GeminiとNotebookLMについて
年末年始、家の中に引きこもっていた。テレビも面白くないし、ヒマだったので、GeminiとNotebookLMで遊んでいた。
生成AIは、ChatGPTの無料版をちょっと使うくらいで、決して活用できているとは言い難い。ハッキリ言えば、世の中から随分と置いて行かれている状態である。
それでも、YouTube動画等を見ると、昨今の生成AIの進歩は目を見張るものがあるようで、課金してしまえば後戻りできないので勉強せざるを得なくなるかと思って、どんな使い方をするのかイメージも定かではないものの、とりえあえずGeminiの有料版にいきなり契約をしてしまった。
GeminiとChatGPTは、まあ使い勝手は似たようなものである。少なくとも素人の僕には区別がつかない。同じように優秀だし、同じようなところでおバカさ加減を露呈する。
少し前までは、機械は読解力が致命的に弱いと言われていた。新井紀子らが開発した「東ロボくん」は、当時、東大入試を突破することはできなかったと記憶している。
でも、最近の生成AIの言語処理能力はもはや人間を軽く超えてしまっているようである。
そういう意味でも、驚かされたのは、NotebookLMの能力である。
いろいろなWEB記事やらドキュメントを読み込ませると、あっという間に内容を要約してしまい、まとめ記事も書くし、音声解説までしてくれる。試していないが、内容に基づくテスト問題まで作ってくれるらしい。引用元になる情報が限定されるので、生成AIにありがちなウソ(ハルシネーション)に悩まされる心配が少ない。
新入社員に同じことを命じたら、きっと1週間くらいかかるだろう。いや、僕だって、途中で音を上げるだろう。大手コンサルが少し前に大量にリストラをやっていたと記憶しているが、従来ならば若手社員にやらせていたような仕事は、もはや生成AIで十分なのだろう。
『ホワイトカラー消滅』という本を前に読んだことがあるが、中途半端なホワイトカラーにやらせる仕事など消滅してしまい、残るのは判断とか折衝とかを担う「ボス」だけになる。いずれそういう世の中が来るとは思っていたが、気がついたら、既にそういう時代は到来していたのだ。
でも、「ボス」だって若手の頃は、地道なリサーチ仕事や、書類や資料づくりといった下働きをやらされながら、少しずつ仕事を覚えたはずである。
今の若手は、どうすれば良いのだろうか。いきなり「ボス」キャラを発揮できるポテンシャルがあればともかく、そういうのが苦手な真面目にコツコツと仕事をするのだけが取り柄のような人材は、もうホワイトカラーとしては不要ということなのだろうか。
NotebookLMとGeminiがあれば、僕の仕事もかなりの部分、不要になりそうである。
NotebookLMに僕のインタビュー記事(僕の今までの職歴や、どういうスタンスで仕事に取り組んできたか等を説明する内容)や、職務経歴書、社内で残している諸々のドキュメント、業務日報等を読み込ませて、それに基づいて、Geminiで「僕のような」チャットボットを作ってみた。
試しにいろいろな問いかけや相談をやってみたのだが、普段、僕が喋っているような内容を散りばめた回答がすぐさま返ってきたのには腰を抜かしそうになった。
これですぐさま僕がお払い箱になるとは思わないが、社内のメンバーの相談相手とか壁打ち相手くらいならば務まりそうな感じはする。
あと、昨年来、塩野七生の「ローマ人の物語」シリーズを読んでから、すっかり古代ローマに惹かれるようになったので、古代ローマに関わる資料、Wikipediaの記事、僕がnoteで書いた関連記事等を読み込ませて、「古代ローマ帝国」に関するチャットボットも作ったところ、こちらもなかなか具合が良い。ちょっとした質問などは速攻で気の利いた回答を返してくる。たいしたものである。
こういう時代における「教育」というものは、何をどう教育すれば良いのだろうかと思ってしまう。
やみくもに暗記をするのは無意味であることは明白である。でも、いろいろな情報に接し、重要な事項を理解し、記憶することで、我々の頭は鍛えられるし、正しいことと間違っていることを峻別する判断力も養われる。素読や暗唱の効用を説く人は多い。昔は、東洋ならば漢文による四書五経、西洋ならばラテン語で「ガリア戦記」、ギリシア語でホメロスの詩を暗唱するといった勉強をやっていたという。それらはいわば頭の基礎鍛錬だったのではないのか。
