「殉死」司馬遼太郎
日露戦争時、陸軍第三軍を率いて旅順要塞を陥落させた乃木希典は、その妻静子と一緒に明治帝崩御ののち自死したという事実は知っていました。また、乃木には若い頃から明治帝に心酔し、恩顧を感じていた「一徹な武士」というイメージを抱いていました。
その後、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読み終え、作品に描かれる乃木の「戦下手」(児玉源太郎曰く)や旅順を攻めあぐねている時の自死念慮のエピソードを読むにつれ、「一徹な武士」というイメージが消えさりました。
そして、ようやくこの「殉死」を手にしてイメージが固まりました。語弊がありますが、あまりにも自意識過剰なスタイリストなのだと。
自らを「こうあるべき」という型に嵌めようとする意識がかなり強かったようです。
日露戦争後、また死んでから神格化された乃木希典ですが、彼は軍人としての能力がある人物ではありませんでした。
29歳の時、西南の役で負け、薩摩軍にあっさり負けてしまう「戦下手」なのです。
この時、「隊旗を奪われた」ということが後々の彼の人生を暗くしているようです。
乃木は異例の栄達をします。彼が長州出身であり、吉田松陰の叔父玉木文之進の教えを受けたという極め付けの筋目の良さに支えられていたせいだと言われます。そういうえこひいきがなければ、歴史に残るタイプの人物ではないとのことです。
周囲の人に世話を焼かせたがるという人格だったようです。周囲が気にかけてしまうというタイプ。いますよね、ほっとけないというタイプの人は。
明治帝からも愛されたようですが、司馬遼太郎によるとその愛され方は「臣下」に対するそれというより「恩顧の武士的存在」に対するそれのようだ、とのことです。
また、乃木も明治帝に大切にされていることを知り、常に帝のことを第一に考えて生きていたようですね。
さて、殉死の理由は何か?
実は、上述した「隊旗を薩摩軍に奪われたこと」なのだそうです。旅順で六万人もの「陛下の赤子」を死傷させたのですが(彼の部下にいたロクでもない参謀のせいでもあるが)、それよりも、「隊旗を奪われたこと」だったようです。この辺、責任の大きさが分かっていないのではないかという気もします。
そして、彼は、叔父の玉木文之進に学んだ「理屈はともかく何よりも行動を重視する」という陽明学の教えを全うし、彼は自刃しきったのです。
……
どうも司馬遼太郎の乃木に対する見方がキツすぎるとの意見があるようですが、その意見はかなり感情的なものからきているような気がします……その意見をに読んだことはないですが。
また、「司馬史観には誤りが多い」と主張する向きもいるようですが、司馬遼太郎は史観など書いたわけではなく、夥しい資料・史料を調べ上げ、「小説」を書いただけです。だから「司馬史観」という言い方は当たらない、と思いますね。
そもそも、そう主張する向きには司馬遼太郎と同量の資料・史料を調べ上げてからそう言っているのかどうか確認したいと考えます。
20250322
