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短編|ザ・サイレント・ヒーロー|高層ビルの密室から全員救出のため、誰にも言えない孤独な戦いに挑んだ男

小雨が降り始めた水曜日の午後20時。都心に建つ45階建てのオフィスビルのエレベーターには、残業を終えて帰宅する人々が乗り込んでいた。

いつもの風景だった。しかし、扉が閉まって動き出すと同時に大きな爆発音が起こり、ガクンという衝撃と共にエレベーターが急停止した。それは29階と30階の間、地上から約120メートルの地点だった。

エレベーターに乗っていた6人の男女は、壁や床に叩きつけられた。灯が消え、換気扇が止まった。揺れが収まると、彼らは手探りでスマホを灯して、不安そうに顔を見合わせた。皆、ぶつけた身体を押さえてはいるが、大きな怪我をした者はいないようだった。焦げたような匂いが漂っている。

「みんな、大丈夫か?」、商社マンが声をかけた。
「いったい、何があったんだ? テロじゃないか」と彼の同僚。

商社マンが非常電話に手を伸ばして、ボタンを押した。

「ダメだ。つながらない」
「スマホの電波もだめだ」
「とりあえず助けが来るのを待ちましょうよ」と、銀行員の女性。

その言葉が終わらないうちに、エレベーターが、突然に20センチほど下がった。

「救助を待ってる場合じゃないだろ?」
「非常電源にも切り替わらない。深刻な状況だと思う」と年配の男。
「爆発音を聞いたよな。ふつうの故障じゃない」
「ならどうする?」
「天井の出口から脱出しよう。映画でよくあるだろ」
「それは映画の話だ。救出口は外側からしか開かない」
「じゃ、どうするんだ。のんびり救助を待つのか」
「....」

エレベーターの軋む音がして、またエレベーターがわずかに下がった。

「ちょっと天井をよく照らしてくれ。衝撃で救出口に隙間ができてるようにみえる、ほら」
「確かに少し空いてるが、どうしようもないだろ。バールでもあればな」
「バールならあるぞ。オレは建設会社だ。出張用のバッグにはいってる」
「そこの君、オレを肩車してくれないか、おい!」

言葉をかけられたジーパンの男は何も答えなかった。顔をあげることさえもしない。彼はただ隅の方でじっと座り込んでいた。腕には階下のコンビニでも行くつもりだったのか、ペラペラのエコバッグをさげている。
苛立つ商社マンを落ち着かせるように、年配のサラリーマンが割って入った。

「まぁまぁ、ショックを受けてるんだよ」
「オレが担ぐよ。これでも力はあるんだ」と痩せた男が前に進んだ。

商社マンは吐き捨てるように言った。
「だらしねーな。こんな時に」

「天井の扉を開けたとして、どうやって全員が上がるんだ?」
「まずオレがなんとか天井裏に上る。そこから皆のベルトをつなげて紐にするんだ。上から引き上げるから、誰かが下でアシストしてくれ」
「いや、待て、普通のベルトじゃ切れる。作業用ハーネスのベルトを使おう」
「ハーネス?」
「高所作業の安全帯だ」

建設会社の男が出張用バッグからハーネスを取り出した。

ジーパンの男以外は、皆が脱出のために協力していた。誰もが意見を出し合い、できることを必死で探していた。彼だけが何もせず、意見も出さない。
年配の男が話しかけたが、男は押し黙っているだけだ。

「そんなヤツは放っておけ。怖くて動けないんだよ、冷や汗を垂らしてるじゃないか」

商社マンは、自然とリーダーの地位になっていた。彼についていけば何とかなるだろうと皆が思えた。隅っこの男は役立たずだ。何の協力する姿勢も示さない。

だがジーパンの男は声を出すわけにはいかなかった。動くこともできなかった。彼は必死でギリギリの「便意」と戦っていたのだから。声を出しても、動いても、ギリギリで保たれている均衡が崩れてしまう。

密室で、人体からインドール、スカトールを混じえた気体が微かに放出されただけでも、人は静かにパニックに陥るものだ。ましてや、その数百倍の量が、換気の止まった狭いエレベーター内で暴発すれば、阿鼻叫喚の地獄絵図が待っている。嘔吐、幻覚、幻聴、意識を失うものもいるだろう。

極限状態の人間が理性のタガを失えば、我先にとパニックを起こして血みどろの争いが始まる。そうなれば皆の生存率は確実に下がることになる。

皆を無事に脱出させるために彼ができることは、暴発を防ぐためにただ我慢を重ねることだけなのだ。エレベーターの外で起こった爆発に加えて、エレベーター内でも暴発が起こればどれほどの惨状になることか。今、皆を守れるのは彼だけだ。動いてはいけない。話してもいけない。微かな刺激が死を招く。

それは、腹に爆弾を巻き付けられているのと同じだ。爆発すれば全てが終わる。だからジーパンの男は、必死で他者を巻き込まないように戦っていた。彼がやらなきゃ誰がやる。いや、やっちゃだめだ。やらないことなんだ。彼を笑う者は、人間失格だ!

男は誰にも気づかれないように腹を締め付けるボタンを外した。エレベーター内の者は、一人ずつベルトを掴んで必死に天井へと上がっていった。残るは下でアシストしていた痩せた男と、じっとうずくまるジーパンの男だけだ。

「次はきみの番だ」と、痩せた男がいう。
ジーパンの男は、首を振って、「お前が一人でいけ」と手を動かした。

「お前、喋れないのか。いいから来いよ。見捨てたら目覚めが悪いんだよ」

彼はジーパンの腕を引っ張った。だが彼は知らない。それは爆弾の信管を引くに等しいということを。ジーパンの顔に苦悶が浮かぶ。このままでは爆臭に巻き込むことになる。

「来いって!」 腕を引かれて、ジーパンの男の息が大きく荒くなった。それでも彼は動こうとしなかった。

そのとき、またエレベーターがガシャンと下がった。

「時間がない。いいのか? オレはいくぞ」

痩せた男は、きまり悪そうな顔で天井から下がったベルトを掴んだ。上りきると、一瞬だけ彼を見て「ごめんな」と消えた。残された男はジーパンを下げた。

先に上がった連中の気配はもうない。無事にエレベーターシャフトから脱出できたのだろう。もう誰かを守る必要はない。天井の脱出口には、つなげられたベルトがブラブラと揺れていた。

男の額から汗が引くのと同時に、エレベーターの真上でケーブルがブチっと音を立てて切れた。

巨大なシャフトを、エレベーターの箱が火花を散らしながら落ちていく。加速度を伴って軋む金属が、断末魔の咆哮をあげながら小さくなっていった。やがて地獄から響いてくるような破損の音。落ちていったエレベーターは地上に叩きつけられた。

スローモーションのようにエレベーター内に残された荷物やパーツが空中を舞った。その中には、5人が脱出するまではなかったはずの、パンパンに膨らんだエコバッグ、脱ぎ捨てられたジーパンと下着も混じっていた。

さっきまでジーパンだった男は、シャフトに結ばれたベルトにしがみついて、ぶらぶらと揺れていた。全員が助かったのだ。

シャフトの上方から、救助のためのサーチライトが彼を照らした。


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ケイメイ 最後までお読みいただきありがとうございました。チップしちゃおうかなと思ったら、迷わなくていいんです。私がそっと背中を押しますからね!