幻想短篇『湖面に映る君』
君は自殺しようと決めた。真夜中、人通りの少ない貯水池でのことだった。この貯水地は池というには大きすぎ、湖というには小さな水の龜というどうにも中途半端な代物だ。しかし毎年多くの溺死者を出していて、近くに住む学生達の間では肝試しスポットとしても有名な場所だった。噂によると、体の異様に膨れ上がった幽霊が何かを探し求めるかのように水辺の草むらを徘徊しているとのことで、実際に幽霊を目撃したと語る人々が後を絶たなかった。本当のところ幽霊の正体はとある知的障害の中年男性で、この辺りの植生を好んで深夜歩き回っているだけなのを君は知っていた。それでもお地蔵様や厳しい文字の刻まれた石碑がいたるところに配置されているこの場所には、人々が普通に暮らす社会とは違う異様な空気が漂っていて、そんな雰囲気に呑まれるようにして皆ここで自死を選んだのではないかと、そしてまた自分もここであれば確実に死ねるだろうと君は考えていた。
視界が激しく揺れるほどに酒を飲んでいた君は『危険、入るな』と書かれた看板が取り付けられた柵を死に物狂いで乗り越え、コンクリートブロックの上に立って放尿をした。水面に少しずつ広がっていく荒い泡が落ち着くのを待ち、貯水池を一望する君。幾重にも折り重なる菱形の波の目が水面を埋め尽くし、青みがかった光を放つ白色灯に照らされてきらきらと輝いている。夜空には、星々の中心で際立った存在感を放つ満月。網目のように張り巡らされた波の上にくっきりと落ちたその丸い光は、風に吹かれてうねり、揺らぎ、漂う。ふと、突如吹いてきた強い風に煽られ、湖上の月は少しずつ砕けていき霧散、光の欠片たちは行き場所を失ったかのように弱々しく離れていき、ほどなくして消えた。焦点のぼやけた視界の中で、菱形の網目がお互いに重なりあい、新たな立体物を生み出していく。手が作られ、胴が作られ、頭が作られ、最後に足が生えてきて、ついに誕生した僕は水の上を歩きながらゆっくりと岸に近づき、陸に上がって君の隣に立った。君は四つん這いになり、蛍光色に輝く自らの吐瀉物をじっと見つめていた。
「やぁ、随分飲んだみたいだね。大丈夫かい?」
僕は君に声をかけた。びくびくと体を震わせながらねばつくよだれを垂らしていた君。緑色で酸味の強い胃液と生臭い未消化物がへばりついた君の口は、横隔膜の痙攣に合わせて再度濁った液体を吐き出した。喉が焼けるように熱かった。
「よくさぁ、吐いたら気分が良くなるっていうよな?」
君が弱々しく吐き出した言葉を聞いて、僕は思わず微笑んだ。
「そこまで飲んでたら吐いても吐いても地獄じゃないかな。」
「そうらしい。この臭くて汚いものが俺の体の中から出てきたと思うとよけい気持ち悪くなってくるぜ。」
僕は君の横にしゃがみ込んだ。すると、君はびくんと肩甲骨のあたりを震わせながら線のようにか細い純粋な胃液を喉から絞り出した。僕はそれをじっと眺めながら、赤子をあやすように君の背中をさすってやった。上から下へ、下から上へ、縦揺れから、横揺れへ、少しずつ、少しずつ、君の体を震わせていた脈動は、段々と穏やかになっていく。やがて体の震えは落ち着き、緑がかった粘着質の液体をすべて吐き出す頃には、青白かった顔色も赤みを取り戻していた。
「お、顔色がよくなってきたね。もう出す物全部出し切ったんじゃないかな。」
「バカいえ、この暗さだぞ?どうして顔色がわかるもんか。」
僕は映画の中で外国人がよくやるように肩をすくませてから君の隣に座った。不快な臭いと、生き物をミンチにした後のような眼前の凄惨な光景のために僕は気を失いそうになったが、ほどなくして漂ってきた脳幹を刺激する芳ばしい香りのおかげで正気を取り戻した。
