「ミュージアム コレクションⅠ 武蔵野・再考―写真家たちの武蔵野と向井潤吉の写真」(世田谷美術館)
かつては国木田独歩の小説にもなった、武蔵野を巡る写真展。元々原野だったところに木を植え人工的な自然を形成、そして戦後は宅地化したという歴史は神奈川出身の自分にとっても興味深いです。
冒頭では向井潤吉の絵画と写真が展示。特に写真は金村修さんによって、モノクロ100枚とカラー100枚がセレクトされております。モノクロはかつての生活、カラーはその生活が変化していく様が対比的に際立っているでしょうか。
向井の写真は消えゆく生活・風景(茅葺き屋根)に対する、言わば記録の要素が強いもの。何かしらの価値を作っているわけではなく、一見受動的にも見えますが、むしろその衒いのなさこそが写真の向こう側にある生活の魅力をストレートに伝えてくれています。写真に限らず、芸術は与えられた自然を受け取れば良い、「あとは、どこで切り取るかだけ」という向井の言葉は実はミメーシス(「模倣」のギリシャ語で、芸術を考えるキーワードの一つ)にも繋がるような気がして、少しハッとさせられておりました。
向井の後は古今の写真家の作品が続くのですが、まさに「どこを切り取るか」で世界が大きく変わることを痛感します(ご興味のある方は展覧会のホームページを観ていただければ)。
個人的にヒットだったのは、(そもそもこれが目的というところもありましたが)金村修さんでしょうか。枚数、そして中判ならではの大きな写真サイズもさることながら、観た瞬間にグッとなったのは額装せず、画鋲でピン留めという展示手法。額やガラスに守られていない、一度は現像液に浸かったであろう「もの」としての写真が剥き出しでこちらに迫ってくるようでした(美術館ならではの、少し見上げる高さというのも大きなポイントだったかも)。
他に比べ、明らかにカオティックな武蔵野の風景。しかし、向井の写真に生活(あるいは生活の喪失)への「苦味」があるように、このビターさこそが展覧会を間違いなく面白いものにしてくれていると思いました。
1階の田中信太郎展も含め、環境(コレクション展で言うと武蔵野)の解釈、そしてその「切り取り(選択・抽出etc.)」の方法について、面白くも考えることの多かった展覧会でした。



















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