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まるわかり!ガダルカナル島の戦い解説

割引あり

『勝てない戦争』ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)7月-1943年(昭和18年)2月

ガダルカナル島の戦いとは、第二次世界大戦において1942年8月以降日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった。日本側は激しい消耗戦により、戦死者だけでなく兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、輸送船、民間船舶乗務員、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。また、ガダルカナル島、通称ガ島は、日本軍の過酷な飢餓地獄のさながらの光景が語り継がれ、『餓島』と称して恐れられた。勝利側の連合軍の被害もすさまじく、その様子は米軍側視点の映画や小説などでも多く語り継がれている。
今回の稿においては、一連のガダルカナル島の戦いを「ガ島上陸作戦」として捉え、その背景や作戦状況の理解における知識を詳細に解説し、考察するものである。
※以下はウィキペディアの情報や関連の書籍を参考にして、編集・持論の考察をしたものとなります。

ガ島上陸作戦 直前期 1942年7月

オセアニア地域

1942年7月11日、ミッドウェー海戦の敗北により、連合艦隊司令長官の「ニューカレドニア」「フィジー」諸島並びに「サモア」諸島方面要地攻略の任務を解く命令が発令された。これによってMI(ミッドウェー)作戦、FS(フィジー、サモア)作戦の中止が決定し、第二段作戦の計画は破綻した。しかし、日本は米豪分断の目的を放棄せず、ラバウル以南のガダルカナル島に前進航空基地を建設し、基地航空部隊を進出させてソロモン諸島の制空権を拡張しようと考えた。
大本営は、連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、ガダルカナル島の人員は、設営隊と護衛の海軍陸戦隊を合わせても600名足らずであったが、日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は1942年7月2日には既に、対日反攻作戦となるウォッチタワー作戦を発令していた。これにより7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化されて、上陸作戦への準備が進められた。

ソロモン諸島周辺

1942年8月7日午前4時、アメリカ海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川(日本軍側呼称:蛇川)東岸付近に上陸を開始した。この時、ガダルカナル島の手薄であった日本軍は警備の第13設営隊以外は就寝中で、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。
連合軍の上陸当初、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況であり、そのため、敵兵力の把握もままならないままにルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。この上陸戦において、アメリカ軍側公刊戦史は小銃、機関銃数挺、70粍山砲(歩兵砲)及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と電波探知機2台、糧秣多数を鹵獲したと伝えられている。

第一次ソロモン海戦 1942年8月

ガ島上陸作戦 簡易図

サボ島沖海戦、または「ツラギ夜襲戦」とも呼ばれる。連合軍の動きを知った日本海軍は、現地のラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機)と三川軍一中将が率いる第8艦隊(増強を受け重巡洋艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻)に反撃を指示した。また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍第17軍はグアム島の一木支隊、パラオ諸島駐屯の第35旅団(川口支隊)をガダルカナルに投入することとした。
三川中将率いる第8艦隊は、翌8月8日の夜半に戦場海域に到達して、第一次ソロモン海戦が発生した。第一目標は敵輸送船であること、次いで、複雑な運動を避けて翌朝までに敵空母の攻撃圏外に避退すること(ミッドウェーの二の舞を避けるため)、ソロモン列島間の中央航路を通ってガダルカナル泊地まで進出することなどとされていた。しかし、重巡洋艦4隻を撃沈し同1隻を大破させ、戦闘艦艇の撃破には成功したものの本来の目的であった輸送船団への攻撃は中止された。
一方の米軍側では、上陸初日からの日本軍による反撃・第一次ソロモン海戦での大損害により情勢は危険と判断したため、米フレッチャー中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させた。そのため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず上陸作戦完了後、米海兵隊の1日の食事は2食に制限される忍従を強いられる形となった。
一方、一木清直大佐率いる大本営直轄の第7師団の歩兵第28連隊を基幹とする一木支隊の約2,300名は、当初はミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったのだが、ミッドウェー海戦で日本軍が敗退したことにより攻略作戦は中止となり、一時グアム島に休養を兼ねて留め置かれていた。そこへ、同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まるとして内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦陽炎(かげろう)以下6隻に第1梯団として、続いて海軍の横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船で第2梯団として送り込まれることとなった。
8月18日にガダルカナル島タイボ岬に無血上陸した一木支隊は、ひたすら西を目指して前進したのだが、この時一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川(日本側呼称:中川)東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。対照的に、アメリカ海兵隊はタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知しておりイル川東岸の防備を万全に固めていたのである。
敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は、完全に包囲された状態に陥り、敵兵力の把握もままならないままに約790名の一木支隊は全滅し、一木支隊長は割腹自決したとされている(異論もある)。

