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母に贈った薔薇の花束

――『お母さまの呼吸が浅くなっています』

 それは母がいる施設の人からの第一声だった。
『すぐに来ていただけますか』
 矢継ぎ早に言われて、私は「いよいよ、来てしまったか」と咄嗟に思った。

 三ヶ月前、おなかが張って苦しいという母を病院に連れていくとき、母はもうこの家には戻ってこれないかもしれないと不謹慎ながらに思った。今年82歳になる母とは一緒に住んでいたが、少しずつ認知も始まり、食事も以前より食べられなくなっていて、こうして老いていくのは止められないのだ、とどこか他人事のように感じていた矢先のことだ。
 腹痛の原因は腸閉塞と診断され、手術は無事に成功したが、術後、思うように食事がとれず、ベッドの上で寝たきりのまま歩くこともできず、退院後、自宅に戻ることは叶わず、有料老人ホームでお世話になることになった。その知らせは施設に入って、ちょうど一週間が過ぎたところだった。

 けど、もしかするともしかするのかな、とも思った。なぜなら母はとにかく運が強い人だったからだ。そもそもこの腸閉塞もこのままでは危ないと言われていたのに、次の日にたまたま医者がいて、病室が空いていて、手術することができた。開腹はしても、腸を切ることなく、済んだのも奇跡だった。思えば母はいつもそうだ。胃がんで胃を全摘したときも奇跡的に全身に転移していなかったし、その後見つかった喉頭がんもステージ1だったし、大きな病気をするわりに母は今までも奇跡的に命を取り留めてきたのだ。
 ただ、それは少なくとも母が望んでいたわけではなかった。こうして一命を取り留めたとき、決まって母は「別に生きたくないのに」と言った。娘としては「そんなこと言わないでよ」と言うしかないのだけれど、若い頃から病弱で、私を産むのも命がけだったという母が世間一般でいう"長生き"してくれたのは、本人はもとより、周囲の親戚も驚いていた。きっとそれは一人娘の私を置いて死ぬのは心配だったから、かもしれない。

 だから、私は思った。もしこれが本当に母とお別れになるのなら、母が喜ぶお別れをしてあげようと。
 子供の頃から、いつもふざけてる私に「アホか」とまんざらでもなく笑う母が私は好きだった。だから、明るくてユーモアのある母をみんなで笑顔で送り出してあげよう。私のために生きてくれた母が安心して旅立てるように、と心に誓ったのだ。


 私の母はお世辞でも、普通の母親ではなかったと思う。私を産んだことは間違いないけれど、その後、親戚から語られる有名なエピソードのひとつに「我が子を抱く前に煙草を1本吸わせてくれと言った」というのがある。子供の顔はこれから先、ずっと見るから、とのことだ。
 そんな母の逸話は山ほどある。子供から見ても美人だった母は、昔からモテていたし、なんなら老人施設に行ってからも人気者だった。洋服はどちらかというと派手な色を好むが、センスがよく、褒められることが多かった。そのせいで、授業参観では父兄たちの中で誰よりも目立っていたので、子供としては少々恥ずかしかった。水商売をしていたこともあり、話がうまく、学生の頃の三者面談では私の進路そっちのけで、先生が母に身の上相談を始めるといったこともあった。母というより、大人のいい女という印象のほうが強いかもしれない。
 しつけとか教育については厳しかったが、それはあくまで世の中を生きていく上での指針を示してくれていたのだと思う。子供とはこうあるべき、という叱り方ではなく、恥ずかしくない大人になるように育ててくれたのだと、今だからわかる。
 母は、子供だから優先するといったこともなく自分を優先し、私はこれが嫌いだけど、あなたは食べなさい、と好き嫌いについての考えも独特だった。だから、母の言うことは嘘はないし、ごまかしもなく、至ってシンプルだった。
 好きなものと嫌いなものは、はっきりしていた。母の日は「カーネーションは好きじゃないからいらない」というし「切り花より鉢植えのほうがいい」と花束も拒否された。
 遠慮もしなければ変な気遣いもしない。周りは『気持ちがいい人だね』と笑っていた。でも、一緒に暮らす娘としては毎日ハラハラだった。おかげで言動については、母を反面教師にして、かなり学べたと思う。
 唯一、世間一般の母親と同じだな、と感じることは、常に味方でいてくれたことだ。私が嫌な思いをしたときは、倍返しどころか、何十倍にして文句を言ってくれた。(目に余り過ぎて、あまり私が文句を言わなくなったというのもあるのだが)

