ポケモンキッズと旅する 第125回 ハリマロン|徳島県徳島市
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第百二十五回、ハリマロンと徳島です。

徳島駅の北側に位置する徳島城跡は、現在、徳島中央公園として市民の憩いの場となっています。

標高61メートルの城山を中心とする徳島城は、吉野川河口付近の中洲という地形を活かした要害の地に築かれました。

城山は平野に現れる独立した丘陵で、四方を見渡せる拠点として古くから注目されていました。

徳島城は、城山に築かれた部分と、その周囲の平地に広がる部分からなる連郭式の平山城(平野の中にある山や丘陵に築城された城のこと)に分類されます。

山頂部には本丸が配置され、城山の地形に沿って東側に東二の丸、西側に西二の丸・西三の丸と、東西に曲輪が配置されていました。

また、城山の南麓には藩主の居館である「御屋敷」が、西麓には隠居した藩主などが住んだ西の丸が設けられ、山と平地が一体となった城郭構造を呈しておりました。

徳島城築城当時、この地域は吉野川とその支流が縦横に流れる水郷地帯で、難攻不落の要害でした。
城の北側には助任川、南側には現在の線路用地である寺島川が天然の堀として機能していました。

その他、吉野川から分流する複数の川も外堀として利用され、複雑な水系が城を囲んでいました。
明治時代に吉野川の本格的な河川改修が始まると、これらの水系は整理されました。

現在では一部の堀と石垣が当時の面影を残すのみとなっています。

徳島城を居城とした蜂須賀氏は、尾張国蜂須賀村を起源とする武家です。

蜂須賀家政は、四国征伐での功績により、豊臣秀吉から阿波国(現在の徳島県)を与えられました。

当初、豊臣秀吉は蜂須賀正勝(蜂須賀小六)に与える意向でしたが、蜂須賀正勝は高齢を理由に辞退したため、代わりに嫡男の蜂須賀家政が領主となりました。

蜂須賀家政は阿波国に入ると、直ちに徳島城の築城に着手し、1586年に完成させました。

その後の1600年の関ヶ原の戦いにおいて、蜂須賀家政は毛利輝元の指示により西軍に属することを余儀なくされます。

この危機を乗り越えるため、蜂須賀家政は隠居して、嫡男の蜂須賀至鎮を東軍に味方させるという巧妙な策を講じました。

この結果、関ヶ原の戦いにおいて東軍勝利後も蜂須賀家は阿波国の所領を安堵されました。

その後、蜂須賀至鎮は大坂の陣での功績により淡路国を加増され、蜂須賀家は阿波・淡路二国を領する大名としての地位を確立しました。

徳島藩は江戸時代を通じて一貫して蜂須賀氏が治め、明治維新まで蜂須賀至鎮から数えて14代にわたって続きました。

17歳で徳島藩主となった10代藩主蜂須賀重喜は、多額の借財を抱えていた藩の財政立て直しに尽力しました。

蜂須賀重喜は藍の市を開設しようと試みるなど藍産業の振興に力を注ぎ、様々な改革を断行しましたが、幕府から隠居を命じられるという挫折も経験しています。

しかし、蜂須賀重喜の改革は後の藩主たちに引き継がれ、徳島藩の財政好転に貢献しました。
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