「鐘」を鋳る。
2024年11月1日
浅間香織
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