ポケモンキッズと旅する 第115回 オクタン|京都・河原町三条
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第百十五回、オクタンと京都・河原町三条です。

河原町三条交差点から東へ数分歩くと、鴨川に架かる三条大橋が現れます。
江戸時代には、東海道五十三次の西の終点として重要な意味を持つ橋でした。
江戸の日本橋から約500キロの道のりを経て、旅人たちがようやく辿り着くのがこの三条大橋で、京の都への玄関口でした。

今回取り上げた地名は「河原町三条」交差点ですが、これは交差する通り名同士を組み合わせた表現です。
古都の地理感覚はまるで数学の座標軸のようで、ここでは南北方向の河原町通と、東西方向の三条通が交わる地点を指します。
そして、今回オクタンを選んだ理由は、三条通から2本南の通り・蛸薬師通にちなんで、です。

河原町三条から北西には、1415年に日隆によって創建された本能寺があります。
本能寺といえば、1582年6月21日に起こった日本史上最大のクーデターが思い起こされます。

京都盆地から西に山を越えた亀岡に本拠を構えていた明智光秀が、突如として主君・織田信長に対して謀反を起こしました。
当時、織田信長は中国地方で毛利氏と戦う羽柴秀吉への援軍派遣のため、少数の供回りだけを連れて、現在とは別の場所にあった本能寺に宿泊していました。
明智光秀は前日の夕刻に亀岡の丹波亀山城を出陣し、峠を越え桂川を渡り予期せぬ標的へと軍勢を向ける形となり、当日未明に本能寺を包囲し織田信長を急襲しました。

織田信長は、包囲されたことを悟ると、自ら弓を弾き応戦するものの、寺に火を放ち、納戸の奥で最期を迎えたとされています。
しかし、本能寺の焼け跡からは織田信長の確かな痕跡は発見されませんでした。
織田信長が討ち取られたのではなく行方不明となったことは、その後数々の憶測を生むことになりました。

また、明智光秀が謀反を起こした理由についても定説がなく、様々な説が唱えられてきました。
その中でも、明智光秀が天下を取ろうとしたとする野望説や、織田信長からの度重なる叱責や屈辱が積もり積もって爆発したとする怨恨説が広く知られいるほか、背後に黒幕がいたのではないかという説も唱えられています。
同盟相手・徳川家康説、配下で中国地方にて戦っていた・羽柴秀吉説、追放された将軍・足利義昭説、広島の毛利輝元説、高知の長宗我部元親説、焼き討ちされた比叡山の残党説、妻の濃姫説など様々な人物が黒幕として取り沙汰されています。

他にも1536年の天文法華の乱では僧兵によって焼き討ちされるなどしました。

現在の「能」の字の右側が「去」となっているのは、度重なる火難に見舞われた本能寺が、「火」の字を避け、「ヒ」の形を用いないようにしたためだと伝えられています。
原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。
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