 いつしか、私は彼女を母としてではなく、一緒に住んでいる大人の女性として扱うようになった。決して友達にはなりたくはないが、私を大事にしてくれる、人生の先輩。そんな言葉がぴったりくる。ドリフが好きでバラエティが好きでお笑いが好きで、親子でテレビを見て笑う。そんな生活をずっと一緒に過ごしてきた。笑いのたえない人だった。
 おしゃべりで親戚とも長電話して、さっきまで笑ってたのに、今度は電話の向こうの相手に説教していたりする。そんなコロコロ表情が変わる母は見ていて飽きない。ただ、やはり友達にはなれない気がするので、親子でよかったというべきか、仕方なかったというべきか…。
 ただ、ひとつ確かなことは、こんな母にありきたりなお別れは似合わないということで、本人が一番『却下』しそうだ、ということだ。

 施設の人の電話を受けて30分後くらいに施設へ着いて母の部屋へ行くと、もう母の呼吸は止まっていた。時計は、午後1時半をまわっていたかと思う。さっきまでおしゃべりしていたのに、と涙ぐむ施設の人たち。
「間に合わなかったね。ごめんね」
 母に声をかける。お父様を亡くされた友達が、耳は最後まで聞こえてるらしい、と言っていたのを思い出した。だったらもしかしたら届くかもしれないと声をかける。
「ありがとうね。ずっと頑張ってくれて」
 それは私が一番に言いたかった言葉だった。
 もちろん聞こえてたかどうかは、わからない。でもそれは心からの言葉だから。

 父親がいない私は母に育ててもらった。一人暮らしもしなかった私は50年ずっと母と一緒に暮らしてきた。決して母らしくなかったけど、慣れない母親役をがんばってくれた。
 それからお医者さんがくるまで、一週間しか過ごさなかった母の部屋で、看護師さんと母の身体を拭いた。何度も洗ってあげた背中は今まで見た中で一番痩せていて、小さかった。母の二の腕をふにふに触った。昔から、皮がたるんでてモチモチして気持ちいいから、よく意味もなく触った。いい加減触らせてくれたあとで「しつこい」と振り払われるまでがいつもセットだった。
 訪問看護師さんに「どんなお洋服で見送りますか?」と聞かれる。家紋の入った黒い着物があったはず、と頭をよぎるが、いやいや燃えちゃうよな、と考え直す。どうせなら私がいつか着て、母を思い出すほうが親孝行じゃないか?と決める。記憶は少しずつ薄れていく。だから、着物は私が着ようと思った。これからは母のもので使えるものは使いたい。これで、ひとつの指針が決まったような気がした。
 で、ふと目に入ったのは白地に赤いハート柄の半袖長パンツのパジャマだった。もうすぐ夏だというのに長袖のパジャマばかり用意してしまったので、最近、母のために購入したものだった。しかも私はピンク地に赤いハートでおそろいときてる。母はこれを着て旅立ち、私は着るときに母を思い出せばいい。母の旅立ちの服はハート柄のパジャマに決まった。「派手な服が似合っちゃうんだから仕方ない」親子でそう言い合った。「似合うなぁ、私」と母の声で再生されるくらいは、お決まりの台詞。ついでに「娘が着せたのよ。私、80歳すぎてるのに」といいながらもまんざらでもない母。そんなやり取りが、今にも聞こえてきそうだった。
 そしてしばらくしてお医者さんが来た。一通りの診察をして、午後3時3分、母は亡くなった。不謹慎にも「なんという覚えやすい時間」と思った。「そんなうまいことある?」とまで思った。きっと母も同じことを思ったと思う。私たちはもとからそんな親子なのだ。

