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側から見れば幸せな人生なのにまたどん詰まり感がやってくる

 私の若い頃の希死念慮は、対極とか最果てへの憧憬で、つまりは一番遠いものを理想化して崇拝して救済を求めていた、ということなのだけど、歳とともに死の斑文みたなものが増えるにつれ、死が自分の対極でなくなり、最果てが見えることで信仰の構成要素が解けつつある。

 これは手段の喪失で成長ではない。

 死を楽園のように捉えていたときと違って、今は死ぬことで「一発逆転」ができないと知っている。死は安寧の獲得ではなく資産の遺棄で、旨味がない。肉体は耐用年数に近付くにつれて価値を落として、成人した今自ら命を経ったところでさほどセンセーショナルではなく、何かを大きく動かすことはない。

 死という分銅は資産の皿から苦痛の皿に移った。人は限界まで拷問されると「殺してくれ」と言う。死への正しい解釈は、精神的な拷問に拍車をかけて、私のどこかが殺してくれと言うようになった。死という手段をなくしたせいで、かえって突発的な希死念慮が頻発しているわけです。

 資産や価値の認識が不安定な分、私には絶対的な死の褒美の割合が大きかったようで、自己評価がブレたときは些末なことでも苦痛の天秤が降りてしまうようになった。死は救済ではなく喪失であるため、天秤が降りたこと自体に恐怖する。倍々に苦痛は重くなり続ける。

 心の一切は無限だ。精神世界で増えた苦痛は、どんな資産も砂粒ほどの大きさに見せる。思考は思考だけで完結できる。閉じた思考は何にも紐付けられないし、何にも干渉されない。私は閉じている。自分の思考以外を基準にしない。だから他人の思考や物質は入り込まない。希死念慮は無限に膨らみ続ける。

 唯一、脳という肉体は精神に干渉できる。よって、時間経過などでホルモンが落ち着けば、希死念慮は萎む。何度も天秤が苦痛に傾いたが、行動に移す前に萎んだからまだ生きている。ただ、即行動に移せる環境だったら、ふらっと逝くでしょうね。何も紐付けできないんですよ。頑張ってるんですが。今更これをどうすることができるんでしょうか。助けてください、ただし、どんな言葉も届きません、頑張っているんですが、こんなことに解決策はあるんですか。

 私の情緒がバグってるのは生育環境と先天的な性質が関わっているのだけど、それを書くには膨大な負のエネルギーが必要なのでもう少し落ち込んだ日に書きます。書かないかも。腹へった。

 詰みです。参りました。幕引きです。




2026年2月4日
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 この下書きを書いたのはなんと2021年1月14日、AM6:37。確か私がまだフリーライターとして収入を得ていたとき。別名義でホラー小説を書いていた頃。慣れないアイビスペイントを使ってヘッダーの絵を描いた。今熱を上げている短歌を詠むことはなく、友人の曲に歌詞をつけていた。
 この記事を公開した日は2026年2月4日。私は今も生きているわけで、ただし、昨年、平均寿命が20年くらい短くなるんだよね〜とか言われたりする病だと診断されました。今は季節の変わり目の発作的なアレで間違って死ぬことを怖がっていたりする。どうかしてるよ。

 新しいペンネームをつけた。姓名判断のサイトで最強画数になるように練りに練りまくった。
 「花星沙夜」と申します。どうぞよしなに。

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