孤独のすゝめ

孤独とはー
【一般的には「身寄りや仲間がなく、ひとりぼっちで寂しい状態」つながりがあっても「一人だ」と感じる心の状態(主観的な感情)】
その昔自称自分研究家を名乗っていた頃がある。
ふざけて名刺を作ったりしたほどだ。いまではすっかりそのなりを潜めていたのだが還暦目前、ここへきてまた自分研究家よろしくじっくり自己分析してみようかなんてぼんやり考えている。
理由は簡単。朝出勤するのが嫌で嫌でたまらなくなったからだ。働くことは嫌いぢゃない。どうにもこうにもヒトに会うのが嫌で嫌でだれにも会いたくなくないのだ。もはや家から一歩も出たくないほどメンタルがほとほと疲れている。SNSでは毎日のように孤独な独居老人にならないイロハを発信していて常日頃から孤独万歳を謳っているわたしにとってはとにかくチラチラ目障りだ。誤解のないように言っておくが決してアンチなのではない。わからないのだ。孤独=かわいそう的ナンセンスな変換。仲良しこよしの人員確保にせっせせっせと生産される嘘くさいにやけた笑顔。ああわからない。わからないのはなぜなのか?わからないなら考えてみようってなわけで。
昔から団体行動が苦手だった。思春期になるとそのうちどんどん口数も減っていった。寂しいなどと思ったことはない。たったひとりの理解者と何か興味のあることがふたつみっつあればそれでよかった。とにかく一貫して変わらないのは群れるのは嫌い。ただそれだけ。寂しいという単語すらわたしのボキャブラリーにはなかったのかもしれない。だからと言って全く友達がいないと言うわけではない。友達と言う定義がどうゆうものか未だによくわからないが定期的に会いたくなる信頼のおける方もいるし、損得勘定なしにバカが言える飲み友達や同級生もいる。そういうヒトは一応その他大勢とは区別はするものの、自分と他者という線引きは変わらず極めて淡白で飄々としたものだ。それでいいのだ。自分と他者は決してイコールではなくどこまで行っても交わることはない。
ここでよくよく思い出してみると子供の頃からいつも自分と一緒に自分をみているわたしがいた。昔は私の膜の中にわたしがいる、そんな風に表現していたはずだ。だから誰といても落ち着かなくて、実はええかっこしいであるがゆえにヒトといると常にピンと張り詰めていてとにかく疲れるのだ。家に帰ってひとりになってやっと開放される。ずばり面倒くさいやつだ。いつもいつもすんでのところでヒトとの真っ向勝負をうまくかわしてふわりふわりとヒトの波を泳いでいる。いやらしい言い方をすれば世渡り上手と言えるかもしれないがそこにヒトとの関わりは拒否しているので世渡りとは言えない。
ある時は誰もいない静かな水辺、またある時は木々のにほひ漂う森の中、そんな幻のココロのちっちゃなシェルターに逃げ込んでは荒い呼吸を整える。ああひとりきりになるとこんなにもココロもカラダものびのびするというのに。
わたしの思うところの孤独とは限りなく孤高にちかい。では孤独とはなんぞや。
今日はもっと深く深く掘り下げてみよう。今回のこの病の病状は深刻である。とにかく一歩も家から出たくないし誰とも会いたくないそんな気持ちと毎朝毎朝悶絶なるバトルを繰り広げているのだから背に腹はかえられぬ。ただ先に断っておくがこれはあくまでわたしの孤独に対する分析結果である。おそらくこういった性質がゆえに必然的に孤独にならざるをえないとでも言おうか・・・。
その①寂しいと言う感情がよくわからない
その②いくつかの誰にも言えない秘密がある。(これが以外とキーポイントな気がする)
その③ ズボラである(厳密には潔癖・几帳面とずぼらとの美しき共存)
その④飽き性(気分にムラがある)
その⑤お金に細かい(自分に対してはケチだがヒトに対してはケチではない。)
その⑥物欲がない。(モノが増えるのを極端に嫌う)
その⑦食にこだわりがない(実はそれこそがこだわりなのかもしれない)
その⑧ときめきとは無縁(恋愛経験が限りなく少なく興味もない)
その⑨残り寿命が永くない(一般的な平均寿命から換算して)
その⑩両親とも他界している(これはまったくの想定外ではあったが・・)
その⑪野生児である(とにかく山や森が好き。海より山)
その⑫お調子者である(この辺になるとあまり関係ないようなきがするが・・・)
その⑬うそつきとずるい奴は大嫌いだ(いやいやこれは違うんじゃないか?)
