何百万回もの「助けて」
私は、これまでの人生で何百万回も
「助けて」と心の中で叫んできました。
それは、声にならない祈りのようで、
時に喉まで出かかったのに飲み込み、
ただ心の中で繰り返すしかなかった言葉です。
「子どもは親を選べない」
「所詮他人」
「人間は残酷」
「優しさは利用される」
「努力は必ず報われるわけじゃない」
「人は窮地で本心が現れる」
よく聞くこの言葉を、
私は骨の髄まで理解しています。
だからこそ、自分の子どもたちには、
たとえ一瞬たりとも「助けて」と
言わせたくない。
そう強く誓い、必死にもがきながら
生きてきました。
けれど、私の「助けて」は届きませんでした。
どんなに願っても、
差し伸べられるはずの手は現れなかった。
死ぬ勇気もなく、
ただ立ち尽くすしかなかった私は、
それでも生きるために
強くなったのだと思います。
でも、強くなりすぎたのです。
ある時期、私は人間らしい心さえも
削ぎ落としてしまっていた。
誰よりも「助けて」という
人の気持ちがわかるはずなのに、
差し伸べる手を持てなかった。
自分が救われなかった分、
他人を救うことにも
臆病になっていたのです。
強くなることは、
生き残るために必要だった。
けれど強くなればなるほど、
人を助けることが怖くなった。
助けようとすれば、
その過程で自分の幸せを
壊してしまうのではないかと
怯えていたのです。
そのため、私は無意識のうちに
「助けを拒む」人間になっていました。
自分が必死で掴んだ幸せを守るために、
誰かの「助けて」に耳を塞ぐ。
そんな自分に満足できるはずもなく、
長い時間、胸の奥に渦巻く怒りや憎しみと
戦い続けていました。
そんな私の目の前に、
ある日 ひとりの人が現れました。
「不幸な人間」と言ってしまってもいいほど、
深い悲しみの中にいる人。
その人は、過去の私のように涙を流し、
命の灯火が今にも
消えそうなほど弱々しかった。
でも、その人は私と違って、強くもなく、
誰かを恨むこともなかった。
ただ、避けられない悲しみを受け入れ、
か細く生きていたのです。
その姿を見た瞬間、
私は昔の自分の祈りを思い出しました。
「助けて、神様、どうか助けて」
何百万回も繰り返したあの言葉。
あのとき私が求めていたのは、
真剣にそばにいてくれる人、
寄り添ってくれる人、
共に考えてくれる人でした。
でも、その願いは叶わなかった。
だからこそ、
私は「そんな存在になりたい」と
思って強くなったはずだったのに、
気づけば違う形で強くなっていた。
その人に出会った瞬間、
私は強く思いました。
「この人だけは、どんなことがあっても
救いたい。守りたい。支えたい」
それは、かつての私が欲しかった存在を、
今度は私が誰かに
差し出すという決意でした。
よく、
「辛さを知った人ほど他人の痛みがわかる」
と言います。
私は、それが真実だと思います。
もちろんそうでない人もいるかもしれない。
でも、深い痛みを知り、
絶望の中で生きた経験がある人は、
誰かの心に触れる時、
その手つきが自然と優しくなるのです。
あの出会いをきっかけに、
私の固く閉ざされた心も
少しずつ和らぎました。
人と関わることを
受け入れられるようになり、
気づけば私は精神論や心理学を
狂ったように学び始めていました。
相手の心に届く「たったひと言」を
選び抜くために。
その言葉が、今まさに消えそうな
誰かの灯を少しでも温められるように。
私は、不幸だったからこそ、
それを上回る幸せを求めてきました。
不幸を消し去るには、
自分が幸せになるしかないと
信じていました。
けれど、その考えを変えてくれる人が
現れました。
そして私は父になり、
かつての誓いを改めて胸に刻みました。
子どもには、絶対に「助けて」と言わせない。
私ができる限りのことをして、
愛する人たちを守り、幸せにする。
その幸せを、決して当たり前にせず、
心から大切に感じてもらえるような
生き方をする。
それは、私が過去に何度も求めて
叶わなかったものを、
今度は私が与える側になるということ。
もう、あの頃のように
手を伸ばしても届かない虚しさを、
誰にも味わわせたくない。
私は、私が愛した人たちにすべてを捧げる。
そのためなら、
この先の人生のすべてを懸けてもいい。
それが、過去の私への答えであり、
未来の私への誓いです。

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