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後妻打ちと鮎之段 — 対比が光った一日《三山》《国栖》

宝生能楽堂の午後。

今日の番組は、《三山》《お茶の水》《国栖》。
どれも「並ぶ」場面が印象に残った。

《三山(みつやま)》

桜子を女性が演じていた。(ツレ、柏山聡子氏)
可憐で、役の質とよく調和していると感じた。桂子(シテ 和久荘太郎氏)との対比が、くっきりと、しかし不思議と違和感なく浮かび上がっていた。

「後妻打ち(うわなりうち)」のクライマックス。
嫉妬に狂う場面のはずなのに、僕の目に残ったのは、二人が並び、打ち合わせる姿の美しさだった。狂気というより、均衡と美。

桂子が桜子の手を取った――いや、触れてはいなかったのかもしれない。
手を添えただけかもしれない。二人は仲良く西へ向かう。どちらが勝つのでもなく、どちらも退かない。後日稽古で先生に聞いたら、「手は添えていたね」。
並んだまま、遠ざかっていく。

全体的に地謡がなんだか「滑らか」だと感じた。たまにあるフライングもない。
イグセで、シテが座ったままじっと動かない時間、大抵はひとりふたり、船をこぐ人たちがいるのだけれど、今回は見所全体が地謡に聴き入っていたようだった。

八人の地謡の声が、一人のシテの声となっていた。

この感想についても、先生に言ってみたら、地謡にいた先生は、「揃っていたでしょう」と少し満足気だった。当然かもしれないけれど、謡っている先生が一番わかるのだろう。

囃子方の大鼓。
この人は、いつも手の構えが鋭くてかっこいい。これは流派の構えなのか、個人のなのか…。

狂言《お茶の水》では、ほっとした。

男女が小唄を一緒に歌い、仲良くなる。
ただそれだけの話なのに、客席に柔らかい空気が広がる。今日はとくに、《三山》のあとだったからか、その微笑ましさが、いっそう明るく感じられた。

《国栖(くず)》の老翁(シテ 木谷哲也氏)は、只者ではなかった。

姿の端正さもさることながら、声の深さに打たれた。
声が、板の上に沈み込むように響く。途中、狂言方のアイが登場する。武士二人が、老翁に問いかける。「耳が遠いのだろう」
そう言って、同じことを二度聞く。空気を読まない。けれど老翁は動じない。さらに強い返答で、武士をびびらせ、追い払う。

あの対比もまた鮮やかだった。
軽さと圧。

そして「鮎之段」。

鮎を川へ放つ場面が、あれほど劇的になるとは思わなかった。
ただ魚を放つだけなのに、そこに儀式の気配が立ち上がる。水の気配が、見えないのに確かにある。老翁の声と所作が、川を出現させていた。

今日は、二つの能で、対比が記憶に残った。

桂子と桜子。
老翁と武士。

並ぶことで、かえって差が立ち上がる。
勝敗ではなく、質の違いが見える。

帰り道、ふと、自分はどちらの側に立っているのだろうと思った。
圧を出す側か、空気を読まずに二度聞く側か。
どう考えても後者だ…。でも、あの声の深さには、少しでも近づきたいと思った。