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森の奥


 森からひとりで出てきた。奇妙な気がしたのは、私がひとり森に入っていったからだった。ならば出てくるときも当然一人ではないか。重要な何かを、私は忘れているような気がした。しかしそれは、重要ではあるけれど、どうでもいいことのように思えた。
 森から出ると、円形の空き地があった。できたのが奇跡かと思わせる綺麗な円形だった。私の白いBMWもそこに停まっていた。未舗装の山道を走るような車ではなかった。だが、私はその車で、ひとりやってきたのだった。
 森から出て、あらためて寒さを感じた。十二月の午後三時。空は冬の重い雲で覆われていた。今にも雪が降ってきそうだった。
 老人はやはりそこにいた。森から私が出てくるのを、待ってくれていたかのようだった。森に入る前、私はその老人と確かに言葉を交わしていた。少し前のことなのに、何を話したのか思い出すことができなかった。
 彼は確かに老人だったが、年齢がよくわからなかった。面長で、堀の深い整った顔立ちだった。作業服に包まれた身体は大きかった。私の身長は百八十センチあった。老人はもしかすると、私よりも少し背が高かったかもしれない。肩幅が広く、足が長く、均整の取れた体格の持ちに主だった。日本人離れした印象さえあった。
「覚悟が決まったようだな」と老人は言った。
「え?」と私は訊いた。「どういう意味ですか?」
 老人はすぐに答えず、数舜、私を見つめたあとで言った。「しっかり生きろ」
 さっぱり意味がわからなかった。私はもう一度老人に質問をしようとした。だができなかった。なぜかはわからない。質問を許さない威厳が老人にはあったのだ。
 質問の代わりに私は言った。「わかりました」
 そう答えつつも、何がわかったのか、私はわかっていなかった。
 突然、目の前に夜が、ぱっと広がった。私は夜道を走っていた。山の中を走るその道は、舗装道路だった。狭くはあっても、車が普通に走ることができる。時刻は午後八時だった。
  
 それが十年前のことだ。
 十年後、私はあの森のことをあらかた忘れてしまっていた。森に行ったことは、覚えていた。老人のことも覚えていた。しかしそれ以外のことは、全く思い出せなかった。客観的に眺めれば、非常に奇妙なことではあったが、深刻に受け止めることはなかった。森のことは、まるで夢の中で出来事のようだった。
 その日、仕事が終わり家に戻ってきたのは、午後八時を過ぎていた。私の乗用車はホンダの軽四だった。一応ターボ付きだが、排気量が六六〇CCであることに変わりはない。それがこの十年間に起きた変化だった。十分な動力性能に小回りが利く小さなボディ。何よりも軽自動車は自動車税が安い。車ならそれで十分だった。
 私の昔を知らない社員からは、苦笑まじりにこんなことを言われることがあった。「社長、もうちょっと立場にあった車に乗りませんか」
「車なんてこれで十分なんだ」と私も笑いながら答えた。
 町で白いBMWを見かけると、過去の自分が思い出された。私は、生意気で傲慢な嫌な奴だったかもしれない。どうしてあんな車に乗っていたのだろう。今となっては無駄なことをしたものだと思う。恰好をつけすぎて、気恥ずかしくもあった。
 確かに人生のバランスシートは巧妙にできていた。わずかな成功に酔って、生意気になっていた私は、その後手酷い挫折を味わうことになる。
 十年前、経営していた工務店が倒産の危機に見舞われた。私は経済的に追い詰められた。救いはどこにもなかった。だが、私は負けなかった。どん底の状態から、不屈の意思で這い上がってきた。そして今があった。決して人前で語ることはなかったが、それは私にとって、誇りでもあった。
 自宅のカーポートに車をバックで入れた。いまそこには、私の軽四だけがこじんまりと停まっていた。私が白いBMWに乗っていたころ、妻のアウディが隣に停まっていた。妻とは十年前に離婚した。苦境にある私を見捨てて妻は子どもを連れて出て行ったのだ。
 車を降りたときだった。
「見事にやり遂げたな」あの声を背中で聞いた。
 瞬間、私はあの森の匂いを嗅いだ気がした。反射的に振り向いた。
 私は驚きの声を漏らした。
 あの老人がそこにいた。一瞬のことだったが、老人の背後に、あの森が見えたような気がした。
「お前は、変わった」と老人は言った。そのとき見えかけた森は消えていた。老人は私の家の前の道路に立っていた。あの時と同じ格好だった。十年の歳月が過ぎていたが、老人は少しも変わっていなかった。
 私は何か言おうとして、言えなかった。何かわからないが、忘れていたものが、身体の奥深いところから、一気に噴出してきたようだった。
「お前は約束を果たさなければならない」と老人は言った。
〈約束〉という言葉を聞いたとき、一瞬、冷たい手が体に入ってきたような気がした。私は約束を思い出していた。人生を賭けた約束を、私は十年前にあの森でしたのだ。
「思い出したか?」と老人は訊いた。
「はい」と私は震える声で言った。
 老人は重々しく頷いた。「お前はまた森に行かねばならない。あの方との約束を果たすために」
 老人が森といったとき、見慣れた住宅地の風景が消えて、その背後にさっきよりも鮮明に、深い森の風景が浮かび上がった。
「わかったな」と老人は言った。
 森は消えた。
「はい」と私は答えた。
「待っているぞ」と老人は言った。言葉が終ると同時に風が吹いた。
 一瞬の強く冷たい風。私は思わず目を閉じていた。風の中に森の匂いがあった。目を開けたとき、老人の姿は消えていた。
 私の身体は震えていた。十年前、私は絶望していた。死のうとして、私はあの森に行ったのだった。どん底から這い上がろうなどという決意も意思も私にはなかった。十年後、私はどん底から這い上がり、まずまずの成功を収めていた。私は苦境から自力で脱出したと信じて疑わなかった。だが、そうではなかった。私は助けられたのだ。老人にあって、あのときのことをはっきりと思い出した。
 私はあの森に行かねばならなかった。あのとき、確かに私は彼女と約束をしていた。
 

