見出し画像

とても素敵な考え方を【一二〇〇文字の短編小説 #19】

僕は文字どおり、一瞬だけそのひとに夢中になった。

いまから十年前、僕がまだ十九歳のときの話だ。夏の昼下がり、僕はグラスゴーの通りを歩いていた。向かいから歩いてきた女性と思いがけずぶつかり、彼女が持っていたアイスコーヒーが僕のTシャツの胸の部分にかかってしまった。ちょうどもぎたての、葉っぱがついている林檎のような染みができた。

彼女は慌てて「ごめんなさい。お詫びをしなきゃ」と言った。

「大丈夫です。僕はこれから大学に行かないといけない」

「でも、その染みは……クリーニング代は払わせて」

「本当に大丈夫なんです。今日は大切な講義がある」

彼女は少し考え、鞄からペンを、財布から何かのレシートを取り出して「じゃあ、時間があるときにここに連絡して。きちんとお詫びをしたいから」と電話番号を渡してきた。それから、「わたしはエヴァ。本当にごめんなさい」と続けた。

ポケットのレシートに気づいたのは、それから一週間ほど経ってからのことだ。夕方、綺麗な文字で書かれた数字をゆっくりとスマートフォンに打っていく。僕があのときの話を終えたあと、彼女は「これから会いましょう。ひとまずヴァージン・ホテルに来てくれる?」ととても静かな声で言った。

ホテルに着き、当然のように部屋に案内された。彼女はバスローブ姿だった。

「こんなかっこうでごめんなさい。今日、ローモンド湖とトロサックス国立公園に日帰りで行ってきたの。少し汗ばんだからさっきシャワーを浴びたところなのよ」

「観光で来ているんですか」

「まあ、そんなところね。ところであの染みはきちんと落ちた?」

「いえ。薄く林檎のような染みが残っています」

彼女は「本当にごめんなさい」と答え、出し抜けに「わたしとしたいでしょ?」と言ってきた。僕は黙ってうなずき、お互いが何者かもほとんど知らないまま、僕たちは激しく体を求め合った。終わったあと、彼女はチェコのプラハから再出発を図るためにグラスゴーを訪れているのだと言った。「八年間付き合っていた彼氏にふられたの。グラスゴーは二人で訪れたことがある街なのよ」とかすかに笑い、「わたしはきっとあなたより十歳以上も年上よ」と明かしてきた。

それから僕は日曜日から次の日曜日まで、毎晩ホテルに通った。ありていに言えば、肉体的な相性が息をのむほどに良かったのだ。

彼女はあるとき裸のまま、僕をまっすぐに見てこう言った。

「幸せには色も形も匂いもないの。だから何が幸せか自分で決めていいのよ。あなたもそんなふうに生きていったらいいわ」

翌日、またホテルに行くと、その部屋には別の人が泊まっていた。彼女はいなかった。電話をかけても機械的な声のメッセージが流れるだけ。たった一週間あまりの、性的なだけの関係。それでも、僕は幸せな時間だったと思っている。とても素敵な考え方を教えてもらったからだ。

◤短編小説集が発売中◢

いいなと思ったら応援しよう!