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10

10時の先に

秩父から志賀坂を越えて、上野村へ。
道の駅の向かいの蕎麦屋で開店待ちをしていたところ何やら端末が震えた。

"生産性を10倍に"

どうやらあのお節介の宣伝らしい。
一瞥して端末をポケットに仕舞い込む。 
5月も終わりの強い陽射しは関数がどう算盤を弾こうが10倍にも1/10にもなりはしない。
蕎麦屋入り口の庇のわずかな日陰に逃げ込み、そして3シーズンのバイクウェアを着てきたことを少々後悔した。

店内では開店の準備を進めている。
入り口のガラスドア越しに薄いタブレットのレジが見える。
以前来たときは古めかしいレジが鎮座していたが、この緑を辿った道の奥にも着実にデジタル化の波は及んでいるようだ。

脇から店の方がやってきて会釈する。
しばらく後…まだ開店時間には数分あるが、汗だくになっている僕を見て早めに開けてくれたらしい。
ありがたい。

おしぼりは窓際に何箇所か。
水は厨房の前のカウンターにあり、どちらもセルフだ。
窓際の席に腰掛けてメニューを眺める。
かけそば、もりそば、御膳に十石そば。
悩ましいが頼んだのは十石そば、それと天ぷらの盛り合わせ。

この店に来たのはもう10年ぶりになるだろうか。
店内の詳細は覚えていなかったが、テーブルの傷は記憶よりもいくばくか増えたように思えた。
あの頃から更に大勢のお客の腹を満たしてきたのだろう。

しばらくして蕎麦がやってきた。

不蕎麦に冷たいつゆと、身の分厚いどんこが2枚、それと青菜。
どんこを箸で持ち上げて噛み締めるとじゅわっと木々の香りと山の恵みが口内に広がる。
そして続いて冷たい蕎麦。
太さが不均一でざらざらした蕎麦は人が打って切ったものだろう、風味豊かな出汁を纏ったそれは口内へ山海の時間と香りと食感を運ぶ。


2人前

天ぷらは定番の茄子にピーマン、それに舞茸。
お子様ランチの旗のように海老天が1本ちょこんと飾られている。

店内には次々と客が入ってきて、開店から間もなく満席となる。
きっとこうして僕が知らない間にも店は時を刻んできたのだ。
最後まで楽しみにとっておいた海老天を口に放り込むとサクッと小気味よい音をたてた。
僕は箸を置いた。
壁の掛け時計は正午を指している。

今日の旅路はこの先、まだまだ長い。

■ 福寿庵(群馬県上野村)


十石峠。

群馬県上野村からのびる狭隘な山道は、時に車とバイクでもすれ違いが難しいほどの幅に閉じたり拡がったりを繰り返しながら徐々に標高を上げていった。

肩の道に出ると視界が開けて山岳道路となる。
左右の緑もいつしかミズナラ、そしてブナが増えて高原の様相だ。
このあたりでは植生の切り替わりは概ね標高1000m前後だろうか。
北東北ではもう少し低く、標高800m付近。
朝にキツツキが木立の間でリズミカルにパーカッションを奏でる領域だ。

徐々に道の勾配はなだらかになってゆき、程なくして峠に着いた。

峠まで上がれば涼しいだろうという読みは残念ながら外れた。
気温27度。
ヤマツツジが咲き始めた時期としては十分に暑い。
ウェアをバイクのシートにかけて木陰に入る。
若葉越しともなると太陽の主張もやわらぐ。
峠の立て看板は登山道とおぼしき道沿いに立てられていた。
かつてこの峠道は長野側から群馬側へ米を運ぶ道であったらしい。
バイクでも長く険しい道を人が米を運んだのは恐れ入る。

■ 本部長の群馬紀行 第33回 十石峠街道(その1)| 防衛省https://www.mod.go.jp/pco/gunma/honbucho/gunmakikou/gunmakikou_33.html


時雨

佐久穂側にある展望台へ登ってみることにした。


展望台にのぼると蝦夷春蝉の神楽祭。
360度から鈴の音が鳴り響く。

眼下では時折走りを楽しむ音が遠くからやってきては過ぎ去っていく。
皆が立ち止まって展望台へのぼる訳ではないらしい。
煙と何とか、というところだろうか。
苦笑して頭をかくと涼しい風が青い山に吹き渡る。
神楽祭はまだまだ続くが、僕は降りて旅を続けよう。


菖蒲

長野県側は群馬県に比べ急勾配が続く。
群馬長野県境では珍しい。
長野県側は比較的広い道が多いが、この峠はそうでもないらしい。
タイトなカーブには砂が浮いていて、ブラインドカーブからいつ現れるかわからない対向車に注意をはらいながら慎重に走る。
途中後輪が少々滑って肝を冷やしたが転倒することなくクリアした。
小鹿野で貰った黄色い御守りが早速功を奏したのだろうか。
距離は然程でもなく、ダムを通り過ぎるともう人里だ。

昼下がり。
濃くなりはじめた山々の緑に白い雲が黒い影を落とす。
沿道の田畝は花菖蒲の紫に縁取られ、道路に寄り添うように視界の果てまで続く。
集落の家々はこの地方に多い白壁に黒。
ここに窓辺に赤いゼラニウムが添えられればベルギーやドイツの趣きとなるが、それはないことがここが日本であることを指し示している。
青空の下、田畑の間の道をのんびりと進む。

目的地はもうすぐだ。


今日の投宿地に着く前の寄り道。
宿で飲むビールとおつまみを調達しにスーパーへ。
すると青空に優美な浅間山がその威容を示していた。
向かいのカー用品店には大量の幟。

浅間山麓。
色取り取りの幟に旗指物。
小田井原の合戦もこのようなものだったのだろうか。
思わずシャッターを切ると何人もの人が同じようにスマホを山に掲げていた。

■ 浅間山麓の未来への遺産(VOL.61)対武田信玄小田井原の合戦 | 御代田町 ※PDF注意⚠️

https://www.town.miyota.nagano.jp/file/10674.pdf

■ ツルヤ御代田店


空に唄えば十人十色


無事今日の投宿地に到着した。
バイクのKeyを抜く。
走るのは好きだ。
しかし鼓動を停めてKeyを抜く瞬間、ほっとするのは何故だろう。
そして一瞬の後に訪れる寂しさ。
また明日も、その次も走れるというのに。

今日も1日、お疲れさん。

シートをポンと叩いて鞄の肩紐を掛ける。

今朝より少し重いのは、
ビールとナッツ。
1日分の疲労。
そしてまた少し増えた思い出だ。

風呂上がりの半袖短パン。
ロビーのウェルカムドリンク。
見上げた空は
旅の思い出色だった。



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  • date: 2026-05-30

  • location: Gunmer pref., Nagano pref.

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