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異国の呼吸とYES, ma’am!

高校生の娘が過ごした、三か月のホームステイ。異国の家族との日々を綴ったエッセイ。

第一章 YES, ma’am!

帰国した娘が、ときどきおどけたように言う言葉がある。

「YES, ma’am!」

それは、遠い異国で過ごした、あの三か月の名残だった。


娘がいた家には、ブラザーが三人と、末っ子のシスターが一人いた。
海外ドラマのようなファミリーだった。

マザーは、迷いなく言う。

かけるソースはそれで十分。
もうベッドへ行く時間。
そのアニメはどんな内容?

ブラザーやシスターは、ときどき粘る。
マザーは、同じことを繰り返す。

そして、みんなは言う。

YES, ma’am!

その響きが、少しだけ残った。
――少し、羨ましかった。

第二章 ファザー

ファザーは、家にいる時間が長いわけではなかった。
出張も多く、娘が顔を合わせるのは、夕食どきか、家族がそろう週末くらいだった。

けれど、いるだけで、この家が少し引き締まるようなところがあった。

ファザーは帰宅すると、まずマザーに声をかける。
マザーは迷いなく家族を整える。
ファザーはそのそばで、家の流れを静かに支えているように見えた。

別の日、三男が日本のアニメのフィギュアを持ってきて見せた。
するとファザーが言った。

「それは次男のものだろう?
ちゃんと断ったのか?」

三男は同じリビングにいた次男のところへ行き、次男は頷いた。
それで話は終わった。

大げさに叱るわけではない。
でも、人のものを使うなら、きちんと筋を通す。
そういう線が、この家にはあった。

帰国前日。
娘が部屋で荷造りをしていると、ノックの音がした。

入ってきたのは、ファザーと長男、それから三男だった。

「明日、帰るんだから、ちゃんと挨拶しなさい。」

ファザーが言った。

その家にいる間、ファザーと長く話したわけではない。
それでも、ファザーとマザーの間には、言葉にしなくても分かるような信頼があり、その二人が、この家の空気を作っているのだと娘は感じていたようだった。

職業は、最後まで分からなかった。

第三章 次男

ファザーは帰宅すると、まずマザーに声をかける。
マザーは迷いなく家族を整える。
兄弟たちは、それに従う。
次男も、その中にいた。

長男は、ファザーと一緒に巨大な車両に乗って敷地を整備する。
兄弟たちを注意し、留学生にも敬意を示す。
長男は、この家の中で自分がどう振る舞うべきかを、よく分かっているようだった。

けれど、次男だけは少し違って見えた。

マザーはみんなを平等に扱う。
ただ、次男のことだけは、少し気にかけているようだった。
のめり込みやすいところがある、と言う。

次男は、空港で初めて会ったとき、荷物を運んでくれたり、簡単な言葉をかけてくれたりした。
嬉しかった。
でも、それ以上、距離は縮まらなかった。

緊張していた日々が過ぎ、他の日本人留学生が家に遊びに来た日、娘は少し肩の力が抜けたらしい。
日本語で笑い合い、いつもよりずっとはしゃいでいた。

その様子を見て、次男が言った。

「君はそういうキャラクターだったんだね」

その頃から、次男は娘に声をかけてくるようになった。

呪術廻戦。
一緒に見ようと言う。
英語音声、英語字幕。
シーンごとに次々と質問してくる。

よく分からないまま、何度も一緒に見た。

一度こちらに心が向くと、ぐっと距離を詰めてくる。
次男には、そういうところがあったのだと思う。

第四章 レンジの前で泣いた夜

ある日、帰りが遅くなり、娘は一人で食卓についた。
チキンカレーだった。
食べようとした瞬間、マザーが何かを言った。
強い口調だった。

「microwave」

という単語だけが分かった。

その場で、涙が出た。

そばで、次男が驚いた顔をしていた。
翻訳機を使った。
日本では、温めなければだめということはないこと。
英語が早くて聞き取れないこと。

マザーは、それを見て頷いた。
鶏肉で中毒する場合がある、と言った。
次男が、カレーを温めた。
あとは、そっとしておいてくれた。

部屋に戻ると、シスターがやってきた。
ハグをして、しばらく一緒にいた。
三男もやってきた。

翌朝、いつも通りの食卓が始まった。

何も言わないまま、もとに戻っていた。

第五章 肯定する力

週末、家族でスポーツクラブへ行く。
みんなはホッケーで、娘はテニスをしていた。

兄弟たちは、最初、テニスに興味があったわけではない。
マザーとボールを打っていると、視線を感じた。
気づくと、兄弟たちがこちらを見ている。

やがて、隣のコートで、見よう見まねでラケットを振り始めた。

少しだけ教える。

帰り際、どうだった?と聞くと、

I like it!

