職場のバグ|ヨシダさんが、「前歯は個人情報です!」って言うんですけど
🔷個人情報管理って大切ですよね。そのためには「何が個人情報なのか」ってことが重要なはず…なんですけど
オフィスのプロジェクトルームには、カタカタとキーボードを打つ音だけが響いている。
「インシデント管理データベース」の更新をしていたヨシダさんが、いきなり笑い出した。
「ぶはっー、ちょっと何これー?」
いつもながら、この慣れ慣れしい口調は何だろうか。一応、自分は上司的な感じなのに。ここは注意だな。
「ヨシダさん。静かに仕事してください!」
「ケイメイさん、メモ欄に書いてある『2月1日。ちゅーちゃん、歯が一本欠けてます』ってなんですか!」
「あっ、いや…。ほら、その日、ちゅーちゃんの前歯が一本なかったでしょ。オレ、びっくりしちゃってさ。最初は、誰だか全然わかんなかったんだよ。彼が口を閉じて、やっと、『あっ、ちゅーちゃんだ!』ってわかったの。あまりに衝撃的だったから、メモ欄に書いておいたんだよ」
ちゅーちゃんとは、企画部員の後輩である。
「前歯が一本ないぐらいで、わからないわけないでしょ!」
「ホントだって! 日頃の印象って、大事なんだよ。ちゅーちゃんが口を開けたら、また、誰だかわからなくなっちゃったからね」
「ふざけないでください。だいたい、”ちゅーちゃん”っていうのも、ネズミを飼ってそうだからって、勝手にあだ名つけたんでしょ」
「そうだっけかな」
「まったく、人事部に電話するよ。だいたい、これって個人情報じゃないですか?」
「えっ!? 前歯が欠けてることが!?」
「そうですよ。だって、それは本人の特定につながる情報でしょ?」
「そうなのかな? 『ちゅーちゃん』、『前歯が欠けてる』って情報だけで、本人特定できる?」
「まぁ、それは、さすがに無理かもしれないけど」
「だよね。…いや、あきらめるのはまだ早い。できるよ!」
「えっ」
「前歯が欠けたサラリーマンなんて、そうそういるものじゃないよね。これを手がかりに、歯医者をあたるんだよ。そして前歯が欠けた患者がいたら、そいつの保険証情報を手に入れる。ここから健康保険組合がわかる。さらに所属している企業グループに辿り着く」
「...」
「次は、その企業のドメインアドレスをダークウェブから手に入れて、全社員にスパムメールを送りつけるんだよ。タイトルは『ちゅーちゃんが当選しました! 今すぐクリックで 前歯をプレゼント!』。ちゅーちゃんは、それをクリックする。その返信メールが、個人を特定することになるんだ」
「そんなに、うまくいく? 今どき、スパムメールなんて誰も開かないよ」
「じゃ、聞くけどさ。そんなに注意深い人間が、前歯をなくすと思う?」
「それはそうだけど。でも、前歯だけで…」
「前歯の話じゃないんだよ! オレが言いたいのは、個人情報はそれだけ慎重に扱いなさいってこと。わかった?」
「モヤモヤするけど、…あっ!これなに!」
「えっ?」
「画面の端をクリックしたら、『トンマ辞典』っていうのが出てきたよ!」
”トンマ辞典”…それはデータベースを修正したときに、定時後、面白半分に追加した機能で、隅っこに置いた「透明ボタン」を押すと開くミニデータベースだった。
メンバーは、仕事はしっかりやってくれるけど、日常会話ではやたらと勘違いや言い間違いが多い。それがあまりにも面白かったので、6件ぐらい登録したっきり忘れていたのだった。
例えば、こんな感じである。
日付:XX/7/11
メンバー:ヨシダさん
タイトル:勝手にミックスしてるよ
内容:『焼肉 叙叙苑』(じょじょえん)の名前が思い出せなくて、オレが助け船を出したら、「そうそう」と言うつもりが、「じょーじょー」と相づちをうっていた。奇妙な冒険かよ!
「ふーん。なんか、一時期、人の間違いをよく覚えてると思った!」
「…」
定時後、メンバーが帰ったあとで「トンマ辞典」を開いてみると…
『ケイメイ、非常識辞典』に変わっていた。
…仕事、早いな。
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