第二次ソロモン海戦 1942年8月

一木支隊の壊滅の報を受ける前、8月中旬から川口清健少将率いる川口支隊(第35旅団司令部および歩兵第124連隊基幹)約4,000名の輸送が始まっていた。しかし、連合艦隊司令部では、8月20日に「ガダルカナル島付近で敵機動部隊が出現」との報告を受け、川口支隊の船団輸送を一時中止し、ガダルカナル島海域の航空優勢の確立のためトラック島の機動部隊(空母翔鶴、瑞鶴、龍驤基幹)に出撃を命じた。かくして日米両軍機動部隊の間で、8月23日から24日にかけて東部ソロモン海域において第二次ソロモン海戦が戦われることになる。
この海戦の結果、日米両軍とも空母戦力に相当のダメージを受けたが、アメリカ軍は護衛空母ロング・アイランドを使ってルンガ飛行場(連合軍呼称:ヘンダーソン基地)に航空機を送り込むことに成功した。そのためヘンダーソン基地航空部隊の動きが活発化し、一木支隊第2梯団の輸送船団は空からの攻撃で輸送船1隻、駆逐艦1隻を失いショートランド泊地へ退避した。第二次ソロモン海戦後もガダルカナル島海域に一時とどまっていた空母瑞鶴が支援していたが(8月25日)及ばなかった。これを見て川口支隊の船団輸送も中止となり、輸送は駆逐艦による「鼠輸送」と島づたいの舟艇機動(大発動艇など)による「蟻輸送」に頼ることとなった。
増援の輸送については、海軍が鼠輸送を、陸軍が蟻輸送をそれぞれ主張したため一悶着があったが、結局両方行われることになり、本体は鼠輸送でガダルカナル島に向かうことになった。この鼠輸送で駆逐艦朝霧が轟沈するなどの損害が生じ、増援が遅れる間に、ガダルカナル島の海軍部隊は徐々に圧迫され、マタニカウ川(日本軍呼称:マ川)の防衛線を放棄して後退しはじめていた。

第一次総攻撃 1942年9月

ガ島上陸作戦 進軍図1

9月7日までに、川口支隊は一木支隊の第2梯団と共にガダルカナルに上陸した。川口支隊の一員として8月末に上陸した兵士は当時の様子を以下の様に証言している。

「わたしたちを出迎えたのが、一木先遣隊の生き残りでしたけど、とても兵隊なんてものじゃない。痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって、なにか食うものをと手を出しましてね。米をやると、ナマのままポリポリかじるんです。……(中略)……。『ワシらが来たけん、もう安心バイ』と元気をつけたんです。ええ、十日もたたんうちに、自分たちがおなじ姿になるとも知らんで」。そして10月中旬に上陸した第2師団を「飯盒と水筒だけの、みすぼらしい姿」で出迎えるが、上陸してきた兵士からは「ごくろうさん。ワシらが来たから安心しなさい」となぐさめられたという。最後に上陸した第38師団の兵士もこれと同様の話を語っている。

一方、川口少将の決定により60隻の小型舟艇に分乗し島づたいにガダルカナルに向かった岡大佐率いる歩兵第124連隊の別働隊(約1,000名)は、空襲や故障で被害を受けたうえ分散状態になり、本隊とは飛行場を挟んで反対側(ガ島西北端)に辿り着いてしまい、総攻撃には間に合わなかった。駆逐艦を使った本隊もアメリカ軍の空襲のため、重火器については高射砲2門・野砲4門・山砲6門・速射砲14門しか揚陸できず、密林地形の陸上輸送の困難から、このうち実際に戦闘に参加した砲はさらにわずかとなった。
川口支隊は、一木支隊の戦訓から、正面攻撃を避けるべくルンガ飛行場の背後に迂回して密林から飛行場を攻撃することを試みた。しかし、そのために必要な地図の準備はなく、険しい山岳地形の密林に進撃路を切り開くために各大隊の工兵部隊は通常装備を捨てて、つるはしとスコップによる人海戦術で総攻撃の当日まで啓開作業を行った。完成した粗末な啓開路では重火器や砲弾の運搬は不可能であり、その大部分は後方に取り残され、また、作業により兵は疲労困憊していた。

