梅雨の合間の天然色な会話劇

あらすじ
 中学時代、百瀬彩加への告白を「言葉足らず」と評され失恋した綿原聡助は、それを機に読書へ没頭し、文学作品の言葉を引用して話すようになる。
 高校で百瀬と再会した二人は、互いに孤立した学校生活を送っていた。
 男友達を求める綿原は、不登校の相澤周作と親しくなり、周作も公開告白をきっかけに登校を再開する。勢いに乗った綿原も百瀬へ再び公開告白し、「保留」という返事を得る。
 四人での食事や映画を通じて距離を縮める一方、綿原に想いを寄せる愛子の失恋が相澤との友情に亀裂を生む。
 綿原と百瀬は映画デートを抜け出して海で想いを確かめ合い、恋人となる。しかし交際を始めた百瀬は綿原への依存から陸上の成績を落とし、コーチは別れを勧める。綿原はその考えに疑問を抱き、百瀬が力を発揮できる条件を分析しながら支える道を選ぶ。
 その結果、百瀬は競技で本来の力を取り戻していく。物語は、言葉に悩む少年が人との絆を通じて成長し、恋愛と友情の葛藤を乗り越えながら、互いを支え合う関係を築いていく青春群像劇である。

「梅雨の合間の天然色な会話劇」
   The Fructose

 第一話 男友達が欲しい。
 第二話 ボッチなのをなんとかしたい。
 題三話 逃げたい。
 第四話 笑いたい。
 第五話 駆け抜けたい。
 エピローグ

  第一話 男友達が欲しい。

 6月末の梅雨真っ只中だ。
 暗々としたネズミ色の雲が空に充満している。しとしと街に、鉛色の雨を降らせる。
 私立陽映学園高校1年A組、その教室の窓から俺はボーっと外を眺めていた。透明色の雨粒の流れが邪魔で、よく見えやしなかった。
 湿気は我が天パの、あるいは全ての天然パーマの敵である。髪のクセが強まり、絡むのだ。
 教室窓際の一番後ろ。そこが俺の席だった。まだ着慣れない学校指定の水色のシャツに袖を通している。ちなみにズボンは茶色だ。
 雨音が聞こえる。
「はー」と窓に息を吹きかけて白く曇らせる。そうして、そこに「名前」を書く。
 俺は隣に座る百瀬を見遣った。彼女はすっかり昼食を食べ終えてしまって、教科書を開いていた。次の授業の予習でもしているのかな?
 百瀬は美しかった。
 ぬばたまのような黒い髪。手触りのよさそうなさらっとした質感のショートヘア。上下の睫毛がとても長い。故に横から見ても彼女の目さ大きさが分かる。耳の形すら美しい。人形のようだ、と形容して然るべきだろう。常軌を逸している。
 そんな百瀬の肌は亜麻色に焼けていた。陸上部に所属しているためだ。
 俺は彼女に声を掛けた。なんてことない話題だ。
「なぁ百瀬、なんで俺らはボッチんだろうな?」
 教科書に目を落としていた百瀬が、顔だけこちらを向いた。
「あなたと一緒にしないで。私は『陸上部のエース』よ」
「俺だって文芸部じゃあ上手くやってる。なのになんで教室じゃボッチなんだろうな?」
「なに? あなた友達が欲しいの?」
「そりゃ欲しいさ」
「じゃあどうして行動しないの?」
「そりゃ俺が綿原って苗字で、教室の角の席に座ってて、地政学的に男子が近くにいなくて、担任教師が席替えをしてくれなくて――」
「言い訳はいいのよ」
「事実なんだが?」
 座席は「あいうえお順」である。廊下側の一番前の「あ」、相澤から始まり、窓際の一番後ろの「わ」、綿原で終わる。俺が最後尾というわけだ。
「あなた席替えしてほしいの?」
「してほしくないよ。してほしくないけど、事実だからなぁ」
「あっそう」
「ついでに言えばこの学園に同じ中学から進学してきた生徒がお前しかいなくて、文芸部にも俺と女子が二人しかいなくて――」
「言い訳はいいのよ」
「事実なんだが?」
 上級生には同じ中学出身のOB・OGがそれなりにいるようだが、今年は俺と百瀬の二人しか入学していなかった。
「『偶然ではない。事実と事実が手を繋ぎ、運命と化す』とスタンリー・サマーズも言ってる」
「誰よ、それ」
「アンナ・エイリーが書いた小説の主人公」
「あっそう。じゃあボッチがあなたの『運命』なんじゃない?」
「そうなのかなぁ。どう思う? 渡辺さん?」
「ええ? わたしですか?」
 前の席に座る彼女はびくりと跳ねてこちらを向いた。豊満な、そう、豊満なバストが揺れる。
 ちなみにだが、百瀬のバストは貧相である。陸上競技者としては都合よさそうなのだけれども……。
 閑話休題。
 渡辺もまた、この上ない美少女だった。
 黒目がちで大きな目、スーッと鼻筋が通っており、唇はぷっくりと厚い。彼女は百瀬と同じく小顔であり、几帳面な神の手によって顔の各部品は配されていた。
 髪型は何にも染まらぬ黒のおさげ。俺は授業中、その二本のおさげの間に垣間見える“うなじ”をよく見つめている。
「この教室に渡辺と言う苗字の人物はキミしかいないよ?」
「な、斜め前の村川さんと仲良くすればいいんじゃないかな?」
「村川さんはいつも休み時間席にいないし、なにより村川さんも女生徒だ」
「そ、そうですね……」
「オセロってあるだろう? 大人が子供と遊ぶ時さ、ハンデとして最初に角に石を置かせてあげるじゃないか。その石が俺ってわけだ」
「ならその大人は、大人げなく角の黒石の周りを白で固めたのね」
「なぁ、なんで俺が黒なんだ? 黒星みたいで不吉じゃないか。ルシア・リスゴーがさ、『なぜ赤いドレスを着ているの? 黒を着なさい。今宵、貴女の伴侶は亡くなるのだから』と言って煽るだろう?」
「誰よ、それ」
「ハリエット・ヒッキーが書いた小説の悪役嬢」
「あっそう。じゃあ『白』なら満足なわけ?」
「『白石! 裏切り者、白石! いま斬り捨てる!』と笹部十蔵は言うんだ」
「誰よ、それ」
「倉敷大志が書いた小説の脇役」
「あっそう。どうでもいいわ」
「渡辺さん、キミも同意見かい?」
「えっと、その――」
「同意見よ」
「なんで百瀬が答えるんだ?」
「心の声を聞いたの」
「そうか。渡辺さんも裏切り者か。斬り捨てなくちゃね」
「う、裏切りって……」
「ちなみに白石と笹部はそのあとどうなるの?」
「笹部が返り討ちに遭う。脇役だからね」
「ちなみにあなたは男友達を作ってなにがしたいの?」
「エッチな話がしたい」
「なにか小説から引用しないの?」
「うーん……。思いつかないなぁ……」
「あっそう」
「梅雨明けはまだ先らしいね」
「そうね」

  *

 放課後、1年A組の教室を出て左へ歩む。
 そのまま教室棟にサヨナラし、文化系の部室が集まる文化部棟へと入った。文化部棟内はホワイトを基調とした壁に四方を囲まれている。だが少し茶色くくすんでいた。真っ先に目に飛び込んでくるのは、上階へと続く階段である。降りてくる生徒と駆け上っていく生徒。パタパタと音を立てて昇降している。
 かれこれ4月中旬以来、もう何度もここを通っている。そのため、馴染み深い騒音、見慣れた景色だ。
 階段を尻目に一階の長い廊下を進んでいく。各部室を素通りする中、室内から話し声が漏れ聞こえてきて、賑わいを感じる。
 そうして俺は、奥から2番目の部屋の前まで辿り着いた。
 そこが文芸部の部室である。
 俺は三度ノックし、扉を開く。
 十畳以上はゆうにある部室内は、広いようだけれど狭く感じる。なぜなら左右の壁に薄茶色の本棚が敷き詰められているからだ。扉の向かいの壁に嵌め込まれた窓には、ブルーの遮光カーテンが敷かれている。本が直射日光に晒され、劣化してしまうのを防ぐためである。
 室内の真ん中辺りに教室机が四つ、向き合うように島になって配置されている。
「あら、今日は遅かったわね?」
 堀田部長がそう言った。扉の前に立つ俺から見て、彼女は右奥の机に着席している。横向きだ。
 彼女の隣、つまりは手前の机の上には白色の電気ケトルと青のカップ、黄色いカップ、そしてドリンクのフレーバー各種が置かれている。
 ちなみに部長の机の上には緑色のカップが置かれていた。中身は間違いなくコーヒーだろう。
 堀田部長の髪型は茶色掛かったショートヘア(色は地毛だそうだ)である。一重瞼は黒目がちで、鼻は低いほうだが形は整っている。顔全体の印象として大人びており、美人と形容すべきだろう。
 俺は彼女の目の前の席に腰を下ろしながら問いかけに答えた。
「帰りのホームルームが長引いてしまって」
「ボクみたいにサボってしまえばいいのに」
「俺は品行方正なんですよ。エイベル・アトキンソンほどではないですけどね」
「彼は生真面目というより、神経質だから品行方正とは少し違うんじゃないかしら?」
「確かにそうですね。ならチャド・カーターにします。『カウンセリングを時間いっぱい受けていたんだ。約束の時刻に遅れてしまっても仕方ない』」
「うふふっ。エスプリが利いているわね」
 そう述べてから、部長は立ち上がった。
「今日もコーヒーでいいかしら?」
「お願いします」
「ガッチャ」
 部長さまにドリンクの用意をさせるのは気が引けるものだが、もう慣れてしまっていた。とにかく電気ケトルとコンセントは部長がよく座る座席の近くにあって、そして彼女は気遣い屋さんなのだ。
 そうしてホットコーヒーが入った青色のカップが届けられる。
「ありがとうございます」と謝辞を述べたが、コーヒーは放置した。6月末、蒸し暑い時期だ。ホットコーヒーにすぐさま口をつける気にはなれなかった。
 ぽつぽつと雨雫が窓を叩く音がする。雨音だ。雨音が聞こえる。
「新入部員の勧誘を強化しましょうよ」
「男子部員が欲しいからかしら?」
「そうですよ。それに部活として認定されるには三名以上の所属が必要でしょう? 部長が卒業したら、文芸部は廃部なんですよ」
「幸いなことにボクはまだ2年生よ。まだ焦る時期ではないわ」
「けれど、今年は危なかったでしょう? 部長しか部員がいなくて、俺と美浜が入部してなかったら廃部だったんですよ?」
「別に危なくはなかったわよ? 兼部でいいなら、と名義を貸そうとしてくれた友人がたくさんいたからね」
「嫌味ですか? その友人とやらがいない俺に対しての」
「うふふ」
 嫌味だったようだ。
「そんなに男友達が欲しいのなら、キミのクラスの村川くんに相談したらいいんじゃないかしら」
「どうして村川さんの名前が出てくるんです?」
「よく話してくれるじゃない。すごく美人だけれどチャラいって」
「だから?」と俺は首を曲げた。
「その子にカレシがいれば紹介してもらえるでしょう?」
「確かに! 堀田部長、天才!」
「カレシがいなくても、相談するだけしてみたらいいと思うわ。ここで管を巻くよりはね」
 その手があったかー、と思っていると、部室の扉がノックされた。
「もう皆さん揃っているんですね」
 現れたのは1年C組所属の美浜である。言わずもがな、女生徒だ。
 背中までの長さの黒髪。それはよく櫛でとかされており、天使の輪のような光沢を放っている。病人と見紛うほどに肌が生っ白く、四肢も細い。ほんのちょっぴり面長で、大きな目と、これまた大きな鼻を持っている。唇は薄い。印象としては女子受けしそうなカッコいい系の顔立ちだ。
 美浜は律義に音が鳴らないよう扉を閉めた。そうしてから俺の隣の席に腰掛ける。
「美浜くんは紅茶よね」
「はい、お願いします」
 三人集まってなにをするのかというと、読書である。文芸部なのだから。
 だが一人、美浜だけは本を開きながら、その文章をそのままノートにしたためていた。
 美浜は小説家志望だ。この行為はスラングで「写経(本の文章をそのまま書写すること)」と呼ばれるものである。書写することによって、単語・文章の取捨選択、あるいは文体を作家の身になって体験することができるのだ。
 美浜からは日頃「気にせず、どうぞ」と言われているので、俺は堀田部長と言葉を交わす。
「部長、女の子同士でもエッチな話はするんでしょうか?」
「うふふっ」と部長は笑う。
 そして美浜は動かしていたペンを止めた。
 俺は部長から賜った提案の「次善策」を思いついていたのである。
「そうねぇ、する子もいると思うわ。ボクはその輪に加わらないけれどね」
「美浜もしなさそうだな。むっつりだから」
「なんですか、もう! 綿原さんはいつもそうやってワタシをからかって!」
「いいじゃないか、別にむっつりでも。ほら、ミコル・マルコーニが書いてるだろう?『秘することは悪ではない。自身の棘にならない限りは』ってさ」
「もーう!」
 ぷりぷりと美浜は怒った。俺はじゃれつくネコを想起した。
 ちなみに美浜は「自作小説を書いていること」も、ここだけの秘密にしている。俺は秘密裏に、ではなく声に出して「頑張れ」と応援の言葉を掛けている。
 落ち着いたところで、俺は「ふぅ」と一息つく。
「それにしても、どうして男友達ができないんでしょうか」
「綿原くんはいつもそれね。『百度言えど、変わらず』と言うでしょうに」
「変わらず、じゃあダメなんですよ。俺が想像していた高校生活と乖離しすぎているんですから。まるでSFで言うところの『パラレルワールド』にいる気分です」
「なら、別の平行世界にいる綿原くんは一体どんな生活を送っているのかしら?」
「そりゃあもう、男友達と一緒に下校して、コンビニへ寄って買い食いなんかして、そしてエッチな話に花を咲かせるんです!」
「じゃあ、部活はどうするのかしら?」
「仲の良い友人と同じ部活に入るでしょうね。運動部なら共に汗をかき、文化部なら共に成果物を作り上げるんです」
「文芸部はどうするの?」
「残念ながら名義貸し状態になるでしょうね。俺は友達と豪遊するのに忙しいので」
「ダメですよ!」
 そう言ったのは美浜だった。飛び跳ねたウサギが声を上げたかのようだった。
「文芸部にはちゃんと来ないと!」
「えー、なんで?」
「そ、それは、その……」
 美浜は口ごもった。なにか言いたいが、その言葉を探している様子だった。
「……ワタシと部長の二人ボッチになっちゃうから、です」
 随分と思案した割りには普通の言葉が出てきたな、と俺は思った。作家志望の彼女である。ウィットに富んだ言い回しを期待していたのだが。
「ボクと二人ボッチじゃあイヤかしら? うふふ」
「い、いえ、そういう意味では決してなくってですね、その、なんと言いますか……」
 美浜はそれ以上言わず、紅茶をすすった。
「うふふ。『秘することは悪ではない』のよ、美浜くん?」
「はい……」
 なにか二人の間で通じ合っているようだが、俺には皆目見当つかなかった。
 このようにして文芸部での日々は、今日に至るまでつつがなく過ぎてきた。静かに、ゆったり、まったりと。

  *

 翌日も雨は降り続いていた。雨脚は昨日より強まっており、しとしと、とざーざーの間、さーさー降りと言ったところか。
 前日、ネズミ色だった雲は、黒寄りにカラーコードを進めていた。
 繰り返しになる。湿気は天パの敵である。手櫛でとかそうとすると指に引っかかり、頭皮が痛む。
 そんな中、お昼休み前の最後の休み時間に、俺は決意したことを百瀬に告げる。
「なぁ百瀬。お前の言う通りのことをしようと思うよ」
「思い当たらないわ」
「『行動してみろ』と言っていただろう? それに堀田部長と渡辺さんからもアドバイスをもらっているしね」
「わ、わたしですか?」
 渡辺さんは飛び跳ね、振り向いた。
「あーぁあ、渡辺さんのせいよ」
「え、ええ? わたしのせいですか?」
「そうさ、渡辺さんがもたらすんだ。吉凶禍福の区別つかない未来をね」
「仕方ないわよ、渡辺さん。誰かが責任を取らなくちゃいけないんだから」
「責任っ? そ、そんなぁ……」
「まぁ責任と言っても、上手くいかなかった時だけの話だから安心してよ。上手くいったら俺の手柄になるんだからさ」
「それ、責任の押しつけですよね!」
「少しニュアンスが異なるけれど、トカゲの尻尾切りだね。いやはや、それにしてもトカゲってのは“サイコパスみ”のある生き物だよね。自身の身体を手ずから切断するんだもの」
「“ヤバみ”がヤバいわね」

 そうして迎えたお昼休み。席を立とうと腰を浮かせた“彼女”に、俺は声を掛けた。
「村川さん、村川さん!」
 彼女は腰を下ろした。
「お? なんだよ? えーと……」
「俺の名前なら綿原だよ」
「渡良瀬、何の用だ?」
「綿原ね!」
「どっちでもいいじゃんか」
「よくないよ!『釣り上げた鯛に名前をつけようと思う。“体”を表すと言うからには――』いや、いまはいいか。とにかく俺の名前は綿原だ」
「へぇ、そう」
「村川さんは休み時間、いつもどこへ行ってるの?」
「なんでそんなこと聞くんだよ?」
「今日、そこへ連れていってくれない?」