電卓があっても、計算問題を練習するのと同じである。いざとなれば手計算で検算するスキルがあるから、電卓の出す答えを信用できるし、仮に明らかに間違った答えを出して来たら、ヘンだなと気がつくことができるのだ。
それでも、初等中等教育における基礎的な勉強はともかくとして、大学での高等教育はどうなるのだろうか。
僕が現代の大学生だったら、間違いなく生成AIを使わないわけがない。論文や書籍を読む時は、生成AIに要約してもらうだろうし、レポートを書く時にも当然にお世話になるだろう。テスト前には、きっと生成AIに練習問題を出してもらうに違いない。覚えにくい情報は、音声で解説してもらったら助かるだろう。
「巨人の肩の上に立つ」とは、先人たちが築き上げた知識や偉業を土台にして、さらに新しい発見やより高い視点を得る、という意味の慣用句(メタファー)である。アイザック・ニュートンが用いた言葉として有名で、「私が見たものが遠くまで見えたのは、巨人の肩の上に立っていたからだ」という有名な言葉に由来し、学問や科学技術の進歩を表す際によく使われる。
生成AIのような科学技術の進歩も、一種の「巨人の肩」だと思えば良いのではないのか。
「使うな」と言ったところで、学生は必ず生成AIのお世話になる。大学サイドが、生成AIを使っているかどうか見破るソフトを使ったところで、さらに巧妙な手段を講じるだけである。キリがない。
であれば、生成AIを積極的に活用して、それによって自分なりの付加価値を作り出せるかどうかで評価するしかない。社会に出れば、生成AIを使って仕事をするしかないのだ。若いうちから、使いこなし方を習熟させた方が良いに決まっている。
生成AIに書かせた内容の単なる丸パクリなどは論外であり、評価しない。月並みな結論もダメ。いかにオリジナリティを打ち出せるかの勝負である。
生成AIを使えば、昔ならば合格最低点ギリギリ(優、良、可、不可の4段階の評価であれば、可くらい)のクオリティのアウトプットならば、容易に作成可能であるが、それくらいのレベルを「0点」に設定するのだ。「巨人の肩」に乗る以上、採点基準のハードルがインフレを起こすのは当然である。そこから自身の発想や創意工夫でもって、どこまで他人との違いを見せられるか。勝負のポイントはそこの部分ということになる。
ちなみに、この記事は自分で書いており、一切、生成AIのお世話になっていない。
生成AIで大量に記事を書いて、それらをnote他にアップして副業をしようといった内容のネット記事を見たことがあるが、僕は、自分で自分の考えを整理するために記事を書いている。
生成AIが書いた記事の方が、もしかしたら整っているのかもしれないが、人間の手で苦労して書いているところに「味」があるのだ。生成AIが当たり前の時代だからこそ、一周回って、「人肌」恋しい時代が来ると信じたい。
『ホワイトカラー消滅』にも、アドバンスト・エッセンシャル・ワーカーはなくならないし、むしろこれからの花形分野になると書いていた。機械に代替不可能な領域で勝負するしかないのだ。
ロックバンドのQUEENが、初期のアルバムに、「ノー・シンセサイザー」とわざわざ注記していたのと、少し似ているかもしれない。便利な機械に頼らないことによる独自のテイストを信じていたに違いない。
もっとも、QUEENもいつの間にやらシンセサイザーを使い始めた。「ノー・シンセサイザー」の注記も書かれなくなった。
それくらいに世の中の技術革新の流れに抗うのは難しいことなのだ。
したがって、先ほどは、「僕は、自分で自分の考えを整理するために記事を書いている」とエラそうに書いたのだが、いずれは、自分の考えを生成AIと会話しながら詰めていって、記事のドラフトも生成AIに下書きしてもらい、自分は最後の仕上げをするというようなことになっているかもしれない。
要は、道具として使いこなせるかどうか次第である。道具に支配されたり、使われたりするのでは困ると思う。
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