かくして、9月12日午後8時に、「1,中央隊(うち左、中、右と3個大隊が別々に行動)」、「2,左翼隊(岡明之助大佐率いる舟艇機動の第124連隊第2大隊)」、「3,右翼隊(一木支隊の残存集成部隊)」が同時に米軍陣地に攻撃を行うことになった。しかし、夕方までに攻撃位置につけたのは僅か中央隊の一部だけであった。また、12日夜には川口支隊支援のために軽巡洋艦川内、駆逐艦敷波、吹雪、凉風がルンガ泊地に突入し、砲撃を行った。
この総攻撃は軍令部の指示のミスもあり各部隊バラバラに攻撃を行い、実質的な第一次総攻撃(アメリカ名:「血染めの丘(エドソンの丘)の戦い」)が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてである。12日から14日に至る間、川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火の前に前進を阻まれ戦いに至らず、各隊は鉄条網と火線を越えられずに散発的な戦いのみに終始した。
激戦となった中央隊左翼を担当した田村昌雄少佐率いる青葉大隊の一部が、中央隊右翼国生大隊と合流し米軍陣地の第一線を突破し、さらに3個中隊のうちの1個中隊がムカデ高地の端からルンガ飛行場南端に達し、付近の建設中の倉庫などの拠点を確保した。だが、混戦のすえに日本軍は敗走した。この時川口支隊と対戦したアメリカ軍は700人だった。
その後、9月23日から9月27日の間に、マタニカウ河東岸に駐屯する川口部隊に対しアメリカ軍は9隻の舟艇による逆上陸を含む6度の攻撃を行うが、川口部隊の第二大隊・第三大隊に撃退され、アメリカ軍は大損害をだして後退した。この撃退劇は、ガ島上陸作戦の陸戦の唯一の日本側の圧勝であったとされている。
この第一次総攻撃による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少佐、水野少佐を含め中隊長クラスの中堅将校が戦死した。また、後に再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5,000名余りが駐屯することになり、兵站線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が深刻化し、ガダルカナル島(ガ島)はさながら「餓島」の様相を呈することになる。
なお、この第一次総攻撃は日本軍側もかなりの損害を出したものの、敵飛行場を奪回する可能性のあった最後の戦いであるとされている。中央の主力部隊のトラブルさえなければ日本軍側が勝利していたであろうという見解もあり、これは米側の将兵も後に同様の証言をしている。この総指揮を執っていた第35旅団長の川口少将の回顧によれば、『あと一歩及ばなかった』この総攻撃直前に持病の再発で動けなかった渡辺大隊長に対し涙ながらに『腹を切れ』と激怒したという。川口支隊長には、厳格な言葉と共に将兵に対する傷病者の扱いの他労のねぎらい方や士気の鼓舞具合など、当時の日本軍の精強の部隊を指揮する者としての片鱗が垣間見れた。それだけにこの作戦失敗は後々の戦況、果ては日本の命運そのものを大きく左右することとなる。

第二次総攻撃までの作戦会議 1942年9月

陸軍参謀総長杉山元陸軍大将は、大元帥である昭和天皇にガダルカナル島の戦いについて以下のように上奏している。

・川口支隊の攻撃不成功の要因は密林を利用した奇襲に重点を置きすぎ、連絡不十分なまま戦力を統合運用しなかったためであること
・連合軍の防御組織、とりわけ物的威力が予想以上であり、同島では今後まったくの力押しによる戦闘が求められること
・この戦いを受けて第17軍に、関東軍・支那派遣軍などから20個単位の戦車、砲兵戦力を転用・編入して戦機である10月中にガダルカナル飛行場を奪回するべきこと
・ガダルカナル島の戦いにおいては、陸海軍戦力を統合発揮する必要があること

第二次総攻撃 1942年10月 (陸海軍共同作戦;南太平洋海戦含む)

