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飴耳礼讃、あるいは孤独について

耳掃除は、至福である。

断言する。議論の余地はない。入浴後の一杯とか、二度寝の背徳感とか、人生における小さな喜びを列挙するとき、耳掃除はどうだろうか?と、必ず入り込んできて頭を悩ませる。少なくとも私の中では。

なぜそれほどまでに気持ちがよいのか。
多くの人が思い描く耳掃除の快楽とは、おそらくこういうものだろう。竹の耳かきを耳穴に差し入れ、ごそごそとかき回し、かりかりと耳垢を剥がしとる、あの感触。脳の奥にまで届くような、くすぐったいような、ぞくぞくするような「それ」である。

しかし私の耳掃除は、まったく別の起源を持っている。

思い返せば、母の膝の上だった。

子供の頃、耳掃除は母にしてもらうものだった。母は耳かきの先端に脱脂綿をくるくると巻きつけ、そこにメンソールのヘアトニックをひたしてから、私の耳を拭うようにして掃除してくれた。トニックの清涼感が耳の中でふわりと広がる瞬間が、たまらなく気持ちよかった。コリコリではなく、ふわふわ。刺激ではなく、清潔感。それが私の耳掃除の原体験だ。

だから自分で耳掃除をするようになっても、私はまったく同じやり方を踏襲した。脱脂綿を巻いて、ヘアトニックをひたして、ふわふわと。一人前の男になっても、やっていることは母の膝の上と変わらない。

さて。ここで「おや?」と思った方が、きっといるはずだ。

耳掃除って、耳かきでコリコリやるのが気持ちいいんじゃないの? 脱脂綿でふわふわ拭くって、それはもはや耳掃除の本質的な喜びを放棄しているのでは? と。ごもっともな疑問である。しかし私には、コリコリする理由がそもそもなかった。なぜなら、私の耳垢はコリコリしないからだ。

私の耳垢は、ベタベタしている。

高校生のとき、友人たちと耳掃除の話になった。鮮やかな青春の一コマとしては、少々さみしい話題だが、気づけばくだらない話でも一晩中盛り上がれるくらい男子高校生というのは愚かで、真摯なのだ。友人たちは口々に言った。「耳かきでごそごそやると、かさかさした塊がとれるじゃん」「でかい耳垢がとれたとき、なんか達成感あるよな」「あれを観察するのが好き」。

私は黙って聞いていた。

かさかさした塊? 観察? 達成感?

私の耳からは、そんなものは一切出てこない。出てくるのはベタベタとした、オレンジ色の、そう、ソフトキャラメルのような、あれである。色も質感もほぼソフトキャラメルだ。カブトムシの餌に与える蜜にも似ている。ただ食べたことはないが、おそらく甘くはないだろう。

友人たちの話を聞きながら、私は静かにある疑念を抱いた。もしかして、自分は異常なのではないか、と。

帰宅して、母に聞いた。母はあっさりと教えてくれた。
「ああ、おまえのは飴耳ね」と。

飴耳。

なんと詩的な、しかしそのまんまな呼び名だろう。耳垢が飴のようだから、飴耳。母いわく、飴耳は十人に一人くらいの割合でいるらしく、遺伝するらしい。そして我が家の場合は、父からの遺伝だという。

普段は特に意識したことのなかった父という存在が、その瞬間だけ、ねっとりとした親近感を帯びた。血は争えない、というより、耳垢は争えない。妹も同じだという。我が家には飴耳が三人いた。なんとなく秘密結社めいた連帯感を覚えたが、誰もそれを積極的に話題にしようとはしなかった。

今これを読んでいるあなたたちの中にも、十人に一人は飴耳の方がいるはずだ。

そのあなたに、まず伝えたい。あなたは異常ではない。ただ、マイノリティなだけだ。そして、マイノリティであることは、しばしば孤独であることと同義だ。耳垢については、特に。

飴耳の人間は、耳掃除の話をするのがなんとなく恥ずかしい。かさかさした耳垢を取り出す爽快感の話は、なんとなく共有できそうな気がする。居酒屋で話しても笑えるギリギリのラインにある。しかし飴耳の話は、そのラインをわずかに越えてしまう気がして、私はずっと黙ってきた。

だから私は、耳掃除を一人でする。

三十年近く共に暮らしている彼女がいるが、耳掃除を彼女に見せたことは、ほとんどない。いや、あるいは一度や二度はあったかもしれないが、積極的に開示したことはない。

おならの音を聞かれるよりも恥ずかしい、と私は思っている。おならというのは、まあ、誰でもする。生理現象の代名詞として広く認知されており、夫婦や恋人の間での「初めておならをした日」談義は、ひとつの親密さの証として語られることすらある。おならは、恥ずかしいが、普遍的だ。

しかし飴耳のベタベタした耳垢は、普遍的ではない。十人に一人しか知らない、あのオレンジ色のやわらかさを、三十年来の彼女にさえ、私はなんとなく見せたくない。うまく説明できないが、見せてはいけないもののような感じがするのだ。

どこかで読んだ小説に、こんなセリフがあった気がする。

「人は誰しも、最後は一人だ」

ニヒルでロマンチックな、夜中の三時に読むと妙に沁みる類いのセリフだ。書いた作家は、おそらく壮大な孤独や実存について語りたかったのだろう。人間の根源的な孤絶。他者とは決してわかりあえない魂の話。

しかし私は耳掃除をするたびに、そんなセリフのことを考える。

誰にも見せず、一人でそっとやる、あの時間。脱脂綿にヘアトニックをひたして、ふわふわと耳の内側を拭うとき、私はたしかに、完全に一人だ。三十年来の彼女も、飴耳仲間の父も妹も、そこにはいない。

これが私の、誰にも見せない時間だ。壮大でもなく、哲学的でもなく、ただオレンジ色でベタベタしているだけだが、間違いなくそれは、私だけのものだ。

耳掃除は、至福である。

そして至福とは、たいてい、一人のものだ。

#創作大賞2026 #エッセイ部門

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