見出し画像

ポケモンキッズと旅する 第152回 アチャモ|三重県伊賀市

本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。

第百五十二回、アチャモと伊賀です。

三重県伊賀市の上野公園にある「俳聖殿」は、松尾芭蕉の旅姿を模して建てられた記念建造物です。

上層の丸い屋根は旅笠、下層の庇は蓑と衣、などを表現しています。

今だから言いますが、私にはこれが松尾芭蕉の旅姿ではなく、アチャモに見えました。これがキャラ選定理由です。


上野公園にそびえ立つ伊賀上野城は、俳聖殿と並んでその威容を見せています。

特に、この石垣は、築城の名手として名高い藤堂高虎が手がけた傑出した成果です。

西側の高石垣は、水堀に隠れた部分を含めると約30メートルに達し、その高さは大阪城に次ぎ、日本でも有数の規模を誇ります。

堀の向こうにそびえるこの石垣群は、攻城者に形容しがたい心理的重圧を与えたことでしょう。

この地で最初に築城したのは豊臣秀吉の家臣である筒井定次で、大和郡山城(⇒第50回)から伊賀へ移って来た際、この台地に築城しました。

当時の伊賀上野城は、豊臣政権下で大坂城の東側の守備を担う重要な拠点としての役割を果たしていました。

関ヶ原の戦いの後に、伊賀国一国や伊勢国・津周辺を与えられる形でこの地域にやってきたのは、徳川家康が最も信頼を寄せた外様とも言われる藤堂高虎でした。

これは、関ヶ原の戦いの後も大坂城で影響力を保っていた豊臣氏に対抗するため、彦根(⇒第62回)に井伊直政、桑名(⇒第6回)に本多忠勝などといった重臣を配置した、対豊臣の包囲網の一環でした。

伊賀盆地は、大阪から伊勢湾に至る最短ルートに位置する交通の要衝でもありました。

徳川家康自身も、本能寺の変の直後に滞在先の堺から当時の領国内の岡崎へ向かう際、京を迂回して伊賀越えのルートを利用したことからも、その地理的重要性は認識されていたことでしょう。

藤堂高虎はこの地理的優位性を最大限に活かし、筒井定次時代の城郭を拡張し、難攻不落の要塞へと変貌させました。

こうして伊賀上野城は、豊臣氏に対峙する拠点へと変貌し、特に西側:大阪方面からの攻撃への備えが重点的に強化され、このような堅固な防御が施されました。

その後、大阪の陣で豊臣氏が滅亡すると、伊賀上野城の戦略的価値が変化しました。

西方の脅威がなくなったため、建設中の天守閣が暴風で倒壊すると再建されることはなく、天守閣が現れるのは1935年の木造復興天守の建設を待たねばなりませんでした。


原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。

Torchic in Iga, Mie 1 (Haiseiden)

ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。