ガ島上陸作戦 進軍図2

上記の上奏文をもとに作成された大陸命688号による兵力の転用は、当時の日本軍の海上輸送能力を超えたものであった。よって、重火器を大発舟艇による「蟻輸送」で送り込む計画が破綻すると、10月1日からの駆逐艦による「鼠輸送」だけでは、兵站線途上のショートランド島から先に充分な重火器と弾薬を供給できないと結論された。
そこで10月中旬に、機動部隊の護衛と戦艦部隊によるルンガ飛行場艦砲射撃の間接支援によって、ガダルカナル島西方のタサファロング沖に大挙6隻の高速貨物船での揚陸を企図することになる。10月7日には、先に到着していた増援の歩兵第4連隊が、ルンガ飛行場を射程下におさめるために不可欠なマタニカウ川東岸への進出を図った。しかし連合軍の予想外の反撃に遭い、第2次総攻撃を前に、戦力の3分の2にあたる2個大隊が壊滅的な打撃を受けてマタニカウ川西岸へ撃退されてしまった。
10月初旬、百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガダルカナル島へ進出し、第2師団(師団長・丸山政男中将)が同島に派遣された。作戦目標は、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸し、飛行場を占領することであった。
川口支隊の輸送時にネックとなった船団護衛について、海軍はルンガ飛行場基地については戦艦及び巡洋艦の艦砲射撃による破壊を行う事とし、さらに米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母翔鶴、瑞鶴)が10月11日以降、トラック島を出撃しガダルカナル島北方海面に進出することとなった。
10月11日、ガダルカナル島に対する重火器の輸送とその支援のため、第6戦隊を基幹とする艦隊が出動する。輸送部隊は城島高次海軍少将指揮下の水上機母艦2隻(《日進》《千歳》)と駆逐艦6隻(《秋月》、第19駆逐隊《綾波》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》、第9駆逐隊《朝雲、夏雲》)。支援部隊は第6戦隊司令官五藤存知少将を指揮官とする5隻(第6戦隊《青葉、衣笠、古鷹》、第11駆逐隊第2小隊《吹雪、初雪》)であった。米軍もこれを察知し重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻から成る艦隊を出動させ、支援部隊と交戦する。その間に輸送部隊はタサファロングに到着し、輸送物資(15cm榴弾砲4門、野砲2門、牽引車4、弾薬車4、高射砲1門、固定無線1基、陸兵各艦合計675、弾薬糧食等)の揚陸を行った。
10月13日、栗田健男中将を司令官とする第二次挺身攻撃隊(艦砲射撃隊第3戦隊《旗艦金剛、榛名》)、(直衛隊第15駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》)、(前路警戒隊第2水雷戦隊 軽巡洋艦五十鈴(旗艦)、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)が出撃し、ガダルカナル島に夜間の艦砲射撃を行う。さらに、翌14日朝はラバウルから飛来した日本海軍航空部隊による空襲、14日夜には重巡洋艦鳥海、衣笠による艦砲射撃が追い打ちをかけた。
これを受けて、第2師団を乗せた高速輸送船団6隻が泊地に投錨し揚陸作業を開始した。これらの一連の事前砲爆撃によってアメリカ軍航空部隊は、飛行機の半分以上とガソリンのほとんどを焼失する大きな打撃を受けていた。しかし、アメリカ海兵隊は既にヘンダーソンとは別の小規模な戦闘機用の滑走路(ルンガ第二飛行場)を完成させており、そちらは既に稼働していた。このため、第2師団の揚陸作業中の現地上空の航空優勢の確保は達成できなかった。結果、兵員の上陸は終わったものの食料は50%、重火器類は20%の揚陸がすんだ時点で輸送船団に被害が目立ち始め、船団を北方に退避させることとなってしまった。
この時の手記によれば、米軍側の損傷の補修は、ブルドーザー等の近代的な機械による早期補修を実現したとされている。さらには、この時は激しい豪雨が連日続いており、密林中の行軍を妨げられたと同時に、敵軍の火災を鎮火する要因にもなり、日本軍側に不利な状況であったようである。
物資上陸失敗の日本側に対してアメリカ軍の増援は順調で、アメリカル師団の1個連隊をガダルカナル島に送り込むことに成功していた。また、9月の危機で脆弱だった陣地(日本側呼称:ムカデ高地)を補強し、密林中に敷設した集音器の数も増やし、密林からの日本軍に管制射撃網を敷く体制を整えた。

日本陸軍第2師団は、密林の迂回作戦で道を見失った川口支隊の失敗を受けて、大部隊による正攻法で攻撃を行う計画であった。そのため20,000名以上の大兵力、火砲200門以上と1個戦車連隊(戦車・装甲車、75両)を上陸させようとしたが、先述の通り敵空襲などの反撃によりごく一部しか揚陸できなかった。やむなく作戦は変更され、歩兵の主力は先に失敗した密林の迂回作戦を再び採ることになり、当初の正面攻撃は一部の部隊が陽動として行うことになった。なかでも戦車や重砲はとても密林内の迂回路を進むことが出来ないため、陽動隊に配属されることとなった。その数は、水上機母艦日進などで輸送された野砲7門・九一式十糎榴弾砲4門・九六式十五糎榴弾砲15門・九二式十糎加農3門などにすぎず、戦車は独立戦車第1中隊が九五式軽戦車及び九七式中戦車合わせて10数輌を持つだけであり、何よりも砲弾が不足していた。密林の迂回路を進む主力には歩兵砲・山砲・速射砲・迫撃砲など小型で軽量の砲が配属されていたが、人力担送は困難を極め、大半は進撃路の遙か後方に取り残されてしまい戦闘には間に合わなかった。
こうした困難な状況にも係らず第2師団は「23日にはガダルカナルの占領を完了し、ツラギ、レンネル、サンクリストバルに転進し、これを占領する予定なり」という意の電報を大本営に送っていた。だが、密林を進むための地図や土木機械の準備は川口支隊の時と同様に全く行われておらず、従って進撃路の啓開は遅々として進まず、部隊はまたもや道を見失った。
この時、右翼部隊を指揮していた第35旅団長の川口少将は第1次総攻撃の反省から、大本営から派遣された作戦参謀辻政信中佐に迂回攻撃を行いたいと強く進言したが、意見が対立した結果総攻撃直前に罷免されるという異常事態に陥ったのである。結果、第二次総攻撃の右翼隊は突如、副官の東海林大佐が指揮を執ることになった。この川口支隊長の罷免について、当時の第17軍司令部は関知していなかったという。

