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第二次世界大戦のインドシナ史

割引あり

~インパールとビルマに懸けた日本軍の幻想~
※タイトル写真はビルマ人の女の子

◎インドシナ概要

東南アジア・インドシナ地方

東南アジアのこの地域(地図参照)はインドシナと呼ばれ、インドと中国(支那)に挟まれているためにそう名付けられた。一般的には、ベトナム、ラオス、カンボジアの3ヶ国に加え、タイとミャンマー両国のマレー半島の部分を除く地域がインドシナと呼ばれるが、マレー半島も含めてインドシナ半島やインドシナと呼ぶ場合もある。
この地域には、古くからバンチェン、ホアビン、ドンソンなどの先史文化が栄え、インド文明や中国文明の影響を受けたカンボジア人、タイ人、ビルマ人、ベトナム人や数多くの少数民族が住居する。
地理的特徴としては、インドシナ半島の東側は南シナ海、西側はベンガル湾に面しており、東部にはアンナン山脈、西部にはアラカン山脈があり、その間をメコン川、チャオプラヤー川、サルウィン川、エーヤワディー川などが北から南へと流れ、下流地域では広大な三角州を形成している。

インドシナの歴史

アンコールワット

紀元後3世紀頃からインドの影響を強く受け、「インド化」が進んだ。宗教面では4世紀のインドのグプタ朝で栄えたヒンドゥー教文化が伝わり、7世紀に成立したクメール人のカンボジアではヒンドゥー教が信仰された。一方、現在のビルマのピュー人やビルマからタイの北方にいたモン人は上座部仏教を信仰した。

仏教の普及

アンコールワットの壁仏

大陸部ではヒンドゥー文化と仏教信仰が重層的に重なり合って独自の文明を形成していく。12世紀に建造されたカンボジアのアンコール=ワットも、はじめはヒンドゥー寺院として造られたが後になって仏教寺院とされた。次第に仏教(上座仏教)が優勢となり、特にビルマ、タイでは王権の保護を受けて栄えた。特に11世紀ごろのビルマのパガン朝では、多くの造寺造仏を行ったことで知られる。

植民地化
18世紀以降のこの地域は、タイを除いてイギリスとフランスに分割された。ビルマはイギリス=ビルマ戦争に敗れ、イギリスの植民地支配を受け、ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ三国はフランスの植民地となりフランス領インドシナ連邦を構成する。その中間にあったタイ(シャム)のみが独立を維持することができたが、領土は大幅に削減されることとなった。
1852年、第二次イギリス=ビルマ戦争がイギリスによって引き起こされた。イギリスが獲得したかった目標は大きく二つで、カルカッタとシンガポールの中間に位置する港と、同地域のチーク林だった。25年の平和は破られ、イギリスがビルマ全域を占領するまで戦争は続き、これにより新たに占領した領土に存在する経済的利益、チークや石油やルビーといった産物を手に入れ、ビルマはイギリスの植民地支配下に落ちた。

日本によるインドシナ介入
1942年の日本軍の侵攻において、一時的に日本はフランス領インドシナと英領インドシナ(ミャンマー)を占領して同地域に介入した。これにより、ベトナム皇帝・カンボジア王・ラオス王による君主制とし、ビルマでは総統を元首とする共和制とし、これ等の国を日本保護下での半独立国として構成した。ただし、いずれも日本の傀儡政権とみられ、現政権は連続性を認められていない。
また、1989年に「ビルマ」から「ミャンマー」へと英語名が変更されてその他の地名などの表記も変更された。これにはビルマの複雑な歴史的な背景が関係している。

ビルマの戦い (1941年-1945年)

ビルマの戦いは、太平洋戦争における東南アジアでの戦いの一つで、イギリス領ビルマやイギリス領インドをめぐる戦闘のことである。この戦いでは、枢軸国と連合国の軍隊のほか、当時植民地であったビルマ、インドなどの独立運動も大きく関わっている。そのためイギリスからの独立を目指すビルマ国民軍やインド国民軍は、日本軍やタイ王国軍を中心とする枢軸軍に味方し、対して日本による統治を良しとしないビルマの抗日運動は、イギリス軍や中国軍、アメリカ軍を中心とする連合軍に味方した。またインドではイギリスの植民地軍である英印軍としてイギリス側で参戦した兵士たちも多かった。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。