  *

 散々階段を上りに上って(1年生の教室は一階にある)連れてこられたのは屋上扉前だった。
 余って使われていない教室机が屋上扉の前に固めて置かれている。薄暗くて全面灰色に見えるが、埃っぽくはなかった。
「村川、遅かったジャン」
 青髪の女生徒が待ち受けていた。彼女は教室机の上に乗せられていた椅子を下ろし、そこに腰掛けていた。
 村川さんも彼女同様に椅子を下ろして座るので、俺も真似た。
 ちなみに村川さんの髪は真っ金々だ。色白小顔で、目が大きい。それはきっとメイクのせいじゃない。加えて高い鼻は整った形をしている。そして桃色のリップが塗られた少し厚めの唇が、顔全体に「可愛らしい」という印象を付与していた。
「遅くなったのはコイツ、えーと……」
「綿原ネ! いい加減、覚えてくれよナ。クラスメイトなんだゾ。特に、俺は村川さんの斜め後ろに座っているんだからサ」
「まぁ、この綿原ってヤツがついてきたがったんだ」
「ふうん? なにしに? あっ、ウチは桜井ねー。よろー」
「よろー」
 ここは二人に合わせるとしヨー。
「ちょっと人を紹介してほしくってネ!」
「紹介?」と桜井さんが小首を傾げる。
「カレシっている?」
「……はぁー」
「……おいおい」
 村川さん、桜井さんの順に発声した。いや、村川さんのそれは音が鳴るほどの溜め息である。
「えっ、なにナニ? 急にどしたん、二人とも?」
「村川、おめぇから言えよ……。おめぇが連れてきたヤツなんだから……。ウチの口から言わせんな?」
「あんな、綿原……。アタシらにカレシがいたら、こんなところで“たむろって”ねぇんだわ」
「え……。俺にカレシさんを紹介してくれるって話は……?」
「んな話してねぇだろ!」
 確かにー。してなかったワー。
「カレシができたら、ここから卒業していくシステムなんさ」と桜井さんが教えてくれた。
「……そんで、江崎はいなくなった」
 哀しみー。
「俺の『人づる式作戦』失敗ジャン……」
「んだよ、その作戦!」
「俺サ、男友達が欲しいんよネー。だから、キミらにカレシさんを紹介してもらおうって算段だったんだケド、サ……」
 以降は基本的に村川さんが応対してくれた。桜井さんがスマホをイジり始めたからだ。
「男友達ねぇ……。そんなもん、アタシらが欲しいわ」
「エッ? みんなそんな“なり”してなに言ってんのサ?」
「アタシらにどんなイメージ持ってんだよ!」
「ヤリマン?」
「一発殴る!」
「暴力よくない!『人を殴る、それは敗北を意味する。言語による説得の諦めだ』とヘルマン・ハルツハイムも言っている」
「誰だよ?」
「ミランダ・マードックが書いた小説の主人公」
「へぇ、そう。知らね」
「とにかく暴力は諦めてくれた?」
「元々本気で言ってねぇよ」
「優しい!」
「へへっ。そう?」
「見た目に似合わず!」
「殴られてぇのか!」
「ははっ」
「ヘラヘラしやがって……」
「サマンサ・シンフィールドがね、『笑え。道化となることが自己を守る盾となる』と言っていたんだ」
「誰だよ?」
「リチャード・ラスキンが書いた小説の相棒キャラ」
「へぇ、そう。知らね」
「おめぇ頭良いんだ? イカしてんな?」と桜井さんがスマホ画面から顔を上げて言った。
「お褒めいただき光栄至極なりー」
「ウチのカレシになるか?」
「マジ? なるなる!」
「本気で言ってねぇよ。ハハッ」
「男の純情を弄ばないでェー……」
 俺もからっきし本気で言ってなかったケド。
 桜井さんは再びスマホ画面に視線を落とした。
「んでさ、お前は男友達作ってなにがしたいわけ?」
「エッチな話がしたい」
「なんか頭よさげなこと言えよ」
「うーん……。なんにも思いつかないナァ……」
「へぇ、そう。知らね」
 しゃーなし、昨日思いついた「次善策」じゃ。
「二人はここで普段どんな話してんのサ?」
「アタシらがここで? コスメの話とか?」
「あと『授業分かんねぇ』とか『テストやべぇ』とか」
「エッチな話は?」
 二人ともが押し黙った。
「なにサ! 女子二人寄り集まって、エッチな話一つしてないってワケっ?」
「だって……、経験ねぇし……」
「……純情なんだネ。悪いことじゃない。むしろ胸を張っていいと思う」
「そうかぁ? アタシらはここで“カレシなし”の傷を舐め合ってるだけだべ?」
「それも一つの救いっしょ? 俺もさぁ、そんな話がしたいんだよネ。エッチな話しながらサ、『でも俺らには無理だよなー』なんて言って笑い合いたいんサ」
 桜井さんはスマホ画面を見ながら「なるほどなー。分かりみー」と言った。
「男ねぇ……? ちょっと真剣に考えてやっか」
「あざまー!」
「綿原はさー、クラスの男子全員から敵視されてるわけじゃん?」
「待った!」
「んだよ?」
「その話知らない! 男子全員から敵視? マジ気ー?」
「お前さ、クラスで美人ランキング1位の百瀬と、2位の渡辺と仲良くしてんべ? そんでやっかまれてんさ」
「マジ気ー……? ちなみに村川さんは何位なの? 俺の目にはかなり上位に映ってるケド」
「アタシは3位らしい。へへっ」
「やるジャン! 村川!」
「まぁ? 実力ってヤツ?」
「うぜぇー。調子こきやがって」
「けどなんか怖がられてるらしい。アタシは蚊も殺さねぇ、か弱い乙女だってのによ」
「村川が怖がられてんのは完全にその身なりっしょ! ウケるー」
 そうからかった桜井さん。からかったあとで「百瀬ねぇ……」と呟いた。
 あれ? と思う。
 百瀬のことを少しでも知っているのなら、たいていの人間は「百瀬さま」と呼ぶんだけれど。
「チッ」と桜井さんは舌打ちした。
「桜井、まだ根に持ってんじゃん?」
「うっせぇ!」
「えっ、どんナ、どんナ?」
「お前はもっとうっせぇ!」
 まぁー、いまはいっかー。
「ちょっと話戻していい? 俺の問題なんだケド。クラスで男友達作るの無理ゲー?」
「だな!」と桜井さんが煽る。「ざーこ! ざーこ!」と。
「ちょい待ちー。クラスの男子で綿原を敵視してねぇ男子が一人だけいたわ」
「えっ、誰、誰?」
「相澤。不登校の」
「不登校かー。無理ゲーじゃん!」
「でもアタシな、その相澤んチにプリントとか届けるように先公から言われてんのさ。同中だからってよ」
「マジ気? 俺イケっかな?」
「試してみっか!」

  *

 村川さんたちと別れ、お昼を食べにA組へ戻った時だった。
 男子たちからの熱視線を感じた。照れちゃうな!
「チッ」
 各所から舌打ちが聞こえるぞー? なんでだー?
 もしかすると、美人ランキング第3位の村川さんと連れだって教室を出ていったからかな?
 仲良いと思われちゃった?
 俺っち、やっぱり敵視されてる?

 自分の席へ戻り、大きく嘆息した。
「なぁ百瀬、なんで俺がボッチなのか理由が分かったわ……」
「あっそう。その理由ってのは?」
「俺が綿原って苗字で、教室の角の席に座ってて、地政学的に男子が近くにいなくて、担任教師が席替えをしてくれなくて――」
「やっぱり言い訳。本当は席替えしてほしいんでしょう?」
「違うんだ。席替えしたいわけじゃないよ。けれどね、百瀬と、渡辺さん――」
 前の席に座る渡辺さんはびくりと跳ねる。
「あと、村川さんと仲良くしているのがいけないらしい」
「どういうこと?」
「このクラスで噂されている美人ランキングって知ってるか?」
「知らないけれど、私が1位でしょう?」
「当たってるから腹立つな!」
 それで、と言って話を進める。
「渡辺さんは2位なんだってさ。加えて村川さんは3位」
「よかったじゃない。美人三人衆に囲まれて」
「そりゃ目の保養にはいいさ! けど! そのせいで男子全員から敵視されてんだよ、俺!」
「有名税と思えばいいんじゃない?」
「そんな税金払いたくないよ!」
「脱税する気? 税務署が黙っていないわよ?」
「そもそもその税法がおかしいんだ! その税金は一体なんの財源になってるんだ!」
「非納税者の溜飲を下げるために使われているんでしょうね」
「フェリクス・フランセンはこう言ってる。『政治など簡単なものだ。金を左右に動かせばいい』」
「誰よ、それ」
「パトリック・プリチェットが書いた小説の主人公」
「あっそう。それならあなたが支払った有名税は、いつかあなたの下へ戻ってくるかもね?」
「なるほどー。分かりみー」
「なにその言葉遣い」
「ギャルとお喋りしてきた名残り」
「ギャルねぇ……」
「なんだよ、ギャルだよ。ご不満?」
「ギャルっぽい子が好きなタイプになったの?」
「それはないかな」
「じゃあ、あなたって、まだ私のこと、好き?」
「……ああ、好きだよ」
「ふうん、へぇ、そう……」

  *

 次の日は土曜日だった。
 自室で小説を読んでいると、隣の部屋から賑やかな声が聞こえてきた。
 どうやら妹の朋李が友人を家に呼んだらしい。
 不味いな、と思う。
 朋李は中3の受験生だ。そう、6月末の受験生なのだ。
 友人を家に呼んで、することと言えば「お遊び」などではなく「お勉強」と決まっている。
 それはすぐのことだった。
 コンコン、と木製の扉がノックされる。
「またか……」
「イヤな顔しないでよ、おにぃ。ほら、来て!」
 そうして妹の部屋へいざなわれる。俺は小説を片手に持って部屋に入った。その室内は特有の匂いがする。そして桃色全開の装飾が施されており、ガーリーな印象だ。
「早く座って」
 朋李はパンパン、と平べったいクッションを叩く。無論桃色だ。
 けれど、背の低い、ちゃぶ台とも呼べる机はホワイトだ。シャープペンの芯や、消しカスなどが見やすくなっている。
「お、お邪魔してます」
 俺が着座する前に挨拶をくれたのは相澤愛子ちゃん。朋李の親友だ。
 いつもおどおどしていて、小動物のような印象を受ける。けれど、朋李に聞く限り“こんな感じ”なのは俺の前でだけらしい。
 愛子ちゃんは村川さんとは対照的に化粧っけが全くなく、山なりの眉の下の瞳は二重だが、睫毛の存在感は薄い。丸顔で垢抜けない顔立ちはこちらに庇護欲を湧かせる。髪は赤みがかっていて、強くウェーブしている。長さは肩に掛かるくらいだ。
 俺は愛子ちゃんのことを、同じ天然パーマ仲間として親近感を持って見守っていた。
 ここで朋李が言う。
「おにぃ、この問題分かんないから手伝って」
 それは数学だった。俺はさらっと数式を書いてやる。
「このxとyに、問題文の数学を代入するんだよ」
 朋李も愛子ちゃんも言われた通りのことをした。
 けれど愛子ちゃんが書いた数式は……。
「逆だよ、愛子ちゃん。xとyに入れる数字が逆」
「……すいません」
「謝らなくていいよ。『謝辞の乱用はその価値の暴落を催す』ってね」
「出たよ、おにぃのひけらかし」
「別にひけらかしてるわけじゃない。朋李たちはウチの高校を狙ってるんだろう? このくらい咀嚼できなくちゃな」
「あの陽映学園だもんねー」
「聞きそびれてたことなんだけど、どうして陽映なんだ? 私立だぞ? 普通、公立狙うだろ?」
 なんて、どの口が言う。
“好きな子”を追いかけて志望校を決めた俺が――。
「だって、陽映は陸上部に力入れてるし、それに『百瀬さま』がいるじゃん!」
 そう、朋李も俺も「百瀬さま」にぞっこんなのだった。
 朋李も百瀬と同じく陸上部である。
 百瀬に「さま付け」しているのは朋李だけではない。百瀬を知るほとんどの人間がそう呼んでいる。一目置かれているというわけだ。
 孤高、故に百瀬はボッチなのである。
 それにしても桜井さんは百瀬のことを「呼び捨て」だったなぁ、と懐古する。
 まぁー、いまはいっかー。
「愛子ちゃんは? どうして陽映に?」
「そ、それは……“お兄さん”が、いるから、です!」
「へぇ、愛子ちゃんにもお兄さんがいるんだね」
 そう言うと、愛子ちゃんはなぜか、しゅんとした。
 そして小声を出す。
「確かにいますけど……、そういう意味じゃなくて……」
「おにぃ、この問題も分かんなーい」
「あのな、陽映は中部地方の中で一番偏差値が高い私立なんだぞ? 7月目前のこの時期に躓いてちゃダメだろ」
「そのための杖がおにぃじゃん」
「俺は朋李たちの家庭教師じゃない」
「ご、ごめんなさい……。お兄さん……」
「だから謝らなくていいよ、愛子ちゃん。こんな会話、ただのスラップスティックなんだからさ」
「そうなんですね」
「分からない問題があったら、遠慮せずに言うんだよ?」
「はい、ありがとうございます」
「おにぃ、これー」
「はいはい分かったよ、朋李。いま見てやるから――」
 勉強会は翌、日曜日も行われた。

  *

 週明けのホームルームで、担任教師の藤社女史は村川さんを名指しした。彼女はうら若く、現国を担当している。
「ほら、行くよ! 渡良瀬!」
「綿原ね! あのさ、覚えてね!」
「わーったよ。ハイハイ、綿原、綿原。完璧に覚えましたー」
 とにかく行くぞ、と言われ、俺たちは教卓へ向かった。
 藤社先生は俺がやってきたことが不思議だったのか、小首を傾げた。けれど、すぐに元通りの、頼りがいのある姿に戻る。これが大人の振る舞いか、と思った次第である。
「村川さん、いつものように、相澤さんにプリントを届けて欲しいのですが――」
「あー、それ、渡良瀬がやりたいって――」
「綿原ね!」
「綿原がやりたいって言ってんすけどー」
「綿原くんが、ですか? どうしてです?」
 男友達が欲しいからです、とは言えず。
「あのー、えっと、あっ、友達なんです、実は」
「本当ですか! それならぜひともお願いします!」
 本当じゃないんですぅ……。すいません、先生……。「友達(仮)」なんですぅ……。
 けれど、俺はこの「括弧仮」を取り去りに行くのだ!

  *

 相澤さん宅は、俺の家から実に近いところにあった。
 付近を流れる川を渡った向こうだ。
 学区としては隣の小学校・中学校になるが、幼稚園や保育所では同じになることが多い。朋李と愛子ちゃんもそこで仲良くなったのである。
 梅雨時期とは言え、毎日雨が降るわけではない。この時は限りなく雨雲に近い曇り空だった。

 相澤さん宅に到着。壁はグレーとパープルの間のような色をしていた。
 二台停められるくらいの広さの駐車場。その上には紅色をしたポリカーボネートの屋根がついている。遠目からでも分かっていたが、空車だった。
 家人は出払ってしまっているのだろうか?
 それでもいちおう、ピンポンを押す。「ピンポン」と鳴る。
 留守かな、と思って背を向け、立ち去ろうとした時だった。ガチャリ、という音が背後に聞こえ、俺は振り向く。
 相澤宅の玄関扉が開いていた。
 そして、そこには、なんと愛子ちゃんがいたのだった。
 驚いたが、俺よりも愛子ちゃんのほうが驚いていた。
「お兄さん! なんで? なんでウチに?」
 そう言いながら彼女はつっかえを履いて玄関を出て、門扉までやってきた。
「村川さんの代わりに、学校のプリントを届けに来たんだ」
「あ、ありがとうございます」
「周作くんは家にいるのかな?」
「はい、いますよ?」
「ちょっと話せないかな?」
「うーん、どうなんでしょう? 兄に聞いてみないと……」
「それはそうだよね……」
 その時だった。雨が降り始めたのだ。
「ああ、お兄さん濡れちゃいますね! ウチへどうぞ、入ってください!」
「ありがとう」

 相澤宅へ入ると、他人の家特有の匂いがした。ちょっぴり気持ち悪くなった。
「タオル持ってきましょうか?」
「大丈夫、そんなに濡れてないよ。ありがとうね」
 ……気がついた! この雨は神の思し召しなのだ!
「せっかくだから、周作くんとお話できないかな?」
 俺は今日!「周作くんと友達(仮)」の「括弧仮」を取り去るのだ!
“男友達”を作るのだ!
 エッチな話をするのだ!
 今日なのだ!
 愛子ちゃんは難しい顔をした。
「やっぱり兄に聞かないと……」
「じゃあ、そこについていくよ」
「え? 兄のところへ?」
「ああ」