壊滅した第2師団(1942年10月25日)

異例の敵前罷免を敢行した後の10月24日に、陸軍部隊はバラバラにアメリカ軍陣地に総攻撃を掛けた。川口少将を罷免したことで右翼方面の連絡系統は著しく混乱を来たし、部下の掌握困難として同隊はこの日の総攻撃には参加できなかった。加えて、飛行場の1キロ手前まで到達したところで司令部に作戦成功を意味する「バンザイ」の電報を送ったとされている。これはもちろん誤報であったが、報を受けた将校一同は「御芽出度う」と交歓し合い、井本参謀は日誌の一頁を覆う大文字で「天下一品の夜」と記した。
一方、陸軍のガ島総攻撃に呼応して支援攻撃を行うことになっていた外南洋部隊(第8艦隊)は、外南洋部隊麾下の第6駆逐隊司令山田勇助大佐が指揮する駆逐艦3隻(暁、雷、白露)と、第4水雷戦隊(司令官高間完少将)が24日深夜から25日朝にかけてルンガ泊地に突入した。突撃隊は小型輸送船1隻・仮装巡洋艦1隻の撃沈を記録し、続いて海兵隊陣地に対して艦砲射撃を開始するが、海兵隊陣地の5インチ海岸砲からの反撃と緊急発進したF4Fワイルドキャット戦闘機の機銃掃射で損傷、銃撃で被害を受けた。
突撃隊は無事にルンガ泊地から脱出したが、続いてガ島に突入しようとした高間完(たかまたもつ)大佐率いる第4水雷戦隊司令官指揮下の6隻(秋月〈第4水戦旗艦〉、由良、村雨、五月雨、夕立、春雨)はルンガ飛行場から飛来したアメリカ軍SBDドーントレス急降下爆撃機とF4Fワイルドキャット戦闘機部隊の波状攻撃を受け、秋月が中破、由良が沈没している。
左翼方面は敵に突撃し、哨戒線を突破したが砲火にさらされ大損害を出した。25日から26日朝にかけて第2師団は繰り返し夜襲をかけたが、装備の不足などから猛砲火を浴び戦傷含めた損害は半数以上と壊滅状態に陥った。25日からは飛行場から発進した米攻撃機による空襲が始まり、那須弓雄少将含む高級将校多数が戦死した。ラバウル基地の日本海軍航空部隊の零戦は飛行場占領の誤報を受けガダルカナル基地を目指したが、占拠したはずの飛行場からF4Fが迎撃してきたため混乱に陥った。
陽動のため海岸線沿いを進んでいた住吉支隊では、住吉正少将が作戦の拡大を急遽決定し、戦車部隊にマタニカウ河の渡河を命じた。これに対し米軍は37mm対戦車砲や75mm自走砲を配備して日本軍を待ち構えていた。これを受けた日本軍の戦車隊は、河の中央付近で十字砲火を浴びて次々に撃破され、対岸にたどり着いた2輌も地雷で動けなくなったところを75mm自走砲に撃破された。
10月26日には師団参謀が『ガダルカナル奪回は不可能』との旨を辻政信参謀に報告し、作戦は中止された。戦闘における全体の戦死者については資料がなく不明であるが、第2師団麾下の歩兵第29連隊では兵員2,554名に対し戦死・行方不明553名となっている。

南太平洋海戦 (1942年10月26日)

日本海軍連合艦隊は、日本陸軍第17軍の総攻撃支援のために近藤信竹中将指揮下の第2艦隊(第3戦隊:戦艦金剛、榛名、第2航空戦隊:空母隼鷹、飛鷹)および南雲忠一中将指揮下の第3艦隊(第1航空戦隊:空母瑞鶴、翔鶴、龍驤、瑞鳳等)を派遣する。
10月26日の第二次総攻撃によって発生した南太平洋海戦において、日本側は搭乗員の多数を失ったが、敵空母1隻が沈没、同1隻中破の戦果を挙げ一時的にアメリカ太平洋艦隊が展開する空母戦力が無くなることとなった。この報告を受け第38師団約1万名の輸送が決定した。
一方、アメリカ側はこの頃のガダルカナルの情勢に相当の危機感を持っていた。ヨーロッパ戦線では間近に迫っていたドイツへの反攻作戦のために大量の兵力・兵器を必要としていたが、ルーズベルト大統領は10月24日に統合参謀本部に「入手可能なあらゆる兵器を、ガダルカナル保持のためその地域に確実に送れ。」と書いたメモを送っている。