 十年前、当時私は人生最悪の冬の只中にあった。四十二歳。男の厄年。あれほど悲惨な時期は、それまでの私の人生になかった。
  
 そのころ私は、従業員六十名の工務店を経営していた。それは父が興した会社だった。父は叩きあげで、職人気質の人だった。頑固な人で、私は長く父に反発していた。
 私は三十歳の時に故郷の街に戻って、父の会社を継いだ。私が跡継ぎになることは、帰郷した時点で確定した。私には秀才の兄がいたが、実社会をうまく泳いで行けるタイプではなかった。私もある時期まで自分のことをそう思っていた。兄はいま、大学で古典文学の研究をしていた。工務店を息子に継がそうと思えば、もう私しかいなかったのだ。
 私は仕事のイロハを父から学んだ。中卒で、大工の親方から、殴られながら仕事を覚えた父は、とんでもなく厳しかった。息子にも容赦がなかった。ひとつには社員の手前もあったと思う。以前からいる職人には、息子と言えども分け隔てしないという姿勢を見せる必要があったのだろう。仕事を覚える、覚えさせるということに、肉親か他人かは関係がない。本気でその仕事を覚えるなら、その仕事で食っていく気なら、生半可なことでは済まされない。父の仕事ぶりは徹底していた。それが職人として生きてきた、父の信念であったことも間違いない。それがプロの仕事というものだった。
 ちょっと恥ずかしい告白をするが、私は小説家志望だった。大学時代に小説家になりたいと思い、大学在学中から十年間頑張ってみた。だが、だめだった。父から厳しく仕事を仕込まれながら感じたことがある。私が志を貫徹できなかったのは、才能の問題というよりも、本気で小説家になろうとしていなかったからではないか。私には書き続けなければならない動機がなかった。アイデアが才能がという以前に、正直に言えば、書くことが苦痛になっていた。本当に何者かになりたいと思うなら、やり続けなければならない。書くことが苦痛であっては作家にはなれない。書き続けることそのものに意味がある。私にはそれがなかった。たとえ成果が出なくても、書くことが苦痛ではないなら書き続けられたはずだ。それを才能と呼ぶなら、確かに私には才能がなかった。
 とにかくわたしは三十歳で、それまでの夢を捨てて、故郷の町に戻った。私の故郷M県T市は、人口三十万の地方都市だった。
 私が戻ったとき平町工務店(私の実家)の従業員は三十名だった。私が継いで五年目、事件がおきた。両親が交通事故で他界したのだ。二十一歳の金持ちのドラ息子が、親に買ってもらった高級スポーツカーでむちゃな運転をした。左カーブを曲がろうとして、外側に膨らんだ。そのとき対向車線を走ってきた両親の乗った車に正面衝突をした。若者は奇跡的に軽症で済んだが、両親は即死だった。
 そのとき私は三十五歳だった。両親の死により、私は嫌でも独り立ちしなければならなくなった。
  