 愛子ちゃんの兄君の部屋は、階段で二階へ上がって、そこから左側にあった。
 三度ノックし、まずは愛子ちゃんが兄君へ述べる。
「兄ちゃん、綿原さんがね、兄ちゃんと話ししたいんっだって」
 しばし沈黙が流れる……。このまま無視されてしまうんじゃないかと、俺は肝を冷やした。
 だが、扉の向こうから、ちゃんと返答が返ってきた。
「……どんな話だよ。どうせ『学校に来い』とか、そんな話だろ?」
「それは違うよ!」
 大声だった。大声で俺は否定の言葉を述べたのだ。
「いまのが綿原か? じゃあ、どんな話すんだよ?」
「エッチな話がしたい!」
 そう言うと愛子ちゃんはギョッとした。
 思いつかなかった。いままで「エッチな話がしたい」と思った時、引用する言葉が思いつかなった。
 だが、いま思いついた!
 その言葉を俺は述べる、
「キャサリン・カードはこう言うんだ。『猥褻は自意識の高さ。思い知るだろう。愛した者といる時に』ってね」
「ハハッ」
 木製の扉の向こうから笑い声が届いた。
「誰だよ、そいつ」
「ダイアナ・デインが書いた『愛のまたたき』って作品に出てくる言葉」
「ふうん、そうなのか。それで?」
「俺は周作くんと、エッチな話がしたい!」
「バカなの? お前」
「本気!」
「はぁー……」という大きな溜め息。
 それとともに、扉が開かれた。
「まぁ、聞くだけ聞いてやるよ」
 その室内へ、俺は入ったのだった。
 愛子ちゃんは階下へ降りていった。軽やかな足音が、機嫌のよさを物語っているようだった。
 部屋に入ると、周作くんは「綿原って、お前か……」と呟いた。
 周作くんの部屋。まず大きなディスプレイのパソコンが目に入る。
 それから周囲を見渡すと、白い壁に白いシーツが敷かれたベッド。そのベッドの上には水色の布団が律義に畳まれて置かれていた。
 窓にはブルーのカーテンが敷かれている。
 パソコンを除けば、俺の部屋に似ているな、と思った。
 俺の部屋にはパソコンの代わりに大きめの本棚が置かれている。
「綿原はそこに座れよ」
 周作くんはベッドを指して促した。
 周作くん。ガタイがよかった。白のTシャツから伸びる腕は太く、筋肉質だ。
 彼の黒髪はとても長い。ボブヘアと呼んでいいほどだ。襟足なんかは背中まで伸びている。
 散髪に行っていないんだろうな、と推測された。
 それにしても、顔立ちや髪質からして、愛子ちゃんと全く似てないな、と思った。まぁ兄妹ならそういうこともあるか。
 俺はベッドに腰掛け、チェアに座る周作くんに向かって、さっそく切り出した。
「巨乳と貧乳、どっちが好き?」
「うわ、マジで?」
「エッチな話をしに来たって言ったじゃん!」
 それで、と言って再度問いかける。
「どっち? 巨乳か、貧乳か!」
「ってか、僕に向けてその質問って――」
「どっち!」
「お前、知らねぇのかよ?」
「周作くんの趣味を? 俺が? なんで知ってると思ったの?」
「知らないならいいけどさぁ――」
「よくない! 巨乳か、貧乳か! どーっちだ!」
「きょ、巨乳だよ……」
 頬を赤く染めながら、周作くんは言った。
「マジか! 派閥分かれたな!」
「ハァ? お前貧乳派なの?」
「スレンダーと言い換えてもいい」
「いやいや、胸なんて大きければ大きいほどいいだろ?」
「そんなことはない。慎ましやかなところに情緒があるんだよ」
「貧乳好きって、アレだろ? 拗らせたロリコンだろ?」
「おい! 一括りにするなよな! 確かにそういう人もいるかも、だけどさ!」
 ……俺は。
「巨乳好きだって、拗らせたマザコンだろう?」
「マ、マザコンじゃねぇし!」
「いいや、そうだね。どうせ授乳――」
 ……俺は感動していた。
「そんなプレイは……、アリだけど……」
「ほれ見ろ! 甘えたがりなんだろう?」
「うっせぇな!」
「じゃあ次はお尻の話をしよう」
 ……男子とエッチな話ができていることに、感動していた。
「なぁ聞いてくれよ……。俺は『腰のくびれファチ』なんだ……。けれど、胸もお尻も小さいスレンダー体型の子は、残念ながら腰のくびれが……、くっ……!」
 俺はいまにも泣き出しそうなのを堪える。
「ハハッ。なんだそのフェチ。独特すぎてヒクわ!」
「じゃあ周作くんは、なにフェチなの?」
「フェチかぁ……。顔だな」
「うーわ! ルッキズムだ! まぁ同感だけど」
「大事だよな、顔」
「人は見た目が9割だって言うからね。『メラビアンの法則』だったかな?」
「9割は言いすぎだけどな」
「それで? 顔の他にはないの?」
「うーん、“おぼこい”っていうか、垢抜けてない感じが好きかも」
「へぇ、ギャル系は刺さらないんだ?」
「刺さんねぇ。皆目刺さんねぇな」
「なら、ここに甲斐甲斐しくも毎回プリント届けに来る村川さんは対象外なんだ? 顔は抜群に良いと思うけど」
「そうだなぁ。4月の頃は良いと思ってたんだが、段々とケバくなっただろ?」
「言われてみれば」
 村川さんは入学当初は黒髪のロングポニーテールだった。それを結ぶ黄緑色のシュシュは華やかだったが、化粧っけはなかった。ゴールデンウィーク明けからだ、“ああなった”のは。
 なぜなのかは分からないけれど――……。
「どうせ桜井や江崎に“つられた”んだろうけど」
 すぐに原因分かったわ。
「桜井さんと江崎さんのこと知ってるの?」
「同中だからな」
「へぇ……」
「村川は周りに流されやすいんだよ。高校選びだって桜井の後追いだしな」
「よく知ってるね?」
「小さい中学校だったからな」
「ああ、そっか」
 そういえばウチの中学の隣なんだっけ。小さいというのは聞き及んでいる。合点がいった。
 その時、扉がノックされる音が飛び込んできた。
 周作くんが立ち上がって戸を開ける。
「なんだよ、愛子」
「お、お菓子……」
 愛子ちゃんの顔は真っ赤だった。
「あ……、もしかして愛子、お前、会話聞いてた?」
 コクリ、と愛子ちゃんは頷いた。
 前半のエッチな話を聞いていたらしい。故の火照った顔だ。そしてそんな話題が大人しくなったからこそ、ノックをしてきたというわけだ。
「お、お菓子ありがとう……」
 急に恥ずかしくなった。顔が熱い。
 それは周作くんがお菓子の乗ったトレイを受け取った時だった。愛子ちゃんが言う。
「あっ、お母さんが帰ってきた」
「ん? よく分かるね?」
「車の音がしましたから」
「じゃあ、お暇しようかな。せっかくお菓子を用意してくれたのに悪いけど」
「お構いなく、です」
 俺は座っていたベッドから腰を浮かせた。
「あっ、周作くん」
「なんだ?」
「『周作』って呼んでいい?」
「お、おう、いいぜ、『綿原』」
 俺に男友達ができた瞬間だった。

  *

 そうして、暦は7月へ入った。

  第二話 ボッチなのをなんとかしたい。

 7月1日、火曜日。
 例によってお昼休み、食事を終えたらしい百瀬に話しかける。
「なぁ百瀬、俺に男友達ができたよ」
「よかったじゃない」
「エッチな話もした」
「よかったじゃない」
「なのになんで俺は学校じゃボッチなんだろうな?」
「前に理由が分かったって言っていたじゃない」
「それはそうなんだけどさ。『満ちぬ。ついぞそなたを得ようとも』とダリル・デイヴィスも言っているだろう?」
「誰よ、それ」
「ハンナ・ヒッチコックが書いた小説の悪役」
「あっそう。ならあなたはどうすれば満ちるわけ?」
「周作が学校に来てくれたらなぁ」
「説得してみれば?」
「そういうんじゃないんだよなぁ。そういう関係じゃないんだよ。……ま、この辺の機微は百瀬には分からないか」
「私にだって分かるわよ、そのくらいね」
「へぇ、どう分かるって言うんだ?」
「幼稚園の頃に、さっちゃんが――いえ、この話はやめにしておくわ」
「なんだよ、期待だけさせて」
「あなたにはあまりにもセンシティブだからね」
「ちなみにそのさっちゃんは、いまなにしてるんだ?」
「なんだか青くなっちゃったわ」
「よく分からないな。ただ、幼き子が成長して青くなる、か。『幼少、私は漆黒に詰まっていた。成長するにつれ、灰色になり、虹色になり、そしていまはブルーだ。やがて白となるだろう』と小林庄倫が言っているね」
「誰よ、それ」
「だから、小林庄倫だよ。エッセイでそう書いてる」
「言い得て妙ね。その人の言う通りだわ」
「うーん……。俺はこの言葉の意味が分からないんだけどなぁ」
「読解力が足りないのね」
「そうかもね。『なにもかも知った気でいるな。なにもかも知らぬお前が』とサイラス・カッターが言っているし」
「誰よ、それ」
「ハロルド・ヘイワードが書いた小説の悪役」
「あっそう。ところであなたはその周作くんのなにを知っていると言うの?」
「『人だ。なにもかもを知ろうとは不遜である。宇宙だ』とアーヴィング・エイマーズが――」
「なにも知らないということね、周作くんのことを」
「これから知っていくのさ」
「あっそう」
「それにしても、なんで不登校になっちゃったんだろうな?」
 びくりと渡辺さんが跳ねた。
「おや? 渡辺さん?」
「は、はい……?」
 渡辺さんはこちらを向いた。視線を逸らしながらだが。
「もしかして、周作の不登校に一口噛んでる?」
「そ、それは……。言えません」
「語るに落ちてるよ。噛んでるんだね。『こら、噛むな、マックス! 噛むならジェイドの股間を噛め!』とバイロン・ベストも言っているよ?」
「ちょ、ちょっとそれ、意味が分かりません」
「ミスター・ベストは愛犬マックスに大事な革靴を嚙まれちゃったんだよ」
「へ、へぇー」
「ちょっと、話が逸れちゃったじゃない」
「いやさ、渡辺さん、言いたくなさそうだったからさ」
「……ふうん、へぇ、そう」
「7月になったね」
「蒸し暑いわ」

  *

 できれば今日も周作の家に行きたかった。だが、用もないのに行ってもいいものか、それが分からなかった。
 これが俺と周作の、いまの距離である。
 放課後、ひとまずはいままで通り、文芸部室へ向かった。
 扉を三度ノックして入室する。
「あら、今日は遅かったわね?」という堀田部長からの声が届く。
 俺はいつも通り、部長の目の前の席に着く。
 コーヒーが入った青いカップが届く。そこで、俺は勇んで口を開いた。
「男友達ができたんですよ、俺に!」
「あら、よかったわね」
 部長は柔和に微笑んだ。
 ああ、お礼を言わないとな、と思う。
「部長のおかげなんです」
「ボクがなにかしたかしら?」
「村川さんに相談したらどうか、とアドバイスをくれたのがきっかけになったんです」
 そうして事情を説明した。お互いが「呼び捨て」で呼び合うまでの話だ。俺が貧乳派で周作が巨乳派云々の話は割愛した。
「とにかく、ありがとうございました」
「なら、そうねぇ……」
 そう言って部長は手に顎を乗せた。
「『メラビアンの法則』は知っているかしら?」
「見た目で9割決まる、というヤツですよね?」
「あれはただのルッキズムの話ではない、ということは知っている?」
「コミュニケーションにおいて、表情や顔色が大きな役割を持っている、ということですよね」
「ええ、大体それで合っているわ。しかしとにかく外見が重要なことは間違いないの」
「その通りですね」
「こういうのはどうかしら? 村川くんに相談して、周作くんも外見をどうにかしたら――」
 扉がノックされ、開かれた。
「皆さんお早いんですね」
 美浜が部室へやってきて、部長とのやり取りは中断された。だが、部長の言いたいことは大体分かった。
 美浜はやはり丁寧に部室の戸を閉めた。
 彼女の机の上に紅茶の入った黄色いカップが置かれ、部員一同、落ち着いた。
 その段階で部長が言う。
「美浜くんはC組だったわよね?」
「そうですよ。それがどうかしましたか?」
「1年C組チャラい女生徒はいるかしら?」
「チャラい女子? いますよ」
「その人の名前は?」
「江崎さんです」
 へぇ、江崎さんか。桜井さんと村川さんが言っていた子かな? カレシ持ちの江崎さん。
 ここからは俺が尋ねた。
「その子ってどんな子?」
「緑ですね」
「緑? まさか髪色が?」
「ですです」
 髪色を当ててしまった。村川さんが金髪で、桜井さんが青髪だったので、当てずっぽうだったのだが……。
「緑か……。『青、黄、それらと混じって現れる緑。なに奴か』」
「『緑とは青と黄色のジンテーゼなのである』。うふっ」
「『キミが弁証法を用いるのなら、僕はそれに挑戦せねばならない! アウフヘーベンなど起きないと!』」
「うふっ。綿原くんとの会話は楽しいです」
 美浜は梅雨時の陽光のような、黄緑色の笑顔をくれた。
「いつもそう言ってくれるよね。素直に嬉しいよ」
 それにしても、と俺は話を戻す。
「緑髪か……」と呟く。俺はカエルを想起した。
「まぁ最近は“緑掛かった黒髪”と言えるほどまでに落ち着いてきましたけれど」
「江崎さんのカレシがどんな人なのかは知ってる?」
「同じクラスの五十嵐くんです。なんでも幼馴染みらしくて、それで、っていう」
 幼馴染みか……。俺と百瀬も中学校から一緒の幼馴染みだが……。
 うーん……。幼稚園の時、百瀬はどんな子だったのだろう。言いかけていたよな、「さっちゃん」がどうのって。気になる……。だが、どうしようもない。「わだかまりとは巨大なガムに包まれるようなものだ。纏わりついて離れない」とトム・ギブソンは言っている。その通りだと思った。
「うふっ。本当に仲が良いんですよ? がっちゃん、えっちゃん、って呼び合っていて」
 江崎だから「えっちゃん」なのは分かるが、五十嵐だから「がっちゃん」って……。けれど、「イっちゃん」「ガっちゃん」「ラっちゃん」「シっちゃん」、うーむ、「がっちゃん」が最適解かも。
「じゃあ美浜は『みっちゃん』だな」
「うふふっ。なら綿原くんは『わっちゃん』ですね」
「わっちゃんって、なんだか腑に落ちないなぁ。ワンちゃんに近い響きだからかも」
「ならいっそ、綿原くんのあだ名は『ワンちゃん』でいいんじゃないですか?」
「イヤだよ。犬畜生と同じって」
「犬畜生とは酷い言い草ですね」
「『犬畜生め! ここまで追ってくるたぁ知らぬ!』」
「『よくぞやった! 貴奴らは盗品を残して逃げよった!』」
「これで犬畜生の復権はできたかな」
「綿原くんはいつもズルいです。小説の言葉を引用すれば本音を隠せることに気づいていますよね?」
「いやはや、一体全体、なにがなんやらだ」
「じゃあ……、もしも私が『月が綺麗ですね』と言ったら……?」
 美浜は真剣な眼差しで俺を見つめる。
 俺はその視線から逃げる。顔を逸らす。
「『月下、踊ろうか。シャロン』とグレン・ゴダードの言葉で返すかもね」
「『死んでもいいわ』という定型文を使わないところがズルいんですよ」
「どうかな? 定型文で答えるほうが、想いが伝わらない気がするよ」
「引用されるよりはマシだと思います」
「確かにー」
 俺は「シャロンって誰よ」なんて言わせて、その場を茶化すかもしれない。

  *

 7月2日、水曜日。
 そのお昼休み。俺は再び村川さんについていって、屋上扉前に来ていた。
 堀田部長のアドバイスを聞いたからだ。「村川さんに相談せよ」と。
「よう、また来たんか」
「来たヨー」
 桜井さんが出迎えてくれた。
 余って屋上扉前に置かれている机の上から椅子を下ろして腰掛ける。座り順は俺の左に桜井さん、さらにその左に村川さんだ。
「チョット聞いたんだケドさ、江崎さんと五十嵐くんは幼馴染みなんだってネ」
「ウチらもなんだケドなー。つーか、ウチのほうが付き合い長いし」
「つまり幼稚園から一緒ってコト?」
「そそ」
「ふうん。村川さんは?」
「アタシは小学校からだなー」
「みーんな幼馴染みだったんだー。へぇー。幼馴染みと付き合うって、どんな感じなのかな?」
 無論、我が幼馴染み、百瀬と付き合ったらどうなるのか、という思考実験のヒントをいただくための問いかけである。
 まず村川さんから答えた。
「気持ち悪いな。嫌な過去とかあんべ? それを全部知ってるヤツと付き合うんだろ? 恥ずいって」
「そうかぁ?」
 桜井さんは別の意見のようだ。
「自分のコトを一番知ってくれてんジャン? 新しい相手と段々互いを知るようになって、幻滅されるよりいいべ」
「まぁー、そうかもなー」と流されやすい村川さんは言った。
 ここで少し桜井さんをからかってみる。
「へへっ。じゃあ桜井さんは五十嵐くんを江崎さんに取られて悔しいんだ?」
「うっせぇ!」
 俺が座っている椅子の脚を蹴られた。ギィ、という音が鳴る。
「えっ、桜井マジ?」
「お前もうっせぇ!」
 桜井さんは村川さんが座る椅子も蹴った。
「別に好きだったとかじゃねぇから! なんか『取られたー』って感じただけだから!」
「なるほどネー。家族を嫁にやる気分なんだ?」
「そうそう! 渡良瀬上手いこと言うジャン」
「綿原ね!」
「んで、嫁にやる相手が、これまた身近なヤツだったからな。これでも江崎のこと祝福してやってんだぞ?」
「江崎がここから抜ける時『裏切り者ー!』って叫んでたクセにぃ?」
「うっせぇ。愛ゆえにってヤツだ!」
「そうだ、これは聞いておかなくちゃいけないことなんだケドさ、周作はどんなヤツだった?」
「優等生」と村川さん。
「だな!」と桜井さん。
「ま、男としては冴えないヤツだったよ。それでいて腹は据わるタイプだったな。いざって時にはやるヤツだったよ。思い切りがいいっていうかさ」
 村川さんのコメントに桜井さんも同意する。
「学祭の時にな、ウチら出店でお好み焼き屋出したんよ。そん時な、現場を取り次ぐ司令塔みたいなリーダーを決めてなかったんさ」
「そーそー」と村川さんが相槌を打つ。
「ウチらがグダグダんなってたトコを、相澤がさ、声上げてが仕切るようになって、上手く回るようなって、一件落着になったんさ。みんな相澤に感謝したけど、当の相澤はいつもの『冴えない相澤』に戻ってたから、周りもすぐに元通りになったって話なー」
「へぇー……」
“ヤなヤツ”とか、そういう悪口が出てこないんだな、と俺は思っていた。
 きっと“イイヤツ”なんだろうな。
「なんで周作が不登校になったのか、って知ってる?」
「加茂のせいだろ?」と村川さんが簡単に言った。
「加茂? 誰?」
「知らねぇの? 相澤の席は知ってんべ? 廊下側の一番前。その隣に座ってんのが加茂って野郎」
 野郎、ってことは男か。
「その加茂って人がなにしたの?」
「逆にお前、なんで知らねぇの?」
「そんなに有名なの?」
「っつか、あれ? 確か記憶じゃ――」
「村川、教えろよ。ウチも知らんのだからさ」
 そうして村川さんは語り始める。
「あれは4月中旬……」
「おっ、良い入り」
 ……4月中旬になんかあったっけ?
「あの頃はココ見つけてなくて、まぁでも昼休みにアタシは桜井んトコ行ってたから、あんま知らんのだケドさ」
「うんうん」と俺と桜井さんは頷いて続きを待つ。
「飯食ってA組戻ったら祭りになってたんさ」
「祭りー?」と桜井さんがワクワクを隠さず言った。
 ……記憶にないなぁ。
 村川さんは手拍子を始めた。そしてそのリズムに乗せて言う。
「コークーれ! コークーれ! コークーれ!」
「うお! マジで祭りジャン!」
 桜井さんのテンションが上がる。
「ええ、怖いけどナー。煽られてるほうの身になったら。告白相手はそん時分かってたの?」
「分かってたっぽい。アタシはそん時、後ろの扉ん近くにいたから誰か分からんが、立たされてる女子いたしな」
「そん時、村川さんはどうしたの?」って聞かなくても分かるけど。
「ノリノリで煽ったわ!」
「キャハハッ! サイアクー!」
 さすがは流されやすい村川さんである。
「祭りはどうなって終わったの? 告って終了? 教員が来て終了?」
 ……あれ?
「それが、どっちでもないんだなっ!」
「おいおい、早く教えろよー」と桜井さんは村上さんの脇腹をくすぐり、キャッキャッし始めた。女の子同士、身体を触り合って、目の保養、ほよー。
「教える! 教えるから、くすぐんのやめろしー!」
 ……その時、俺って?
「よーし、今回はこれでやめといてやろう。次にもったいぶったら――、分かるな?」
「はいはい」
 ……あっ!
「じゃ、話せ」
「っつーか、完全に思い出したわ。一人の男子がブチギレたんだよ。『うっせぇよ!』ってな」
「おおー、マジ? かっけぇジャン!」
 桜井さんは急かすように言う。
「誰よ、それ! そゆヤツ好きよ、ウチ!」
「ブチギレたのはー……、渡良瀬でしたー!」
「綿原ね!」
「なんだよ! お前かよ! 途中から全然話さなくなったと思ったら……。ま、オチとしちゃ及第点だな!」
「『意味が分かったら怖い系』の話っぽいよな。『実は犯人は隣にいた!』ってよ! アハハッ!」
 あらかた笑って、村川さんは説明を加えた。
「後々聞くに、まず加茂が騒ぎ出したらしい。そっからコールが始まって……、ってノリ」
「俺、途中からマジ鮮明に思い出したわ……」
 そうして俺は語り始める。
「『あれは4月中旬……』」
「それもうアタシが言ったから!」

