『アダムズ・アップル』と道徳の教科書 ①
今回からは、中学「道徳の教科書」の内容を映画で考えてみます。(全3回)
1988年、オードリー・ヘプバーンは、内戦と飢餓に苦しむエチオピアを、ユニセフの親善大使として訪問し、子供たちの現状を目にした。
「とても耐えられないつらいことが、私たちの地球上で起きています。どうか、このような飢えに苦しむ子供が少なくなるよう、皆さんの力を貸してください」
彼女が、自ら危険な地域に赴き、飢えや病気の子どもたちを励まし抱きしめたのは、一体なぜだったのだろうか。
教科書の内容をつかむための4本はコチラ。

本文には
もう一つの手で人助け
偽善がこわい
親鸞のような我が子
悪を全否定する善行マッツ
166人殺したスナイパー
戦争トラウマとダークな茨城
極悪チェイニー
などを書いていきます。
人助けは富裕な趣味か
オードリーといえば『ローマの休日』ってなるわけで、”真実の口”で「手なくなっちゃった…嘘だよーん」とかペックさんとイチャついてるシーン、も〜なんなんだよお前ら付き合っちゃえよって70年以上前のフィルムなのにいつ観てもあの瑞々しさ、超常現象っつうかね。エターナルだよね。

『ローマの休日』
彼女がその幼少期、ナチ・ドイツ占領下のオランダで飢餓と重い貧血に大変苦しんだこと。
そして50、60年代とハリウッドで完全な成功を収めたのち、70年代以降は国連ユニセフでの慈善事業を積極的に行っていたことなんかも、耳にしたことのある人は多いかもしれない。
上に紹介した中学道徳の教科書によれば、オードリーが自らの信条を表す言葉として大事にしていた詩があるのだそう。
大人になると気がつくことがあります。
両手のうち一つは自分自身を助け、
もう一つの手は、ほかの人を助けるためにあると。
なるほど。
なんといったらいいか、オードリーって「善行の象徴」というのか、マザー・テレサと双璧を成すアイコンみたいになってるところがある。
善行の尊さは理解できるものの、いっぽうこの教科書を読んで「俺は両手2つ使ったって自分すら助けられないよ」って追い詰められた気分になる人もいるかもしれない。
あるいは「けっ、人助けなんて富裕なヤツらの趣味だぜ」ってシニカルの谷に迷い込んでる人もいるかもしれない。
「善いこと」って何だかいかがわしい。
「あなたのことを助けます」って口じゃ言うが実は胡乱な勧誘なのかもしれないし、草むしりやゴミ拾いにいそしむ裏には学校の成績UPなんて別の目的があるのかもしれない。
「震災募金に寄付しましたよ」って胸を張る代議士が、同じ額の後ろ暗いカネを追求されてましたよね、とか。
医療品や食料をパラシュートで落として「どうだ我が国の戦争は人道的だろう」って誇らしげだが、地形が変わるくらいミサイル撃ち込んだお前らが何を、とか。

「100%純粋な善」のみで出来てる「善いこと」なんてあるわけがない。
「善いこと」には、なにかしらの意志がある。
だからこそ善行には「それは偽善だ」とか「嘘つき」とか「下心があるんじゃないか」なんて蔑みの言葉が、自分の心の中や他人の口から常に付いてまわる。
これは居心地が悪い。居心地悪いし、怖い。
「これってもしかして偽善…?」と悩めば身もすくむ。
誰でもいいから誰かのウソを暴きたい、誰かのこと糾弾したい、なんてマニアがどこにも一定数いるという事実も大きい。いまはSNSもある。
たとえば季候変動問題や環境保護問題に関して、人間は現在かなり追い詰められているっていうのに、この国ではもうひとつ盛り上がらない。
背景には、これら諸課題が「善行」や「ボランティア」として語られてきた経緯のなかで、偽善とかウソへの糾弾と恐怖心がどろどろ混ざり合ってしまっていて、そこにすごくイヤーな沼があるような気が…ちょっと近づきたくない…なんて気持ちがあるのでは。

無思慮でも善は善?
ウチでは小さな子供を育てている。
育てはじめの当初、子供なんてたいがい傍若無人なもんだろうとタカをくくっていたのだが、しかし実際は、西に転んだ子があれば行ってバンソウコウを渡し、東に炒めもので火傷をした親があれば水でぬらしたティッシュでさぁ冷やせと渡してくれる。