 とにかく私は、会社を継いだ。それまでの副社長から社長になった。
 結婚は三十二歳のときにしていた。相手は父の知人の紹介で知り合った富永千恵子という女性だった。切れ長の目と白い肌の古風な美人だった。五歳年下の二十八歳だった。京都の大学を卒業していた。お嬢様育ちでわがままなところがあったが、知り合った頃、その見た目に心を奪われ、私は彼女の本質を見誤った。子どもは私が三十三歳のときに生まれた。女の子だった。
 私はよく頑張ったと思う。大方の予想を裏切って、会社は潰さなかった。私が会社を継いだ時〈二代目で会社も終わる〉そういう噂が流れたことは知っていた。反論はしなかった。三十歳になってから、仕事を覚え始めた息子に何ができる。そう思われても仕方がなかった。叩き上げの父に比べて私は、従業員からも世間からも、いかにも頼りなく見えたのだろう。
 しかし、私は会社を潰さなかった。それどころか父の時代よりも会社を大きくした。従業員三十から六十名にした。私は大方の期待を裏切って会社を成長させた。それは私にとっても意外なことではあった。負け予想を裏切ったことは、小気味よくもあった。〈ざまあみろ〉そんな気持ちもあった。あのときの(敢えて言えば)勝利が、私を傲慢で嫌な奴にした。
 そんな私の横っ面を殴り飛ばすようにして、それがおきた。
 事の始まりは、勝田博之が電話をかけてきたことだった。勝田。その名前を書くと、いまも情緒不安定になりそうになる。勝田は小学校時代からの同級生で、大学進学まで一緒だった。私が作家の夢を捨てて地元に戻ったときも変わらぬ友情で迎えてくれた。私は勝田を信頼していた。ある意味親兄弟よりも信頼していたといっていい。勝田の仕事は公務員だった。
 その勝田が独立したいと言ってきたのは四十一歳の時だった。公務員を辞めて事業を始めたいという。どんな事業だったのかはここでは書かない。それを書くことも私を昔に引き戻し、絶望的な気持ちにさせる。
 詳しくは書かないが、とりあえず、概略だけは書く。そうしないと話が先に進まない。
 勝田は公務員を辞めて事業を起こそうとした。そのとき私に連帯保証人になってくれと言ってきたのである。躊躇いはした。しかし勝田のことは小学校のころから知っていた。仕事は固い公務員だった。わたしは勝田を信用して、連帯保証人になった。
 だが、勝田は姿を消した。勝田は億単位の金を金融機関などから借りていた。私は勝田に騙されたのである。小学校時代からの親友で、しかも公務員だった勝田は、最初から私をはめるつもりだったのだ。知ったときは、後の祭りだった。騙されたとしても連絡保証人の義務が消えるわけではない。私はすべてを失った。
 妻の知恵子は私の事業には無関心だった。正直、結婚生活は二年も過ぎたころから冷え切っていた。わがままで贅沢な女だった。千恵子にとって、私の存在価値は金だけだと気づいたときは、すでに娘がいた。娘は可愛かった。千恵子は私が、連帯保証人になり、騙されて莫大な借金を抱えたと知ったとき、娘を連れて家をでていった。娘を連れて行ったことは驚きでもあった。千恵子は子どもに対する愛情が薄かったのだ。
 いずれにしても私はひとりで、莫大な借金を背負うことになった。私が救われる道は自己破産だけだった。それをすれば私は数億円という債務から逃れることはできた。しかしそれで終わりだった。私は、財産も、これまで積み上げてきた信用も、すべて失うことになる。絶望するしかない状況に、私は追い込まれていた。
  
 十年後のいま、私はどん底から這い上がっていた。
 私は五十二歳になっていた。生活は落ち着き、金もできた。だが、私は独身だった。交際相手は何人かいたが、誰かと身を固めるという気にはなれなかった。理由は、やはり十年前の出来事だったのだろう。人は裏切るものだという諦観が心に沁みついていた。
 私は復活を遂げた。ほとんど奇跡ともいえる救済の手が次々と入り、借金も返済し、新たな社員も雇い、会社は以前よりも大きくなっていた。私が罠にはまって、会社が倒産寸前に追い込まれたときの従業員数は六十名だった。今は百名になっていた。
 復活は独力で成し遂げたと思っていた。運も確かにあった。しかしその運は、自分のガッツが呼び込んだものだと能天気に信じていた。幸運としか言いようのない出来事の連続は、幸運でも奇跡でもなかった。あの森だ。森で出会った彼女が私を救ってくれたのだ。私はその記憶をすっかりなくしていた。
 いま、私はなくした記憶を完全に取り戻していた。自分がほんとうは何者か、私は知ってしまったのだ。。
 