戦果報告 1942年11月

同年11月12日に、ガダルカナルより大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎大佐が帰京し次のように第二次総攻撃の失敗について、東條英機内閣総理大臣兼陸軍大臣に報告している。

・敵は完全に制空権を掌握し、熾烈巧妙な火力準備により裸の我が軍を迎え撃った。
・敵は地上攻撃と空中攻撃を併用し、我が軍の航空支援は皆無だった。
・我が軍の大隊長級の能力薄弱。
・兵の士気は麻痺しており、さらに顧慮すべき衛生は劣悪。高い発熱、下痢、栄養失調により第2師団の戦力は4分の1に低下。戦傷兵の後方担送には1人につき4から8人が必要な状況にある。
・現地の火砲は十五榴12門、十加2門、野砲4門、山砲8門、高射砲12門の計48門で、弾薬不十分。
・糧食は非常に不足し、揚陸物資も搬送手段無く、末端には届いていない。
・軍司令官は健康。「やる」と言っているが第一線を把握していない。
・敵は白昼堂々と船団輸送しているが、我が軍は駆逐艦でコソコソ揚陸するも10隻で僅かに2日分の糧食を輸送できるに過ぎない。

結論として、既定の第38師団・第51師団の投入を行うほか、ブカ、ショートランド、ガダルカナル島エスペランス岬付近に飛行場を整備し陸軍より戦闘機2個戦隊・軽爆1個戦隊はぜひ必要。次期攻撃は18年1月末となるべし、と結んでいる。

また、11月16日に第8方面軍司令官今村均中将は昭和天皇に拝謁し、「南東太平洋方面よりする敵の反抗は、国家の興廃に甚大の関係を有するにつき、速やかに苦戦中の軍を救援し戦勢を挽回せよ」との言葉を受け、同日、大陸指1338号によるソロモン群島方面の作戦要領が示された。
しかし、これら中央の決定がなされている間にも南方戦線は憂うべき情況を呈していた。すなわち、ニューギニア方面で南海支隊が同地域の戦線維持不能と見て全面退却に移っていたのである。さらに、海軍の協力を得て進めたガダルカナル島への第38師団の船団輸送も、同月中旬に生じた第三次ソロモン海戦により輸送船11隻中7隻を失い、さらに残る4隻も11月15日に揚陸作業中を航空部隊の攻撃にさらされ、輸送計画は失敗に終わった。また、輸送船11隻約7万7千トンの大量喪失により、過ぎる10月22日に決定された陸海軍局部長会議で決まっていた民間船舶20万トンの軍徴用の解傭(軍用解除)を一転し、民間からの追加徴用へと陸軍を突き動かすことになった。また、この船舶増傭問題が後にガダルカナル島撤退論に大きな影響を及ぼすことになる。

第三次ソロモン海戦 1942年11月12日-15日

11月10日、第38師団長佐野忠義中将率いる先遣隊がガダルカナル島に上陸し14日に師団主力の輸送が開始され、海軍は制海権の確保と飛行場を再砲撃するために戦艦2隻を含む第11戦隊を派遣し、これを防ごうとする米軍と第三次ソロモン海戦が発生した。
ソロモン海で行われた日本海軍とアメリカ海軍、オーストラリア海軍との間で行われた海戦で、夜間に行われた海戦であり、双方とも陣形の乱れや通信の混乱、同士討ちが発生したことから、『停電した酒場の乱闘』とも称される。
第11戦隊の金剛型戦艦2隻、比叡、霧島とも就役してから30年が経過していたが、改装によって速力30ノット(時速55.6km/h)を発揮する高速戦艦となり、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦で空母機動部隊の護衛艦をつとめるなど、第一線級の能力を持っていた。特に比叡は大和型戦艦のテスト艦として装備が改良されていた。しかし、この戦いにより同2隻を失い、飛行場への攻撃も防がれたために、日本側の輸送船団は米軍機の空襲に晒される事となった。
輸送船11隻中6隻が沈没、他多数の被害を出し、さらには残りの輸送船全てが炎上した。かろうじて揚陸した兵器・弾薬食料のほとんども、輸送船から浜辺の集積地に集めるのがやっとの状態で、当初に奪われたルンガ飛行場から出撃してくる米軍機の爆撃や機銃掃射によって荷役組織力が麻痺し、さらに繰り返された執拗な米軍機の攻撃により物資は積み上げられたまま焼失した。最終的に揚陸を確認された兵力は2,000名、重火器は皆無、少量の弾薬と食料が4日分程であった。これによりガダルカナル島の兵力は数字の上では約2~3万名を数えたが、伝染病にかかった者や餓死寸前の者が大半で、通常戦闘が可能な兵員は8,000人程度だったとされる。
対して、この頃のアメリカ軍の防衛・増援体制はさらに強化されていたために、上陸した第38師団は戦闘はおろか飛行場に近づくことさえできなかったのである。