ビルマの戦い 概要

ビルマの戦い

ビルマは、19世紀以来イギリスが植民地支配していた。1941年の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後間もなく、日本軍は援蔣ルートの遮断などを目的としてビルマへ進攻し、勢いに乗じて全土を制圧した。連合国軍は一旦退却したが、1943年末以降、イギリスはアジアにおける植民地の確保を、アメリカと中国は援蔣ルートの回復を主な目的として本格的反攻に転じた。日本軍は、インパール作戦を実施してその機先を制しようと試みたが、作戦は惨憺たる失敗に終わり、連合軍は1945年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回した。
日本人の戦没者は18万名に達し、勝利したイギリスとアメリカはそれぞれの目的を達成したのだが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失い、ビルマは1948年に独立を達成した。

地理

ビルマ周辺

ビルマ(現在のミャンマー、漢字表記は「緬甸」)は、インド、バングラデシュ、中国、タイ、ラオスと国境を接している。南北の最長距離は約2,000キロ、東西の最長距離は約1,000キロ、国土面積は68万平方キロで、日本のおよそ1.8倍の面積である。南側はベンガル湾に面し、東部、北部および西部国境はいずれも峻険な山脈によって囲まれている。中央部は平原地帯であり、大河イラワジ川(現在のエーヤワディー川)が流れており、支流チンドウィン川、シッタン川、サルウィン川がビルマの三大河川をなしている。
ビルマはその地理的位置ゆえに、中国とインド間の交易路を通して富を得ていた。一方では自給自足的な農業が依然として経済の基礎となっており、インドの商人たちは沿岸と河川(イラワジ川が特筆される)を通ってビルマ人の住む土地の多くに足を運び、インド文化は国の隅々に持ち込まれ、その影響は今なお残っている

気候
気候は熱帯モンスーン気候である。5月中旬から10月までは雨季にあたり、雨が一日中降り続くことはあまりないが、断続的な激しい降雨にみまわれる。特にアッサム州(インド)からアラカン山脈に至る地方は、年間降雨量5,000ミリに達する世界一の多雨地帯である。雨季には河川は増水し、山道は膝まで屈する泥濘となる。10月末から5月までは乾季で、降雨はなく乾燥して草木は枯れるが、シャン高原では最低気温が氷点下になることもある。雨季入り直前の4月下旬から5月上旬には酷暑となり、平地では摂氏40度を越す日も少なくない。乾季には地面が固まって車両の通行は容易となり、機械化の進んだ連合軍にとっては有利な戦場となるが、歩兵にとっては塹壕を掘ることもままならなかった。
1941年当時の人口は1,600万人、内訳はビルマ族が1,100万人、カレン族が150万人、シャン族が130万人、移住したインド人が200万人であった。首都ラングーン(現在のヤンゴン)は人口50万の近代都市で、国民の多くは敬虔な仏教徒であった。僧侶は町の指導者を兼ね、多くの町ではパゴダ(仏塔)がランドマークとなっており、寺院付属の学校は全土で2万と言われ、識字率も高かった。
ビルマの気候は稲作に適していて、当時は農業の機械化は遅れていたが、コメの年産は700万トンに達し、コメの輸出国であった。日本軍は、フーコン河谷などの人口希薄な山間部を除けば、食糧調達を行うことができたようである。この点では、日本兵が飢餓に苦しめられたニューギニアやガダルカナルとは異なっていた。
ビルマに接する中国雲南省西部地方は、南北に縦走する標高3,000メートル以上の山脈が連なり、その間を深さ1,000メートルもの峡谷を形成するサルウィン川、メコン川などの渓流が流れている。

◎ビルマの戦いの背景

バガンのパゴダ群

イギリスのビルマ統治と独立運動
ビルマは、1824年に始まった英緬戦争の結果として、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。1935年にビルマ統治法が制定され、1937年その発効によりビルマはインドから分離したのだが、自治権は皆無であった。
ビルマの独立運動は1930年代に活発化し、その中心であった学生運動のリーダーとして活躍したのがタキン・アウン・サンやウ・ヌーらである。彼らが主導したタキン党は、バー・モウの「貧民党」などと共に「自由ブロック」党を結成し、反抗のチャンスを伺っていた。1940年に入ると、イギリスは自由ブロック党に対して弾圧を加えるようになり、バー・モウら首脳陣が相次いで投獄される中、アウン・サンは同志ラミヤンとともに外国勢力からの援助を求めるために変装して密出国を敢行した。

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