「いいねぇ、やっぱり僕、ラッキーストライクの香りが好きだな。」
「ずっと他のタバコを吸ってたんだけどな。」
「そうだったね。初めてのタバコはマイセン、だったかな。」
「そん次はマルボロだった。今じゃラッキーに落ち着いちまったけどな。」
「一時期IQOSも吸ってなかった?あれは酷い臭いだったね。」
「いやークソだったなありゃ。ヒルコみたいな臭いがしたからな。」
「そんなの嗅いだことないでしょ。相変わらずよくわかんない例え使うよね。」
君は胸ポケットから携帯灰皿を取り出したが、不意に硬直し、しばらく経ってから元の場所に戻した。吸い殻は池に投げ捨ててしまった。ジュッという音と共に生まれた小さな波紋が、静かにおだやかに広がっていった。君はそれを眺めながらジーンズのうしろポケットに突っ込んでいたウィスキーの小瓶を取り出し、こくこくと呷った。蜜のように重厚な香りが淡水特有の生臭い匂いと混じり合いながらあたりを浮遊し始め、吐瀉物の醸し出す気怠げな空気の中に溶け込んでいく。大きく息を吸った僕はこの場の雰囲気に酔いしれ、とろんと落ちてきたまぶたの裏に広がる心地よい暗黒に身を委ねた。
「ああ、退廃的だねぇ。素敵だ。」
「ただの酔っ払いさ。俺なんてな。」
「ただの酔っ払いに憧れてた時期もあったんだろう?」
君は静かに俯いた。
「学生の時分そんなことを言ってなかったっけ。」
「あー、なんていうか、なんだろな、酔っ払いに憧れていたっていうか。」
君はタバコに火をつけてから天を仰いだ。クソ田舎なだけあって星が綺麗だ、そんなことを思う。ふと、強い風が急降下してきて僕たちの体をかすめていった。薄汚れた皮膚の上に鳥肌が立つのを、君は感じた。
「なんだろ、たぶん憧れてた人たちがみんな酔っ払いだったから、俺も酔っ払いになりたかったんだと思う。」
「トムウェイツとかかい?」
「おい、最終的に酒やめちまったやつの名前を出すなよ。」
ふと池に目を向けると、君の吐瀉物目掛けて何かが近づいてくるのが見えた。手足を交互に動かして、ゆっくり力強く水を掻き、水面を微かに震わせながら、それはこちらにやってくる。やがて岸の近くまで辿り着いたそれは水中から顔を突き出し、並外れた貪欲さのために黒く染まった目で我々を睨んだ。僕の記憶が正しければ、こいつはミシシッピアカミミガメに違いない。亀はしばらく睨み続けた後、僕らが彼の獲物を横取りする気がないと判断したのか不意に目線を下に向け、君の未消化物をがつがつと食べ始めた。すると、吐瀉物の臭いを嗅ぎつけた生き物達が続々と集まってきた。ブルーギル、ブラックバス、アメリカザリガニ、ジャンボタニシ、etc…。ひしめき合って争いながら、吐瀉物に群がって大きく口を広げる彼ら。より多く、誰よりも多く、そんな貪欲さをあらわにして、七つの色に彩られた汚らしい未消化物を、彼らは凄まじい勢いで自らの胃に取り込んでいく。そうしてヒト一人分しかなかった吐瀉物はものの数秒で綺麗さっぱりなくなってしまった。それでも彼らは飽き足らなかったようで、遂にはお互いを食い始めるに至った。
「あの映画だよな、やっぱ。」
君は突如何かを思い出したかのように口を開いた。
「ん?なんのことかな。」
「ラッキーストライクといえば、あの映画だよな。リチャード・フライシャーだったか?確か監督は。」
「フライシャーはたくさん映画撮ってるじゃないか、それだけじゃさすがにわかんないよ。」
カメが鋭い口でザリガニの殻を砕き、内容物を啜り始める。その隣では、夥しい数のジャンボタニシが力無く横たわったブラックバスに取り付いていて、回転する特殊な口でその肉を削り取っている。