 老人にあった翌日のことだった。私は仕事を休んだ。もちろん約束を果たすためだった。
 私はN県にある森を目指した。十年前、死に場所に選んだ森だった。N県は私の地元M県の隣だった。
 私がその森について知ったのは、小学生の時だった。母方の曾祖母から聞いた。母の父、つまり私の祖父は、N県K村の出身だった。次男ということもあり、二十歳の時に家をでて、M県T市に職を求めた。そこで結婚して母が産まれた。母と父は中学で知り合った。やんちゃな父は中学卒業と同時に大工見習いとして働き始めた。母は高校に進学した。母が高校を卒業して十九歳になったとき、ふたりは結婚した。そして、兄と私が生まれた。
 私たち一家はときどき母の実家に遊びに行っていた。母方の家系は奇妙な家系で、祖先に祈祷師がいたということだった。私にはおとぎ話のようなもので、そこにリアルは感じられなかった。しかし私が両親と母の実家に行っていたころ、まだ存命だった曾祖母はそういう噂のある人だった。祈祷師を本業にしていたわけではなかったが、頼まれるとそういうことをやっていたようだった。
 その曾祖母にこんなことを言われた。「本当に人生に行き詰まったら、森に行くといい」曾祖母の話によれば、森はN県K村にあるJ山の麓だということだった。「基樹が行けばすぐにわかるはずだ」とも曾祖母は言った。
 それを聞いたのは、私が十歳の時だった。小学四年生には、曾祖母の言葉の持つ重みなどはわからなかった。それに、私は曾祖母が苦手だった。祈祷師のようなことをしているという話は聞いていたが、それがどういうものかわからなかった。ただ曾祖母には何か人とは違うものがあるとは感じていた。中学生になったころ、母親に曾祖母はどんな人だったのかと訊ねたことがあった。そのとき母の表情が曇ったのを覚えている。
「よく知らないのよ」と母は言った。
 私はそれ以上訊ねなかった。聞いてはいけないことのように思えたのだ。
 それっきりの話だった。森のことなど思い出すこともなかった。だが、進退窮まったとき、私は曾祖母に聞かされた森の話を思い出した。曾祖母が言っていた森がほんとうにあるのかどうか知らなかったし、あったところでそこに行って、運命が好転するとも思えなかった。
 しかし、もし曾祖母のいう森があるとすれば、〈死に場所になる〉と、そんなことを考えた。そうなのだ。森を死に場所にするもつもりで、私はN県K村にあるJ山に向かったのだ。
 K村では国道を走り、村道に入った。目指すJ山は前方に見えていた。ナビは使っていなかった。使おうとしたのだが、その位置を特定することができなかった。
 それでもあのとき、確かに森に行くことはできるだろうと漠然と考えていた。
 十年後の今も、私はナビを使っていなかった。ナビなど役に立たないことを知っていたからだ。あの森は、もしかすると現実にある森ではないかもしれない。それまでにも、ふとそんなことを考えたことがあった。今はかなり真剣にそれを考えていた。この世ならざる森ならば、必要があれば行けるだろうと私は考えていた。今の私は森に呼ばれているのだ。行けないはずがなかった。
 交通量の少ない村道だった。私はゆっくりと車を走らせた。そして、発見した。J山に向かう一本道。
 私はウインカーを点した。
 
 気が付くと、そこは円形の空き地だった。知らない間にエンジンは切っていた。どうやってそこにやってきたのか、私にはわからなかった。思えば十年前のあのときもそうだったのだ。気が付くとここにいて、気が付くと夜道を走っていた。
 車を降りた。
 すると風が吹いた。
 思わず目を閉じて、そして開けると、老人そこに立っていた。
 私は老人を見つめた。私の中で十年前と今が重なった。
 