ガダルカナル島撤収大作戦 1942年12月-1943年2月

12月6日の閣議において、参謀本部作戦部長の田中新一中将が支援に必要な16万5,000トンの艦船をガダルカナルに送り込むよう訴えたが、その半分の増援も認めなかったため、東條首相ら政務側に対し「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ事実上更迭された。その理由は、元々東條はこの方面の作戦には反対であったこと、過去に投入した船団もことごとく全滅状態となったことであった。また参謀本部や海軍の要求を通すと南方からの資源輸送・南方への物資輸送が滞り、戦時経済そのものに悪影響を与えるためでもあった。
12月31日の御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。
この決定からさらに1ヶ月を経た1943年2月1日から7日にかけて、陸海軍協力の元にガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)が行われた。大本営や現地陸海軍ともケ号作戦に対して悲観的見通しをもっていたが予想外の成功をおさめ、合計12,682名(2月15日時点における大本営への報告)の兵員が撤収に成功した。この撤収成功の背景には、連合軍が日本軍の反転攻撃をかなり警戒していたことがあったからとされている。
ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。一方、アメリカ軍の損害は戦死者7,100人、負傷者7,789人以上であった。
このとき撤退は「転進」という名で報道され、撤退した将兵も多くはそのまま南方地域の激戦地にとどめ置かれた。ガダルカナル島最後の撤退作戦に参加した海軍輸送部隊指揮官の言によると、撤退するのが難しい傷病兵の多くは捕虜になることを防ぐために手榴弾などで自決するか、戦友達の手(手榴弾・銃・銃剣など)によって葬られた。
日本軍撤退作戦終了後、ガダルカナル島はソロモン諸島におけるアメリカ軍の新たな兵站基地として使用され、また、日本軍の残兵掃討を行い部隊の練度を上げることが行われたと言われる。戦後刊行されたグラフ雑誌『ライフ』には、アメリカ軍の捕虜となった日本の傷病兵などが、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺されている様子が掲載されたという。なお、ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、1947年(昭和22年)10月27日である。

まとめ

ガダルカナル島の戦い 日本軍消耗結果

日本軍の航空機の損害はミッドウェーの約3倍、搭乗員の損失はそれを遙かに越えたものであり、日本の搭乗員の数、練度は著しく低下した。
資料によれば次のような戦果が確認されている。

兵員戦果
投入:32,000人
死者:23,000人
行方不明:2,500人

損害
艦船56隻沈没 115隻損傷
航空機850機喪失

勝敗の分析
ガ島上陸作戦は、ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされ、実際にこの戦いからアメリカ軍の反攻が始まり、ターニングポイントとなっている。特に第一次総攻撃の失敗が判断の分かれ道であったとされていて、そこから作戦のミスを繰り返し、制空権を握れず、じきに制海権も失い、食糧・武器弾薬の海上船舶輸送に困難を来したことがあげられる。かくして、拠点であるラバウルからガダルカナル島まで戦闘機は往復8時間という長距離攻撃を強いられ、現場ではわずか15分間の戦闘しかできくなり、ブーゲンビル島のブカやブインなどへの中間飛行場整備も、その当初は必要性が認められず整備が遅れており、着手した時にはその戦機を既に逃して間に合わなかった。
物量については、最終的にはアメリカ軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、アメリカ軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重火器や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた(アメリカ軍呼称:「8月危機」)。同少将は「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍は、なすすべもなく追い落とされていただろう」と述べている。また、もともと米軍自体も占領の維持はおろか最初の占領もできるかどうかも必ずしも確信してはおらず、失敗したときは初めから密林に逃げ込んでゲリラ戦闘の形で戦い続けるつもりであったという。

