ソフトウェア化する映像作品たち――編集・アジャイル・完成条件の変化について
はじめに:映画はなぜこんなに語りにくいのか
映画は、ずっと語りにくい芸術だと思っていた。
映像、音楽、音響、演技、編集、脚本、演出。
要素が多すぎる。
しかもそれぞれが独立しておらず、相互に意味を書き換え合う。
「名作」「駄作」という言葉はあるが、
なぜそう感じるのかを説明しようとすると、
途端に言葉が足りなくなる。
最近、ようやく一つ腑に落ちた。
映画は、デジタル化によってソフトウェアに近づいたのではないか。
編集は「工程」ではなく「重力源」
舞台芸術と映画の決定的な違いは、編集にある。
舞台では時間は連続している。
観客は空間の中で視線を選ぶ。
映画では違う。
時間は切断され、並べ替えられ、再構成される。
重要なのは、編集が「最後の工程」であるにもかかわらず、
上流のすべてに影響を及ぼす点だ。
演出は、編集される前提で組まれる
撮影は、後で意味を選ぶために過剰に行われる
脚本や絵コンテは、切られる前提の仮説になる
編集は単なるまとめ作業ではない。
意味変換装置である。
「不要な部分まで作る」という前提
映画制作の不思議なところはここだ。
完成品に不要なものを、
あらかじめ大量に作る。
表情の揺れ。
余白の間。
使われないカット。
それらは編集で捨てられるために存在する。
だが、捨てられる可能性があるからこそ、
編集は意味を選べる。
これは舞台にはほぼ存在しない構造だ。
映画は、
意味を後から発明できる芸術
なのである。
脚本と絵コンテは「作者の死」に最も近い
この構造の中で、脚本や絵コンテはとてもか細い。
意図はある。
構想もある。
だが編集室では、
無言で切られ
順序を変えられ
別の意味を背負わされる
脚本やコンテは、
否定されるために存在する作者性と言っていい。
それでも必要なのは、
現場の共通言語として不可欠だからだ。
ソフトウェアで言えば、
最終的に消える設計書に近い。
デジタル化で映画はアジャイルになった
フィルム時代、映画は比較的ウォーターフォール的だった。
撮り直しは高コスト
編集は不可逆
決断は早い
しかしデジタル化で状況は一変する。
撮り直しが安い
編集が可逆
仮編集が常態化
バージョン管理が可能
編集室は、
**IDE(統合開発環境)**に近づいた。
素材はコード。
タイムラインは実行順。
試写はテスト。
再編集はリファクタリング。
映画は、
反復的に意味を探索するプロダクトになった。
完成を決めるのは、尺・予算・納期
この構造では、映画は理論上「永遠に未完成」だ。
だから完成を決めるのは外部制約になる。
尺:意味の上限
予算:探索空間の広さ
納期:探索の停止条件
これは悲観ではない。
制約がなければ、作品は存在できない。
もう一つの完成条件:受け入れテスト
ただし、もう一つ完成の形がある。
試写。
プレビュー。
観客の反応。
編集後のメッセージが十分に伝わり、
感情曲線が破綻していなければ、
それ以上直さない、という判断が成立する
これはまさに、
客先での受け入れテストだ。
仕様(脚本)ではなく、
動作(上映結果)で完成を判断する。
映画は「完成する」のではなく「止められる」
ここまで来ると、見え方が変わる。
映画は完成するのではない。
十分に受け入れられた段階で止められる。
だから、
ディレクターズカット
再編集版
配信版差分
が生まれる。
映画は、
運用される表現になった。
おわりに:批評が難しい理由
映画批評が難しいのは、当然だ。
映画は、
若い芸術で
要素が多く
ソフトウェア的に進化し
完成条件が一つではない
それを一言で評価しようとする方が無理がある。
だから今後必要なのは、
「良い/悪い」ではなく
「どの制約で止められた作品か」を語る視点
なのだと思う。
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