 ――十年前。
「来たな」と老人は言った。
 見知らぬ老人にそう言われて、私は戸惑っていた。見た感じは作業服を着た山仕事をしている人のようだった。しかしそういった雰囲気ではなかった。私は老人を見た瞬間に思ったのは〈神主〉という場違いなものだった。なぜそんなことを思っていしまったのだろうか。
「私が来ると知っていたのですか」と私は訊いた。ありえないことながら、その質問が頭に浮かんだのだ。
「死ぬ気だな」と老人は言った。
 不意を突かれて私はさらに戸惑った。
「死に場所を求めてここに来た」と老人は言った。
「そうです」と私は自然に答えていた。「私はすべてを失った」
「森に行け」
 森は老人の背後にあった。老人がすっと脇に避けた。道があった。その道はまっすぐ森の奥へと続いていた。何か恐ろしいものをそのとき私は感じた。いったいここはどこだという不安が、胸の奥の方にあった。と、同時にそこに行かねばならないという意識があった。そして、行かねばならないという意識の方が、不安よりも勝っていた。なぜなら、私はそのためにここに来たからだった。
 私は小学生のころに、曾祖母から聞いた言葉を思い出していた。
〈本当に人生に行き詰まったら、森に行くといい〉それを聴いたときの声がはっきりと甦ってきていた。曾祖母は小柄な女性だったが、その声には重い響きがあった。そのときふと思ったのは、曾祖母はあのとき、私の未来を見ていたのではないかということだった。曾祖母はこうなることを知っていた。だから森を教えた。ならば、この森は死に場所ではなく、あるいは生き直すための何かを掴む場所ではないのか。
「何をしている」と老人は言った。「早く行け」
「ひとりで行くのですか」と私は訊いた。
「お前は常に一人なのだ」老人の声は重々しかった。「ひとりで歩み、ひとりで死ぬ。お前だけではない。人は皆そうだ」その声は、小学生のころに聴いた曾祖母の声とどこか似ていた。
 私は森に向かおうとして、躊躇った。
 私の躊躇いを見抜いた老人は言った。「行け」
 その声に背中を押されて私は森の中に入った。
 森に入った瞬間、私の中に何かが入り込んできた。ひやりとした何か。風が、蠢く内臓や流れる血液の隙間を、通り過ぎて行ったような気がした。
 そこは奇妙な森で、入ると同時に距離感が狂った。まっすぐな道がどこまでも続いているように思えた。感覚的に言えば、そこはJ山の麓であるはずだった。しかし森は平坦な土地に、延々と広がっている、そんな感覚だった。だから私の前に続いている道も、彼方まで続いているように思えた。
 私は森の中を進んでいった。このまま帰ることができなくなるのではないか。ふと、そんな不安に襲われたときだった。気配が、私の背中をそっと撫ぜた。私は立ち止まった。ゆっくりと振り向いた。
 すると、そこに女性が立っていた。いま歩いてきた道に佇み、じっと私を見つめていた。黒髪を長く、肩を超えて垂らし、白いゆったりとした服を着ていた。その顔はまるで作り物のように整っていた。美しさに一瞬見惚れた。
〈誰ですか〉と私は訊こうとしたが、その前に彼女は言った。「死ぬか、基樹」
 名前を呼ばれて、私ははっとした。すぐに答えることができなかった。
「親友と信じた相手に騙された。妻にも去られた」と彼女は言った。
「そうです」とおれは言った。「私にはもう何もない」
「基樹よ、お前は愚か者だな」と彼女は言った。
「そうです。確かに私は愚かだった」と私は言った。「人を信じた」
「そういうことではない」
「言っていることがわからない」
「お前はまだ生きている。どうして最後までやり遂げない」
「わからないのはそっちだ」私は苛立ちを覚えた。「私はすべてをなくした」
「命は?」と彼女は穏やかに言った。「命はまだ続いているぞ」
 私ははっとしたような気持ちになった。しかしすぐに絶望が私に襲い掛かってきた。
「同じだ」と私は言った。「私はもう死んだのも同じだ。ただなくしただけでじゃない。莫大な借金を背負っている。妻も子どもを連れて出ていった。私は妻を裏切ったことはなかった」私は絶望の溜息を漏らした。「しかし妻は失敗した私を見捨てた。妻にとって、私はその程度の存在価値しかなかった。そんな女だと知っていながら、決断できなかった。惰性にまかせた関係だった。ほんとうに私は愚か者だ」
「妻の話ではない」と彼女は言った。「お前の生き方の話をしている」
「生き方か」私の声は頼りなかった。「生き方」呟くように言った。「そんなことはこれまで考えたこともなかった」
 叱責の言葉が浴びせられると思った。だが、そうではなかった。
「死にたいのか?」と彼女は訊いた。
 自死について私は、もう一度考えた。確かにその気持ちはあった。しかし、彼女の問いかけを認めることは恐ろしくもあった。死にたいと思ってここに来た。矛盾するが、それを直視することは怖かったのだ。私は黙っているしかなかった。
「怖いのだな」と彼女は言った。「死ぬのが怖い。そうだな」
 彼女に見つめられると、嘘はつけないと思った。
「怖い」と私は答えた。
「では生きろ」
「どうやって」と私は言った。
「もう一度生きなおす気持ちはあるか?」と彼女は訊いた。
「なにを言っているんだ」
「答えろ、生き直す気持ちがあるのか」
 わたしはすぐに答えることができなかった。
「簡単な問いだ」と彼女は言った。「なぜ答えない」
「なにができる」と私は言った。声がかすかに震えていた。
「なにができるかは、わたしと基樹で決める」と彼女は言った。「わたしはなすべきことを知っている。問題はお前だ、基樹。生き直す気があるのか」
「言っている意味がわからない」私はそう言いつつも、何かを感じはじめていた。
「隠すな」と彼女は言った。「お前は期待しているな。自分を捨てきれていない」
「簡単に自分を捨てることなどできない」
「では、生き直すのだ」と彼女は言った。「言葉が意思を決定する。言葉にすることでお前の心が決まる」
 私は混乱していた。混乱しつつも彼女の言葉が、徐々に心に浸透しつつあるのを感じていた。〈言葉が意思を決定する〉彼女は言った。確かにそうかもしれない。彼女の目は真っすぐにわたしを見つめていた。その目に宿る光は、深く、柔らかく、長く見つめていると吸い込まれていくように思えた。それでいて少しも恐ろしさを感じさせなかった。
 どれほどの時間、私は彼女の目を見つめていただろうか。気が付くと、私の中に力が甦ってきていた。生きようとする気力が私の中に生まれていることに気づいた。
 私は言った。「生き直したい」閊えていたものがすっと落ちたような気がした。「ああ、できるなら生き直したいとも。やり直したい。できるものならな」
「そうか」と彼女は言った。「もし、お前がもう一度立ち上がるなら、手を貸そう」
 それでも私は躊躇いを感じた。しかし気持ちはもう大きく傾いていた。もちろん生きる方にだ。
「どうだ?」と彼女は訊いた。
「はい」そう答えると覚悟のようなものが自分の中で、定まったようだった。
「よかろう」と彼女は言った。「しかしもうひとつ条件がある」
 私ははっとした。
「どうした?」と彼女は訊いた。「騙されたと思ったか?」
「いえ」と私は答えた。騙されたとは思っていなかった。「そんなことは思いませんが」少し言葉を選んだ。「世の中にただのものはないと思っただけです」
「いい心がけだ」
「で、なんでしょうか、条件というのは」
「お前が再び輝きを取り戻したとき、代償をもらう」
 私は一瞬ひやりとしたものを感じた。「代償ですか?」
「命ではない」と彼女は言った。「成功によってお前が手にいれたものでもない。ただし、それはもしかするとお前に痛みを感じさせることかもしれない。それもこれも、お前の生き方次第だが。どうだ?」
 私はすぐに返事が出来なかった。手にいれたものでもない。命でもない。しかし痛みを感じさせるもの。いったい何だろう。
「どうだ」と彼女は言った。
「わかりました」と私は言った。「代償を差し出します」
「よかろう」と彼女は言った。
 その後、私は森を出た。
 