「ほら、あれだよ。最初のさ、ブーツの踵でマッチを擦るシーンが最高だったじゃんか。覚えてないか?あの映画見てから俺はラッキーストライクを吸い始めたんだよ。」
「んん?あれかい?サスペンスもので、最後の最後まで犯人の顔が画面に映らないやつかい?」
君は手を叩いた。
「それだよ!思い出した!『見えない恐怖』だよ!いやーすっきりしたわ!」
「あれは傑作だよねぇ。ねえ、僕すごくない?今の情報だけじゃ普通思い出せないでしょ。」
「あー、そうだな。それでよ、終盤のあのシーン、覚えてるか?」
「えっと、盲目の少女がなぜか犯人の顔を目撃する、物議を醸したあの場面かな。」
君は立ち上がった。それからタバコを踵で揉み消し、対岸の虚空をじっと見つめた。僕は機を捉えて君を池に突き落とし、ある程度深みがあるところまで君を引っ張っていった。生き物たちは既にどこかへ消えてしまっていた。どこへ?僕は君の頭を掴み、ぐっと力を込めて水の中へ沈めた。初め小さく、だんだんと大きくなっていく気泡。更に力を込めてやる。必死に自分自身へ抵抗していた君の力は、苦しさに耐えかねて内から外に向かおうとする。それを感じ取った僕は苛立ちを覚え、より強い力で奥深くへと沈めてやった。うつ伏せになっていた君は手足をばたつかせるようにしてなんとか仰向けになり、ゆらゆらと漂う、顔と思われる物体を見た。その顔には厳密に言うと顔がなかった。鼻がなく、口がなく、目がなく、耳がなかった。そして不気味に蠢いていた。意識があるとは思えなかったし、人格を持ち合わせているようにも見えなかった。しかしその「顔」が明確な殺意を持っていることは確かだった。のっぺらぼうとも言えるこの顔は、望んでいた死を受け入れようとする意志が揺らぎ始める頃を見計らって、現世を求める君の心を無慈悲な力で押さえ込むのだ。視界が狭まり、意識の線がぴんと張り詰めてギリギリと絶望的な音を奏でる。その線が少しずつちぎれていくのを感じながら、君は口から大きな水泡を吐き出してもがく。受け入れようとしていた世界を半ば拒絶しながら、君は惨めな虫のように水中でもがき続けている。
「やっぱり、辛いもんだな。」
「そうだろうねぇ、意志が足りなかったかな?」
君は肌に張り付く濡れた服を不快に感じながらたばこの煙を吐いた。僕はその副流煙を目一杯吸い込み、君と同じようにふうっと吐き出した。目の前がチカチカとし、なんとも言えない心地よさを感じた。
「タバコ、ここに置き忘れていってよかったね。」
「もう吸うつもりなかったんだけどな。」
「本当に?覚悟決まってるようには見えなかったけどな。」
「やっぱそうか。」
タバコを池に投げ捨ててから膝を抱え込んでうつむき、君はじっとコンクリートブロックの地面を見つめた。それからしばらくその体勢のままでいたが、不意に顔を上げ、僕の方を見てこう言った。
「なあ、本当にやばいやつは予兆もなくそういう行動にでるっていうじゃないか。ほら、急行電車が通り過ぎていくのを見て衝動的に飛び込んだ、みたいな話あるだろう?」
「ふーん、なら電車だったらうまくいくのかな。」
君は青臭くなったTシャツを脱いで仰向けになった。
「そうだな、そういう強い力が必要なのかもな、自分じゃどうしようもできないような。」
「混雑する電車が嫌いだったよね、君。何もできないからって言ってさ。」
「ああ。目的地が近づくにつれてどんどん人が増えてきて居場所が奪われていくあの感じは、ずっと好きになれなかった。」