  ―― * ――

「なぁ百瀬、今日寒くね?」
「ええ、お昼なのに寒いわね」
「4月の実力テストどうだった?」
「まぁまぁよ」
「俺もまぁまぁだ」
 私立陽映学園高校では、まるで新兵を鍛えるブートキャンプのように、生徒に対して厳しいカリキュラムを組んでおり、毎月試験が行われる。それは入学直後の4月上旬にも言えることだった。
 その結果が出るのが4月中旬である。
「百瀬、じゃあ点数勝負しようよ」
「イヤよ」
「なんでさ? もしかして自信ない?」
 無言が返ってきた。
「さっきの『まぁまぁ』ってコメントは何だったんだよ!」
「陸上を頑張りながら受けた試験にしては『まぁまぁ』ということよ」
「そう言われると弱いな……。『狐を追う者に声を掛けるな。片手間を掛けさせるな』とセラフィーノ・スカッキも言っているしね」
「誰よ、それ」
「トーマス・テイラーが書いた小説の脇役」
「あっそう。けれど的を射ているわね。テストなんて片手間になってしまうのよ」
「それにしても担任教師は景気良いこと言うよな。『テスト後も席替えしない』だなんてさ」
「景気良いかしら?」
「そりゃそうだよ。俺も百瀬もずっとこの席なんだから」
「……ふうん、へぇ、そう」
 百瀬はお弁当のささみ肉を一口食べた。そして言う。
「あなた、私と話していて楽しい?」
「そりゃ楽しいさ」
「……ふうん、へぇ、そう」
「『言うまでもなく会話は劇だ。沈黙でさえシナリオ通り』とテッド・サックウェルも言っている」
「誰よ、それ」
「キム・ケントが書いた小説の悪役」
「あっそう。私もあなたと話していると――」
「コークーれ!」
「――わよ」
「ごめん。いま――」
「コークーれ!」
「いま百瀬なんて――」
「コークーれ!」
「なんて言っ――」
「コークーれ!」
「コークーれ!」
「コークーれ!」
「ほら、渡辺さん」
「コークーれ!」
「立ち上がって、早く!」
「コークーれ!」
「コークーれ!」
「私――」
「コークーれ!」
「楽しいわ」
「コークーれ!」

「おいッ!」

 立ち上がった。
 あまりの勢いに椅子が転がった。大袈裟な音が立つ。
「コークー……」

「うっせぇんだよッ!」

 喉が千切れるほどの大声を出した。
 シュプレヒコールは聞こえなくなった。
 パチ、パチ、という手拍子がまばらに鳴って、止む。

「いまッ! 俺と百瀬が話してんだろッ!」

 息が荒ぶろうと関係ない。

「邪魔すんなよッ! マッジでッ! うっせぇんだよッ!」

 言い切ったのち、俺は五回ほど咳をした。血の味がした。
 教室は静まり返り、その内に一人の生徒が飛び出していった。
 俺は椅子を元に戻し、座り直す。
「なぁ百瀬、さっきなんて言ったの?」
「忘れたわ」
「ありゃま」

  ―― * ――

「なんだよ、お前、百瀬大好きかよ!」
 村川さんがそう言った。
 桜井さんは「チッ」と舌打ちしてから「はーい、百瀬、百瀬ねー」とつまんなそうに言った。そしてスマホをイジり始めた。
 故に村川さんが応対してくれる。
「お前がクラスでボッチなのは、美人といるのをやっかまれてんのと、この一件で怖がられてんだな。ウケるー」
「マジかー」
「それにしてもお前の頭ん中どうなってんの? 普通忘れっか? 怖ぇわ……」
 相当頭に来たからこそ、記憶が飛んだものと思われる。
「アレが4月かー」
「とにかく教室から飛び出てったのが相澤で、その好きな子が渡辺ってヤツなんか」
 村川さんは首を傾げる。
「アレ? 渡辺ってどっかで聞いた気が――」
「村川さんの隣の席だよ!」
「あー、ハイハイ、爆乳ちゃんね! 分かる分かる。美人ランキングで2位の子っしょ? んで、アタシが3位!」
「うぜー。自己主張うぜー」
「ねぇ、そんな周作が学校に来るにはどうすればいいのかナ?」
「分かんね」と村川さん。
「そりゃそっかー」
 桜井さんはどこか内省的に語り始めた。
「無理だって、元の居場所に戻るなんて……。だって席替えしてねぇんだろ……? 学校来たって、また隣に加茂がいんだろ……? 無理だって。相澤もトラウマになってんべ」
「そう?」
「そう。リタイアするしかないって。コンティニューは無理」
 この意見に、流されやすい村川さんは――。
「桜井、コンティニューしようや。まだ間に合うって。気張ってコンティニューしよ?」
 流されなかった。
「うっせぇなー!」
 二人はなんの話をしているのだろうか?
 分からない。
 だが――。
「コンティニューか。なるほどね」
 一つ、思いついたことがあった。
「もういいわ!」
 桜井さんは立ち上がった。
「もういい! 村川、お前絶交な!」
 怒って屋上扉前から階段を降りて行ってしまった。
「追わなくていいの? 村川さん」
「その内、頭醒めるべ」
「じゃあさ、仲直りの時には俺と周作の写真でも見せようよ」
「ハァ? 意味分かんねぇんだけど」
 それから俺は、村川さんに作戦の内容を伝えた。
「手伝ってくれる?」
「試してみっか!」

  *

 村川さんと連れだってA組へ戻った。
 男子生徒たちから熱視線を浴びる。
「チッ」
 おっ、いま舌打ちしたヤツが加茂だな? 髪型はツーブロックで、活発そうな雰囲気を醸し出してらっしゃる。どこか運動部にでも入っているのかな?
 まぁいいか。加茂のことはどうでも。
 男子生徒とは打って変わって、女子生徒たちからは視線を逸らされていた。
 俺っち、やっぱり怖がられてる?
 しかして俺と村川さんは席に着き、急いでお昼を食べる。
「なぁももしぇ」
「口に含んだものを飲み込んでから話しなさい」
 言われた通りに飲み込む。
「なぁ百瀬、なんで俺がボッチなのか、理由が分かったわ……」
「あっそう。どうせまた『席替えをしてくれない』とかいう言い訳でしょう?」
「いや、席はここでいい。ここがいい。このままがいいんだ」
「……ふうん、へぇ、そう」
「それでな、4月中旬のこと覚えてるか?」
 前に座る渡辺さんがびくりと跳ねる。
「覚えているわ」
「俺は忘れてた」
「ウソでしょ?」
「ホントに」
「ウソでしょ?」
「あれがあってさ、たぶんだけど俺、クラスメイトから怖がられてるのかも」
「あっはっはっ!」
 百瀬は笑った。嗤った? 嘲笑?
「ヒーーっ! ふっふっふっ!」
 お腹を抱え、涙まで流して嗤った。
「コノヤロー。嗤いすぎだろ」
「だって、あなた……、かわいそーっ! ふふふっ!」
 お話にならなかった。

  *

 放課後、すぐに俺は家へ帰り、制服から私服へ着替えた。ブラックのTシャツに、カーキ色の半ズボンだ。
 そして相澤宅へと黄色い自転車に乗って向かった。
 天候は曇り。グレーの雲が大部分を覆っているが、ところどころ水色の空が垣間見えた。
 駐車場を見るにご両親は不在の様子。
 ピンポンを推す。「ピンポン」と鳴る。
 ガチャリと音がして、やはりと言うべきか愛子ちゃんが出てきた。
「お兄さん! 今日もウチで遊んでいきますか?」
「いいや、外で遊ぼうと思って」
「外……、ですか……」
 愛子ちゃんは目を伏せた。
「俺が説得してみるよ」
「分かりました」
 愛子ちゃんは門扉を開き、屋内へ入れてくれた。
 雨は降っていない。

  *

「リタイアするか、コンティニューするか、決めようぜ」
 事前に「今日は不登校に関する話をする」と告げてから、周作に尋ねた。
「コンティニューって言ったって……」
「リタイアするよりマシだろ?」
「リタイアしたほうがマシな時だってあるよ」
 俺は桜井さんのことを思い出した。村川さんからあとで聞いた話だ。
 桜井さんも、リタイア組だった。
 ただ、彼女の場合は――。
 閑話休題。
 いまは周作の話だ。
「じゃあ、学校へ行く行かないは任せるから、ひとまずさ、外行こうぜ!」
「外か……」
 少し渋ってから、周作は言った。
「分かった」

 外で待っていると、周作はこの暑い中、クリーム色の「ニット帽」を被って家から出てきた。
「“そいつ”をどうにかしなくちゃな」
 そうして俺のは黄色、周作のはモスグリーンの自転車を漕ぐ。
 辿り着いた先には――。
「えっ、村川?」
 そう、村川さんが待っていた。
「来たなー?」
「良いトコ紹介してよー?」
「おう。アタシも桜井も、あと江崎も世話んなったトコだ」
“そこ”は待ち合わせ場所からすぐそばにあった。
 お察し、美容院である。あの特有の、赤青白の帯がクルクル回る物体が、存在しないお店だ。
 ホワイトに縁取られたガラス張りの窓からは中が覗ける。こげ茶の木目を基調とした店内は広く、奥行きがあった。点々と黒い椅子が並んでおり、その前には大きな鏡がある。
「お前らカネは持ってきたかー? 目ん玉飛び出るほど取られっかんな! 覚悟しとけよー!」
 そうして入店する。この時間帯のせいか、空いていたため、すぐに連れ去られた。
 周作とは事前に打ち合わせしていたため、サムアップを交わし、別れた。

 そうして、コトが始まり、コトが終わった。

  *

 夕暮れ時。晴れが復権し、グレーの雲は遠退いて、オレンジ色の空が広がっていた。
 俺たちの学区と、周作たちの学区を隔てる川に架かる橋の上。そこが待ち合わせ場所だった。
「おい、村川、絶交だっつったろ! 見せたいものってなんだよ?」
 桜井さんとの、待ち合わせだ。
 ギャーッハッハッハッ! と村川さんは笑いっぱなしだ。
「なに笑って――って! お前らなにしてんだよッ?」
 そう言ってから、桜井さんも「キャーキャー」と笑い始めた。
「なぁ綿原? 笑われてるんだが? 爆笑されてるんだが?」
「アッハッハッ! 相澤ぁー、お前も面白れぇけどよぉ、綿原の勝ちだわ!」
「なに桜井さん?『ニュー・俺』に惚れちった?」
 桜井さんはなにも答えず、ただただ笑い転げるばかりだった。
 村川さんは笑いを堪えながら謝罪の言葉を述べる。
「いままで散々名前間違えてごめんな! 綿原! その頭は、間違いなく“ワタ”だわっハッハッハッ! ワタの原っぱだわっハッハッハッ!」
「ワタじゃねぇって! 銀だから! ギンギラ銀だから!」
 そう、俺たちは髪を染めたのだった(周作はカットもした)。
 堀田部長は「外見をどうにかしたら――」と言いかけていた。
 先に周作が金髪にする、と言ったので、それなら、と俺は銀髪を選んだ。
 結果がコレである。
 あれー? 美容院のお姉さんにはキチンと「銀色で」って言ったはずなんだけどなぁ……?
 桜井さんたちには天パな俺の頭が“ワタ埃”に見えているらしい。
 くっそー。サラサラな髪質の周作が憎い。
「それにしても桜井さんはなんで青髪なの?」
「はぁー……、はぁー……。ウチ……? ウチがなんで青選んだかって? 下の名前が『葵』なんさ。江崎は『縁』って名前で『緑』に似てっからで、村川は日和ったんだよな? 無難なラインによ?」
「そりゃイヤっしょ!」
「イヤってなにかぁ! 青髪がイヤってか!」
「イヤっしょ! あははっ!」
「コノヤローめ!」
 桜井さんは村上さんの脇腹をくすぐり始めた。
「あはっ! あははっ! やーめーっ! ただ、ただでさえ! やーめーっ!」
 散々くすぐり、桜井さんは満足したようだ。
「昼のことは、このアホ二人に免じて許してやるよ」
「ま、懲りないケドね、アタシは」
「いや、懲りろよ、いい加減。あれから2ヶ月経ってんべ?」
「これから夏休みがあんべ?」
「勘弁してくれー」
 そんで? と俺は周作に話を振る。
「リタイアするか、コンティニューするか、決めたか?」
 周作は照れ臭そうな笑顔を見せる。
「このまま帰ったら“僕たちに”無関心な母親でも、さすがに泣いて怒っちまう。けど、コンティニューするって言えば、泣いて喜んでくれるよ。ありがとう、綿原。髪染めるのも付き合ってくれて」
「俺も髪染めるの興味あったんだよね。金髪に青髪に緑髪の女子がのさばってるなら、校則も緩いんだと思ってさ」
「ハ? なに言ってんの?」と桜井さんが言った。
 村川さんが続く。
「金髪ですら、超キレられっかんな? 学年主任と生徒指導のオッサンらに」
「あと風紀委員なー」
「え……、マジ気ー?」

  *

「周作、期末テストだけでも、学校来て受けるか?」
「明日から行くよ」
「そっか」

  ―― * ――

 中学に入学してすぐの頃、百瀬さまとは席が隣同士だった。
 けれど、5月の中間テスト後の席替えで遠く離れてしまった。
 離れ難い。そう思ったぼくは、百瀬さまを校舎裏の桜……、たぶん桜だ、その木の下に呼んだ。
「も、百瀬さんのことが……、す、好きです」
「私のどんなところが好きなの?」
「え、えっと……、言葉にできないんですけれど……、『綺麗』で『カッコいい』ところ、です」
「どんなところがカッコいいと思うの?」
「そ、それは……、言葉にはできなくて……。けれど、『強い』百瀬さんが大好きなんです!」
「強い、ね……。ふうん、へぇ、そう。私は強くもないし、カッコよくもないの」
 百瀬さまはぼくに背を向けた。
「あなた、言葉足らずね」

 言葉の足りないぼくは、文芸部へ入り、書籍を読み漁るようになった。

  ―― * ――

 我が母は、話せば解ってくれる人だ。
「お母さん! おにぃがグレたー!」
 いちおう事前に写真を送ってある。最初に実物を見ると、この朋李のように驚きが先行してしまうからだ。
 帰宅後すぐに母に頭を下げた。
 そして懇切丁寧に事情を説明した。
 我が母は、話せば解ってく――。
「だからって! なんで白なの!」
「銀ね!」
「そこのところは悪ふざけでしょ!」
「……はい」
「綿原だからって、頭までワタにしなくていいのよ!」
「……はい」
「全く! ワタみたいな“軽い頭”でこんなことして!」
 上手いこと言うなぁ。
 とにかくめちゃくちゃ怒られた。

  *

 7月3日、木曜日。
 雨降りだったが、周作は学校へやってきた。
 加茂となにか話しているようだけど、俺の席までは聞こえてこない。
「わ、綿原くん! なな、なんですか、その髪!」
「おはよう、渡辺さん、これにはわけが――」
「うふふふふっ! ワタで、綿原……。ふふふふっ!」
「銀ね! この色、銀だから!」
「ワタで、綿原……。ふふふっ!」
 なにかツボにハマったらしい。
 ひとしきり笑ってから、渡辺さんはこちらを向かずに「おはようございます。お似合いですよ。ふふふっ」と言った。ひとしきり、と言ったが、まだ笑い足りない様子だった……。
「ぷっ」
 陸上部の朝練を終えて、百瀬が教室へやってきた。
「ぷ―っ! ぷーっふっふっふっ!」
「おはよう、百瀬」
「あっはっはっはっ! ヒーーっ! あっはっはっ!」
 やれやれである。

  *

 三度ノックして、文芸部室へ入る。
「やぁ綿原くん。思い切ったねぇ」
「堀田部長は笑わないんですね」
「いや? 笑わせてもらったわよ? 学内で見かけた時にね」
「……そうですか」
 青のカップに入ったコーヒーが届き、ゆっくりと冷ます。
「子細を聞いてもいいかな?」
「いいですよ」
 俺は語り始める。
 昨晩のことと、周作から話を聞いた今朝のことを。
「まず村川さんたちに協力してもらって――」