まぁざっとこんな感じ。
これを見てなるほどと納得したヒトがどれだけいるだろう。改めて分析してみて自分でもこりゃ孤独に惹かれるのも無理はないなと思う。しかしこう言う社会的生活からくる理由とは別のところに生まれ持った性(さが)だろうとも思っている。
というのも孤独に飢えている状態とは今自分が置かれている状況からの脱出するため手段のひとつである要素が極めて高いからだ。ニンゲンはひとりで生まれてくるが生まれ落ちた場所が紛れもない社会のど真ん中なのだから。生まれ落ちたまま自分のチカラだけで成長することができるとは到底思わない。他のイキモノとて親の慈しみのもとで育てられる場合が多い。そもそも最初から終わりまでひとりぼっちという設定のもとに生まれたならこんなに窮屈な思いやを不満もなく淡々と生きて行けるだろう。そこでふと気が付いた。そう言えば植物はどうだろう。もしかしてわたしが最も理想とするのは実は植物なのではないか?唯一植物だけは生まれてから朽ちるまでたったひとりでその生涯を全うする。
わたしが望むところの究極の孤独つまり孤高の最骨頂は植物になることなのではないか?そう考えるとしっくりする。今まで幾度となく植物になりたいと漏らしていた理由がここにあったのだ。
孤高≒植物 それはわたしの世界だけで成立する理想郷のカタチである。
今年の誕生日にイエローアイコという小さなトマトの苗を植えた。最大の理由は昨年のトマトの高騰に随分泣かされたので来年こそ絶対栽培しようと目論んでいたからだ。食欲がバッサリ落ちる夏のエネルギー源は毎年トマトとスイカとアイスクリーム。5月に植えて6月も終わろうとしている今もうすぐ収穫できるまでにすくすく育っている。考えてみればこの一連の行動さえも、わたしのメンタルの限界を物語っていたとは全く思ってもいなかった。日に日に成長するその姿は潔いその生きざまそのものでなんと眩しく見せつけてくれるのだろう。もはやそれは癒しというより羨望だ。どこにもやり場のないクサクサしたココロは知らずの知らずのうちに自然治癒しようと試みていたなんて。ここまで深く分析し言語化し書くという行為がもたらした収穫だ。ここで忘れてはならないのが読むという行為。読むことこそ今のわたしの唯一の救いだと言っても過言ではない。ただひたすら無心に読む読む読む。現実逃避と言われればそれまでだが読むと言うシェルターがあってこそなんとかココロのバランスが保たれているのだからしょうがない。
【読む】と【書く】
なんだかまるで反対語のような響きだが読むも書くどちらも紛れもなく能動的行為だということをうっかり忘れてしまう。
【ACTIVE。】
なんだかちょっとくすぐったくはあるもののやけに爽やかじゃありませんか?たとえどちらも薄暗い部屋でこそこそ行われる行為だとしてACTIVEなのだと思えば孤高というものが卑屈でゆがんでいそうなイメージもシュッとしたように感じられるから不思議である。(これはわたしだけかもしれないが・・・)
さてメンタルの著しい低下により枯渇した孤独欲を満たすためにおそらく四半世紀ぶりに始めた自分研究家の自己分析。結果は意外な展開へと寄り道しちょっと本筋とはそれてしまった感は否めないが、なんだかストンとココロの中にきれいにすっきり着地した。どんなに頑なに孤高で生きようと思ってもリアル社会では夢のまた夢。そんな世界はどう転んでも不可能なのだから。ヒトとして生まれ落ちた以上どんなにもがいてもいやらしくべったりからみつく蜘蛛の巣のようなしがらみの中でジタバタするのが関の山。いやというほど積み上げられた無駄に多い社会経験は自分の生きざまとして誇れたものではない。そもそも自分の生きざまなど実につまらないもので、足の踏み場もないほどにわたしのまわりに散らかったためいきは掃いても掃いても積もってくるものだ。
この国の大多数のヒトは孤独になることになんとなく不安を感じわずかながらそうならないような前後策講じるのだろう。それはそれで否定する気はないしその資格もない。そういうコミュニティの中でせいぜい仲良しこよしの輪を広げそこにそれなりのふさわしい日々の営みがあればそれでいい。もちろんわたしのような孤独万歳の偏屈もゼロではないと思っている。一握りの同志たちよ、無言のエールを送ろうではないか。それぞれ思い思いの孤独のカタチがこの殺伐とした広い宇宙至るところで慎ましくも美しく芽吹く日もちかいのではないかと思う。ヒトの生きざまは個々のものであり優劣や良し悪しで比較できるものではない。あふれる情報による孤独の解釈に己の生きざまを照らし合わせてはあわてふためいたり撃沈する必要もない。孤独とは全ての時間を自分だけに与えられた贅沢だと思えるようになればたとえ突然終わりが訪れても「じゃあね」と颯爽と旅立つことができるのではないかと思う。
あなたにとっての孤独とは何ですか?