君はスマートフォンを取り出して時間を確認し、顔を上げて駅構内を見渡した。電光掲示板が列車の遅れを通知しており、方々から響いてくるアナウンスはあちらこちらでぶつかり合い跳ね返りながら分散していたるところに飛び散っている。改札前で駅員に罵声を浴びせている男、ネイルを直しながら電光掲示板を必要以上に確認している女、その他有象無象、そう、いつもと同じ朝の風景だった。
「田舎に引きこもってりゃいいのにな。どいつもこいつもよ。」
「君だってそうすればよかったんだよ。」
君はポケットから文庫本を取り出し、何ページかめくってからパタンと閉じた。それから腕時計の文字盤を確認し、再度スマートフォンを取り出して時間を確認した。
「あそこには、田舎には、何もない気がしてたんだ。人もいない、やりがいもない、俺の居場所もない。だからわざわざ借金してまでここにきた。」
「それで、たくさんの人に囲まれて1人で生きてきて、どうなったのかな。」
「電車とおんなじさ、中心部に近づく、すると人が増える。だからもっと奥まで行く、そうするとまた増えていく。そうやって隙間がなくなっていく。もともと無だった場所に誰かが入り込んできて、その無すらなくなる。」
「それでついにひとりぼっちになっちゃったね。」
「ああ。結局のところ、田舎にいた頃よりなんにもなくなっちまったんだよな。」
君は入場券を買って改札内に入り、人混みでごったがえすホームに降り立った。人の合間をすり抜けながら僕たちは前へ前へと進んでいく。途中舌打ちと共に背中をどつかれた君は一瞬だけ振り返り、寂しそうな顔を浮かべ、再度人混みをかき分けて前へ向かっていった。
「人がたくさんいりゃ、その分俺をわかってくれる人もいると思ってたんだ。」
「友達はたくさんできたじゃないか。」
「田舎にいた頃とおんなじだよ。結局のところ何も変わんねえ。I Me Mine、I Me Mine、自分自分自分、それだけさ。」
ゆっくりと地響きを立てて近づいてくる列車。それは遥か遠くから、存在を肥大化させつつ着実にこちらへ向かってくる。蜃気楼に歪みながら進む様は、まるで空間を捻じ曲げながらこの世界に突入してくるかのようだ。空気が震える。人々の熱気に満ちた吐息が君を包む。震えた空気から酸素が逃げていき、呼吸が浅くなる。とても息苦しい。熱い汗にほのかに混じる冷たい感触が、君を掴んで離さない。
「なんか、都会に来てどきどきするようなことがしたかったんだろうな、俺は。」
「色々やったじゃないか、ほんとに馬鹿なことをたくさんさ。」
「ああ、色々やったな。でも結局何にもならなかった。」
「しばらくは英雄扱いしてもらえたけどね。」
「あんときは、人と違うことをすればみんなに認められると思ってたんだ。」
「認められたじゃないか。」
「認められるってのが、思ってたものと違うことに気づかなきゃよかったんだ。それが永遠の幸せを約束するものじゃないってことに。」
鋭い警笛が響き渡る。僕の手に押された君の体は既にどこかにいってしまったらしい。どこへ?ギリギリと響く鈍い音が足元を震わせる。不自然な停車を要求された列車内の人々はお互いがお互いに押しつけられていて今にも臓物を吐き出しそうな有様だ。ガラス越しからもわかる阿鼻叫喚の惨事を尻目に、僕は君を拾い集めにいった。柱に張り付いた左腕、電光掲示板にぶつかって潰れた胴体、飛び散る臓器、下半身は、きっと電車の下だろう。後に回そう。反対側のホームにいた人の顔にめり込んでいた右腕、さて問題は頭なんだけど…。
「悪くはないんだが、実際しばらく意識があるってのが辛いとこだな。」
