ポケモンキッズと旅する 第120回 アマルス|フランス・パリ
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第百二十回、アマルスとパリです。
今回で当企画はカロス地方(北フランス)初上陸となります。
まずはミアレシティ、もといパリから。

コンコルド広場(Place de la Concorde)は、その名の通り「調和」の場として現在親しまれていますが、その裏にはフランス革命における重要な場所として複雑な歴史が秘められています。
革命前のフランス社会は「アンシャン・レジーム(Ancien Régime)」と呼ばれる旧制度下で、聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)・平民(第三身分)という三つの身分に分かれていました。
人口の98%を占める第三身分が重い税負担を負う一方で、わずか2%の第一・第二身分は免税特権を享受するという、極めて不平等な社会でした。

ルイ16世(Louis XVI)の時代には、度重なる戦費と宮廷の浪費により国家財政が危機的な状況に陥っていました。
約175年ぶり、1789年5月に招集された三部会(États généraux)において、第三身分が国民議会を宣言し、同年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃事件を契機に、フランス革命が本格的に始まりました。
この広場では、ルイ16世や王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette)を含む多くの人々がここで最期を迎えました。

南側に架かるコンコルド橋(Pont de la Concorde)は1791年に完成し、セーヌ川対岸のブルボン宮殿(Palais Bourbon)へ直結しています。
ブルボン宮殿はルイ14世の庶子であるルイーズ・フランソワーズ・ドゥ・ブルボン(Louise Françoise de Bourbon)が建てた私邸が起源で、現在は国民議会の議事堂として機能しています。

セーヌ河畔へ降りると、アレクサンドル3世橋(Pont Alexandre III)越しにプリズムタワー…ではなく、その元ネタであるエッフェル塔(Tour Eiffel)の鉄骨が曇天に映えます。

シャンゼリゼ通り(Avenue des Champs-Élysées)の名称はギリシャ神話に登場するエリュシオン(浄土)に由来しています。
7月14日のパリ祭は、フランス革命の契機となった1789年7月14日のバスティーユ牢獄襲撃事件を記念するもので、シャンゼリゼ通りは式典行進の場となります。

また別には歩行者天国へと変貌し、エトワール凱旋門(Arc de Triomphe de l'Étoile)が突き当りに聳えるこの大通りを自由に往来できます。

フランス革命を経て皇帝となったナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)がアウステルリッツの戦いの勝利記念として1806年に着工させたエトワール凱旋門は、完成までに約30年の歳月を要し、1836年にようやく完成しました。
皮肉なことに、建設を指示したナポレオン自身は凱旋門の完成を見ることなく1821年にセントヘレナ島で死去し、実際に彼が凱旋門をくぐったのはその没後から20年近く経過した、1840年に葬列がパリへ帰還した際でした。

ガルニエ宮(Palais Garnier)は、初代ナポレオンの甥である皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)の命で建築家シャルル・ガルニエ(Charles Garnier)によって建設が始まったオペラ座です。
地下の貯水池は『オペラ座の怪人』で「地下湖」と描写され、現在も防火用水として機能しています。

先述と同一箇所の夜間ですが、セーヌ川右岸のアレクサンドル3世橋越しに望むこともできるエッフェル塔は、1889年パリ万博のためにギュスターヴ・エッフェル(Gustave Eiffel)が設計した鉄塔です。
エッフェル塔は、フランス革命100周年にあたる1889年のパリ万国博覧会の主要展示物として、当初は期間限定で建設され、後に解体される予定のモニュメントでした。

しかし1900年代初頭、無線通信技術の急速な発展によりエッフェル塔が無線電波実験の場として活用される運びとなり、解体の運命は劇的に変わりました。
フランス著作権法では、エッフェル塔そのものの著作権は消滅していますが、後から追加されたライトアップには別途著作権が発生すると解釈されています。
そのため、この記事では夜間のエッフェル塔の画像をぼかした写真や、ブレた写真を使用しています。
原寸大や未公開の写真は写真投稿サイトFlickrにございます。
ここまでご覧いただきどうもありがとうございました。次回もお楽しみに。