 医者が帰ったあとも、いつまでもいていいよ、と施設の人は優しく声をかけてくれた。しかしそういうわけにはいかないだろうと私はわかっていた。
 ここは二択だ。家に連れて帰るか、葬儀斎場へ運ぶか。家という選択肢は即座に却下した。母は家に帰りたい人だったけれど、私は一人で母を守り切れる自信がなかった。
 さて、次はどうするか、こういうときは連戦の猛者に聞くのがいい、とケアマネジャーさんに電話をした。この口やかましい母のことをよく知るケアマネさんは、時々母の話し相手になってくれた。いや、一方的に相手をさせられていた。(そして気に食わない返しをすると怒られていたと後日聞いた。ああ、もう、娘として申し訳ない。)
 この母の娘らしく「何からすればいいですか?」とさっぱりした質問に、旅立ちの日までの一般的なやることを教えてくれた。しかし、問題はここからだ。一般的な送り出し方はわかったので、それを踏まえて、さて、どうしよう、だ。母が納得してくれる送り方を選んでいかないといけない。母のことを一番知るのは私で、母を理解しているのも私なので、私がすべて決めるのだ。喪主というのは、挨拶をする人じゃない。最後のプロデューサーなのだ。
 以前から、葬儀をするならここで、と決めていた施設があった。親戚に聞いてみる。やはり自分より年上の人のほうが葬儀に出た回数も多い。すると求めていた答えが返ってくる。こっちは高いけど手厚くて、あっちは安くてイマドキの対応、などなど。自分一人で決めるというのは潔くていい。しかも判断基準が「母が許してくれるのは?」なので、わかりやすかった。
 さくさくと施設に迎えにきてくれる時間、告別式の日取り、などなどが決まっていく。泣くのはあと、悲しむのはあとからできる。今決めるべきことを決める。そう言い聞かせる。 斎場に母と着いて、告別式の内容を決めていく段階で、親戚が来てくれた。3年前に私の母の姉を見送った家族だ。案の定、あれはどうなのか、これはどうなのか、と予想しないシチュエーションの質問が飛び交い、葬儀の担当の方も鮮やかに答えていく。場数をこなした人がいるのは、なんと心強いことか。あと本当に恵まれていると思うのは、親戚たちが私の決定に反対することはなかったこと。私がどうしよう、と聞いたときだけアドバイスをくれたこと。お金を出すのは私だから、というだけではなくて、好きにさせてくれた。まだ50年しか生きていない若輩者に任せるのは不安だったろうと思うのに。でも、きっとこいつはあの母の娘で頑固だからなぁ、と悟っていたからかもしれない。そしてそれは悔しいけど正解だ。
 その日の夜は、おとなしく家へ帰った。
「最後なんだから、一緒に寝たら?」親戚にそう言われたけれど、「いや、帰るよ。体力もたないもん」と即答した。ここから告別式までは、ほぼノンストップで走り続ける。そんな予感がしていたからだ。
 そのとき、ふと思い出した。私を産んだ母は、私を抱く前に『煙草を一本吸わせて』と言った人だった。……やっぱり親子だ。

 諸々考えて家族葬ということで、通夜はせず、告別式だけにした。住職に2日も来てもらうとお布施が高くなるとかそういうことを危惧したわけではないと言いたいが、実際、その浮いたお金で花を飾りたいと咄嗟に思ったのが大きい。とにかく母は花が好きだった。花でいっぱいの斎場の写真は記録に残るし、参列した親戚一同の記憶にも残る。それならお金をかけるところは花だ、と方針を決めた。
 他のこだわりは斎場で流す曲だ。母は美空ひばりが大好きだったので、これはあっさり決まった。しかし問題は選曲だった。4~5曲くらいを選んでくださいと言われたのでひばりの曲を調べながら、母がよく口ずさんでいた歌を選んだ。"川の流れのように"は日本の国歌みたいなものなのでもちろんマストです。
 そのあとで親戚に「斎場で流す曲、何にした?」と聞かれ、美空ひばりであることを伝えたら、母の姉二人も美空ひばりを流したと聞いて驚いた。極めつけは、出棺の曲は"悲しい酒"にしたのだけれど奇跡的に一致していた。ねぇ、あの歌、そういう歌じゃないはずだけど、どうして同じになったの?さすが姉妹、としか言えない。
 そして親戚に「まさか、"お祭りマンボ"とか入れてないよね」と言われ、躊躇なく入れていたことにサーッと血の気が引いた。そうだった。これは告別式だった。カラオケの電リクじゃないんだから。さすがに不謹慎過ぎる……と反省したのは一瞬で、ま、いっか、と切り替えた。
「棺を運ぶときに流れたら神輿みたいになっちゃうんじゃ?」 親戚のひと言に、「やばいね。でも面白すぎる」その場にいた一同が笑った。
 母を笑顔で送り出す準備は、不思議なくらい笑いながら進んでいった。

 告別式当日。参列者は親戚を含め11人だったが、多すぎず少なすぎずのちょうどいい人数だと思った。それに母を昔から知っていて最近、見舞いに来てくれた人たちでもある。昔と今のどちらも知っている人に終わりを見届けてもらえるのはありがたい。
 そして、式が始まる直前、最後に私が注文した、例のブツが届いた。周囲の親戚はそれを見てぎょっとしていた。
 届いたのは真っ赤な薔薇の花束だったからだ。

