豊臣秀吉の大仏と善光寺本尊 ~ みんなのしんしゅうがく旅行【京都】編
『みんなの新・修学旅行』
であり
『みんなの信州学・旅行』
でもあります
信州人(長野県民)の旅のnote【京都】編
修学旅行は昔の想い出の人も、これから修学旅行という人も
イマドキの新しい修学旅行の気分を楽しみましょう
今回のお題は
豊臣秀吉の大仏と善光寺本尊
豊臣秀吉が京都東山に建てた空前絶後の巨大建造物、大仏と大仏殿
その本尊はもちろん大仏、ですよね
しかし、秀吉最晩年には大仏が本尊ではなく
善光寺本尊が祀られていた!
これは信州人(長野県民)にとっては衝撃の事実!
何と豊臣秀吉の大仏殿は「善光寺阿弥陀堂」と呼ばれていたのでした
ウソだと思いますでしょ
いえいえ、当時の書物にも記載されている筋金入りのホントの話なのです
では以下の順に詳しくみていきましょう
・ 京の大仏は三つあった?
・ 豊臣秀吉はなぜ大仏・大仏殿を建てようとした?
・ ほぼ完成したところに伏見大地震!
・ 大仏殿に善光寺本尊が祀られ「善光寺阿弥陀堂」に
・ その後の顛末
京の大仏は三つあった?
大仏と言えば奈良の東大寺と鎌倉の大仏ですよネ
本来であれば「大仏」の定義とか書きたいところですが
今やAI、SNSの時代です
大仏に関して気になる点がある人はネットや書籍でお願いします
さて、江戸時代以前であれば大仏と言えば京の大仏、奈良の大仏、鎌倉の大仏の「三大大仏」だったのです
「京の大仏? 何それ?」
ですよね
かつて京都にも大仏があったのです
しかも、しかもですよ
京都の大仏は三つもあった!
それは
雲居寺(うんごじ)
東福寺
方広寺
にあったのです
雲居寺の大仏
火災で焼失するも再建されたのですが
残念ながら再建後に応仁の乱で焼失してしまいました
当時の書物に記録された情報によりますと
奈良の東大寺の大仏の半分くらいの大きさの阿弥陀如来像で金箔が貼られていたそうです
東福寺の大仏
東福寺そのものが奈良の東大寺の「東」をとって命名されています
当然のことながら大仏が祀られていました
しかも東福寺の大仏は明治まで存在していました!
火災で焼失し、現在右手だけが残されていますが全体像は不明...
焼失前にフェノロサも調査に入っていますので、東福寺の大仏に関しては
明日にでも「新資料発見!」のニュースが飛び込んできても不思議ではありません
ひょっとしたら東福寺の大仏を撮影した写真が出てくるかもデス
方広寺の大仏
秀吉の時代は方広寺というお寺は存在していませんでした
たんに大仏とか大仏殿と呼ばれていたそうです
方広寺という名称は江戸時代から付けられたもので
方広寺の大仏という場合は豊臣秀吉の大仏ではなく、再建された大仏を指すことが多いです
豊臣秀吉はなぜ大仏・大仏殿を建てようとした?
豊臣秀吉が大仏建造を思い立った理由は
大掛かりで派手好きの性格から
財力と権力を誇示する
という説明を聞いたことがあると思います
少し掘り下げて
刀狩りで農民から武具を取り上げる口実にした
宗教界を支配下に置くため(千僧供養)に利用した
という解説もあります
「なるほどねぇ」という気にもなります
が、そうでないらしい...
実は豊臣秀吉が大仏建造を思いついたのは記録によるとかなり早い時期です
天下統一もできていませんし、財政基盤もできていない時代まで遡ります
つまり上記の説明は後の世の創造(想像)のようなのです
(しょうがない、しょうがない)
では学問的にはどんな風に考えられるのでしょうか?
当時の秀吉は信長の正式な後継者として認知されるために奮闘中
信長がやろうとしていたプロジェクトは後継者たる秀吉が引き継ぐ
ということだったようです
信長の仇敵(松永久秀)が焼き払った大仏再建もその一つ
信長の意図は、東大寺の大仏再建の勧進帳などから推定されます
ただ再建については奈良(東大寺)より、当時の都である京都に再建した方がより主旨に適うと考えたと思われています
もし信長が生きていたら安土や大津という可能性もあったかも、デス
ほぼ完成したところに伏見大地震!
豊臣秀吉が東山(現在の豊国神社・方広寺・国立博物館)に建造した大仏と大仏殿は
想像を絶する世界最大の巨大建造物となりました
大仏も奈良の東大寺の大仏を超える巨大さ(約19m)です
大仏殿の床から大仏光背の先までの高さが31mを超えていたそうです
スっ、スゴ過ぎます
大仏をおさめた大仏殿も超巨大!
