ショートエッセイ:お父さんの偏食と無粋なAI
お父さんは、嫌いなオカズには手をつけない。
文句も言わないし、顔にも出さない。
ただ、箸を伸ばさずに、そっと残す。
その様子を見るたびに、
私は心のどこかで、同じことを思っている。
「好き嫌いなく食べてほしいなぁ」
口には出さない。
出すほどのことではないし、
言ったところで何かが変わるとも思っていない。
ただ、
ほんの少しだけ、
こちらの気持ちが取りこぼされた感じがする。
一方で、
AIにプロンプトを投げるときの私は、
だいぶ真剣だ。
言葉を選び、
順序を考え、
余計なノイズを削ぎ落とし、
「これなら伝わるだろう」と思って送る。
それなのに、
返ってきた画像が
「オイオイ」と言いたくなる出来だったとき、
私は、ほぼ同じ感情を抱く。
「ちゃんとオレの思いを酌んでくれよぉ」
不思議なことに、
この二つの感情の起伏は、
私の中では完全に一致している。
相手は、
一方が人間で、
一方がAIだ。
片や長年生きてきた義父で、
片や学習データの塊。
それでも、
湧き上がる感情は、驚くほど同じカタチをしている。
「理解してほしい」
「でも、説明するほどでもない」
「こちらの都合を押しつけたいわけではない」
ただ、
少しだけ、
こちら側の文脈を汲んでほしい。
たぶん私は、
食事でも、
プロンプトでも、
相手をコントロールしたいわけではない。
むしろ逆で、
こちらの“意図”が、
自然に伝わってしまう状態を
どこかで期待している。
そして、その期待が外れたとき、
私は同じように、がっかりする。
デザインの仕事でも、
似た場面は何度もある。
丁寧に設計したはずの導線が使われない。
意図した解釈とは違う使われ方をする。
説明していない部分だけが、強く受け取られる。
そのたびに思う。
「ちゃんと、伝えたつもりだったんだけどな」
でも同時に、
こうも思う。
伝わらなかったのは、
相手が悪いわけでも、
こちらが失敗したわけでもない。
ただ、
理解とは、
常に“完全ではない”という前提で
成り立っているのだ、と。
お父さんが残したオカズも、
AIが生成したズレた画像も、
その前提を、静かに突きつけてくる。
デザインとは、
意図を完璧に伝える技術ではない。
むしろ、
伝わらなさを含んだままでも、
関係が壊れない状態を
どう設計するか、なのだと思う。
私は今日も、
残されたオカズを見て、
生成された画像を眺めながら、
同じため息をつく。
そして、
それでもなお、
また次のプロンプトを書く。