と、笑った。

自分が好きでやっているものを、相手も面白がってくれる。
最後には、好きだと言ってくれる。

言葉が十分に通じなくても、それだけで、自分の好きなものごと受け入れてもらえたような気持ちになったのだと思う。

ある日、三男が、日本語を教えてほしいと言ってきた。
教えてみると、筋がよかった。
教えたことをすぐに覚え、笑顔で自己紹介できるようになった。

日本に帰ってから、マザーはその動画を送ってきた。

娘は、あんなふうに、自分の好きなものを一緒にやってくれて、満面の笑顔で「好きだ」と言ってくれるなんて、今までなかった、と言っていた。
三男が日本語を覚えようとしてくれたことも、信じられないくらい嬉しかったという。
こんなに興味を持ってくれるなんて、と思ったのだそうだ。

日本では、こんなふうに、好きだという気持ちをまっすぐ返してもらうことは、あまりないのだ、とも。

第六章 帰国前日の決心

明日は帰国。
リビングで、次男と二人になった。

娘は思い切って聞いた。

「明日、空港に来る?」
「行くよ。何時?」
「朝の三時」

次男は驚いた。
少し考える。
やがて言った。

「Do you want me to come?」

一瞬、言葉に詰まった。
「Yeah」

靴紐を結んでいた次男は、俯いたまま、少しだけ笑った。

「行くよ」

そのまま、靴紐を結び直した。

帰国したあとも、その言葉が残った。

終章 異国の呼吸

成田空港まで、家族全員で迎えに行った。
喜んでくれるだろうか。
ほっとしたと言うだろうか。

そう思っていた。

やがてゲートから出てきた娘は、気怠げな表情だった。
家族の顔を見ても、ああ、と言ったきりだった。
疲れているのだろうと思った。

空港のレストランで夕食を食べていこうかと尋ねると、機内で到着前に食べたからいい、と言う。
駐車場に着き、助手席に座った娘は、暗い車内でスマホをずっと見つめていた。

「もう、一生会えないのか」

辛そうに呟いた。

何と言葉をかけていいか分からない。
大学生になったら、また留学して再会できる。アルバイトしてお金を貯め、夏休みに会いに行ったらいい。
そんなことを言った。

家に着いてからも、娘は辛そうなままだった。

一か月ほど経ったある日、娘は言った。
帰国して二、三日は、本当に辛かった。
一週間経っても、まだ辛かった。
本当にまた会えるだろうか。
私のことを忘れないだろうか。

マザーとは、初めて空港で会ったときから、気の合う人だと感じたという。
今でもLINEのやりとりをしているようだ。
娘が教えた日本語を話す三男の動画や、遊びに行った公園の景色。
日常のやりとりのようだった。

ホストファミリーとの日々を語る娘の顔は、輝いている。

ときどき、おどけたように
「YES, ma’am!」
と言う。

シスターのこと。
次男のこと。
三男の日本語を話す動画のこと。
話題は尽きない。

娘は、あの家の呼吸を少し身につけて帰ってきたのだと思う。

そして、その呼吸は、そばで見ていた私にも、少しだけ移った。

私は、家族に内緒で、オンラインで英会話を始めた。
ネイティブ講師と話す。
初めは、定型の挨拶すら、うまく口から出なかった。

そのうちに、
魚介スープで有名なラーメン店の場所を教える。
駅の出口が難しく、正しい出口から出られない。
日本には、アドベンチャーのために来た。

そんな会話を交わすようになった。

いつか、娘とこんな会話をしてみたいと思う。

来週、シンガポールなんだ。
そう? じゃあ、同じホテルに泊まる?


近所に出かけるように、世界に出かけたい。


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