  ―― * ――

 朝、登校してきた周作に、加茂は驚いた。無理もないだろう。散々“イジって”不登校になっていた相手が、金髪になって戻ってきたのだから。
「おい、お前相澤かっ?」
「そうだよ、加茂くん」
「相澤のクセに、なーにいっちょ前に髪染めてんだよ。ハハッ」
「加茂くん、僕はコンティニューしにきたんだ」
「なんだぁ? コンティニュー?」
「あの時逃げたのは、キミの存在が鬱陶しかったからなんだ」
「ハァ? なに言ってんの、お前?」
「邪魔なんだよ、キミ。京都にさ、いけず石ってあるだろう? 敷地内の角に大きな石を置いて、車の交通妨害をするヤツさ。あれがキミだ。けど、ありがとう。おかげでルールを守った運転ができそうだ」
「なにが言いてぇのか分かんねぇよ」
「そう? ならいいさ」

 そうしてお昼休みを迎える。
「おい、相澤ぁ? コンティニューがしてぇんだろう? まぁた手伝ってやろうかぁ?」
「それが邪魔だって言ってるんだ。僕は静かなほうが好きなのさ」
「なんだと、お前」
「腹は据わっている」
 周作は席を立ち、教壇を上り、教卓の前に立った。
 そして――。
「なぁみんな、みんなはもう僕のことを知ってるんだろう? だったら、むしろ聞いていてほしい」
 1年A組は静まり返った。
 ……俺は、見守ることにした。きっと満足げに微笑んでいた。
「渡辺さん、あの時困らせてごめん。そして、これから困らせる。ごめん」
 周作は、教室の窓際、後ろから二番目に座る彼女に向けて頭を下げた。
 そして顔を上げて言う。その瞳は輝いて見えた。
「4月にキミを見かけた時、感じたんだ、『これが一目惚れか』って。その時からずっと、キミは僕の心を捉えて離さなかった。不登校の間もずっとだ。だから言うよ。渡辺さん、僕はキミのことが好きだ。大好きなんだ。これが僕の想いの全てなんだ。大好きだ、渡辺さん!」
 クラスは静かなままだった。
 渡辺さんは俯いて、なにも話さなかった。
「あの時伝えられなかった想いを言葉にできて、スッキリした! ありがとう、渡辺さん! 綿原もありがとう!」
 そう言ってから、周作も俯いた。
 ……俺は席を立つ。立って、周作の隣までゆく。
「おいおい、周作。独りだけカッコつけさせないぜっ」
 隣に立って肩を抱くと、周作は顔を上げた。
「綿原は……?」
 周作を抱いていた腕を離し、教卓に乗せる。
「なぁ百瀬。あの“ソメイヨシノの木”の下で、言えなかった言葉を言うよ」
 教室は静かなままだった。
「俺は百瀬さんのことが大好きです。その美麗な顔も、透き通る声も、凛とした立ち姿も、全てが『綺麗』で、孤高でいられる胆力と実力が『カッコよくて』大好きです。その揺るぎない『強さ』を持つ百瀬さんが大好きなんです。百瀬さんが自分のことを、強くない、カッコよくない、と言ったって、俺の目にはそう映ってるから『強くて綺麗でカッコいい』百瀬さん、大好きです」
 教室窓際から二列目、その一番後ろ。
 そこから声が届く。
「……ふ、ふうん、へぇ、そう」
「『雨音が聞こえる。温かい雨が降っている。結露した窓に書くのは、キミの“名前”』」
「そ、それは誰の言葉?」
「オリジナルだよ。初出しだ」
「いつもより言葉が軽いと思ったら、そういうこと……。ふうん、へぇ、そう……」
 百瀬はそっぽを向いた。頬は紅潮していた。
「前より、少しはマシになったようね?」
「ありがとう」
 俺は渡辺さんのほうを見遣った。チラリと俺を見て、再び俯く。
 アシストしてやるか。
「百瀬、『相談』しないか? これからのこと。相談しながら追い追い考えていこうよ」
「そ、相談……、相談、ね?」
「そうさ。相談」
 ギィと、椅子を引く音が鳴る。
「相澤くん!」
 渡辺さんが立ち上がったのだ。俯きながらでも。それでも。
 周作は「は、はい!」とつっかえながら応じる。
「わたしも……、『相談』したいな。頑張ってくれた、相澤くんと……」
 上手くアシストできた。それで俺は満足だった。たとえ百瀬と恋人になれずとも……。
「イェーイ!」
 そんな軽い言葉を吐いたのは、村川さんだ。
「拍手してやろうぜぇー! アホ二人に!」
 そんなバカみたいな合図で1年A組の教室内は白色の拍手の音で満たされた。

  ―― * ――

「つ、付き合うことになったんですかっ?」
 いつの間にか部室へ来ていた美浜が言った。
「『相談』することになっただけだよ。つまりは『保留』だ」
「そ、それでも告白する覚悟を決める“心労”ですよね? 一夜で白髪になってますよ……?」
「銀ね! あと『マリー・アントワネット症候群』はウソっぱちだから!」
 そして美浜にまたイチから説明するだけで、その日の文芸部の活動は終わった。

  *

 7月4日、金曜日。
 いつものようにお昼休み。
「なぁ百瀬、俺はボッチじゃなくなったぞ」
「私だって、渡辺さんという心の友を得たわ」
「ええ? わたしですか?」
 前の席に座る彼女はこちらを向いた。今回はびくりと跳ねはしなかった。
「この教室に渡辺と言う苗字の人物はあなたしかいないわよ?」
「そ、そうですね……」
「私たち、公開告白なんかされちゃって、恥をかかされた同士でしょう?」
「それは……、そうかもしれませんけど……」
「おい、渡辺さんが戸惑ってるぞ? 本当に心の友なのか?」
「心の友よね? 渡辺さん?」
「ええっと……」
「同意を得たわ」
「いまのでどうやって?」
「心の声を聞いたの」
「ならそうなんだろうね」
「ずっと思ってましたけど、綿原くんって百瀬さんのイエスマンですよね……?」
「そんなことはないさ。『イエスの裏には必ずノーがある。完全なるイエスなどない』とダニエル・ドライヤーは言っている」
「誰よ、それ」
「タイバー・テオドールが書いた小説の主人公」
「あっそう」
「で、でもそれって『表面上はイエス』と言っているわけですよね……?」
「そうかもなぁ。どう思う? 百瀬?」
「要反省」
「はい」
「また『イエス』って言ったわね?」
「いまのは仕方ないだろう?」
「まぁそういうことにしておいてあげるわ」
「それはどうも」
 一つ咳払い。
「それで相談のことだ。この先、俺たちはどうしていくのか?」
「綿原、なにかアイデアは?」
「渡辺さんは?」
「分かりません……」
「そうか。『三人寄れば文殊の知恵』と言うのになぁ。まぁ黒田健次郎は『笹部、白石、そしてこの黒田。三人の内に一人、裏切り者がおる』と宣言するんだよね」
「ああ、白石が裏切り者で、笹部は白石に殺されるって話ね」
「そう、それ」
「だから?」
「この中に裏切り者の白石がいるんだ」
「殺される笹部もね」
「く、黒田さんは後々どうなるんですか?」
「白石を殺す」
「血も涙もないわね。私たちはこれから殺し殺されなくちゃいけないわけね?」
「仕方ないさ。ところで百瀬は黒髪だよな?」
「それは渡辺さんも同じでしょう?」
「確かに」
「あら? 私、この中に白髪の男を見つけたわ」
「一体誰だい?」
「あなたよ」
「銀ね!」
「あれですよね、綿原くん。『裏切り者、白石! いま斬り捨てる!』っていう」
「その台詞を引用したってことは、渡辺さんは笹部だね」
「だったら白石たる綿原が、笹部たる渡辺さんを斬殺するわけね?」
「ええっ! わたしを?」
「仕方ないよ、笹部さん。キミはチョイ役なんだから」
「そして私が綿原を斬殺する、と。ふふっ」
「ねぇなんで笑ったの? ねぇなんで笑ったの?」
「一度あなたを殺してみたいと思っていたのよ」
「ええっ!」
 渡辺さん驚く。
「そうか、それなら仕方ないね。甘んじて殺されるとしよう」
「ええっ!」
 渡辺さん驚く。
「それで? 白石はなにを裏切ったの?」
「うーん、アイデアがあるのに言わなかったこと、かなぁ」
「これから先どうするのか、相談しようという話ね?」
「ああ」
「どうするの?」
「お食事会と洒落込もう。実は文芸部の堀田部長からレストランの割引券をもらっているんだ」
「気っ風がいいわね」
「百瀬の都合はどう? 明日なら土曜日だけど、陸上部は練習があるだろう?」
「ちょうど明日は休もうと思っていたところよ」
 休もうと思う? そんな日もあるんだなぁ?
 ……少し引っかかった。
「渡辺さんは?」
「わたしも明日いいですよ」
「なら、最後は周作に聞いて決まりだ」
 周作もオーケーだった。

  第三話 逃げたい。

 7月5日、土曜日。
 お食事会当日である。
 待ち合わせ場所は名古屋駅構内にある金時計台前だ。東海地方に住まう者にとっては定番の場所である。時刻は13時に設定していた。
 俺は用があって2時間前にその場所を通る。
 まさかいるわけないよな、と思いながら人が集まるその場所を見回った。
 俺は“一人の少女”の肩に手を置いた。
「ひゃっ」
 短い喚声を上げてこちらを向いたのは、百瀬だった。
「綿原……。びっくりしたわ……」
 驚きの表情から一転、ふふっ、と百瀬は笑った。
「びっくりしたのはこっちだ。まだ11時だぞ。早すぎだろ」
「わ、綿原だって、来ているじゃない」
 さっきまでの笑顔を収め、ツーンとして百瀬は言った。
「俺は他に用があるんだ」
「用ってなによ?」
「ただの買い物だよ。名古屋駅に来る機会なんてあんまりないからな」
「ふうん、へぇ、そう」
 おっと、まずは服装を褒めなければ。
 百瀬は薄ピンク色でふんわりとしたシルエットの半袖シャツに、下はライトブルーのスキニーパンツを履いていた。日焼けした細い腕がよく映えている。まるで百合の花の妖精のようだった。
 端的にオシャレだな、と思った。
 美しい黒のショートヘアは黄緑色のピンで留められているし、首元には銀のネックレス、手首にも銀色で細いベルト腕時計、そして、ほんのり薄化粧も施されている。リップはピンク色だった。
「よく似合ってるね」
「な、なにが?」
「服だよ。私服姿を初めて見たけど、垢抜けてるね」
「ま、まぁ? これくらいはね?」
 百瀬はちょっぴり頬を染めた。
「今日も雨だけど、ここは屋根があるからいいね」
「けれど『雨音』は聞こえないわ」
「そうだけど、気になるの?」
「べ、別に?」
「俺はこれから待ち合わせ時間まで買い物に行こうと思ってるんだけど……」
「一緒に行くわ」と百瀬はすぐに言った。
「退屈させちゃわないように気をつけるよ」
「退屈なんかしないわ」
「そう?」

 待ち合わせ場所からすぐの、タカシマヤ・ゲートタワーモール8階に入っている三省堂書店を目指し、エレベーターに乗る。
 エレベーターの壁はガラス張りで、鈍色に濡れた街が見下ろせた。
 雨脚は大降りで、雫が窓を叩いている。これも「雨音」の一種だろう、と俺が思った時だった。
「雨音が聞こえる――」
 絹が擦れるほどの小さな声で、そんな呟きが届いた。
 百瀬は俺よりも背が低い。女性としては高いほうではあるが。俺が170なので、百瀬は160くらいだろう。俯いて呟かれると、なにも聞こえなくなってしまう。
 百瀬はガラスに指を当て、何か文字を書いていた。
 なにを書いているんだろう?
 いや、待て。そんなことを考えている場合か? いま、俺は百瀬と二人きりでショッピングと洒落込んでるんだぞ?
 これはまさか「デート」というヤツでは?
 急に顔が熱くなった。
 百瀬から視線を外し、心を落ち着ける。すーはーと深呼吸。
 三度目の深呼吸を終えた頃、目的の階に到着した。
「百瀬、着いたぞ」
「ええ」

 大きな本屋だ。駅ビルの一階層全てを占めている。
 クリーム色の床が眩しい。立ち並ぶ本棚はまるでメトロポリスのビル群かのようだ。
 まずはそのビルディングの一棟、参考書コーナーへと向かった。
「なぁ百瀬、勉強はしてるか?」
「そこそこね。前にも言ったでしょう?『片手間』程度にね」
「ああ、セラフィーノ・スカッキの。『狐を追う者に声を掛けるな。片手間を掛けさせるな』」
 じゃあ、今日部活休んじゃって大丈夫だったの? と尋ねたかったが、飲み込んだ。どんな返答が返ってくるのかが分からず、怖かったのだ。エドワード・ユーイングの言うところの「夜は池に石を投げるな。どんな水音が返ってくるか分からない」ということだ。
「どんな参考書を使ってるのー?」等、なんてことない雑談をしながら本棚を回る。
 その時、百瀬は俺の七分丈の袖を摘まんだ。
「ここ、ひ、広くて、迷子になりそうだから」
 頬を赤らめ、照れ臭そうにしている。
「えへ、へへ……」
 百瀬のこんな表情、初めて見た。
 いま思い出す。「政治など簡単なものだ。金を左右に動かせばいい」というフェリクス・フランセンの言葉を引用した時に百瀬が言ったことだ。「あなたが支払った有名税は、いつかあなたの下へ戻ってくるかもね?」と。
 これこそが有名税を支払ったご褒美か! 還付金と言えるかもしれない。
「そ、そうだな……。広いもんな……」、そう述べるにとどまり、俺もまた百瀬同様、顔を熱くした。
 はたから見ればカップルに見えるかな? なんてことを考えると頭が沸騰しそうになる。
 ここで、ああ、そうか、と思う。
 俺の告白への回答は「保留」だった。「NO」ではなかったんだ!
 そんな実感がふつふつと湧いてくるのだった。
 ……しかしながら、不味いなぁ、と思う。
 俺たちはお互いのオススメの参考書を何冊かずつ購入してから、小説コーナーへ向かった。
「おー、これこれ。この新刊が欲しかったんだ」
「へ、へぇ、そう?」
「悪い、百瀬。時間見ててくれる?」
「え? 時間?」
「そう。待ち合わせ時間。俺時間忘れそうだから」
 ……小説のこととなると、夢中になってしまう俺なのだった。故に不味いのだ。
 せっかくならこのデート気分を楽しんでいたかったんだけれど。
 百瀬を連れ、一通り書架を見て回る。
「やっぱり大きな書店は違うなぁ」
「へぇ? そんなに?」
「ああ。小さなお店じゃ場所を取る単行本もちゃんと置いてある」
 これもある、あれもある、と巡る。
 おっと、いけない。やはりつい集中してしまう。
 百瀬には「退屈させないように気をつける」と言ってあるのに。
「百瀬はなにか本は読まないのか?」
「あなたがたまに言う作家と本はチェックしているけれど――」
 チェックしてくれているのか。
「どれも購入する踏ん切りがつかなくてね」
「ははっ。どれも古典作品でつまんないからね」
「つまらないの?」
「発売当時は盛り上がったんだろうけどさ、いまとなっては新規性の欠片もないんだよ。話の展開が全てベタなんだ」
「そんな本を読んでいたの?」
「まずは読書量だと思ってね。『言葉足らず』を直すにはさ」
「言葉足らず……。ふうん、へぇ、そう」
「ベタな展開の作品のほうが頭使わずに読めるだろう?」
「それなら、いまのあなたのオススメを教えて?」
「うーん……、難しいこと聞くなぁ」
「難しいの?」
「あれもこれもと思い浮かぶからね」
 悩みながらも、俺は一冊を選んだ。
「左門修二郎の『からす座の僕ら』なんてどう?」
「名前だけは聞いたことあるわ」
「そんなに長くないし、読みやすいと思うよ」
 その「からす座の僕ら」が並ぶ本棚まで行き「ほら」と見せる。
「文庫本も出てるから、値も張らないしね」
「あなたも読んだの?」
「二周は読んだね」
「なら私も二周読むわ」
「なに言ってんのさ。一周で充分だよ」
「それでも二周読むわ」
「頑なだな」
 しばらく二人して立ち読みをした。
 その時に俺の袖を摘まんでいた百瀬の手が離れた。切ない鈍色の風が胸を通り抜けた。
「私、この冒頭の『空の青が目に沁みた。瞳を閉じる。宇宙が広がる』という一文が好きだわ」
「それね、覚えておくといいよ。あとからまた似た文章が出てくるから」
「似た文章?」
「うーん……」
「なに渋い顔してんのよ」
「ネタバレになっちゃうからさ」
「一文だけでしょう?」
「まぁ、それならいいか。夜空を見上げて主人公はこう述べるんだ。『星のまたたきが目に沁みた。瞳を閉じる。やはり宇宙が広がっている』。主人公が瞳を閉じて視るものは『求めてやまないもの』なんだ。この場合は宇宙だね」
「ふうん」
 百瀬は瞳を閉じた。頬が桃色に染まる。
 しばらくしてから目を開けた。
「求めてやまないもの、ね? なんとなく分かったわ」
 そうして百瀬は「からす座の僕ら」の文庫本を大事そうに胸に抱いた。

 それから他にも百瀬にオススメの本を見繕った。「夏休み中にでも読んでみてよ」と。
「俺の趣味に付き合わせちゃったけど、百瀬はなにか欲しい物はないの?」
「私は……、なんでもいいわ」
「じゃあ、どこか休めるところ探す?」
「そういう意味じゃないの。一緒に買える物ならなんでもいい、という話よ」
「ああ、そういうこと? なら少し見て回ろうか?」
 そういえば。
「時間は大丈夫? お腹が空いてきた頃合いなんだけど」
「あっ」と百瀬は声を上げ、銀の腕時計を見た。
「過ぎているわ」
「ええっ! 急がないと!」
「“時間を忘れていた”わ」