戦略的影響
制空権・制海権を失ったものの、ガ島確保を図る日本軍は物資を補給しようとし続け、いたずらに失敗を重ね、輸送船の損失を増やした。ガ島周辺だけで半年間に30隻の輸送船を失い、米海軍の通商破壊戦もあってラバウル・ニューギニア方面まで含めれば1943年2月までに開戦前の予想をはるかに超える140隻、65.65万トンを失った。
戦争維持のために民需用300万トンの船舶維持が必要とみられていたが、この損失により陸海軍は徴用船の民間返却をやめ、さらに81万トンの徴用を要求した。民需用船舶は240万トン体制に落ち込み、その結果、物資不足により兵器などの製造に不可欠な鋼材の生産量を確保できず、船舶不足→物資不足の負のスパイラルに陥り、もともと輸入の35%を外国船輸送に頼っていた日本は経済破綻・戦争継続不能の事態に陥っていく。
一連の戦いにおける死傷数は確かに多かったが、その後の太平洋戦線での死傷者数と比べてとりわけ多いというわけではない。それでもこの戦いが太平洋戦争の分岐点といわれるのは、一連の戦いの中で多数の輸送船と船員を失い、その後の輸送力を大きく失ったことが極め付けであった。つまりは、軍艦と輸送船を大量喪失したことが、航空部隊の大量損失に加えて、以後の作戦遂行上の大きな打撃となったのである。

情報
本戦闘で連合軍はコースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員)を活用したが、これは実に重要な役割を果たした。
オーストラリア沿岸監視機関はエリック・フェルド豪海軍少佐に指揮され、この機関の活動はソロモン諸島を構成している約1,000の島々で日本軍の活動を監視する上では特に重要なものであった。これにより日本の艦船と航空機の部隊の数、兵器の型式、速度が多数報告されて、アメリカ軍は航空機を発進させ、限られた時間内に攻撃任務に従事させることが出来たと評されている。

飛行場問題
太平洋正面の戦闘は、制空権獲得のための航空基地獲得戦であり、その造成力が早いか遅いかとその良否とが制空権獲得を左右した。航空基地造成力に関し、日本は前時代的な人間の手による非能率的な方法で、長時日かけて飛行場を造成したが、アメリカ軍は建設機械を全幅に駆使し、数日で滑走路を造成して航空兵力を展開して局地の制空権を獲得し、それに伴い日本側は陸海において苦戦を強いられ、占領地を奪われていった。
日本軍は当初、ガダルカナル島に2個設営隊、2,000人以上を送って1か月にわたって陸上飛行場を造成して滑走路が完成したのだが、飛行機が来る前にすぐにアメリカ軍に上陸されて取られてしまうといった具合だった。連合軍の次なる一手もまるで寝耳に水であり、奪還のために向かった一木大佐率いる部隊もまるで敵う部隊編成ではなかったことから、その後の飛行場を巡る総攻撃も含めて一連の作戦を大本営の無能であったと酷評されている。

ガダルカナル島の戦いの総合評価

ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされているガダルカナル戦は、日本軍が米軍の『物量』に圧倒されて敗北した戦いと指摘されており、川口支隊の総攻撃の敗北の時点で冷静に判断し、兵を引いていれば、その後の泥沼のような消耗戦で何ら得るところなく戦力と継戦能力をすりつぶす事態は避けられたとする指摘もある。
また、本戦闘では航空部隊の消耗の原因に、拠点であるラバウルからガダルカナル島まで往復8時間という長距離攻撃を強いられた事が一因に挙げられるが、仮に軍事的な勝利を得たとしても、日本列島から6,000キロメートル以上も離れたガダルカナル島を、アメリカ軍の再反攻を前に兵站と補給を維持できたかどうかは、甚だ疑問である。
なんといっても、第二次総攻撃の陸海戦の大敗北による損失と物資不足による餓死者の続出は日本の悲劇であった。特に当時の餓死者の記録はすさまじい地獄さながらの様子を今に伝えている。戦後、軍事評論家の伊藤正徳は、「ガダルカナルは、単なる島の名でない。それは帝国陸軍の墓地の名である。」と批評している。


◎考察

戦歴日表

ガ島の戦い 直前期  1942年7月
第一次ソロモン海戦  1942年8月初旬
第二次ソロモン海戦  1942年8月下旬
第一次総攻撃     1942年9月
第二次総攻撃作戦会議 1942年9月
第二次総攻撃     1942年10月 
南太平洋海戦       〃
戦果報告       1942年11月
第三次ソロモン海戦  1942年11月中旬
ガ島撤収大作戦    1942年12月
撤退完了       1943年2月

<ガダルカナル島の戦いの考察・分析>

〇大東亜戦争の致命的背景
〇ミッドウェー海戦の敗北
〇連戦連勝の雰囲気
〇連携不足の軍隊
〇未経験な密林
〇無能参謀たちの罠?
◎命を懸けた男たちの戦い

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