僕は列車のフロントガラスに突き刺さっていた君の頭を引き抜き、運転手の顔を見た。死人のように蒼白で、あたかも時が止まってしまったかのように凍りついていた。瞳孔は開ききっており、表情は驚愕の段階を過ぎて次のフェーズへと移行していた。ブレーキを固く握りしめたその手は包み込んだ無機物と一体化しているように見えた。口は半開きで、息を吸い込み過ぎたために引き攣っていた。事態の起こりがあまりにも唐突だったために、大きく口をあけて驚いてみせる余裕すらなかったのであろう。
「かわいそうに。彼の人生はたぶんここで終わったよ。」
「困難に直面してもめげずに立ち上がればいい。そうやって人は成長していくもんだ。」
「その言葉は、困ったことに万能なものではないんだよね。」
君はねじ切れた首の切断面から血液が流れ出ていくのを感じながら、哀れな運転手についての考えを巡らせようとした。しかし脳みそをうまく働かせるために必要な酸素はもはや供給されてこなかった。
「みんな必死なんだよ。俺も、こいつらも。他人に構ってる暇なんてないんだ。」
「人はみな自分があって中までミチミチに詰まってる、けれども他人は空虚の塊なんだね。」
「そうだ、場所だけ奪っていくギチギチに詰め込まれたゼロだ。」
「ねえ、昔の君はもうちょっと、他人に対して同情的じゃなかったかな。」
君の目の前で、阿鼻叫喚の風景が霞んでいく。
「こうなってみて初めてわかることもあるもんさ。」
「しかしその状態ってのは確かに辛そうだね、真理に気付いたとしても、強烈な痛みと共に消えていくしかないじゃないか。」
君は目を閉じた。不思議と痛みは感じなかった。ただ、物理的な痛みとは違うものに苦しめられていた。無性にもがきたくなったが、手足は既に君とは縁のないものになっていた。
「あー、そうだな、もう少し即効性があるものがよかったかもな」
「高いとこから飛び降りたらどうだろう?」
「“沈むように、溶けていくように”ってか?」
「許可なく立ち入ることを禁ずる」と書かれた張り紙を剥がし、針金を使って器用に鉄の扉の鍵をこじあけ屋上に出た君は、打ち捨てられた室外機の上に座ってあたりを見渡した。中に死体でも入っていそうな馬鹿でかい貯水タンクが聳え、穴あきのダクト管があちらこちらに打ち捨てられている屋上の風景は、映画やドラマで見るような雰囲気とはまるで違っていた。君の座っている室外機は黒い煤のようなものに覆われていて、得体の知れない昆虫が出たり入ったりを繰り返していた。
「たぶんゴキブリだな。」
「たぶんって、ゴキブリ以外にもこんなとこ寝床にする生き物がいるかもしれないのかい?」
「世界は広い。」
「こんな薄汚れた場所ですら、」
「広いんだ。そして、複雑だ。」
金網の向こうに広がる夜景はたいしたものじゃなかった。君の立つこのビルと同じ高さのビルや、より高いビルに遮られて遠くを見渡すことができなかったし、汚らしく光るネオンサインは俗っぽくて、その筋の人からすれば何か一抹の価値を見出せるかもしれなかったが、普通の人に純粋な感動を齎してくれるような代物ではなかった。「個室ビデオ」、「無料案内所」、「Lounge ONE PIECE」、「台湾式マッサージ」、あとは、どこにでもあるゲームセンターの看板、ジャンクフードを売るチェーン店の群…。
「『ブレードランナー』というよりは『ナニワ金融道』って感じのネオンだね。」
「あれくらいどストレートな下ネタを看板に書いてくれりゃあ逆に清々しいんだが、そうもいかんからな。現実世界では。」
「ここは本当に、現実世界なのかな。」
君は震える手つきで巻いたハッパのジョイントから小刻みに3回煙を吸い、ゆっくりと吐き出した。プラスチックの板を燃やしたかのような独特の臭いがあたりに漂った。
