短編小説「熱帯夜」
息が詰まるほど暑い部屋の中で、俺は煙草に火をつけた。茶色く燻んだ無数の葉のひとつひとつに炎が浸透していき、ヂリヂリと音を立てる。ふうっと息を吐くと、口から勢いよく吐き出された煙が、何かに押し戻されるように停滞し、うねり、揺れ動きながら湿った空気の中を登っていった。紫煙とはよくいったものだ、暗がりの中で煙というものはここまで蠱惑的な色を放つのか、と俺は関心しながらその優雅な舞を眺めていた。ふと、カーテンの僅かな隙間から差し込んできた月の光が、生臭い息の混じった煙を照らした。この光景をしばらく見ていると、やがて光は凝縮され、一筋の道となって部屋の奥の方まで伸びていった。その淡い月光の先で、まるまると肥太った蝿が1匹、祈るように手のひらを激しく擦り合わせていた。首を旋回させ、感情の無い複眼であたりを見回しながら。
蝿の動きに何かを感じた俺は、全神経を鼻に集中させ、部屋中に広がる臭いを分析し始めた。臭いのあまりの強さに気を失いそうになりながらも、俺は臭気の中に希望を見出した。懐かしい香り、そう、潮の香りだ。我が輝かしき時代の海の思い出が頭の中で弾けた。思えば俺は海と共にあったのだ。幼少期の思い出、砂浜を駆け回っていたあの頃、新鮮な磯の香りに混じる生臭さに生命の息吹を感じて興奮していたあの頃…。深く物事を考えることなく幸せを実感していた子供の頃の記憶の波動が、疲れ切り気力を失っていた俺の体に活力を与えてくれた。俺は壁に手をつきながら重い腰を持ち上げ、立ち上がった。その拍子に煙草の灰がぽろりと落ち、下腹に当たって散らばった。
自室から漂ってくる悪臭を避けるように、俺は息子であるお前の寝室に向かった。襖の中を窺うと、夜の帷に慣らされた俺の目に、力なく横たわったお前が映った。若々しく張りのあったお前の肌は青白く変色して皺だらけになっており、顔にはアメーバ状の黒い染みがまばらに浮かんでいた。天井を見つめる目の瞳孔は開ききっており、何かを感知しているようには到底見えなかった。現に覆い被さっている俺のことなど気にも留めていないようだった。時の洗礼を受けて容姿は醜く変貌してしまっていたが、目元だけは異常に幼く見えた。少年時代と変わらない、可愛らしい目元がそこにあった。次の瞬間、お前と共に海を駆けずり回った日々が、脳の奥底から浮かび上がってきて眼前に広がった。俺とお前の黄金時代の記憶だ。
−−−海のにおいがしませんか?磯のにおいとも言えるのですが−−−
都会の学校に馴染めなかったお前。そんなお前を元気にしてやりたい一心で、俺は猛反対した妻と離婚して仕事を辞め、自らが幼少期に慣れ親しんだ離島へお前を連れていった。一日中釣り糸を垂れてうみねこの鳴く声を聞いていた俺とお前、浜辺の砂の暑さに驚いて飛び上がり、そこから逃れる為に波へ向かって全力疾走していったお前、それを追いかけ、寄せる波にお前を押し倒し、泳ぎ方を教えてやる俺…。お前と過ごしたあの輝かしい日々は、今でも昨日のことのように思い出すことができる。思えば、学校へ行く時いつも暗い顔をしていたお前が、こぼれるような笑みを俺に向けてくれたのはあの頃だけだった。
−−−ドアポストをあけてみてください。磯のにおいが感じられると思います−−−
俺たちは蓄えが尽きて島から離れざるを得なくなった。俺たちが住んでいた島はコンビニも無いようなひどい田舎で仕事など何ひとつなかったから、いつかこうなることは移住する前からわかっていた。けれども移住前の俺は、お前が元気になれば先々のことなぞどうにでもなると能天気に考えていたのだ。我ながら頭がどうかしていたとしか思えない。とにかく生きていくために都会に戻った俺だが、若くない上に履歴書に空白のある男を正社員として雇ってくれる会社はなかった。ようやく見つけたのが、経験不問で月の半分だけ働けばよい水道検針のアルバイトだった。俺はこの仕事をしつつ、自らとお前を養っていくために何個かアルバイトを掛け持ちした。