 斎場のオプションである棺上の花束の写真は菊を代表とした白い花束だった。いかにも告別式のお花です感が強すぎる。これを選んだら母に怒られると確信していた。なんせ、母の日にカーネーションを贈ることを拒む母親だ。花束なのはギリ許されても好きじゃない花を棺に入れるなんて嫌がるに決まってる。
 そこで私が選んだのは薔薇が好きだった母のために、赤い薔薇のアレンジ花束だった。本来、薔薇の花はトゲがあるので棺に入れるのは向いていない。そうでなくても普通は選ばないが、届き先が斎場ということもあり、さすがに電話で確認された。しかも理由に「仏花」がなくて仕方なく「誕生日祝い」を選んだことも、花キューピットの人が「選択肢になくて申し訳ございません」って笑いをこらえながら言っていたのもいい思い出だ。
 いらないものを削ったお金で壇上の花を豪華にして、遠方の親戚が母のために送ってくれた花が飾られ、棺の上には赤い薔薇の花束。たくさんの花に囲まれた中央に、穏やかに笑った母の写真が飾られた。その写真を見た親戚一同が、思わず吹き出した。「これ、いつの写真?」「えーっと、私が20歳くらいだから30年前?」「ちょ(笑)」
 そもそも晩年、母は写真を撮ることを嫌った。理由は、美しくないから、だそうだ。もちろん当社比だ。そんな母が私が隠し撮りやふざけて撮った写真なんかを遺影にしようものなら絶対に怒られる。そこで採用されたのが笑顔の30年前の写真だ。美しいという自信があるから笑顔なのだと思うと、妙に納得できた。
 しかし奇跡が起きたのは、最後の化粧を施した後だ。その顔は遺影の母、そのままだったのだ。親戚も『やっぱり同じ人だったね』と、大変失礼なことを言っていた。……あとで夢に出て怒られても、私は知らない。(私は言ってないからね?)

 お約束通り"悲しい酒"で出棺をして、美空ひばりヒットソングが流れる車で母と火葬場へ向かった。その間、思い出しては泣いたけれど、大半は笑顔でいられたのは、きっと母が満足してくれただろうという確信があったからかもしれない。今でも、これなら文句ないでしょ、と自信を持って言えるお別れができたと思っている。
 骨になった母を見て、生前、痩せて細かった母と比べて「あまり変わらない」とみんなで大変不謹慎なことを言っていたけれど、それもまた「あんたたちは、いつも失礼ね」と脳内で母の声で叱られるところまで想像できたからかもしれない。
 母の身体は亡くなってしまったけど、こういうとき母はこう言う、がイメージできるほどに母はみんなの心の中にいて、愛されていたのだと改めて思った。
 そして母は生前、もちろん面白い人でもあったが、優しい人でもあった。告別式というのは亡き人に感謝して送り出す式なのだと実感した。なぜなら、母の優しさに救われた人が母のお別れに駆けつけてくれたのだと心から思えたからだ。

 遺影とお骨を仮の仏壇に飾ったとき、改めて「おかえり」と声をかけた。本当に帰ってこれなかったんだなぁとしみじみ思ったけれど、もう危ない、と入院してから3ヶ月もお別れまでの時間を過ごすことができたのは、よかったと思う。
 母に玉子焼きを作ってあげたとき、「私が作る玉子焼きみたいだ」と褒めてくれた。あの味にうるさい母が褒めたのは奇跡だった。けど、あのとき母はもしかしたら安堵したのかもしれない。「もう自分がいなくても大丈夫」と。
 ずっと心配でほっておけなかった娘のためにあらゆる危機を持ち前の強運を駆使して回避してきた母には、予定外の長生きをさせてしまったなぁと思う。そして最後まで準備する時間をくれたのかな、とも思う。

 最近の私は、家での独り言が増えた。いや、あえて声に出すようにしている。母が家にいるような気がするからだ。もちろん返事はない。でも、「それ違う」「それでいい」と、母なら何と言うかは不思議なくらい想像がつく。泣いて偲ぶより、笑っていつも通りに過ごす。きっと、それが母の望んでいたことだ。

 笑って送り出すことができた今、私に残されたことは、笑って生きること。それが母から教わった、一番最後の教えだ。

 ありがとうね。ずっと頑張ってくれて。

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