棟柱は富士山の樹海から切り出した巨木(徳川家康担当)
柱の最大なものは屋久島の樹齢2000年~3000年の縄文杉(島津家担当)
ほぼ完成して落慶法要の準備が整いつつあった文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子の刻
伏見を震源とする大地震に見舞われました
大仏殿は僅かな被害、大仏の巨大な光背は無傷(これはこれで驚異的)
ですが大仏本体は大破してしまいました...
その後約1か月の間、仏は大破したまま畳の表のようなもので覆われていたそうです
ここでも
秀吉が大仏が大破して激怒した(自分も守れず、国を守れるか!)
秀吉が壊れた大仏の眉間に矢を放った
という創作が江戸時代にできています
(しょうがない、しょうがない)
伏見城は天守閣が崩れるほどの被害で、二の丸では建物倒壊で侍女300余人が亡くなったそうです(明の使節饗応準備のため集められていた侍女)
余震が続く中、秀吉自身は木幡山に避難していたとか
当時は朝鮮出兵もあり、正直、大仏の様子を見に行くどころではなかったと推察されます
大仏殿に善光寺本尊が祀られ「善光寺阿弥陀堂」に
その後、豊臣秀吉が大仏殿を訪れて驚きの指示を下します
大破した大仏を片付けて
善光寺本尊を祀れ
超巨大空間の大仏殿の中に、わずか約45cm(一尺五寸)といわれる善光寺本尊を祀る
大仏の光背が無傷だったというので、床から31mの高さの光背の前に45cmの本尊があったわけです
その異様な光景に当時の識者たちは目をシロクロさせていたことが日記などに残されています
一方で庶民は善光寺本尊を一目見ようと、参拝者が大挙して訪れていたそうです
大仏殿の寺名称がなかった当時ですが、「善光寺阿弥陀堂」という記載が残されています
そのままであれば、今頃方広寺は善光寺と呼ばれていたかもしれません
その後の顛末
その後、豊臣秀吉の病状が芳しくなく、善光寺本尊の祟り説もあったそうで
善光寺本尊を信州善光寺にお戻しすることになりました
善光寺本尊が帰路に旅立った翌日、豊臣秀吉の寿命が尽きたそうです
この後、二度にわたる大仏再建や、胸から上半分の仮大仏まで顛末は続くのですが今回は信州に関係する善光寺本尊まで
【京都観光】豊臣秀吉の大仏と大仏殿を訪ねて
豊臣秀吉の大仏と大仏殿を訪ねてめぐるエリアは意外と狭く二時間あれば一通りめぐることができます
方広寺
2026年5月時点で方広寺の公式サイト、公式SNSはありません
また特別拝観期間でなければ非公開です
ただし「国家安康の鐘」を鐘楼の周囲から眺めることは可能です
方広寺大仏殿跡緑地公園
大仏殿があった場所、そして大仏が鎮座した場所が発掘調査により特定され
現在は公園となって一般公開されています
豊国神社
公式サイトはこちら
大仏餅(甘春堂)
大仏餅の公式サイトはこちら
【信州観光】善光寺本尊を訪ねて
善光寺本尊を訪ねてめぐるとしたら長野市の善光寺
そして飯田市の元善光寺
長野市から飯田市への移動は鉄道、高速バス、自家用車(高速道)が使えます
ただし両方を一日でこなすのはハードな行程になります
善光寺
長野県長野市の善光寺の公式サイトはこちら
善光寺の本尊は秘仏として、御開帳であっても非公開です
通常お寺の御開帳では本尊が拝観できますが
善光寺の御開帳で公開されるのは「御前立(おまえだち)」という
御本尊の分身仏である前立本尊【まえだちほんぞん】
です
元善光寺
長野県飯田市にある元善光寺の公式サイトはこちら
元々はこの地に祀られたとされる善光寺御本尊
御詠歌の「月半ば毎に来まさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来より元善光寺と長野市善光寺の両方お詣りしなければ片詣りと云われております。
【参考資料】
本来この類の話は、文献引用、画像など活用して詳細に記述するべきです
ただしそれはnoteのスタイルに相反しますので、詳細情報は別にネット掲載するようにします(自分のガイド業務の際にも活用できそうなので)
ここでは豊臣秀吉の大仏と大仏殿、そして善光寺に関するnoteなので、この書籍を参考資料として強くお勧めします
秀吉が大破した大仏を片付けて、善光寺本尊を祀れと指示した経緯なども詳しく記載されています
また大手ゼネコン(大林組)による豊臣秀吉の大仏と大仏殿についての復元検討資料も特筆すべき参考資料です
是非ご一読を(pdfでWeb公開されています)

方広寺の大仏殿というと、ほとんどのケースが豊臣秀頼による再建時の大仏殿なのでこの資料は貴重ですよ
『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』
pdfはこちら
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/057_IDEA.pdf
