マヨネーズになれない二つの気持ち、優しさと誠実さは反比例?
「優しさと誠実さは反比例する」
ある日、そんな言葉が胸に落ちた。
優しいがゆえに時に嘘をつく。
誠実がゆえに時に事実を突きつける。
あなたを一生幸せにすると言い切ってしまうのは「優しい決意」だけれど、それは決して誠実ではない。何があっても絶対に幸せにすると「言わない」「言えない」ことのほうが、本当は誠実なのだ、と。
この言葉をめぐって、ある人と対話をした。そのなかで見えてきたのは、優しさと誠実さだけではない。正しさ、責任、現実。優しさ、嘘、思いやり。それらは油と水のように、どうしても分離してしまうものだという切なさだった。
「出来ることなら上手く混ぜて、マヨネーズみたいになればいいのに」
そのひと言が、妙に胸に残った。マヨネーズは本来混ざり合わない油と水(酢やレモン汁)を、卵黄という乳化剤の力でとろりと繋ぎとめる。だとしたら、私たちのなかで相容れない二つのものを「乳化」させる卵黄とは、いったい何なのだろう。
「絶対」を手放すところから始まる、もう一つの約束
「あなたを一生幸せにする」という言葉は温かい。
でも、その温かさは「絶対」という言葉がまとったベールであって、現実を直視したものではない。未来を保証できない人間が「絶対」と言った瞬間、そこには多少なりとも嘘が混ざる。相手をがっかりさせたくないという優しさが、誠実さを少しだけ犠牲にする。
いっぽうで、誠実であろうとする人は「絶対に幸せにする」とは言わない。言えない。
それは冷たく響くかもしれない。相手が欲しい言葉を与えないという点で、時に残酷ですらある。
でも、ここからが本題だ。
「絶対に幸せにする」と言わないことと、「幸せにしたいと思っていない」ことは、まるで違う。
「絶対」という言葉を手放したあとに、なお残るものがある。それは「自分の限界を知りながら、それでもあなたと向き合い続ける」という、静かで地味で不器用で、けれどとても強い決意だ。
これはもう「優しさ」か「誠実さ」かの二項対立ではない。優しさのなかに誠実が溶け込み、誠実のなかに優しさが散らばった「乳化」の状態に近い。
乳化剤は「傷ついた経験」と「それでも離さない気持ち」
では、どうやってその乳化は起きるのか。
私のなかでは「ちゃんと人を傷つけて、自分も傷つかないと、なかなかその境地には行けない」という実感がある。
優しさだけを選んで嘘をついた結果、相手を傷つけた。誠実さだけを選んで事実を突きつけた結果、やっぱり相手を傷つけた。そして、そのたびに自分も傷ついてきた。
そういう経験を経て初めて、「優しい嘘」でも「冷たい誠実」でもない、第三の態度がかたちを帯びてくる。
精神分析に「抑うつポジション」という概念がある。
もともとはメラニー・クラインが提唱した乳幼児の発達段階の用語だが、大人になっても繰り返し訪れる心の態勢を指す。それは「自分は愛する相手を傷つけてしまった」という罪悪感や悲しみを引き受けられるようになる心の位置だ。
理想化して傷つけまいとするのでもなく、傷つけた事実を否認するのでもなく、「傷つけた。でも、それでも関係を修復したい」と思えること。
社会学者ゲオルク・ジンメルは、親密な関係のなかでこそ互いの全体性を受けとめきれないもどかしさが生まれることを「関係の悲劇」と呼んだ。
コミュニケーション学では、親密な関係に常に矛盾した力が働くことを「関係性の弁証法」という。どちらも、私たちが「優しさと誠実さ」のあいだで引き裂かれるのは必然であり、成熟とは矛盾を解決することではなく、矛盾を抱えたままでいることだと教えてくれる。
つまり、乳化剤の正体は「傷ついた経験」であり「それでも離さない気持ち」であり、なにより「矛盾を矛盾のまま抱える時間」そのものなのだと思う。
愚者の経験と、賢者の歴史。そして、再現性のない痛み
私は「愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉が好きだ。
たしかに、歴史から学べるのは「パターン」だ。
過去に同じような過ちがあり、どんな結末を迎えたか。
それは知識として頭に入れられる。でも、ある特定のあなたと、ある特定の誰かのあいだで生まれた傷は、教科書のどこにも載っていない。二度と同じ形では起こらないし、マニュアル化もできない。
傷ついた気持ちは、エッセイ小説を読んだり、誰かから教わって身につくものじゃない。人と人との関係性のなかで育つ、再現性のない感情なのだ。
だからこそ、いくら賢者が「人を傷つけると、あとで自分も苦しむぞ」と警告しても、その痛みの質は実際に傷つき、傷つけるなかでしか決してわからない。
歴史から学べない「新しい傷」を、自分の手で引き受ける覚悟。それがそのまま、相手との関係を唯一無二のものにする。
マヨネーズの乳化だって、レシピ通りにやれば必ず成功するわけではない。そのときの温度や湿度、手の動きで、今日はうまく混ざらない日だってある。
過去の成功例をいくら学んでも、目の前の油と酢が今日混ざるかどうかは、いまこの関係のなかでしか確かめられない。
だからきっと、傷ついた気持ちは「学ぶ」ものではなく「授かる」ものなのだ。誰かと本気で向き合ったがゆえに、偶然のように、しかし必然のように、自分のなかにだけ生まれる感情。再現性がないからこそ、それはかけがえのない重さを持つ。
それでもマヨネーズをつくるという気持ち
正しさと優しさ。
誠実さと思いやり。
それらは、やっぱりきれいには混ざらない。
完全に溶け合って一つの味になる日は来ないかもしれない。でも、マヨネーズだって均一の溶液ではない。無数の小さな油の粒が、水のなかに散らばった「乳化」の状態でしかない。
それでいいのだと思う。
互いの粒を認め合いながら、分離しないかたちで共存している。それこそが、私たちが目指せるリアルな「混ざり方」なのかもしれない。
賢者であるよりも、愚者としてそのつど傷つきながら、誰かとの「一回きりの乳化」に手を伸ばす。派手な誓いよりも、「絶対」を手放したあとの静かな決意を選ぶ。
それでも混ざらない二つのものを、それでも混ぜようとし続けること。
それがきっと、私たちにとっての「優しい誠実さ」であり「誠実な優しさ」なのだと、私はそう思う。