なんて優しい我が子。親鸞のような利他の心を持つ我が子。ちゅちゅちゅちゅちゅ。なんて思ったりもするのだが、優しいだけでは終わらせてくれない。
断ると怒るのだ。
「ありがとう。でも大丈夫。放っておきゃすぐ治るよ」なんつった日にゃ、ブンむくれてそのあとガックリ落ち込んでしまう。よくよく聞いてみれば、褒められたいとかそういうのではなく、
「役に立ちたいのだ」という。
役に立ちたい。
素晴らしい。
人のためにバンソウコウを、冷やしたティッシュを渡してくれるってお前どんだけ尊いんだ、とは思うんだ。確かに。
しかしイヤ待てよ。
こちらの実際のコンディションは考慮してくれないのかと。ぬらしたティッシュを受け取るか、受け取らないかの選択肢はこちらに無いのかと。強制なのかと。
善には報いがある。
善いことをすれば福が返ってくる世界であってほしいと思う。
思えばこそ、子の心を満たすべく「ありがとう、君のティッシュが役に立ったよ」って言いたい、いや、実際そう言ってる、いや、言わされている。
どうなんだこれ。正解なのかこれ。
「役に立ちたい」一心の、真っすぐな瞳の俺の子よ。
その善行は無思慮ではないのか、俺の子よ。
その無思慮な心を満たしてて良いのか、俺よ、親よ。
冷やしたティッシュは尊いんだよ。ホント。感激してるわけ。尊いからこそね。しかしなにか心に、なんていったらいいのか、気がかりなササクレ的なもんが残るなと。

世界が悪なら俺は死ぬ
“北欧の至宝”ことマッツ・ミケルセン主演、2005年のデンマーク映画『アダムズ・アップル』は、「善いこと」が暴走する陰惨なコメディだ。
団塊ジュニア世代の僕にとってデンマークといえば、ラース・フォン・トリアー監督のTVドラマ「キングダム」が出てくるわけで、当然そのイメージといえば「ダーク」かつ「陰惨」ってところで違和感は無い。
マッツの役どころは教会の牧師で、仮釈放された犯罪者を更生させるためのプログラムに従事している。
すでに教会には、アルコール依存症の性犯罪者と、ガソリンスタンド専門の武装強盗犯が暮らしているが、そこに新たに加わったのがネオナチのギャングだ。
彼らは明らかに悪に染まっているわけだが、マッツは絶対にそれを認めない。
「“悪魔による試練”があるだけだ」
「悪人などこの世にいない。希望の光をみよう」と繰り返す。
善いこと以外の存在を、かたくなに否定する。
実際のところ、性犯罪者は昼間っから酒浸りだし、武装強盗犯は拳銃を隠し持ち、出所の怪しい大金を隠し持っている。
ネオナチはヒトラーの肖像を部屋に掲げ、気に入らないことがあればすぐに顔面パンチを繰り出してくる。
しかしマッツは、更生できない彼らの現実は見ない。

お腹の子供に障害があるかもしれないと悩む女性に「私の息子にも障害の疑いがあったが、今では元気に庭を走り回ってる。大丈夫だよ」と励ます。
だが実のところ、その息子は脳性マヒを抱え、車椅子なしでは生活できない状況だ。
それだけじゃない。
息子の境遇を苦にして妻は自殺してるし、姉はアバズレ、マッツ自身も父親から性的虐待を受けていた経験がある。
そんな過去も現状も、すべて無視。
ちょっと普通じゃない。
あんたの息子にはマヒがあるんだ、脳性マヒなんだよ、と周りがいくら指摘しても、彼は「バカを言うな」と笑ってこう強弁する。
「インフルエンザにかかっていたんだ。それで少し体の動きが鈍いんだ」
「妻は自殺じゃない。事故で死んだんだ」
そして高らかに宣言する。
「悪が善と戦ってもムダだ。世界は変わることなく善は悪に打ち勝つ。神はわたしの味方だ」
マッツの様子はおかしい。
目もランランとしてギョロギョロして、なんだか挙動不審だ。
なんか耳から血がいきなり流れ出てきたりもする。
そして、マッツを知る医者が驚きの事実を語る。
「彼はイカれてる。そして深刻な病気だ。頭にバレーボールくらいの巨大な脳腫瘍があり、既に死んでいてもおかしくない」
彼はもうとっくに死んでいるはずなのに、なぜか生きている。
なぜなら自分が病気であることを認めていないから。

