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母親になるということ【八〇〇文字の短編小説 #44】

「わたしが母親になるなんて」とアンは考えている。

ベイカー・ストリート駅のそばにあるカフェで、苦味のきいたコーヒーを飲み始めたばかりだ。テーブルに置いたスマートフォンから伸びたイヤフォンのケーブルをぼんやりと見ながら、少し食べすぎたときのように膨らんだお腹を撫でてみる。十五時に待ち合わせなのに、リックはまだ来ない。

三年前から付き合っているリックとは結婚しないつもりだ。同棲を続けてきたし、何も婚姻届けを出さなくとも、とお互いに納得し合った。子どもを身籠っているのがわかったとき、リックは手放しで喜んでくれた。

およそ妊娠六カ月目で、実のところ、最近は気分の落ち込みがひどい。リックとの外食や散歩で気を紛らわせようとしても、心の凹みは変わらない。「わたしが母親になるなんて」というよりも、「わたしが母親になっていいのだろうか」とうなだれてしまう。自信がない。

リックには内緒だけれど、アンは一度中絶を経験している。ちょうど十年前の話だ。十九歳のとき、微熱が続き、生理がなくて、もしかしたらと思ったら、妊娠がわかった。まだ若かったし、自分の人生を謳歌したかったし、母親になる自覚もなかったし、恋人には淡々と告げ、ほとんど迷わず堕ろす道を選択した。

十年をかけて、命を奪った罪の意識がゆっくりと、けれども確実に強まってきた。もう妊娠しないように気をつけていたつもりなのに、半年前につい油断してしまった。つまり、望んだ状態ではない。でも、今度はきちんと産んであげなければ、とも思う。「母親にならなければ」と肩に力が入れば入るほど不安が募り、気が滅入ってしまう。かつて中絶をした自分に、その資格はあるのだろうか──。

リックはまだ来ない。不意にアンの視界に、窓の外から親子の姿が飛び込んでくる。母親とまだ歩き始めたばかりくらいの女の子だ。アンは思わず目を逸らし、イヤフォンのケーブルが断線しかけていることに気づく。

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