 ――そして今。
 老人はやはりそこにいた。
「来たな」と老人は言った。
「彼女は森にいるのですか」と私は訊いた。
「あの方はいつもも森にいる」
 私は森を見つめた。老人に視線を戻して、しばらくしてから言った。「では、行きます」
 老人は何も言わなかった。
 私は森に入った。森の中は十年前と同じだった。遠近感が狂い、私の前にある道は、ずっと森の奥まで続いているかのようだった。
 しばらく歩き、私は背後に気配を感じた。振り向くと彼女がいた。
「来たな」と彼女は言った。
 私は大きく深呼吸をした。覚悟は決めたつもりだった。しかし足が震えた。彼女にどんな代償を求められるのだろうか。それを考えると、身体の中が空洞になったような気がした。
「代償を差し出す前に、確認したいことがあります」と私は言った。
「何だ」と彼女は言った。
「私を助けてくれたのですか」
「そうであるともいえるし、そうでないともいえる」
「どういうことですか」と私は訊いた。
「お前にはやり直そうという意思があった」と彼女は言った。「もう一度立ち上がろうという意思があった。だから用意された幸運を掴み取ることができた」
 私ははっとした。「やはりあの幸運はあなたが用意してくれたものだったんですね」
「そうだ」と彼女は言った。「しかし、お前にその気がなければ掴み取ることはできなかった」
「私が何もしなければ、今はなかったということですか」
「全てはお前の意思にかかっていた。お前はわたしが代償を要求するとわかっていても、先へ進もうとした。全てはお前の意思だった。その意思がなければ、今のお前はなかったということだ」
 結局、自分次第ということか。私は納得した。
「わかりました」と私は言った。「で、私は何を代償として差し上げればいいのですか。命ですか?」
「未来だ」と彼女は言った。
「未来? やはり命を差し出せということなのですね」
 それでも仕方がないと私は思った。この十年間が、言わばありえない日々だったのだ。ここで命さを差し出せと言われても、納得できるだけの幸運を私は受け取っていた。思えば十年前、私は死んでいてもおかしくなかった。覚悟は決まっていた。未来。様々なことが考えられる言葉だった。人生か、命か。
「お前はさらに力を得る」と彼女は言った。
 それは意外すぎるな言葉だった。「は?」と私は思わず訊いた。「言っていることはわからないのですが」
 彼女は私の質問を無視して言葉を続けた。「力を得たお前は、あることを知る。それを知れば、前は行動を起こしたくなる。しかし堪えなければならない。我慢すること。それが代償だ」
 彼女はまだ起きていないこと、この先起きるかもしれないことに対して、何もしないことが、奇跡の十年の代償だと言っているのだった。私は拍子抜けした気分だった。〈そんなことか〉という思いが強くあった。
「それができると今は思っている」と彼女は言った。「しかしその代償は間違いなくお前の心を引き裂くぞ」
 私は胸の中にひやりとするものを感じた。だが私は言った。「わかりました。代償を差し出します」そう言ったあと、もうひとつ質問をしたくなった。「しかし断ればどうなるのですか?」果たして、私に選択の余地はあるのか。
「伝えるべきことは伝えた」と彼女は言った。「これ以上はない」
 彼女の声も口調も穏やかだったが、私の質問に答える意思がないことははっきりとわかった。彼女が何者であるかはわからない。だが、妥協はないのだとわかった。
「日々を生きていけ」と彼女は言った。
 風が吹いた。私は目を閉じた。目を開けたとき、彼女は消えていた。
 私は森を出た。老人の姿もなかった。私にはそれが自然なことのように思えた。もう二度と、老人にも彼女にもあうことはないだろう。私の本能がそれを教えていた。
 私は車に戻った。そしてエンジンをかけた。
 