「何もうまくいかない、十分に満たされない。やっぱりここは、現実だよ。」
君は立ち上がり、安定と不安定を分かつ金網の方に歩いて行った。冷酷な意志のもと踏み潰されたカナブンの「クシュッ」という音が微かに響く。白い液体を尻から一筋流して絶命した小さな甲虫を僕は拾い上げ、室外機の方へ持っていった。黒い虫たちは一斉に飛び出してきて、亡骸を丁寧に持ち上げ、優しく自らの根城へと運んでいった。虫たちが室外機の中に入り、一瞬の沈黙、そして聞こえてくる湿った咀嚼音。ぐじゅる、ぐじゅる、ぐじゅる...。ふと見ると、君は既に金網を乗り越えてしまっていた。
生暖かい風が足元から下腹を撫でていくのを君は感じる。いたるところ穴とシミだらけのネルシャツが肌に触れるたびに鳥肌が立ち、心拍数が上がる。恐怖と同時に心の奥底から湧き上がってくる性的興奮に近い感覚のために君は吐き気を覚える。行こう、そう決める度に心臓は強く脈打ち、頭は遥か下にある目で捉えられない世界を望む。しかし手足は、しっかりと金網にへばりついて離れようとしない。誰に急かされるでもなく君は焦る。冷たい汗が額から頬を伝って流れていく。興奮は押しつぶされるようにして徐々に焦燥へと変わっていく。君はトイレのボウルを前にした時のようにえづき、糸を引く涎を垂らし始めた。指を一本離しさえすれば、そこから全て始まると思っていたのに、実際にはそれすらできなかった。紐で固く結びつけられたかのように錆びた鉄を握りしめる指は、全ての細胞を代表して抵抗権を行使しているように思え、君と空の間には膜が張っているかのように感じられた。薄く、透き通るような境界。しかし、どうしても超えられない境界。
「手伝おうか?さっきみたいに。」
「いや、これは俺自身でやらなきゃいけないことだ。」
「頼ってくれてもいいんだよ?」
「頼りたい。けどさ、死ぬ前くらいは自分のままでいたいんだ。」
「ふーん。それってさ、」
君は死の間際に多くの後悔をした。数え切れないほどの後悔を。今までに裏切った人々、保身のためについた嘘、人のためだ社会のためだと自らに言い聞かせて行った数々の悪事、気づかれないと思ってやった一連の軽犯罪、やり遂げなかったこと、我慢しなかったこと、逃げて、逃げて、逃げて、逃げ続けてきたことが、脳髄を急速に満たしていった。君を死へ誘った多くの人間への悪意は瞬く間に消え失せ、ただただ惨めな思いだけが血液にのってコンクリートの上に飛び散った。裂けて臓物の飛び出た股からは君の哀れな人生が流れ出ていた。ひしゃけた首は君の取るに足らない人生の終わりを面白半分で見るために寄ってくる人々の顔を覗き込んでいた。実際のところ、君は死んでいた。しかし、死んだところで何も変わらなかった。ただそこには汚らしく惨めで、他人に弄ばれるだけの物体が転がっているだけだった。
「どう?これでもやっぱり自殺しようと思う?」
君はぬるくなった缶ビールを開けて一気に呷った。麦よりもアルコールが強く感じられ、ほのかに吐き気を催す程度には不味かったと思う。それでも君はもう一度ビールを流しこんだ。喉の奥から、澱んだ空気が押し戻される音が聞こえた。
「どうなんだろうな、それでも俺は、」
「死にたい、死にたい、って言い続けるんだろうね。」
「結局そんなもん。それが人生だよな。でも…。」
僕はぶるっと震えた。冷たい風が半ズボンから剥き出しになった太腿を掠めていく。月は既に山の向こうへ沈み込もうとしていた。