ひどい過去も、うまくいかない現状も、その存在を一切否定することで彼はその命を長らえている。
つまり「悪の存在」を認めた瞬間、病は現実となり彼は死ぬ、というわけだ。
と、ここまで概要だけざっと書いてみると、どこがコメディなのかサッパリわからない。
とはいえ決して胸クソ映画ではない。安心してほしい。
脳がもんじゃ焼きみたいになったりはするが、爽快だ。大丈夫。
マッツの飄々とした、何考えてるのかよくわからない風貌や所作が何とも言えないおかしみを生んでいて、そのあたりは本編で確かめてもらえればと思う。
なぜ「善」を信じるのか
劇中でも紹介されるが、『アダムズ・アップル』のストーリーは旧約聖書にある「ヨブ記」をモチーフにしている。
寓話としても面白いので読んだことのある人も多いかもしれない。
豊かな財産を持ち、たくさんの家族に囲まれて健康に過ごすヨブ。
その幸福そうな様子を見て、サタンは神をそそのかす。
サタン:「ヨブはあれ金持ちだから神を信仰してるだけで、すべて失えば信仰も捨てるでしょ」
神:「そうかなあ」
ということで神は、ヨブの息子も娘もすべて殺し、財産もすべて奪う。
おまけにヨブの頭から足の先までウミだらけの腫れものだらけにしてしまう。
妻や友人は、みなヨブを非難した。
「あなたが何か悪いことしたからでしょ」
「神さまを信じるなんてやめなさいよ」
しかし彼は神への信仰を決して捨てなかった。
まとめるとこんな感じだろうか。
まぁひどい話である。
神を信じることを仮に「善」とするなら、善いことをしたって悪いことばかりが起きるって話だ。しかも神さまが率先して「ちょっと試してみるか」って家族をみな殺しにする。
さすがにそれはないでしょ神。

先にも書いたが、善いことをすれば福が返ってきてほしい。
悪いことをした人はバチを受けてほしい。
きっと多くの人が、口にはせずとも、どこかでそう考えているんじゃないだろうか。
でも現実に起きていることは違う。
腐臭がひどすぎて顔をしかめるくらいの「悪いこと」なのに、ますますそこに名声と力が集まっていくって様子を何度みてきたことか。
いっぽう「善いこと」は広がっていかない。
米マサチューセッツ工科大(MIT)の2018年のSNS研究によれば、「真実は、デマと比べて6分の1の拡散力しかない」
善は弱い。悪の6倍弱い。

実は「ヨブ記」の最後では、信仰を捨てなかったヨブはご褒美として、2倍の財産と幸せな家族を再び得て、140歳まで生きてから死んだ、なんて書かれている。
しかしあまりにあっさりしてる。
ヨブの受難描写の執拗さに比べてご褒美パートは完全におまけ扱いというか、「さすがにこのラストはねえだろ、ハッピーエンドにしろよ」って苦情が出資者からきたんで慌てて付け加えた、って感じだ。
「善には福」は、ヨブ記のテーマではない。
むしろラース・フォン・トリアーとかミヒャエル・ハネケの映画みたいな、神も仏もない、ポジティブな出来事なんて一つもない、非情でトラウマでクソみたいな場所がおれたちの世界なんだぜ、ってことが主題だろう。
それでもマッツは、それでもヨブは、それでもなお善いことを信じる。
しかしなぜ?
報いなど無いのになぜ?
この問いを、別のエピソードで例えるならこうだ。
巨石を苦労して山頂に持ち上げるが、向こう側に転がり落ちてしまう。向こう側からもう一度山頂に持ち上げていくが、やはりまた転がり落ちてしまう。それを無限にくりかえす、「シーシュポスの神話」。
落ちると分かってて、なぜもう一度持ち上げるのか?

あるいはアルベルト・アインシュタイン言うところの「知れば知るほど無知が広がっていく」。
最後に待つのは無知なのに、なぜそれでも知ろうとするのか?
ひとの習性なのか。
宿命なのか、業なのか。
「止むに止まれずやるしかないのよ」ってことか。
この問いの答えが見つかることはおそらくないでしょう。
ただ少なくとも「善は栄えるべし、悪は滅ぶべし」といった、2つの価値の単純なバトルでは語ることはできないよなあと思うのです。
<続>
「アダムズ・アップル」も上映される
「〈北欧の至宝〉マッツ・ミケルセン生誕60周年祭」
開催:2025年11月14日〜
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