 目の前に夜が生まれた。
 私は車で、夜の村道を走っていた。そうなることはわかっていた。
 

 森の記憶は、今度はしっかりと私の中に留まっていた。記憶から消えていた森での出来事を、いまは思い出すことができた。
 森で私が体験したことは、(そもそもあの森は現実に存在しているのかということも含めて)間違いなく超常現象だった。あの森は現実の存在ではなかった。私にとっては現実の存在ではあっても客観的に存在してはいない。私は実際にあの森に行ったのではない、ある種の夢を見ていたのかもしれない。そうも考えたが、考えたから答がわかるというものでもなかった。
 あの森での出来事は、誰にも話す気はなかったし、誰かに話してみたところで、誰も信じないことはわかっていた。
 その話が突然、舞い込んできたのは、森に行ってから二月後のことだった。それは政界への進出だった。私に県議選に出ないかという話を持ってきた人物がいた。その人物は、私がどん底時代に助けてくれた人物だった。私自身は政治に興味などなかった。だが苦しい時代に助けられた恩義があった。断ろうにも断れなかった。出るだけは出てみようと思った。私のような素人が出馬しても、当選するはずがないとも思っていた。
 だが、結果は当選だった。
 当選したと聞かされたとき、私は思わず言った。「嘘だろう」
 だが、嘘ではなかった。本当に私は県議になった。なったというよりも、なってしまった。自分でも唖然とするしかなかった。
 私は無所属で出馬したが、保守政党の支持を受けていた。私は思想的にことさら保守的ということもなかった。どちらかと言えば、むしろリベラル派だった。支援を受けた保守政党の、ジェンダーや外国人に対する主張を目にすると、本当にこれでよかったのだろうかと思うことがあった。しかしそれもこれも仕事のためだった。建築業でこれからやっていこうと思えば、個人的な政治的主張にも目をつむり、耳を閉ざさなければならない場合もあるのだ。全ては仕事のためだ。私は割り切った。
 県議になったことで、私はある種の余裕を得た。仕事は多忙を極めたが、精神的な余裕が生まれたのだ。しばらくこの成功は続くだろうという余裕だ。だから、元妻の近況や、私を裏切った勝田博之の消息を知りたくなった。
 そんなことをしても無意味だということはわかっていた。今が幸せならそれでいいではないか。そう自分に言いもしたが、やはり彼らの消息を知りたかった。過去を蒸し返してみても、無意味だということはわかっていた。だが一度私の中に生まれたその考え、をどうしても消し去ることができなかった。
 私は勝田と千恵子のその後について調べることにした。その時点で考えていたことは、千恵子の消息はすぐにわかるだろうということだった。千恵子は子どもを連れて実家に戻った。すでに十年が過ぎていることもあり、再婚しているだろうとは思ったが、消息が全く分からないということはないはずだ、とそう考えていた。一方で詐欺を働いた勝田の行方はわからないのではないかと、そんな気がした。もしかしたら海外に逃亡したかもしれないと考えていた。
 私は興信所に、元妻の近況と勝田の行方の調査を依頼した。費用はかかったが、今の私にはそれだけの経済力があった。
 中間報告で、私は驚くべきことを聞かされた。千恵子の消息に関することだった。千恵子は実家で生活していなかった。娘は実家で祖父母と一緒に生活していた。理由はわからなかったが、千恵子が子どもをおいて実家をでて行ったということだった。考えてみると、それは不思議なことではなかった。千恵子は子どもに対して冷たかった。スタイルが崩れるから生みたくないと言ったことさえあった。そんな女が、子どもを連れて出て行ったのは、なぜだったのだろう。私はある可能性を考えた。千恵子は私を苦しめるために、娘を連れて行ったのではないか。確証はなかった。しかしそれを考えることは、私の心を当然のことながら暗くした。
  
