絵画のサイズ
今勉強している色彩のうち、色彩心理の言葉として面積効果というものがある。
ざっくり言うと「同じ色でも大きな面積であるとより明るく、鮮やかに感じられる」というもの。たとえば家の壁を塗るとき、小さな色見本で色を決めてしまうと、想像したよりも派手に見えてしまうことがある(実際は同じ色のはずなのに!)。このため、大きな面積の色を決める際は、相対的に少し暗く、くすんだ色を選んだほうが良いということが言える。
この話は主に外壁塗装やインテリアの色彩に関して言われることで、美術鑑賞でこの点がことさらに言われることはあまりない。ただ、「面積(サイズ)が与える影響」という意味では、芸術、特に絵画についても近いことが言える。
たとえばマーク・ロスコやジャクソン・ポロックのような現代の抽象芸術作品は、その大きなサイズ感こそが重要であることが多い。パソコンの画面や本の小さな図面だと「やってんな(笑)」としか思えないような、一見わけのわからない作品が、いざ実際の美術館で観るとその「やってんな」に圧倒され、没入感を味わっている自分がいる。
なんて言えばいいのか、作品のサイズが大きいとその展示室ごと空気を形作ってしまうというか、そういった部分が非常に大きいのかもしれない。画家の描線というものもより具体的に、生々しく感じられるし、小さい作品もより「わがごと」として感じられるような…そういう印象もある。
サイズで言えば、クールベの《オルナンの埋葬》(1849-50)もまた重要な作品だった。

私が現在編集中の、ノートパソコンのディスプレイでは縦6.2cm×横13.6cmに満たない本作だが、実際は縦315cm×横668cmと、およそ50倍の大きさがある。高さ3mというとバスケットゴールの高さがだいたいそれぐらいだが、あの見上げる感覚を想像していただけたらと思う。
この作品が制作された当時、このサイズ感で制作が許されるのは基本的に歴史画・宗教画のみで、風俗画に該当する本作がこのサイズで制作されたことは当時としては物議を醸した。クールベのことだから、少なからずアカデミーに権威に対する反骨精神というものがこういう形で現れたのも想像に難くない。
私がこれを観たのはフランスのオルセー美術館ではなく、徳島の大塚国際美術館だったのだけど(お恥ずかしい…)、陶板のレプリカであっても、そのサイズ感は圧倒的で、数年前に観た作品でも記憶によく残っている。実際に面積効果もあるのか、今こうして横幅14センチ弱の作品を観てて、「こんなにくすんでたっけ?」と思うぐらいで、その印象はだいぶ鮮烈だった。
美術館に訪れる意義として、実際の作品が持つ「アウラ(※)」に触れるという考え方があるけど、その「アウラ」を構成するものとして、サイズ感というものは確かにあると思う。もちろんサイズのみが全てではないが、その意味では原寸レプリカを展示している大塚国際美術館を訪れてみることも十分意味はあると私は考えている。
(※)アウラ…オリジナルなものが「いま」「ここ」という一回性においてもっている重みや権威。(引用元)
ただし、「大きければ良い」というものではなく、反例と言うべきものもある。たとえばモナ・リザは縦77cm×横53cmと、せいぜい新聞の見開きぐらいの大きさだし、デューラーや浮世絵などといった版画作品、またフェルメール作品には縦50cmにも満たない「傑作」も存在する。


絵のサイズとその質に相関関係があるとは言えない。しかし、それぞれの芸術に対し、それぞれ適性な"サイズ"があるということは確実に言える。
かりにポロックの作品がフェルメールのサイズ感だったら、ただぐじゃぐじゃしているだけで、何がなんだかわからなかったと思う。フェルメールの作品がロスコ並、いや、ダヴィデ像(高さ5m以上)ぐらいのものだったらむしろ「気持ち悪い」「悪趣味」という部類の作品だったかもしれない。あえて言うなら50cmほどのその慎ましさこそが、《真珠の耳飾りの少女》の魅力だとも思う。
もし作品制作をされている方で、何かしら行き詰まっている方であれば、「サイズを変えてみる」というのは一つの処方箋になるかもしれない。たとえばサイズを大きくしてみるのも一つだし、反対にサイズを小さくし、その代わりに物量を増やしてみるというのも一つの方法としてありうる。
サイズの持つ意味を考えることは、作品鑑賞においても作品制作においても、重要なファクターであると言えると思う。
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