  *

 当然のように待ち合わせ場所に二人はいた。
 遠目から見るに、なんだかもじもじしている。
 そうか、と思う。二人きりになるのが初めてだからか、と。
 それを10分以上も放置とは申し訳ない。
「ごめん、二人とも!」
「どこに行ってたんですか?」と渡辺さんが穏やかに聞いてくれた。
「二人で本屋にね。本当は一人で行くつもりだったんだけど、百瀬が待ち合わせ場所にいたから、俺が連れてったんだ。本当にごめん!」
「連れ去られた覚えはないわよ。一緒に行くと言ったのは私だしね」
 周作は首を捻る。
「そんなに早くに来てたのか? 僕も1時間前にはここについてたんだけどなぁ」
「あら? 相澤くん、わたしには『いま来たとこだ』って言ってませんでした?」
「それは、その……」
 渡辺さんは柔和に微笑んだ。
「それにしてもみんな早いんですね。わたしは時間ピッタリに到着したんですけど」
 渡辺さんは白のキャミソールに水色のカーディガンを羽織っていた。そしてクリーム色のロングギャザースカートを履いている。
 俺は周作に耳打ちする。
「ちゃんと服装は褒めたか?」
「あっ、渡辺さん!」
「なんですか?」と小首を傾げる渡辺さん。
「そ、その服、いいですね!」
「ふふっ。ありがとう」
 やれやれ、と俺は嘆息した。耳打ちしてすぐに褒めたら、俺の指示だってことがバレバレだろうに。
 不器用だなぁ。しかし憎めない。
 だからこそ渡辺さんも笑顔で受けたのだろう。
「じゃあ、お店に行こうか」

 そのレストランは夜は居酒屋として営業しているらしい。洋食がメインだ。
 個室は間接照明が“なんかいい感じ”の雰囲気を醸し出していた。いや「言葉足らず」はよくないな。アダルト? エロチック? そんな感じ。
 先頭を歩いていた俺がお先に席を選んで腰掛けると、その横にちょこんと百瀬が座った。
「百瀬? 俺の隣に座ってどうする? ここは女子二人と男子二人が向き合って座るところだろう?」
「えっ? あっ、そうね」
 間の抜けたことを言って、百瀬は席を選び直した。
 結果、俺の向かいに百瀬、左隣に周作、周作の前に渡辺さんが座った。
 それにしてもボッチ、いや、元ボッチとしてはみんなと一緒の食事会での振る舞いが分からない。
「なぁ周作、こういう時はどんな物を注文すればいいんだ?」
「どんな物って、食べたい物頼めばいいだろ?」
「そうなのか」
「それとポテトかな。みんなでシェアする用に」
「なるほど。手慣れてるな」
「いや、みんな中学ん時、友達とファミレス行ったことくらいあるだろ?」
「だとさ、百瀬」
「どうして私に話を振るのよ」
「渡辺さんは? こういうの慣れてる?」
「慣れてはいませんけど、ファミレスに行ったことはありますよ」
「だとさ、百瀬」
「どうして私に振るのよ」
「お前の心の友なんだろう?」
「そうよ。けれど『親しき仲にも礼儀あり』でしょう?」
「なるほどね。けれど『なにもかも知りたいという傲慢を背負ってこその人だ』とドミニク・デューイは言うんだ」
「ハハッ。誰だよ、そいつ」
「ハロルド・ヘイワードが書いた小説の主人公」
「ふうん、そうなのか」
「あら、前にもその著者の作品を引用していたわよね?」
「そういえば。『なにもかも知った気でいるな。なにもかも知らぬお前が』って言う悪役のサイラス・カッターへの返答だね」
「あっそう」
 あの時「人だ。なにもかもを知ろうとは不遜である。宇宙だ」というアーヴィング・エイマーズの言葉も引用したっけな。
 俺は百瀬のことをなにもかも知りたいと思っている。そんな傲慢を背負っている。けれど同時に、他人のなにもかもを知ることはできないという諦念も抱いている。
 いやはや、もどかしい。これぞ人間関係か。
「ちなみに渡辺さんはどんなものが好きなの?」
「カルボナーラです」
 食に関して聞いたわけじゃないんだけど、まぁこの場面ならそんな返答になるのも道理か。
「部活はどこに入ってるの?」
「手芸部ですよ」
 大きく頷いて「へぇ」と言ったのは無論、周作である。
 というより、先刻から渡辺さんへ質問しているのは周作のためである。
 周作は饒舌、は言いすぎだが、無口ではない。話も上手いし、一緒にいて愉快だ。
 にもかかわらず、渡辺さんの前では……。
 周作の「へぇ」ののち、場は沈黙。
 コレである。
 よほど奥手らしい。
 ……ならば、アシストとして、まずは。
「まずは注文しようか」

 注文を終え、品が来るまでの間に決めてしまおう。
「お互いの呼び名を考えようよ。ほら、俺は相澤のことを『周作』と呼んでるだろう? みんなも『周作』って呼んだら?」
「お、おう! みんな、いいぞ!」
「周作くん」と百瀬。
「周作くん」と渡辺さん。
 まぁ最初は「くん付け」からか。
 ドンマイ――と思って横を見ると、周作は真っ赤な顔をしていた。お気に召したらしい。
「渡辺さんのことはさ、呼び捨てにしていい?」
「いいですよ」
 朗らかに微笑んで「渡辺」はそう言った。
「ほら、周作。呼んでみ?『渡辺』って」
「わ、わわ、わ、わたなべ……」
「はい」
 周作は茹でダコ状態だった。「もう一回」と言って、もっとからかってやろうと、思った時だった。
「綿原」
「ん? どうした百瀬?」
「私のことも、下の名前で呼んでもいいんだけど?」
 顔が真っ赤だ。茹でダコはここにもいた。
 そしてもう一匹生まれる。無論、俺である。
「さ、さい、彩加……」
「……も、もう一回」
「彩加……」
「もう一回」
「お、俺、ちょっとトイレ行きたいから!」
 逃げた。

  *

 店内にお手洗いは男女兼用のものが一つしかなかった。
 俺がトイレから出ると、そこには渡辺がいた。
「お待たせ」
「いいえ」
 すれ違いざま「あっ」と渡辺は声を上げた。
「綿原くんって気遣い屋さんですよね」
「そう?」
「さっきの呼び名の会話だって、周作くんのためでしょ?」
「あれ、バレバレ?」
「それに……」
「ん?」
「公開告白の時も、困ってたわたしと目が合ったでしょう?」
「ああ、あれか」
「それで百瀬さんに『相談しよう』なんて持ち掛けたんじゃないですか?」
「それもバレてたか」
「本当は百瀬さんから正式な『オーケー』をもらいたかったんでしょう? それを我慢して……」
「まぁね。けど『いまじゃなくてもいいか』と思ったのも事実だよ」
「でも、百瀬さんは、どうなんですかね?」

  *

 注文の品が届き、俺たちは食事を進めていた。
「わ、渡辺がカルボナーラ好きだなんて、初めて知ったよ」
 周作は未だにぎこちない。
「わたし本当はね、このホワイトソースが真っ黒になるまで黒コショウを振るのが好きなの」
「へ、へぇー。覚えておくよ」
 俺もカルボナーラを注文していた。
 パスタをフォークに巻きつけながら、先刻渡辺に言われた言葉を思い出していた。
 彩加がどうだったか、なんて言われてもなぁ……。
 けれど……。
「なぁ彩加、俺のことも……、綿原じゃなくて『聡助』って呼んでくれないか?」
「ぷっ……。あはははっ!」
「そ、そんな笑うことか?」
「いや、だってあなた、口元にクリームをつけたまま言うんだもの。あははっ!」
「マジっ?」
 テーブルに置かれているペーパーナプキンで拭くと、べっとりホワイトソースが付いていた。
 恥ずかしぃー……!
「けれど、分かったわ。……『聡助』」
「……照れ臭いな」
「そうね」

 話題は替わって、翌日の話へ。
「周作と渡辺は明日ヒマか?」
「お? 明日もなんかあんのかよ?」
「映画のチケットがあるんだ。これまた堀田部長からもらってね」
「僕は……」
 周作は渡辺のほうを見遣る。
「わたし、行く」
「そっか。なら周作と行ってきな」
「聡助」
「ん? どうした彩加?」
「私も明日ヒマよ」
「お前陸上部は?」
「ちょうど休もうと思っていたの」
 二日連続で?
 不思議に思ったが……、「夜の池には石を投げ込まない」ことにした。
 その吉凶禍福は……、分からない。
「チケットもなぜか、ちょうど四枚あるんだ」
 明日も四人で遊びに行くことになった。

  *

 夕暮れ前に家に帰り、今日買った新刊の小説を読む。いや、読もうとした。
 けれど、彩加が「からす座の僕ら」を読むと言っていたから、俺もそっちを読むことした。
 いや、読もうとした。
 部屋の扉がノックされたのだ。
 まぁ、隣の部屋が騒がしいと思っていたんだ。
「はいはい、勉強ねー」
 そうしていつものように朋李の部屋で勉強会を手伝うことになった。
「ちなみにおにぃ、今日はどこ行ってたの?」
「友達とランチ」
「えっ! ボッチのおにぃが!」
「もうボッチじゃなくなったんですぅ。っていうか妹のクセに失礼だな!」
 愛子ちゃんが微笑みながら言う。
「お兄さんの友人って、兄ですよね。髪もそうしたのは兄のためだとか。本当にありがとうございます」
「いいさ」
 実は男友達とエッチな話がしたくて東奔西走した挙句、あなたの兄が選ばれたんです、とは言えない。

 勉強会は1時間弱でつつがなく終了。暗くなる前に解散する手はずだったらしい。
 その帰り際、愛子ちゃんに声をかけた。
「このあとさ、周作んチ行ってもいいかな?」
「はい、いいですよ」
「おにぃ、しっかり愛子ちゃんを家まで送り届けてよ! 送り狼になっちゃダメだからね!」
「はいはい」

 玄関で靴に履き替える時、「送り狼……」と愛子ちゃんが呟いた。
「アイツ、意味分かって言ってんのかねぇ?」

 とにかく家を出て、まずは川に架かる橋を目指す。
 昼間はざざ降りだった雨は上がっていた。
 オレンジ色の空の下、二人して歩く。
「梅雨明けはいつになるんだろうねぇ」
 愛子ちゃんは水色の傘と紺色を基調としたカバンを手の持っていた。
「カバン持とうか? 参考書やらなんか入ってて重いだろう?」
「あ、ありがとうございます」
 カバンを受け取ると、けっこうな重さだった。
「受験生だもんね」
 その重みだ。
「大変だね」
「いいえ」
「二人の成績ってどうなの? 陽映受かりそう? とか、聞いちゃってもいいのかな」
「大丈夫ですよ。わたしはこの間の模試で、なんとかA判定をもらえて。朋李ちゃんはB判定だったんですけど、陸上部を引退したら、きっと成績を伸ばすと思います」
「そっか。少し安心したよ」
「あの、えっと……」
「ん?」
「その……」
 なにか言いたいことがあるのだろうか?
 それとも……。
「愛子ちゃんって『沈黙』が怖かったりする?」
「あっ……。そうです……」
「テッド・サックウェルが『言うまでもなく会話は劇だ。沈黙でさえシナリオ通り』と言っているんだ。大丈夫だよ」
「そうなんですね!」
 声のトーンが少し明るくなった。
「まぁ、そいつは悪役で、彼の言うところの『沈黙』ってのは死体のことなんだけどね」
「ええっ! そんな!」
「ははっ」
「うふふっ」
 橋に差し掛かり、欄干から川を覗き込む。
 言うまでもなく黄金色に輝いていた。言うまでもなく美しく、言うまでもなく満足感をもたらした。
 その時だった。
「あの!」
 愛子ちゃんが大きな声を上げたのだ。

「あ、あの! お兄さん!」

 ……か弱い印象の彼女。どこからそんな大きな声が出るのか。

「お、お兄さんって、おっぱいが小さい人が好きなんですか!」

 ……え?

「最近わたし、胸が膨れてきて……」

 ……ええ?

 ぎゅっと、その身を抱くように腕を回す彼女。
 オレンジ色のスポットライトが暗くなる中、その顔に陰が差し、悲壮感すら感じさせる。
 そういう相談はお母さんに、あるいは朋李にしなさい、とは言えない雰囲気を放っている。
 ここは正直に、明け透けに答えるべきだろう。
 それが誠意ってもんだろう!
「確かに俺は、おっぱいは小さいほうが好きだ!」
 けれど……。
 もしも彩加の胸が大きかったら、それでも俺は惹かれていたか? 惹かれていた。そこに間違いはない。
 むしろ順序はテレコで、彩加の胸が小さかったからこそ、小さい胸が好きになったのである。
 俺の性癖を歪めやがったのは彩加なのだ。
 とにかく、俺がいま愛子ちゃんは言うべきは……!
「俺は好きな人の持つ属性が嗜好になるんだ。分かるかな、愛子ちゃん。俺は好きな人のことを好きになるんだ。その人のことなら全てを受け入れられるんだ。だから愛子ちゃんが爆乳になろうとも受け止めるよ!」
「あり、ありがとうございます……」
 キラリと、その瞳に光るものが見えた。
「泣かないで。愛子ちゃんはきっと素敵な大人になるよ」
「はい……、はい!」
 力強く頷くも、涙は止まらなかった。
 そんな愛子ちゃんをなだめつつ、相澤宅まで向かった。

  *

「ただいま」
「お邪魔します」
 ご両親は不在のようで、周作が出迎えてくれた。
「どうした、愛子。目が赤いぞ?」
「大丈夫、平気」
「そっか」
 周作は安心した様子で笑顔を見せた。本当に兄妹仲が良いんだな、と思った。今度、シスコンと言ってからかってやろう。
「綿原は?」
「今日の反省と明日へ向けて、話し合おうと思ってね」
「ああ……」
 周作は苦笑した。
「あとでお菓子持っていきますね」と言う愛子ちゃんにお礼を述べて、周作の部屋に入った。

 前に来た時からまだ数日しか経っていないのに、ずいぶんと久しぶりに感じた。
 俺がベッドに座り、周作が勉強机のチェアに腰掛ける。
「なぁ綿原、僕はまだまだヘタレらしい……」
 渡辺の前で始終ドギマギしてたしな。
「告白する度胸はあったのになぁ」
「それがな……、渡辺と、その、今後そういう関係になるって思うと、気が引けちまうんだよ」
「だったら、いま周作は満足か?」
 うーん……、と周作は唸る。
「もう少し、欲張ってみてもいいんじゃないか?」
 周作は「ふぅー……」と息をつく。
「欲張って、拒否されたら、また不登校に逆戻りさ」
「『我らは進む。時の針を追い越して』、そんな言葉がある。周作の中で、時間さえ追い抜くようなものはないのか?」
 頬に手を当て、周作はしばらく考える様子を見せた。
「……綿原にはあるのか?」
「『3年越しの恋』だ。“俺の想い”が時の針を追い越してる。結婚まで行くかは分からないけど、いつかこの熱は醒めてしまうかもしれないけど、それでもいまは、追い越してるんだよ」
「僕だって、渡辺への想いの強さなら負けない気でいるよ。でも踏み出せないんだ。傷つけちまうんじゃないかって――いや、違うな。僕は僕が傷つくのが怖いんだ」
 自分が傷つくのが、怖い、か……。
 俺も一度失恋を経験している。
 今回、再び告白できたのは、周作が一緒にいてくれたからだ。本当に感謝している。それを言葉にしなくちゃな。「言葉足らず」で終わるのは、後悔が残るから。
 俺は謝辞を言おうとしたが、周作のほうが先に口を開いた。
「綿原はどうなんだ? 百瀬さんと――」
 バタンッ、とお盆が床に落ちる音がした。扉の向こうからだ。
「愛子だな? 鈍臭いヤツ」
 周作はチェアから立ち上がり、俺の前を横断して、扉を開けた。
「どうしたんだ、愛子?」
 見ると、愛子ちゃんは口に手を当て、大粒の涙を零していた。周作はしゃがみ、愛子ちゃんの背中に手を当てた。
「おにい、ちゃん……」
「愛子、もしかして、そうなのか?」
 こげ茶色のフローリングの上にはミントグリーンのトレイと、そこに乗っていたのであろう、個包装されたクッキーが散らばっている。
「そうなんだな、愛子」
 二人はなんの話をしている?
「腹は据わった」
 周作は言った。
「僕は妹のためなら不義理だって働く」
 そんなことを、周作は立ち上がりながら言った。
「なんだ?」
「綿原、百瀬さんと別れてくれ」
「は? なに言ってんだよ?」
「愛子は! お前のことが好きなんだ!」
「いや、は?」
 頭が混乱する。
 視界が歪んで眩暈がする。
「だからって、お前――」
「だから、別れてくれ」
「いや、は?」
「愛子はいま受験生だ。大事な時期なんだ」
「別れてどうしろって言うんだ?」
 腹の下から、感情が湧き上がってくる。怒り、憤り、そんな汚い感情だ。
「愛子ちゃんと付き合えば満足かよ?」
「それもダメだ。恋にうつつを抜かさせるわけにはいかない」
「おい、だったら、なにか? 俺は彩加と別れて、愛子ちゃんとも付き合わず、ずっとフリーでいればいいのか?」
「そうだ」
 なに言ってんだコイツ。
「できるわけないだろ!」
 俺はダークグレーに汚れた気持ちで叫ぶ。
「“俺のは”『3年越しの恋』だぞ!」
「『一目惚れ』の僕とは違うってか!」
「ああ、そうだ!」
 ヘドロ色の吐しゃ物にも似た言葉が喉の奥から飛び出てくる。
「学校へ行けるようになったのも! 渡辺と仮の恋人になれたのも! 誰のおかげだと――!」
 あっ――、と思い、両手で口を塞ぐ。これ以上漏れないようにと……。
「すまん……。“言いすぎた”。一言多かった……」
「いいよ、言えよ。お前のおかげだよ、僕が高校へ行けるようになったのは。でも、渡辺と一緒にいられるようになったのが綿原のおかげ? 一体どういうことだ」
「……言いたくない」
「なんだよ? どうしたんだよ、急に?」
「……これ以上、なにも言いたくない」
「教えろよ!」
「知りたきゃ渡辺に直接聞けよ! 勝手にしろ!」
 俺はくすんだ黒色に汚れて、その場から逃げた。

