推しを推すということは、自分の信仰を表明すること──ふるっぱーである僕が『イン・ザ・メガチャーチ』を読んで
今年(2026)の本屋大賞である朝井リョウ著作の「イン・ザ・メガチャーチ」を読んだ。この小説に関する感想を読み漁っていると、ある共通点に気づく。
多くの人が「推し活はしていないけれど共感した」という立ち位置から書いている。朝井リョウと同じ目線、つまり俯瞰する視点に自分を置いて読んでいる。
それはそれで誠実な読み方だと思う。でも僕は少し違う立場から読んだ。
僕はFRUITS ZIPPERを推している。KAWAII LAB.全体が好きで、中でもオレンジの子(おすず)を応援している。熱心な信徒かと言われると、ライブに何十回も行くタイプではないし、グッズを買い漁るわけでもない。でも、友人に「FRUITS ZIPPERはいいぞー」とおすすめする。そういう意味で、この小説に出てくる「のめり込む側」に、僕はかなり近い場所にいる。
だから僕は、当事者として読んだ。そしてそこから見えたものは、俯瞰した人とは少し違って見えるかもしれない。
「推す」という行為の本質
朝井リョウはこの小説の中でこんなことを書いている。推すという行為は、自分が信じたいものを表明することだ、と。
これを読んだとき、僕の中で何かが整理された。
FRUITS ZIPPERのコンセプトはNEW KAWAIIだ。「どんな自分も、どんな相手も、NEW KAWAIIよね」というメッセージで、多様性と受容を音楽とパフォーマンスを通じて発信している。
僕がFRUITS ZIPPERを好きな理由は、もちろん楽曲の良さや彼女たちのパフォーマンスにある。でも突き詰めると、そのコンセプトが自分の信じたいものと一致しているからだと気づく。「誰かの物差しで自分を測るのをやめよう」というメッセージを、彼女たちは歌い続けている。それを推すことで、僕は自分がそのメッセージを信じていることを、外の世界に表明している。
推しを推す行為は、自己表現であり、価値観の宣言だ。朝井リョウはその本質をこの一言に凝縮していた。
布教という行為の自覚
そして気づいたことがある。僕が友人にFRUITS ZIPPERを勧めるとき、それは布教だ。
朝井リョウが描く「視野を狭める」行為と、構造的にはまったく同じだ。自分が信じるものを他人に伝えようとする。自分のコミュニティに引き込もうとする。悪意はないし、強制もしない。でも、自分の好きなものが世界の中心にある、という前提で動いている。
それを自覚したとき、少し苦笑いした。僕も立派にメガチャーチの信徒だなと。
「視野を狭める」を別の角度から読む。
多くの書評がこの小説の「怖さ」として取り上げるのが視野狭窄の描写。推しにのめり込むことで、外の価値観が見えなくなっていく。自分を守るための選択が、結果として世界を小さくしていく。
でも僕はここが少し引っかかる。
視野を狭めるということは、主観的に生きるということではないか?
客観的に正しい生き方なんてものは存在しない。何に時間を使うか、何に熱量を注ぐか、誰を応援するか——それはすべて主観的な選択だ。周りからどれだけ「それは意味がない」「もっと現実的なことをしろ」と言われても、好きなものが好きという状態を保てること。それは弱さではなく、自己決定の一形態だと思う。
FRUITS ZIPPERのNEW KAWAIIというコンセプトは、まさにここに接続する。他者の物差しで自分を測ることをやめて、自分が「かわいい」と思うものをかわいいと言える——そのための勇気を、彼女たちの音楽は与えてくれる。
「視野が狭い」は本当に危ないのか?
もちろん、視野の狭まりが行き過ぎれば、現実から乖離していく。それは本作が丁寧に描いている。推しの言葉を絶対化し、陰謀論に傾き、セルフネグレクトに至る人物の描写は、読んでいて背筋が冷える。
でも、視野が狭まること自体を、一律に危うさとして語るのは違う気がする。
大切なのは、「狭まっている」という自覚があるかどうかではないか。自分が主観的な選択をしているという認識を持ちながら生きることと、その選択が絶対的な真実だと信じ込んでしまうことは、まったく別の話だ。前者は生き方の表明であり、後者は朝井リョウが描く「信仰の罠」だ。
「救いか搾取か」という二択を超えて
書評の世界でよく見る問いがある。「推し活は救いなのか、搾取なのか」という問いだ。
これ自体は鋭い。でもこの二択は、ある前提を暗黙のうちに持っている。仕掛ける側と仕掛けられる側という、非対称な権力関係を所与のものとした上で、「仕掛けられる側はどう評価されるか」を問うている。
でも朝井リョウが描いているのは、その評価ではない。なぜ人は物語を必要とするのか?という問いだ。
孤独があるから、不安があるから、「ここにいていい」と言ってくれる場所を求める。その心理は普遍的で、推し活に限ったことではない。依拠する先がアイドルであれ、仕事であれ、宗教であれ、コミュニティであれ——その人がその人らしくいられるのなら、外側から否定できるものではないと思う。
問題は、その選択を「した人」ではなく、その選択肢を「設計した人」の側にある。
仕掛ける側の倫理という問題
この小説で最も静かに怖いのは、仕掛ける側の人間が登場する場面だ。
彼らは悪人ではない。むしろ、人の心を動かす物語の力を誰よりも深く理解している人たちだ。そしてその理解を使って、ファンダム経済という構造を設計する。「神がいないこの国で人を操るには、物語を使うのが一番いい」という台詞が、読後もずっと残っている。
これはファンダム経済だけの話ではない、と読みながら思った。
AIを作る側にも、全く同じ構造がある。
推薦アルゴリズムは人の「好き」を学習し、次に「好き」になりそうなものを提示する。コミュニティ設計は、人が自然に留まりたくなる動機を作り出す。UIの細部は、次の行動を誘導するように設計されている。それは便利さであり、同時に依存の設計でもある。
ファンダム経済を作るプロデューサーも、SNSプラットフォームを設計するエンジニアも、AIのアーキテクチャを考えるリサーチャーも、同じ問いの前に立っている。自分たちが提供する仕組みが、人をその人らしくするのか、それとも人を物語の中に閉じ込めるのか。
その倫理観と目指すべき方向性を自覚した上で動くこと。それが今の時代に「仕掛ける側」にいる人間の責任だと思う。そしてそれは、仕掛けられる側もある程度理解しておく必要がある。構造を知ることで、依存と選択の境界線を、自分なりに引けるようになるから。
それでも僕はFRUITS ZIPPERを推す
朝井リョウはこの小説で、答えを出さない。肯定も否定もせず、ただ「こういう構造がある」と見せてくる。読後にモヤモヤが残るのは、作者がわざとそうしているからだ。
僕の答えは、シンプルだ。
構造を知った上で、それでも好きなら推せばいい。
ファンダム経済の仕組みを理解した上で、仕掛ける側の倫理を問いながら、それでもNEW KAWAIIのメッセージを信じてFRUITS ZIPPERを聴く——それは十分に自覚的な選択だと思う。
視野が狭まっていることを自覚しながら、それでも主観的に生きることを選ぶ。外の物差しよりも、自分の「好き」を信じる。それがこの小説を読んで、僕が改めて確かめたことだった。
布教は続ける。でも、その構造は知っている。
朝井リョウがこの小説で示したことをひとことで言うなら、たぶんこういうことだ——その宗教の方向性を理解して、正しく狂え。盲目的に信じるのでも、冷笑的に距離を置くのでもなく。どこに向かって狂うかを、自分で選ぶこと。それが今の時代に生きることの、ひとつの答えなんじゃないかと思っている。