男は草むらの隙間から顔を出す。黒光りするその髪の毛には水滴がいくつもついており、手の甲にはかたつむりをのせている。くるぶしまで裾がとどいておらず、ところどころ擦り切れたジーンズに泥や草花の汁のしみを大量につけながら、男は水辺を彷徨い続ける。男が撫でても殻に篭ろうとせず大人しくしているかたつむりは、ヤスリのような歯を丹念に皺だらけの肌に当ててこすり、角質を削り取って食している。ぬらりとした表面に夥しい数の襞を持つ胴体から伸ばした2本の目を、ゆったりとした体の動きとは対照的に、せわしなく動かしながら肌を貪る音が聞こえてくる。微かで、不気味で、断続的な音。男の肌に刻まれた格子状の溝に血液が滲み、男はそれを丹念に舐めとる。そして、男は笑う。まるでこれまで生きてきた、そしてこれからも生きていく世界には喜びしか存在しえないのではないかと思っているかのように。男の腕には至る所に小さな傷があった。小さな瘡蓋の張った傷跡と、今もちろちろと血液を垂れ流している、呪いのような傷跡。そのうちかたつむりは男の手を伝って葉の上に下り、目をしまいこんで殻の中へ閉じこもった。男はその殻を愛おしむかのようにやさしく撫で、また草むらの中へ戻っていく。
「なぁ、俺はどう見える?」
男は水辺を離れて草が深く生い茂る場所に入っていこうとしている。
「なぁ。頼むよ、教えてくれ」
男の背中が背の高い草に飲み込まれていく。カサッ、カサッ、と草の擦れ合う音が聞こえてくる。
「なぁ、ちょっとだけでいいんだ、俺のことを見てくれ。ほんとに、ちょっとだけ。頼むから。」
男の頭が草の間から少し飛び出している。穴がすっぽりあいた場所から髪の毛が見える帽子、かろうじて残ったカビだらけのつばが見えなければ、被っていることすらわからないであろう帽子。
君はコンクリートの地面に残っていたシケモクに火をつけ、吸わずにそのまま咥えていた。先端から細々と上がる煙が物悲しく夜をつたっていく。時が経ち、自重に耐え切れなくなったタバコの灰が、ポトリと君の膝の上に落ちる。次に火種が落ちてくる。そして君は、ショットガンを咥えている。
「撃てるのかい?」
お前に何ができる?何だったらお前にできたんだ?
「あれだけいろんな体験をしてきて、それでも撃てるのかい?」
お前のせいじゃない、あれは俺が自分で選択したことだ。
「君が死ぬとして、君以外の人間に迷惑をかけずに死ぬことができるのかな?本当にその行為は、誰かを巻き込まずにいられるのかな?」
お前が正しい選択をしたところで、俺はやっていた。仕方がないんだ。
「それで、君は死んだとして、本当に楽になれるのかな?」
お前がいてくれたから俺はがんばれた。感謝してる、ありがとう。
「君は死んで、それで本当にゼロになれるのかな?天国は無くても、地獄がある可能性は?」
お前のおかげで、生きてきてよかったなと思えた。
「君は死の間際にゼロになれるのかな?ゼロになれない人間に引き金はひけるのかな?ゼロになれないとしても、引き金を引く覚悟はあるのかな?」
お前がいなきゃ、マジでつまらない人生だったよ。ここまで本当に、ありがとな。
「本当に死は、全てを終わらせてくれるのかな?」
「本当に君は、死によって全てから逃げられるのかな?」
「本当に君は、そこまでストイックに都合よい死の真実を信じ続けることができるのかな?」
これだけはちゃんといいたかった。それじゃあ、
「世の中にさよならをするほど、君は徹底的に壊されてないんじゃないかな?」
「あー、畜生。朝日が顔を出しちまった。もう終わりだ。」
「本当に死にたい人間なら、そこでも引き金を引けると思うよ。」
「こんな綺麗な朝焼けを前にか?」
「そうだね。覚悟のきまった人間ってのはすごいんだ。」
