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ポケモンキッズと旅する 第90回 ニドクイン|福岡県北九州市

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第九十回、ニドクインと北九州です。

現在、北は山形県新庄市から西は広島県広島市までが投稿済みの範囲となっていますが、ついに当企画は九州初上陸です。

初の九州投稿先となったのは、九州の玄関口・福岡県北九州市の小倉城です。

小倉の地は関門海峡に南面した要衝に位置し、九州と本州を結ぶ水上交通を一望できる絶好の地です。

古来より、陸上交通と海上交通が交錯する要衝の地として、この地の重要性は深く認識されてきました。

その戦略的価値の高さから、小倉は歴代の権力者によって重要な拠点とされ、小倉城主もまた度々入れ替わるなど、常にその重要性が認識されていたことがわかります。

豊臣秀吉による九州征伐の後、筑前・宝満城主であった高橋鑑種がこの地を賜り城主となりましたが、その後間もなく、豊臣秀吉は新たに毛利勝信を小倉城主に任命しました。

続く関ヶ原の合戦の後、徳川家康率いる東軍に属し、その功績により小倉の地を得た細川忠興の手により、1602年に本格的な城の築城が始まりました。

細川忠興は小倉を本拠地として北部九州を統治し、約七年の歳月をかけて四重五階の天守閣を築き上げました。

この天守閣は最上階が下層階よりも大きく張り出した特異な構造を持ち、「唐造り」と呼ばれました。

その後、細川氏が熊本へ移封されると、新たに譜代大名の小笠原忠真が入城しました。

小笠原忠真が城主となり小笠原・小倉藩が成立すると、彼は譜代大名として九州各地に存在する外様大名たちを監視するという、重要な任務を担うことになりました。

この人事からも、徳川幕府も小倉の地を九州統治の要として重視していたことがうかがえます。

1837年、城内から出火した火災により城郭は焼失し、その二年後に再建されたものの、天守閣は失われたままでした。

そして、時代が幕末へと移り変わると、小倉城は徳川幕府による長州征伐における最前線基地としての役割を担い、要衝の地としての役割を果たす時が来てしまうこととなります。

尊王攘夷から尊王倒幕へと変わった、現在の山口県の領域である長州藩に対し、幕府は長州征伐の兵を挙げ、九州側では小倉藩がその中心的役割を担うこととなりました。

この戦いで小倉藩は苦境に立たされ、折しも、将軍・徳川家茂の病没を受け、小倉口の長州征伐軍の総大将が兵を引いたのを契機に、各藩の軍勢も相次いで撤退したことを受け、小倉藩側は城の放棄を決断し、小倉城に火が放ち、城を退去。

長州軍はその後、小倉藩領の企救郡一帯を占領します。

この一連の出来事を、毛利氏の立場から見れば、また異なる様相を呈します。

戦国時代、吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市)を本拠地とした毛利元就率いる毛利氏は、中国地方一円に勢力を拡大し、その影響力の及ぶ範囲は北部九州の一部にまで及んだこともありました。

豊臣秀吉による九州征伐の後、小倉城を築いた森勝信は豊臣秀吉から「森」姓を「毛利」姓に改めるよう命じられ、毛利勝信となった点には注意が必要です。

この改姓は、吉田郡山城を本拠とした毛利氏の名声にあやかる目的があったとされ、吉田郡山城を本拠とした毛利氏とは血縁関係のない別系統の毛利氏です。

一方で、関ヶ原の戦いでは、毛利元就の孫にあたる毛利輝元が西軍の総大将として参加しましたが、西軍が敗北した結果、中国地方一帯に広大な領地を有していた毛利氏は本拠地であった吉田郡山城からも退去を余儀なくされ、周防・長門の二国のみへと大幅に領地を削減されることとなりました。

その後、小倉城は細川氏、小笠原氏と城主が変わり、幕末に至り1866年、毛利氏の末裔である長州藩は、幕府による長州征伐に対抗して反転攻勢に出ます。

長州藩と小倉藩の間で戦いが繰り広げられたのち、幕府側は小倉城を撤退するという事態に至りました。

長州藩は北部九州の地へと攻め込み制圧したことで、結果として、かつて毛利元就が勢力を伸ばしていた北部九州の地を、約260年の時を経て再び勢力圏に収めることとなりました。


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