  *

 7月6日、日曜日。
 映画の約束をした日だ。
 周作から連絡はない。
 行こうかどうか迷った。
 迷った挙句――。
 俺は彩加に会いたかった。

 天気は荒天。
 そんな中、約束の時刻の2時間前に待ち合わせ場所へ赴いた。
「お前、早すぎるぞ……。一体どんな教育受けてんだ?」
「……昨日と今日は、特別よ」
 彩加はそう言ってから、思い出したかのように笑顔になった。
「うふふ」と笑っている。
 日に焼けたその顔を見て、俺は太陽を思い出した。黄色い笑顔だ。
「どこか、カフェにでも入らないか?」
「うーん……、いいけど……」
 彩加はどこかもじもじしていた。
「今日の服、どう?」
 ああ、そういうことか。
 男失格だな。
 本日の彩加のコーデ。
 白のシャツに黒のジレ。ボトムスもブラックでフォーマルな印象。
「今日はカッコいい系だな」
「そ、そう?」
「似合ってるよ」
「ありがとう」

 チェーン店のカフェに入り、俺たちは向かい合って腰掛けた。
 コーヒーの良い香りがする。
 俺は文芸部室を思い出した。
 なぜ堀田部長はレストランの割引券をくれたのだろう?
 それになぜ映画のチケットを四枚もくれたのだろう?
 それらは全くの謎であった。
 ともかく目の前に彩加が座り、テーブルの上には二杯のコーヒーが置かれている。二つともブレンドコーヒーだ。俺が先に注文したあと、彩加は「同じ物を」と言ったのだ。
 俺はそのコーヒーをブラックのまま飲む。彩加も同時に飲む。彼女は見事なしかめっ面を見せた。
「ブラックが飲めないなら紅茶にすればよかったのに」
「コ、コーヒーが飲みたい気分だったのよ……」
 彩加は真っ白なシュガーとフレッシュをこれでもかとカップに注ぎ、ほとんどコーヒー牛乳となった茶色い液体を飲んだ。
「読んだわよ、『からす座の僕ら』」
「もう?」
「まだ一周だけれどね」
「一周で充分だって。どうだった?」
「すごいわね。言葉だけで感情が揺さぶられたわ。あなたが本から言葉を引用したがる気持ちがほんのちょっぴり分かった気がする」
「オススメした身として、べた褒めは嬉しいね」
「うふふっ」
 彩加は本当に楽しそうな笑顔を見せた。
「『雲の上には空があって、空の上には太陽があって、僕らを追いかける』って台詞が好き」
「それ、なんだっけ……?」
「月島藤次の台詞よ。あなたが覚えていないなんて、珍しいわね」
「そうかもね」
 それからは小説の中身の話になり、俺は「うん、うん」と彩加の話を聞いていた。
 楽しげに話す彼女を見ているのは心の栄養になった。
 彼女の吐息と体温があれば、あとは「水」かな、と思った。
 俺は植物じゃないけれど、「光」、「水」、「空気」、「温度」、「養分」があれば生きていける。
「そうだね」
「あなた、本当に『イエス』しか言わないのね」
「そうかな?」
「はいはい、あれでしょ?『イエスの裏には必ずノーがある。完全なるイエスなどない』ってヤツ」
「そんな言葉、あったっけ……?」
 ガチャリ、と音がした。
 持ち上げたコーヒーカップをコースターへ強く打ちつけた音だ。
「どうしたのよ? ダニエル・ドライヤーの言葉でしょう? タイバー・テオドールが書いた小説の主人公!」
「ああ、そうだった」
「今日のあなた、変!」
「バレたか」
 俺はコーヒーをすすった。冷め切っていた。
「そうさ、俺は変になっちまったのさ」
 俺は両手を挙げた。
「手放したんだ」
「どういうこと?」
「汚れてしまったから、手放した。それだけのことだよ」
「なにかあったの?」
「ああ、あったに決まってる」
「じゃあ、話してみて」
「話せることと、話せないことがある」
「話せることだけでいいから」
 彩加は本当に不安そうに眉を寄せた。
「ねぇ、どうして話してくれないの?」

「……コーヒーが不味くなる」

  *

 コーヒー二杯もの時間を要した。話し終わるまでにだ。感情的にならぬよう気を遣って、ゆっくり話していたら、それだけ時間かかってしまった。
 彩加は難しい顔をした。
「身勝手な話ね」
「それだけで片づくことじゃない。妹の幸せを願ってのことなんだ。そこには愛があった。これは愛の話なんだよ」
「うーん……」とやはり思い悩んだ表情の彩加。首に手を当てている。
 その時、俺のスマホが震えた。
「誰? 周作くん?」
「いや、妹からだ。ちょっといい?」
 彩加は無言で「どうぞ」とサインをくれた。
『おにぃって、百瀬さまと付き合ってるの?』
「いきなりだな。愛子ちゃんから聞いたのか?」
『え? 愛子ちゃんは、いまいないよ。今日は家に来ないって』
「へぇ」
『それで?』
 興味津々、というわけではない。
 むしろ逆。違っていてくれ、と願っているかのようなトーンだ。
「そもそも誰から聞いたんだ?」
『陽映には今年、おにぃと百瀬さましか進学してないけど、上の学年にはOB・OGがけっこういるからね』
「それで中学校にまで話が回ってんのか……」
『付き合ってるの?』
「括弧仮」
『なにそれ』
「保留中ってこと」
『へぇー……。そうなんだ……』
 その声は願い虚しく、といった感じの、暗いトーン。
『ねぇおにぃ、百瀬さまがいまどこにいるか、って知ってる?』
「は?」
『あのね? 百瀬さま、この土・日と無断で部活休んでるの。だから、おにぃなら知ってるんじゃ――』
 俺は彩加のほうを見遣った。
 両手でコーヒーカップを包み、弄んでいる。
『おにぃ? おにぃ?』
「ああ、ちょっとボーっとしてた」
『シャキッとしてよ! 百瀬さまが中3の時のこと覚えてる?』
「覚えてる」
『おばあさまが病に伏せって、ものすごくタイムを落として……。精神的な弱さを持ってるんじゃないかって分析されてて』
「分析て!」
『先輩が言ってたもん!』
「分かった、分かったよ。居場所が知れたら教えればいいんだろう?」
 そんな約束を交わしたところで、通話を切った。
 目の前を見る。
「居場所が分かっちまったなぁ……」
「へ? なに?」
 なんとも間の抜けた表情。狐にでもつままれたのか?
 俺はスマホの電源を切り、ポケットへ突っ込んだ。
 そして頬杖を突く。
「なにお前。陸上部に無断でここに来てたの?」
 彩加はびくりとして、目を見張った。
「まさかバレないとでも思ってた?」
「明日……、そう、明日、バレると思っていたのよ」
「ホントにぃ?」
 彩加は眉間にシワを寄せた。
 そして唇を尖らせて言う。
「明日が来なければいいのに、って思ってましたぁー」
「ダラッと言うな。腹立つから」
 ああ、もう!
 俺は頭を抱えた。
 彩加も愛子ちゃんも、精神よわよわかよ!
 水が飲みたい。
 コーヒーじゃなくて、すっきりさっぱりな透明色の水が飲みたい。
 そんな乾いた俺に、彩加が言った。

「逃げちゃおっか。全部全部、置いてきて」

  第四話 笑いたい。

 海に行こうぜ、という話になった。いつもデカい顔してるアイツが、この雨で狼狽えてる姿を拝んでやろう、と。
 海水浴場のある知多半島の内海駅へ向かうため、名鉄線の赤い列車に乗り込んだ。
 俺たち以外の乗客はいなかった。
 薄紫を基調とした横椅子に並んで腰掛ける。
 俺が左で彩加が右。学校での席順と一緒だ。
「なぁ彩加、雨の日って陸上部はどんな練習してんの? 雨天中止にならないの?」
「普通は室内練ね。筋トレ」
「なるへそー」
「あとウチの高校にはちゃんとしたトラック(合成ゴムのタータンが敷かれている)があるの。だから試合が雨天だった時を想定して、雨の中でも走るわ」
「うへー。大変そー。文芸部でよかったわー」
 大きな雨粒が車窓を叩く。
「雨音が聞こえる……」と彩加は呟いた。
 俺は曇った車窓に「名前」を書いた。
『百瀬彩加』
『綿原聡助』
 彩加は俺が書いた「名前」の横に、「名前」を書いた。
 そのまま彩加は傘マークと、てっぺんにハートを描き、「クスクス」と笑った。
 やれやれ、と俺は嘆息するも、口元はニヤけていた。
 そうして俺たちは手を繋ぎ、桃色に黙ったまま列車に揺られた。
 そんな甘く幸せな時間が1時間続いた――。

  *

「くっそー!」
 俺たちが海に着く頃には、雨はすっかり上がってしまっていた。
「海め、弱みは見せないか!」
 雨雲らしきネズミ色のそれは、海上の遠くに見えるだけだった。その雲の隙間から陽光が差す。黄金色のそれが何本も。「天使の梯子」と言ったか。あまりにも神聖的だった。
 浜辺には真っ黒なウェットスーツを着たサーファーがチラホラ見える。
 いまは使われていない海の家の近くにベンチを見つけた。緑のペンキが剝がれかかっている。
 ハンカチを広げて、ベンチの上へ敷いてやり、「どうぞ」と彩加を座らせた。
 俺が左で彩加が右。いつもの席順で腰掛ける。
「綺麗ね」と彼女は言った。
「そうかな?」
「『イエス』と言いなさいよ」
「はい」
 その実、俺も「綺麗だ」と思っていた。
 太陽光は薄い雲で遮られている。
 砂浜だって鈍色だ。
 海もくすんだグレー。
 ただ、青空だけは青のままだった。
「『雲の上には空があって、空の上には太陽があって、僕らを追いかける』か……」
 全く、敵わないなぁ……。
 溜め息しか出てこない。
 彼女と繋いだ手は離れていない。指を絡ませて、俺の太ももの上に置かれている。
「思い出したんだけどさ」
「なによ」
「その台詞、そんなにいいか?」
「なによ?」
「だってさ、太陽に追い立てられて、夜に逃げこむ描写だろう? なんだかネガティブじゃないか」
「ネガティブではないわよ。太陽と戦うために戦略的撤退をしただけ」
「けれど妖精のルイがいなかったら、世界はずっと夜だった」
「ルイとの出会いは運命よ。ほら、『偶然ではない。事実と事実が手を繋ぎ、運命と化す』ってスタンリー・サマーズも言ってるわ」
「アンナ・エイリーが書いた小説の主人公ねぇ……」
「私ね、もう一つ、やっぱり冒頭の台詞が好き」
「言ってたね。『空の青が目に沁みた。瞳を閉じる。宇宙が広がる』」
「そう……。瞳を閉じて視るものは、求めてやまないもの……」
 彩加はそれきり黙りこくった。
 潮の匂いと波の音だけで全身が満ちる。そのホワイトノイズに心を晒す。
 遠くに船が見えた。
 ネズミ色の雲と、濃紺の海との隙間だ。蜃気楼か、ゆらゆら揺れている。
 ふと気配を感じて右を向く。
 瞳を閉じた彩加が、顔をこちらへ向けていた。
 そっと、頬に手を当てて、そっと、優しくキスをした。
 二度キスすると、彩加は目を開いた。
 睫毛の長い、大きな目だ。ぽつりと一滴、涙が零れた。
 彩加の赤み掛かった瞳を見つめて、俺はこの身を焦がされる錯覚に陥った。
「愛子ちゃんが俺のことを好きだって聞いて、周作とケンカして、そのあとに思ったんだ。『3年越しの恋』だから何だ、ってね。愛情は時間じゃない」
 そうして三度目の口づけを交わした。
 俺は「猥褻は自意識の高さ。思い知るだろう。愛した者といる時に」という、ダイアナ・デインが書いた「愛のまたたき」の記述を思い出していた。
 このまま、彩加を連れ去ってしまいたい。その香りも、その身体も、その心も、その全てを自分のものにしてしまいたい。そう思っていたのだ。
「悪役嬢のルシア・リスゴーは、そのあとどうなるの?」と彼女は言った。
 彼女はもう顔を海へ向けている。
「『今晩あなたの旦那が死ぬから赤いドレスはやめて、喪服を着ろ』と煽った人」
 俺も仕方なしに海を見る。
「カレン・キンバリーにこう言い返されるんだ。『赤いドレスでよかったわ。返り血が目立たない』」
「カレンは戦う女性なのね」
「分からない。ただの強がりかもしれない。結局、カレンの旦那さんは死なずに済んだからね」
「あっそう」
「……彩加はどう? 戦える?」
 彼女は俺のほうを見てから、ニヤリとした。ああ、答えが分かった。
「戦わなくちゃね?」
 俺との逃避行は終わりだと、そう彼女は告げたのだ。
 彩加は立ち上がり、繋いだ手で俺を引っ張り上げた。
「私の心も、あなたの心も、もう真っ赤に染まってしまっている。そうでしょう?」
 なんて自己肯定感の高い女だ、と思った。

  *

 帰りの電車内でも手は繋いだままだった。俺の右手は彩加の柔らかな太ももの上に乗せられ、彼女はそれを左手で絡めて握り、その上にさらに右手を乗せていた。
 ああ、と思う。
 今日無理にでも攫ってしまえば、この女は俺のものになったのに、と。
 だが、それを彼女は許さなかった。彼女の高い気位が、俺という毒牙から自身を守ったと言えよう。
 いや、あるいは日付が明日だったらば、七夕さまが俺の願いを叶えてくれたかも……。少しだけ、なにかがズレていれば……。
 いいや、ズレてしまったからこそ、こうして俺たちはここにいるのだ。「偶然ではない。事実と事実が手を繋ぎ、運命と化す」。そういうことだ。
「なぁ彩加、なんで今日、俺と一緒に逃げてくれたの?」
「私も逃げたい気分だったの」
「陸上部の練習はツラい?」
「いいえ、楽しいわよ?」
「じゃあ、なにが――」
 もしかして、と思う。
「部活でボッチなのがツラいんだな?」
 彩加は俺の右手を持ち上げて、自分の太ももへ打ちつけた。プルンと柔らかい。
「渡辺さんが陸上部だったらよかったのに。それか、さっちゃんが戻ってくれば……」
「ふふっ」
「なにがおかしいのよ」
「いや、いまは俺もボッチだからさ。笑えちゃって」
「ふん」
 再び彩加は俺の手を太ももへ打ちつける。
「それでも、戦いに行くんでしょう?」
「誰かに決起させられちゃったからね」
「ねぇ、なにか言葉を引用して」
「いいよ。どんなのがいい?」
「そうね、できるだけ思慮深くて、哲学的なものがいいわ」
「分かった。少し待って」
 本当はすぐに思いついたが、もったいぶった。
「ねぇ、まだ?」
「思いついたよ」
 俺は彩加のほうを見る。彼女も俺を見ていた。
 故に言う。
「『愛してる』」
「バカ」

  *

 手を繋いだまま在来線に乗り換えた。その彩加の家の最寄り駅は、俺のから一駅先だった。
 彩加を送ってから、路線を折り返して乗車する。
 スマホの電源を入れると、朋李から数件と、見知らぬ番号からも数件、着信が入っていた。

 相澤宅へ向かう。
 今日も駐車場は二台とも空車だった。
 インターホンを押すと、周作が出た。
「外で話そう」
『分かった』
 それだけ言葉を交わし、少しだけ待った。
 周作はネイビーブルーのズボンと白のTシャツ姿で出てきた。
「よう、周作。俺と話す準備はいいか?」
「腹は据わっている」
「そうかい」
 ひとまず歩こう、ということで、二人黙ったまま、川に架かる橋まで来た。
 俺は欄干に背を預け、周作は川を覗き込むように肘をそこに置く。
 まだ辛うじて陽は上っていた。だが、黄昏時に違いない。
「どうだ、綿原。考えてくれたか?」
「考えたさ。よーく考えた。考えた上での『あの言葉』だ」
「どんな言葉だ?」
「思慮深くて、哲学的な一言だよ」
「教えてくれないのか?」
「俺と彩加の合言葉だからね」
「つまり別れる気はないんだな?」
「そっちこそ今日はどうだった? ヘタレずにデートできたか?」
「聞いたよ、渡辺から。あの公開告白でのこと。世話になった。おかげで今日はバッチリさ」
「そりゃよかった。シスコンのお兄ちゃん」
「からかってんのか?」
「ああ、からかってる。からかってるに決まってる。ブラコンの愛子ちゃんは元気か?」
「ケンカ売ってんのか?」
「そうだな。ケンカを売っているというより、続きをしに来たんだ。コンティニューさ」
「昨日は尻尾巻いて逃げ出したもんなぁ?」
「煽り文句はいらない。どっちかっていうと、周作もいらない」
「ハァ?」
「愛子ちゃんと話さないと、解決しないだろう?」
「ダメだ」
「どうしてだ?」
「愛子はきっと簡単にお前の口車に乗るからだ。口だけは達者だもんなぁ?」
「煽り文句はいらない。周作は愛子ちゃんのことをそんなに信用していないのか?」
「信用がどうとかじゃない。僕が守ってやらなくちゃいけないんだ」
「過保護もいいトコだ」
「なんと言われたっていい。愛子に降りかかる災いは全て僕が振り払う。誰も愛子に手出しさせない」
「そう言いつつ、愛子ちゃんを自分の庇護下で管理し続けたいだけなんじゃないのか? このまま成人したらどうするつもりだ?」
「俺は守り続ける。決めたことだ」
「どうしてそこまでする? あまりにも頑なすぎる。なにか理由があるのか?」
 しばらく周作は押し黙った。
 そうしている内に陽は沈み、夜の帳が降りてくる。街の影たちは寄り集まって常闇を作った。
 闇に紛れた周作は、重たい口を開く。
「愛子は覚えてるか知らないが、僕が愛子と出会ったのは3歳の時だった」
 なにを言っている?
 全く意味が分からない。年子の兄妹だろうに……?
 どういうことか、聞くより待とう。急かす場面でもない。
 ともかく「夜の池に石を投げ込んでしまった」らしい。こんな水音が返ってくるとは……。
「愛子は親父が“外”でこさえてきた子供なんだ」
 そういうことか……。
 驚きよりも、悲哀のほうが勝った。だから二人は似ていないのか。
「この“家庭”で、愛子と血が繋がっている“家族”は親父だけなんだ……」
 周作は未だに川を覗いている。もう真っ暗だというのに……。
「だから母親は僕たち兄妹に無関心になった。親父は金回りが良いだけのクソ野郎で、ろくに家に帰ってきやしない」
 周作は身動きせずに言葉を続けた。
「僕しかいないんだ。愛子には、僕しか『家族』がいないんだ。だから、兄貴面くらいさせてくれ」
「……分かった」
 スルっと、その言葉が出てきた。
 被りを振る。
「俺は周作の思い通りには動かない。けれど、尊重するよ、周作のこと」
 俺は橋の欄干から背を離した。
「じゃあな」
 別れの言葉を告げた。返事はなかった。
 橋を渡り、自宅まで川沿いを歩く。
 何度振り返っても、周作は真っ黒な“みなも”を眺め続けていた。