君は残ったタバコを全て池に向かって投げた。黒と青が織りなすグラデーションの下から湧き出てくる白の光が、投げ込まれたタバコを中心に拡がる波紋を優しく照らし、その襞をくっきりと際立たせた。
「イラク戦争でPTSDを患ったとある兵士の話、聞くかい?」
「ああ。いったいどんな話だ?」
「死んだ後、片付けに手間がかからないようベッドの周りにブルーシートを敷いて、自分の体を毛布で幾重にも覆って、それで口の中に銃口を突っ込んで引き金を引いたんだ。」
「そりゃあ、お前…。途中で我に返って銃を置きそうなもんだがな、普通。」
「でしょう。本当にぶっ壊れた人間ってのはそこまで周到に準備をしても、多くのことが頭によぎっても、迷いなく引き金を引けるんだよ。」
「1人で、か?」
「太宰みたいなマネはしない。」
「そいつは、たぶん俺には無理な気がする。」
「そうだろう?だからやめといた方がいいよ。もっと有意義なことを考え、行動に移した方がいいに決まってる。たくさん本を読むとかね。」
「本じゃなくてもいいだろう。映画だって、ゲームだって、YouTubeだって、なんだっていい。」
「それは君の勝手さ。」
君はそれを聞いて、寂しげに笑った。
「そうだな、でも、もう手遅れだ。」
君はふらふらと揺れながら立ち上がり、覚束ない足取りで水の中へと入っていった。一度行ったことのある池の奥底へと、今度は一人で降りていく。目の前ではたくさんの魚達が朝日を浴びて元気に跳ね回り、その生命力を存分に発散させていた。立ち止まり、眼前で繰り広げられている讃歌をじっと眺めている君。そうしているうちに、君は引き返したくてたまらなくなった。せっかく教訓を得たのだから、まただらだらと言い訳をしながら日常へ戻っていきたいと強く願った。しかし、もうどうしようもなかった。振り返ろうとしても、体は前へ前へと進んでいってしまう。足の指先を包む泥濘が、君をあるべき場所へと引き込んでいく。脛から膝へ、太腿から鼠蹊部へ、そして腹部から鳩尾へと体は水面の下に吸い込まれていく。そしてようやく、君は振り返る権利を得た。君は僕の顔をまっすぐに見つめ、無理に笑顔を作ってから口を開いた。
「なあ、最後だからこそ確認しておきたいことがあるんだ。」
「いいよ。なんでも聞いて。」
「お前はいったい、誰なんだ?」
僕は穏やかな気持ちで君に微笑みかけ、こう言った。
「僕は君だよ。君が社会の中で作り出した君。わかってたんでしょ?」
「ああ、一応聞いておきたかったんだ。」
「そしたら、どういうことかわかるよね。」
ふっ、と笑った君は、今までの人生で一番輝いていたと思う。
「ああわかってるよ。結局全部、自分で選択したんだってことくらい、な。」
自ら仰向けになり、ゆっくりと水の底へ沈んでいく君。ああ、君は今どんな顔をしてるんだろうか。それは神のみぞ知るってところかな。実際神様なんていないんだろうけども。とにかく、最後にこの美しい風景を見せることができてよかったよ。君はこれから先、二度とこんなにも清らかな光を体に浴びることなどないのだから。生温い暗闇の中に閉じ込められた後、君は永遠にそこで今までの人生を後悔し続けることになる。何かの拍子で水面に浮かんでくる人もいるらしいけど、それは相当に運が良ければの話。まあずっとツキに見放されてきたんだし、ワンチャン戻ってこれるんじゃないかな。ちょっとだけ期待してみるといいよ。
さて、僕はもういかなきゃいけない。君がいてくれたおかげで僕は楽しい人生を送ることができた。君がいてくれたから、僕はここまで生きてこれたんだ。本当に、ありがとう。
それじゃあ、永遠にさようなら。
