それはぼくの名前じゃない【夢の話、または短編小説の種 #7】
ぼくは地下鉄の電車に揺られている。ソーホー地区にレコードを買いに行く途中で、ずっと視線を下げられずにいる。iPhoneのイヤフォンからはドアーズのブートレグが流れている。
オレンジ色のロングシートに腰かけ、向かい側の網棚をじっと見ている。一冊の本が横たわっている。目を離すことができない。背帯に書いてある「それはわたしの名前じゃない」という文字が気にかかって仕方がない。うろこのある優しいセリフの字体で、でも座った瞬間にすぐに目に飛び込んできた。
春先のお昼とも夕方とも言えない時間帯の電車は、どこか寂しい感じがする。普段なら気を紛らわせようとおもむろに立ち上がって、その本を手にしただろう。
ただ、今回は少しばかり勝手が違う。その本の下にドライプルーンみたいにしわくちゃな顔の老人が座っている。僕以外の乗客は彼だけだ。白髪は長く、苔みたいなあごひげをたくわえている。黒いスーツが喪服のように見える。ぼくの存在は気にもとめていないそぶりだけれど、こちらはどういうわけか心がざわつく。
何駅かを通過しても、降りる様子はない。ぼくはその本がどうしても読みたくて、レコード屋が並ぶ街の駅を乗り越してしまった。目を合わせないようにときどき見ると、右手に杖を持って座るその老人が「それはわたしの名前じゃない」の番人のように思えてくる。すると、体がぶるぶると震え、体じゅうからどっと汗をかき始めた。イヤフォンから「The End」が聞こえ始め、その老人と目が合った。老夫は突然「やあ、リアム」と声をかけてきたけれど、それはぼくの名前じゃない。
「何かがおかしい」と感じた瞬間、「The End」が隣で眠る恋人のケイティの寝息に変わり、ぼくは「助かった」と思う。これが夢だと気づく。カーテンの外は少し明るくなっていた。 ケイティは寝ぼけ眼でぼくのほおにキスをした。
向かいのフラットのドアががちゃりと開く音が聞こえる。いや、閉まる音なのかもしれない。ぼくは祈るように胸の前で手を組み、もう一度眠りにつこうとした。
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