 仕事を依頼して、二カ月後、調査結果が出た。
 私は興信所の事務所を訪ねた。興信所はT市役所の近くにあった。五階建ての雑居ビルの五階に事務所を構えていた。
 私は所長の牧田と調査員から結果報告を聞いた。まだ何も聞かされていないときから妙な雰囲気だった。よくないことを聞かされるのだなと思った。
「調査結果ですが、驚かないでくださいね」と牧田は言った。
 興信所の牧田は五十がらみのがっちりとした体格の男だった。白髪頭を角刈りにしていた。首が太く、厳つい風貌なのだが、不思議と知性を感じさせる顔だった。元警察官だったということだが、下っ端の警察官ではなかったはずだ、
「驚くようなことを聞かされるのですか」と私は言った。
「はい、驚かれると思います」と牧田は言った。「我々も驚いています。まずはご覧ください」牧田は興信所名のはいった大判の封筒を私に差し出した。
 私はそれを受け取り中身を覗いた。報告書と写真、ディスクが入っていた。まず写真だと思った。数枚の写真を取り出した。一番上になっている写真を見たとき、私は唖然とした。思わず、牧田を見ていた。
「そうです」と牧田は言った。「元の奥さんとあなたをはめた友人です。元友人と言ったほうがいいのかもしれませんが」
 私は言葉をなくした。しばらく牧田を見ていた。それからもう一度写真を見た。それは千恵子と勝田が、どこかのレストランから出てきたところを撮影したものだった。遠くから撮影した写真だったが、二人の顔に浮かんでいる笑みははっきりとわかった。ふたりは幸せそうに見えた。私が潜り抜けた地獄とあまりにも違いがありすぎた。他の写真も似たようなものだった。夜道を腕を組んで歩いているふたり。マンションに並んで入って行くふたり。私が見たの写真は五枚だった。他の写真データはディスクに入っているということだった。そういった説明の声は、遠くから聞こえてくるようだった。
 しばらく写真を眺めていた。自分の意思でそうしていたのではなかった。写真から目を離せなかったのだ。どれほど写真を見ていたのだろう。一分以上あったはずだ。私は写真をテーブルにおいて、目を閉じた。そして深いため息をついた。体の中が空っぽになったような気分だった。気が付くとわたしは、牧田を見ていた。
 牧田の表情が深遠な思索を秘めているように見えた。そう見えたのは、私が牧田に救いを求めていたからかもしれない。
「いったい、いつから勝田と千恵子は一緒にいるんですか」と私は訊いた。やっと声を絞り出したような気分だった。
「八年前から一緒にいるようですね」と牧田は言った。
「八年前、ですか」私は信じられなかった。
「そうなんです」と牧田は言った。
 私の中で様々な考えが交差した。私が混乱していた。八年前、勝田が私を騙した二年後だ。
「おかしい」と私は言った。
「そう、おかしいですね」と牧田は言った。「明らかにおかしい。八年前、勝田と元の奥さんが偶然出会ったとは私たちも考えていません」
「ふたりで私をはめたんですね」私の声は明かに変わっていた。怒りだ。怒りが体の奥の方からふつふつと湧いてくるのだ。
「まだそうと決まったわけではありません」と牧田は勤めて冷静な声で言った。
「いや、絶対にこのふたりは共謀して私をはめたんです」
 牧田は小さな溜息を漏らしたが、何も言わなかった。
 それ以外考えられなかった。ふたりで組んで私を騙した。言葉巧みに私に話を持ちかけ、保証人にして、大金をせしめた。それから二年間姿を隠して、二年目にふたりで新しい生活をはじめたのだ。それ以外考えられなかった。怒りがとめどもなく湧き上がってくる。私はそれを抑えられなかった。
「平町さん」と牧田に名前を呼ばれた。「落ち着いてください」
 私は深呼吸をして落ち着こうとした。だが、だめだった。
「だめです」と私は言った。「こいつらは私を騙した。お人好しを騙して、連帯保証人にして金をせしめた。私は自殺まで考えた。しかしこいつらはのうのうと生きている。詐欺罪で訴えることすらできない。勝田が私を騙すつもりだったという客観証拠がない」私はそこで深呼吸をした。「しかし、こいつらは許せない」
「すべてをなくす気ですか」と牧田は言った。
 その声と言葉が、私の怒りに水をかけた。牧田がその一言を言ったのは、現実的な意味からだった。それはわかっていた。私が怒りにまかせて、元妻と裏切り者の昔の友人に、危害を加えるようなことがあってはならないと考えたのだろう。だが、私はもっと別の、超自然的なことを思い出していた。森の主、彼女のことだった。
 これだったのかと、私は考えていた。私は財力を得た。それを使って元妻と裏切り者の幼なじみを探した。たどり着いたのが、この耐え難い事実だった。彼女は私に復讐をしてはいけないと言っていたのだ。
「どうしましょうか」と牧田は訊いた。
「どういうことですか」と私は訊き返した。
「調査を続けますか? まだすべてがわかったわけではない」牧田は少し考えるような沈黙を挟んだ。「個人的にはここらでやめてもいいような気もしますが」
 私は黙っていた。
 
 結局、私は引き続き調査を依頼した。牧田は控えめにここらでやめてはどうかと言ってくれた。私は止めなかった。抑えがたい怒りが私にはあった。その怒りが、調査の継続を求めたのだった。勝田と千恵子。ふたりが私に対して何をしたのか、それを知らなければ収まらなかった。
 その後の調査で勝田は別名と別の経歴を使っていることがわかった。それは実在の人物のものだった。おそらく、戸籍を買ったのだろうと興信所の牧田は言った。明確な犯罪行為だった。戸籍を買った金は、私からだまし取った金に違いなかった。
 私はぎりぎりで踏ん張っていた。私には復讐を行なう権利があった。力もあった。だが、私の力はまだ完全ではなかった。この場合の完全という意味は、脱法的な復讐を行なっても、逃げ切ることができるという意味だ。私的な復讐に対して、司直の手が伸びない、伸びても届かない状況を作れるということだった。そこまでの力は、私にはまだなかった。
 しかし、私の力はさらに大きくなりつつあった。経済的、政治的力が急速に肥大していくことがはっきりとわかった。
 確かにこれは試練であり代償だった。
〈それを知れば、前は行動を起こしたくなる。しかし堪えなければならない。我慢すること。それが代償だ〉
 果たして、私は元妻を許せるのだろうか。私を欺いたあの男を許せるのだろうか。二人を許せるのだろうか。
 いずれ、復讐が可能になる力を、私は手に入れるはずだった。
 私の中にあるイメージが生まれた。復讐をこの手で行うというイメージだ。
 復讐の日は常に冷たい雨が降っている。その雨の中を、ひとり復讐に向かう私がいた。その想像はあまりにも鮮明で、私は降りしきる雨の冷たささえ感じることができた。
 復讐をすることが、確定した未来であるかのように、私には思えた。
 

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