最初の二行で読む『すべて失われる者たち』
二〇二三年秋に出版した拙著『すべて失われる者たち』の三十一の短編小説たちを(あえて一編は除く)、書き出しの二行で紹介します。
木は立ったまま眠っている
夜明けごろの夢のなかで僕は若くなっている。
窓の外には紅葉した木々が見える。
二人の秘密
結婚して二年。信昭には、妻の亜純に言い出せないことがあった。
さようならのメロディ
さようなら、という言葉はなんでこんなに胸が苦しくなるんだろう。直太郎はまだ口にしていない別れのあいさつを頭のなかで繰り返しながら、そう思った。
双子の姉
双子の姉はどこまでも仲が良かった。過去形で話さなければいけない現実が、どこまでも悲しい。
アンダルシアの夜
あの日の夜、テレビのなかの近藤真彦が繰り返し悔しそうな顔をした。「アンダルシアに憧れて 薔薇をくわえて踊ってる」と歌い出してからすぐ、歌詞を忘れてしまったのだ。
小さな雲が二つ
春の小雨がスラックスの裾を濡らす。両の足首がひんやりとして、気分が重くなった。
あしたてんきになあれ
夏の昼下がり、なんの前触れもなくわたしを追い越して急停止した自転車が、恋を運んできた。
三限目のキリスト教入門講座を受講し終えて、一人暮らしのアパートに帰る途中だった。
暗闇に流れる
ボブ・ディランの「ミスター・タンブリンマン」が流れ始めたとき、その男は「電車に轢かれたんですよ」とつぶやいて、右足をなでた。正確には右足があった場所、と言うべきかもしれない。
オレンジジュースを飲んでいた
父が白血病で息を引き取るまでの十カ月はまるで夢のようだった。言うなれば悪夢で、何もかもが仄暗くよどんでいた。
抜け殻の音楽
二〇一一年の春、僕たち四人は宙ぶらりんになった。全員が大学受験に全敗し、高校を卒業した。
鳩時計
テレビの天気予報が明日の夕方、関東に台風がやってくると告げていた。東京の電車は平常どおり運行する予定だけれど、遅れや運転見合わせの可能性もあるという。
思わぬ告白
もう二度と戻らないと決めていた島に、賢司は向かっている。九〇〇円の運賃を支払う前からずっと気が重い。
ロンドン・コーリング
二〇〇九年の秋、もうすぐ二十歳になろうとしていた僕はロンドン行きの飛行機に乗っていた。初めての海外旅行で、少し緊張していた。
金木犀の香りは悲しみ
あれから、深夜二時ごろに目覚める日が多くなった。早朝の急行列車が頭のなかを何度も通り過ぎる。
マタニティのうずき
「順番が、逆じゃないか」と言う父の息継ぎの長さで怒っていることがわかった。わたしも、そう思っている。
ホワイトアルバム
上の鍵は難なく開いた。だが、下の鍵穴に鍵を差して右に回そうとしても回らない。
新しい命を
東京駅のホームで呼人は不安を感じていた。これからしばらく、一人の生活を送る。
ここではないどこかに
底冷えのする夜、里菜はなかなか寝つけなかった。わたしはわたしの人生を生きていない。
初雪の夕暮れに
東京に初雪が降った夕暮れ、コーヒーにミルクが溶ける様子を見るわたしの頭の片隅で十年以上も前の記憶があからさまによみがえる。仕事帰りに雪がやむのを待つために立ち寄ったカフェで、淡い切なさが込み上げてきた。
それがダンスになる
八年前、ひまわりがうなだれていた季節に恋人同士になった二人は、冬を迎えようとしていた。一緒に暮らし始めてもうすぐ四年になる。
青春はいちどだけ
わたしたちはそのときまだ十九歳で、瞬く間に恋に落ちて、赤々とした炎のように燃え立つ心をぶつけ合って、たちまち離ればなれになった。一人に戻ったとき、わたしは泣いた。
誰にも言わない
大学最後の年が近づいた夏、ティム、パディ、ギャズ、リーの四人はリヴァプールに一軒家を借りることになった。リヴァプール出身のリーが兄から「知り合いがバカンスでスペインに行ってるあいだ家が空くらしい。借りる気はないか?」というメッセージを受け取ったとき、パブにいた四人は満場一致で賛成した。
仄暗い夜に三人は
イアンはノーザン・クォーターの一角にあるパブで待っていた。サリーは約束を覚えているだろうか。
戻らない故郷
グラスミアに帰らなくなってから、どれくらいたつのだろう。朝の八時すぎ、ノーマンは右手を握って年数を数えようとし、親指、人差し指と開いてやめた。
大事な話があるの
異国で迎えた日暮れどき、ペンション・マリエのベッドに横になったアンディは「チェスキー・クルムロフ」とゆっくりとつぶやき、まじないの言葉を唱えているような気分がした。自分の声が誰かの声のように聞こえた。
ひどくみじめな再会
はちみつ色の家々が並ぶ村が点在するイングランドのコッツウォルズは、時が過ぎるのを忘れたかのような場所だ。二十一世紀になってだいぶたつというのに、ロマン主義の風景画のごとく古き良き時代を感じさせる。
川はいつまでも流れている
リズはとにかくロンドンから離れたかった。ロンドンの喧騒に身を置いていると、終わった恋と始まらなかった恋をいつまでも引きずってしまいそうだった。
灯りを消したとき
スウォンジーの街にその年初めて雪が降った日、サラは混乱した頭で病院から出てきた。カリフラワーみたいな白髪の医師が低い声で話した言葉が体じゅうで渦巻いている。
クリスマスに雪が降れば
スティーブンはずっと自分のせいなのだと悔やんでいる。もう十歳になったのに靴のかかとをつぶして履く癖が直らないから?
最後の祈り
この話を書き進めていいのか、いまだに迷っている。彼の願いを裏切ることになってしまう。
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