ポケモンキッズと旅する 第76回 パルキア|愛知県豊橋市
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第七十六回、パルキアと豊橋です。

吉田城は、1505年に牧野古白によって今橋城として築かれたのがはじまりです。
その後、徳川家康の時代を経て、江戸時代に入り三河吉田藩の藩庁が置かれました。

江戸幕府にとって重要な拠点であった吉田城には、譜代大名が城主として着任しました。
城主となったのは、主に松平氏、水野氏、小笠原氏などの譜代大名で、頻繁に入れ替わりました。
彼らは後に老中などの要職に就くことが多かったため、吉田城は「出世城」とも呼ばれています。

吉田城は、豊川が天然の堀の役割を果たす、小高い微高地の上に築かれました。
北西側には豊川が大きく蛇行しながら流れ、吉田城にとって天然の堀として機能していました。
現在でも城とは約10メートルの高低差がある段丘崖で豊川が接しており、これもまた自然の要害となっていました。

本丸を中心に、北東に金柑丸、南西に二の丸が配されていました。
さらにその周囲を三の丸が取り囲む構造で、豊川の水運がすぐそばに位置します。

城跡に建てられた展望階からは、豊橋の平野が一望できます。

遠くには三河湾越しに蒲郡方面の山々まで見渡すことができます。
この眺望は、敵の動きをいち早く察知するためにも役立ったことでしょうから、当時の人々も同じ景色を眺めていたのでしょうか。

しかし、現在の豊川の姿は、江戸時代とは大きく異なっています。
現在、吉田城の北側には、豊川の分流である豊川放水路という直線的な人工河川が流れています。

この放水路は、1965年完成という比較的新しいもので、その目的は、豊川の水を逃がして洪水を防ぐことにありました。
そのため豊川放水路ができる前の江戸時代は、豊川は現在よりも川の幅が広かったのでしょう。

現在の姿とは異なるその広大な川幅こそが、吉田城の天然の堀としての機能をさらに高めていたのでしょうか。
原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。
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