俺は自分自身が置かれた状況のことを考えた。そうして、嫌がるお前を説き伏せてもう一度学校に通わせることにした。辛いことがあっても、ドロップアウトせずに学校に通いつめ、卒業して就職すれば、こんな休む間も無く働かされ、十分な対価を貰えない惨めな生活をせずに済むと思ったからだ。お前は毎日学校へ行くようになり、俺は朝から晩まで働いた。
復学してからしばらくの間、いつもお前は俺が帰ってくる深夜まで起きていて、顔を見るなり海の話をしようとした。俺はその度に話を遮り、こう言った。あの時のことは忘れろ、父さんが間違っていた、がんばって学校にいくことが本当の幸せの条件なんだ、と。数日間このやりとりを続けたあと、お前は俺と口を聞かなくなった。顔も合わせてくれなくなった。
そうして日々を過ごしていたある日、俺は水道検針に伺ったとある木造の平屋で違和感を感じた。数ヶ月の間1リットルも動いていない水道メーター、窓に張り付く夥しい数の蝿の群れ、何か異変が起きている。俺はすぐに上司の社員に連絡した。社員は状況を把握するためにいくつか質問してきて、最後にこういった。
「海のにおいがしてきませんか?磯のにおいとも言えるのですが。」
俺は言われた通りに鼻に神経を集中させてみた。ほのかに磯のにおいを嗅ぎ取ったが、あまりにも微かで本当にそのかおりがあたりに漂っていると確信することができなかった。
「なるほど、そうしたらドアポストを開けて鼻を近づけてみてください。強く磯のにおいが感じられるはずです。」
ドアポストには大量の郵便物が押し込まれていたので、俺はそれを一通一通ゆっくりと抜いて行った。抜く度ににおいは具体的なものになっていく。浜辺のかおり、生物のかおり、潮のかおり、子供の頃のかおり、そして、お前と一緒にいた頃を思い出させるにおい。全てが形を帯びていき、同時にどす黒いもので塗りつぶされていく。郵便物のなくなった暗い暗渠に、俺は躊躇いながらもゆっくりと顔を近づけ、鼻を突っ込み、思い切り空気を吸い込んだ。
鼻腔をつんざく強烈な磯のかおり…。
程なくしてお前の担当教師から電話が入り、お前が学校に来なくなったと聞かされた。しかし俺は死体の放つ腐臭を嗅いでしまったショックもあり、帰宅してからお前に声をかける余裕がなかった。というより、顔を合わせたくなかった。結局水道検針の仕事はその後すぐに辞めた。何も考えたくなくなった。それからは昼に簡単な配達の、夜は24時間営業のコンビニのアルバイトを始め、寝る間も惜しんで仕事に励むようになった。全てを忘れて仕事に没頭した。そうしなければ頭の中に様々な考えが浮かんできてしまいそうだったから。お前のことすら考えたくなかった。唯一この時期の俺がお前にしてやれたことは、部屋の襖の前にコンビニで貰ってきた廃棄商品を毎日置くことくらいだった。俺はお前を捨てた。俺自身も捨てた。俺とお前の、未来を完全に捨て去った。
こうして俺は今ここにいる。いつこうなったのかはわからない。しかし定年近くまであんな生活を続けていたんだから、いつこうなってもおかしくはなかったと思う。誰にも知られずに死んだ俺、おぞましい臭いを放ちながら腐食していた俺、蛆虫に食い散らかされている俺の体、それを霊体となって見ている俺、現実を正しく認識できない俺、俺、俺。
無数の蝿どもが窓を覆っている部屋に戻った俺は、黒くねばついた液体を垂れ流している己の屍をじっと眺め、お前のことを考えた。
楽園の放つ甘い潮の香りはお前を元気にした。しかし楽園は崩壊し、お前は絶望して部屋に閉じこもった。そうしてお前は、生き残る術を何もしらないままに年を重ねて一人になってしまった。お前を無能にした罪を償う事もなく死に、腐り果て磯混じりの臭気を放つ俺だが、今からでも何かしてやれることはないだろうか。
いや、考えるのはやめよう。全ては終わった。今更できることなど何一つない。死人がそばにいることすらわからない上に、銀行から俺の預金を引き出す術すら知らぬお前が、どうしてこれから先幸せになれるというのだ?
お前もいずれ俺と同じように死ぬ。覗き込んだお前の顔から察するに、その日もそう先のことではないだろう。その時まで俺は、この部屋で罪を悔いながらお前を待っていることにする。また昔のように、お前と会話できるようになる日がくることを願って。
