ポケモンキッズと旅する 第123回 キングドラ|東京・上野
本記事をご覧いただき、誠にありがとうございます。
第百二十三回、キングドラと東京・上野です。

かつて、上野公園の不忍池は藍染川の下流に広がる大きな池でした。

その藍染川は上野台地と本郷台地の間の谷を流れ、名前を変えながら不忍池へと注いでいましたが、現在は暗渠化され、地中にその姿を隠しています。

現在の上野公園一帯は、江戸時代には寛永寺という広大な寺院の境内でした。
寛永二年(1625年)、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の三代にわたり深い縁があった天海上人によって寛永寺は創建されました。

江戸の都市設計においては、平安京の思想が色濃く反映されており、その中でも特に鬼門封じの概念が重要な役割を担っていました。
比叡山延暦寺が平安京の鬼門に位置しているのと同様に、寛永寺も江戸城の鬼門の方角に計画的に配置されました。

この寛永寺の山号「東叡山」には「東の比叡山」という意味が込められ、寺号「寛永寺」も延暦寺が創建時の元号「延暦」にちなんで命名されたことに倣ったものです。

清水観音堂は、京都の清水寺を模して造られ、同様の舞台造りが特徴です。

また、不忍池は琵琶湖を、池の中の小島は琵琶湖の竹生島をそれぞれなぞらえており、不忍池弁天堂も建立されました。

徳川家康は天海と藤堂高虎を枕元に呼び、「末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と遺言しました。

この遺言を受け、藤堂高虎などの屋敷地であった地に寛永寺などが創建されましたが、その中の1つとして「東照社」も創建され、これが上野東照宮の始まりとなりました。

上野東照宮は、現在では東京に残る江戸時代初期の貴重な建築物として知られています。

1868年7月4日、戊辰戦争の一局面として上野戦争が、江戸・上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊ら旧幕府軍と、新政府軍との間で展開されました。

彰義隊は、元来、第十五代将軍徳川慶喜の警護を目的として結成された部隊でしたが、江戸城無血開城後も寛永寺に留まり続けていました。

江戸城は西郷隆盛と勝海舟の会談により無血開城が決定され、江戸総攻撃は回避されました。

佐賀藩が保有する最新鋭のアームストロング砲が重要な役割を果たし、現在の東京大学の敷地にあたる加賀藩上屋敷より、不忍池を越えて彰義隊の立て籠もる寛永寺へと砲撃が加えられました。

従来の火砲では不可能であった地点からの砲撃により、彰義隊は総崩れとなり、戦闘が終結しました。

大坂冬の陣や五稜郭の戦い等、技術進歩による砲撃距離の延長が戦局に大きな影響を与える事例は、いくつか見受けられます。

1873年、寛永寺の広大な境内であった場所が、日本初の公園用地の1つに指定されました。

教育博物館が開館し、日本初の動物園である上野動物園が開園、西郷隆盛像が建立されました。

その後、国立西洋美術館などが設置され、現在のように上野公園は文化施設の集積地となりました。
原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。
ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。

