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ポケモンキッズと旅する 第214回 リーシャン|長野県上田市

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第二百十四回、リーシャンと上田です。

上田市街地から千曲川の流れに向かって緩やかに下る地形の縁、河岸段丘を利用して築かれたのが、上田城です。

川側は断崖と千曲川そのものが天然の堀となり、それ以外の三方は人工の堀で補強することで、防御性と交通の利便性を兼ね備えた拠点として機能しました。

段丘崖の縁に立つと、眼下に広がる千曲川の河原と、その手前に落ち込む段丘崖が、城の天然の切岸として強固な守りとなっていたことが、現在の地形からも見て取れます。

一方、川に面していない東・西・北側は平坦な台地が続いているため、幅広の水堀と高い土塁を巡らせて、人工的な防御線を構築しました。

特に内側の堀は深く掘られ、高い土塁と相まって、攻め手にとって容易には乗り越えられない障壁となっていました。

現在の上田城址公園では、堀の場所を遊歩道や水堀としてたどることができ、往時の城の輪郭を、わずかな地表の高低差から感じ取れます。

上田城の位置は、千曲川の渡河点に近く、街道の交差点にあたり、真田領の中でもとりわけ戦略的な価値を持つ場所でした。

真田氏が築城した当初の上田城は、土塁と空堀・水堀を主体とした構造でしたが、今日目にする石垣の多くは、江戸時代以降に整備されたものです。

石垣から受ける印象とは異なり、上田城の本質的な特徴は、河岸段丘の縁という立地と、土と木による防御構造にあったと言えます。

穏やかな現在の上田城ですが、その土塁と堀は、二度にわたって徳川の大軍を迎え撃った戦の舞台でした。

当時徳川方に属していた真田昌幸が、真田領であった沼田(⇒第26回)の割譲案をめぐる対立から、徳川方を離反したことが、第1次上田合戦の発端となりました。

第1次上田合戦では、真田討伐を決めた徳川家康の大軍は、籠城戦術や、千曲川の防御構造などにより大きな損害を被り、上田城を落とすことなく兵を退きました。

それから十数年後、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が天下分け目の決戦に臨んだ関ヶ原の戦いの前哨戦として、第2次上田合戦が勃発します。

この戦いに際し、親子で陣営を分かつ決断をした真田昌幸と次男の真田幸村は西軍に与し、関ヶ原本戦へ向かう徳川秀忠率いる東軍の一隊を、真田父子の守る上田城に釘付けにします。

真田昌幸は上田城の地の利を活かし、撹乱を繰り返して徳川秀忠隊の進軍を遅らせたことで、徳川秀忠隊は関ヶ原本戦へ間に合わない事態となりました。


原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

Chingling in Ueda, Nagano 18 (Ueda castle remains)

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