「愛子ちゃん、いまのことは、聞かなかったことにしてくれ」
 無言が返ってくるだけだった。
「朋李もだ」
『当たり前でしょ』
 実は愛子ちゃんとはすでに朋李のスマホを通じて「ごめんなさい」、「分かりました」と話しがついていた。
 俺のスマホに着信が入っていた見知らぬ番号は愛子ちゃんのものだったのだ。俺の番号を朋李に教えてもらったのだと言う。朋李はその是非を問うために俺に連絡を入れていたそうだ。
 そうして、俺と朋李と愛子ちゃんの三人のグループ通話で、ずっと話を聞かせていた。
 すすり泣く音とともに、愛子ちゃんの声が聞こえた。
『バカな兄です……。独り相撲して。本当に……』
「なぁ愛子ちゃん。俺は周作の顔を立ててもいいと思ってる。彩加と1年間だけ別れて――」
『ダメですよ。兄を甘やかさないでください。正真正銘、兄はわたしの“家族”なんですから……。ワガママな子供じゃあ困るんですよ……』
「そっか……」
 俺もまた、暗闇の中を歩いて帰った。
 月も登らない、ケチな夜だった。

  *

 7月7日、月曜日。
 周作は俺と距離を取るようになった。
「なぁ彩加、またボッチになったぞ」
「ふふふっ、あははっ! ざまぁないわ」
「なんだその言い草は。可愛げのない女め」
「あら、それがカノジョへ言う台詞?」
 渡辺が振り返った。
「二人とも、恋人になったの?」
「おや? 丁寧語が取れてるね。周作の手柄かな」
 そう言うと、渡辺は頬を桃色に染めた。
「そんな渡辺に送ろう。キャサリン・カード曰くの言葉だ。『猥褻は自意識の高さ。思い知るだろう。愛した者といる時に』。出典はダイアナ・デインの著作『愛のまたたき』。俺はつくづく思い知ったから、渡辺も気をつけて」
「あら、なにを思い知ったと言うの?」
「憎たらしい女め」
「うふふっ」
「わ、猥褻って、二人、もしかして……?」
「ないよ」
「ないわよ。うふふっ」
「ないんだよなぁ……」
「ないんだ?」
「そっちこそ、どうだったんだい?『バッチリだった』とは聞いているけれど」
 渡辺の頬は桃色を濃くして、真っ赤になった。
「あるんだ?」
「ない、ない!」
「これはあったわね?」
「ない、ないです!」
「あっ、丁寧語が戻ってる。減点だね」
「減点ってなんです――なに?」
「ティーチャー・リゴーニ曰く、『言葉遣いに心遣いが具象する』んだってさ。口の悪い生徒は内申点を引かれてしまうんだよ」
「なら、仕方ないわね。渡辺さん、陸上部へ入りましょう? リゴーニ先生は陸上部員に甘いの」
「無理だよぉ」
「おい、間違った設定を言うな。ティーチャー・リゴーニはお料理部だ」
「家事万能?」
「女性教師で気立てもよし」
「それを早く言って欲しかったわ。もう私の中のリゴーニ先生はハゲのオッサンなんだもの」
「姿か……。彩加の中で、彦星はどんな姿だ?」
「うーん、頭はもじゃもじゃで、白髪ね」
「銀ね!」
「なら、あなたの中の織姫はどんな姿なのよ?」
「人形みたいな姿形のクセに、外を走り回っているから日に焼けてる」
「二人とも、本当に仲良しなんだね」
「渡辺は七夕になにをお願いするの?」
「うーん……、なんだろう? 学業祈願? もうすぐ期末テストだし」
「夢がない! うーん! 夢がないねぇ!『夢を見なさい。それが大人への通行パスよ』とティーチャー・リゴーニも言っている」
「ああ、ハゲのオッサンね」
「そう言う彩加は? 願い事」
「あなたが先に言いなさいよ」
「俺? 俺かー。そうだなぁ、モテまくって誰かさんの鼻を明かしてやりたい!」
「なら私は、ワタ埃に悪い虫がくっつかないことを願うわ」
「ワタ、ふふふっ! ワタ埃に、虫がくっつく……。うふふふふっ!」
 渡辺がツボにハマった。
「銀ね! これ!」
 なんだかんだあったが、笑顔で終われてよかったと思った。

  第五話 駆け抜けたい。

 7月7日の放課後、俺は文芸部へ向かった。
 三度ノックし、部室へ入る。
「やぁ」
 いつものように堀田部長が迎えてくれる。
「今日もコーヒーでいいわよね」
「お願いします」
「ガッチャ」
 青いカップが届いたのち、部長から問いかけられた。
「綿原くんは期末テストに向けて勉強はしているのかしら?」
「ぐっ……」
 最近は彩加とのデートやらで、ろくに勉強できていなかった。
「こ、これから取り返すんですよ」
「そんな髪色にして、学業成績まで落としたら、生徒指導の先生が黙ってはいないわよ?」
「部長こそどうなんですか?」
「ボクはぬかりないわよ」
「文系選択でしたっけ?」
 陽影学園での文理選択は高2に上がる段階で行われる。
「文系ってどうなんですか? 暗記もの中心ですか?」
 そんな勉強に関する話題を話している内に、美浜が文芸部室へやってきた。
「遅れました」
 美浜のクラスの担任教師は学業に関して厳しいらしく、帰りのホームルームで小テストが課されることが多いらしい。故の遅れた。やむなしだろう。
 美浜に紅茶を届けた段階で、部長は俺に話を振った。
「百瀬くんと付き合い始めたと聞いたけれど、どうなのかしら?」
「えっ!」と美浜が声を上げる。
「部長は学年も違うのに知るの早くありません? どんな情報網を持っているんですか?」
「『百瀬彩加研究会』というものが存在しいるのよ。そこから仕入れたの」
「えっ、そんなものがこの学園に?」
「学園内に留まらないわよ? 彼女の母校の中学にもね」
「あー、なるほど」
 我が妹、朋李もその一員なのだろう。
「……綿原さん、本当なんですか?」
「括弧仮だけれどね」
「そう、なんですか……」
 なぜか美浜は目に見えて肩を落とした。
「なんだよ、美浜は祝福してくれないのか?」
「それは……」
 美浜は口をつぐんだ。
「『知人の恋模様へは関心を尽くす。自身の恋慕の隠蔽へは細心を尽くす』」
「そりゃあ、そうですよ……」
 おや、と思う。
 俺が既存作品から言葉を引用すると、美浜もどこかの作品から引用して返答するのにな、と。
「『裏取引きする祝福と嫉妬』ってヤツ?」
「嫉妬とかじゃなくて……」
 美浜は小説とノートを取り出した。
「い、いまから写経に集中するので、話しかけないでください!」
 語気が強い。写経が佳境に差し掛かっているのかな?
「うふふっ」と部長は微笑んだ。
 仕方ない。俺も読書に集中しよう。いや、勉強しようかな……。
 結局、勉強のほうを選んだ。
 そうして分からない問題は部長にご教授していただきながら、部活時間を終えた。

  *

 文芸部からの帰り、“まだ時間がある”な、ということで俺は図書室へ入った。
 図書室には読書スペースの他に、自習スペースが設けられている。
 とはいえ、大机が置かれているだけだ。
 そこには先客がいた。男女のペアだ。部活後のこんな遅い時間なのに勉強熱心だな、と思いつつ、そのカップルの向かいに腰を落ち着ける。
 男女ペアには目もくれす、俺は勉学に励む。
 そんな時、スマホに通知が届いた。
 短い時間だったが、少しは勉強を進められた。今後、この文芸部から図書室への連絡はルーティンにしようと思った。

 しとしとと雨が降る中、昇降口で待ち合わせ。
「待たせたわね」
 無論、彩加と、である。一緒に下校をしようと約束していたのだ。
 彩加はこれ以上ないほどにニコやかだった。その笑顔を見て、俺は桃色の幸せに包まれるのだった。
「こっちも有意義に時間を潰せたさ」
「なら、よかったわ」
 取り留めのない会話を交わしながら、帰路に着く。学園から最寄り駅までは徒歩で10分弱かかる。
 二人、傘を差しながら歩く。
「雨音が聞こえる」
「そうだな」
「私、汗臭くないかしら?」
「臭い嗅いでやろうか?」
 膝で尻に蹴りを入れられた。
 実際のところ、彩加からは制汗剤の香りが漂っていた。悪くない、と思った。彩加が部活に精を出した証なのだから。
「彩加はちゃんと勉強してるか? 片手間でもさ」
「うーん、そこそこよ。分からない問題は放置しているんだけれどね」
「じゃあ、その問題、今度教えてあげるよ」
「良い提案ね。頼りにさせてもらうわ」
 信号機が赤を灯し、立ち止まった時だった。
 彩加は傘を畳んだ。赤を基調としたギンガムチェック柄の傘だった。
「あら、私、傘を忘れてしまったみたい」
「全く……」
 なにを言っているんだか……。
 彩加を俺の傘の中に入れ、駅までの少しの間、恋人に似合わしい時間を過ごした。

  *

 それから一週間は、晴れたり曇ったり雨降りだったり、梅雨らしく落ち着かない天候だった。
 天気に関係なく俺は、いや、俺たちは恋人に相応しいルーティンをこなしていた。

 迎えた月曜日。曇りの日。
 もはや恒例、図書室で勉強していた時だった。
「綿原、キミが綿原、そうだろう?」
 ん? と思い顔を上げる。
 いつもいる男女の内、男子のほうから声をかけられたようだ。
 面長だが整った顔つきで、イケメンの類いの男子だった。
「どちらさま?」
「オレは1年C組の五十嵐。お前は綿原で合ってるよな?」
「そうだけど? なに?」
 俺は胡乱な視線を送る。急に見知らぬ生徒から話しかけられたのだから当然のことだろう。
 隣の女生徒を見遣った。ボブヘアである。少し緑掛かった、不思議な色合いの髪だった。彼女もこちらの瞳を見据えていた。
 一体なんだというのか?
「もっちゃんと付き合ってるってのは、お前で間違いないな?」
「もっちゃん?」
 俺は首を右に45度傾けた。
「おっと、そうだった。『百瀬さま』のことだ」
「ああ……」
 どう答えたものか? 俺は彩加と正式に恋人になったと思っているが、彩加がどう思っているのかは分からない。
 なので、こう答える他ない。
「括弧仮だよ」
「仮? ともかく、お前は綿原。そうだな?」
「それはそうだね。そっちは“仮”ではなくね」
「ちょっと来い」
 五十嵐くんは立ち上がった。
 来い、と言われたからには、俺も立つしかないのだろう。いやはや、どんな目に遭うのやら。
 彼の連れの女生徒は図書室に残るようだ。
 俺は彼に付き従って、図書室を出る。そして校舎内を歩く。その間、五十嵐くんは黙ったままだった。
 それにしても、と思う。なんで俺のことを呼び捨てで呼ぶのだろう? 無礼もいいトコだ。
 しかして俺は校舎二階、西側の窓前にいざなわれた。
「ここからならよく見える」
「なにが?」
「陸上部が練習している風景だ」
「は? そんなもん見てどうすんの?」
「いいから見ろ」
 なんだよ、コイツ。さっきから指示ばっかりで。
 ともかく言われた通りに窓の外を見た。
 土埃舞う運動場とは違って、陸上トラック特有の茶色のタータンが敷かれた地面の上を部員たちが駆けている。
「見たよ。なんだよ」
 少し口調が荒っぽくなってしまった。まぁいいか。
「見るのは百瀬さまだ」
「はぁ?」
 窓の外を見遣る。
 彩加は独り、周りとは離れたところで練習していた。
 コーチらしき人物から、指を差されて、指導を受けている。それを彩加は俯きながらも、頷いて聞いていた。
「分かるか?」
「なにがだよ」
「百瀬さまはいま、スランプになってんだよ」
 スランプ? スランプだって? 彩加からそんな話、聞いてないぞ?
 部活に関する話なら何度もしている。そのたびに彩加は「平気よ」と言っていた。
「ウソだろ?」
「百瀬さまの直近のタイムが証拠だ」
「そんなのコーチ以外の誰が把握してるんだよ」
「だから、コーチが把握してるんだよ。その情報がオレたちの耳に入ってきてんだ」
「情報漏洩じゃねぇか」
「情報共有と言え」
「共有ぅ?」
「百瀬さま研究会は知ってんだろ?」
「まぁ、いちおう知ってる」
 知ったのはつい最近だけど。コイツ、なんで「当然ご存知」みたく言うんだよ。
「コーチもその一員だ」
「マッジかよ! とんだ伏兵じゃねぇか!」
「実は……、オレもだ」
「でしょうね!」
「ともかく、百瀬さまがスランプに陥ったのは、間違いなくお前のせいだ、綿原」
 無言を返す。
「少し前の、週末の部活無断欠席以降、こうなったんだよ」
 一緒に遊びに行った日か。7月5日と6日。
「端的に言う。綿原、『別れろ』」

  *

 昇降口で待ち合わせ。雲は分厚くなり、黒みを帯び始めていた。
 今日もとびきりの笑顔で彩加は現れた。
 二人で最寄り駅まで歩く。俺が左で彩加が右。いつもの並び順だ。
「なぁ彩加。部活のほうはどうだ?」
「平気よ」
「じゃあ、百瀬彩加研究会って知ってるか?」
 彩加は照れ臭そうにした。
「……いちおうは」
「そいつら曰く『百瀬さまはいまスランプなんだ』とさ」
「ふーん」
 鼻を鳴らして、彩加は空を見上げた。
「雨音が聞こえる」
「えっ、雨降ってきた?」
「いいえ」
「なんだよ、焦らせんなよ」
 いちおう梅雨入りしてから折り畳み傘をカバンに常備しているが、また彩加が傘に入りたがったら、そのサイズに不安がある。
「それでさ、彩加がスランプになったのは、俺のせいなんだってさ」
「ふーん」
「『別れろ』って言われた」
「えっ!」
 彩加はこちらに顔を向け、その目を真ん丸に見開いた。
「なんて返したの?」
「そりゃ『嫌だ』って」
 彩加は前を向いた。
「……そう。ふふっ」
 彩加は笑い出した。
「ふふっ。うふふふふっ」
「なに? なんで笑ってんの? 不気味なんだけど」
「うるさい。不気味とか言わないで」
 そうして最寄り駅の地下鉄へ着いた。歩道にぽっかりと口を開けた入り口。無論、階段が待っている。
 カツカツとローファーを鳴らし、階段を下る。改札をくぐり、プラットホームへ辿り着く。
 なぜか彩加は、すっかり黙ってしまった。地下鉄に乗ってから、在来線との連絡駅へ着き、乗り換え、彩加の家の最寄り駅に着くまで、ずっと黙っていた。
 彩加の家の最寄り駅は、俺のより一駅先。
「じゃあな」と言って俺が折り返しのホームへ向かおうとするのを、袖を掴んで、彩加は引き留めた。
「なに? どうした?」
「少し待って」
 帰宅を急ぐ乗客たちが改札へ向かって行軍していく中、俺と彩加だけが立ち止まっていた。
 しばらくしてひと気がなくなった頃、彩加はこう言った。
「ここでキスして?」
「は?」
 いや、向かいのホームにチラホラ人がいるんだが?
「ねぇ、早く」
 彩加は瞳を閉じ、唇を突き出した。
 俺は顔を真っ赤にして、彩加の頬に手を当て、口づけをした。
「こんなトコで、やめろよな……」
「ふふっ。満足」
 そう言って彩加は改札口へ向かった。
「またね」

  *

 図書室で勉強しようと自習スペースへ赴いたところ……。
「おい、綿原」
「またキミか……」
 五十嵐くんに声をかけられた。
「がっちゃんまたぁ?」とボブヘアの彼女が言った。
 その声には聞き耳を立てることなく、五十嵐くんは俺を図書室から連れ出す。
 今度も陸上トラックが見える窓へ連れていかれるのかとと思ったら、違った。
 学内の「第一会議室」なる部屋へ案内されたのだ。
 五十嵐くんはその扉を二度ノックし、返事も待たずに入室した。
「連れてきました」
 広々とした室内にも関わらず、待っていたのは二人だけだった。
 一人は女生徒、もう一人は教員か知らないが、若い男性だ。彼は黒のポロシャツを着ていた。
 その彼が言う。
「呼び出した用件は無論、百瀬彩加に関してだ」
 俺は首をポキポキと鳴らした。
「なんですか、大仰な」
「それほどの事態ということだ」
 まぁ座れ、と促され、「ロ」の字になっているホワイトの長机、その周りに置かれたパイプ椅子に腰を落ち着けた。窓際に座る彼らの真向かいだ。
 五十嵐くんは机の周りを半周し、男性の隣に腰掛けた。ちなみにその逆隣りに女生徒は座っている。
 三対一、孤立無援。分が悪い。一体どんな話を聞かされるのやら。どうせ「彩加と別れろ」という内容だろうけど。
 男性が言う。
「百瀬はインターハイで優勝を狙える人材だ。コーチをしていて、あれほどの才能に出会ったことはない」
 この人が彩加のコーチなのか。
「それがどうだ。最近の記録は、そこいらの凡百と変わらない、最悪なタイムだ」
 ……俺は沈黙を返した。
「悲惨もいいトコだ」
「そんなにもタイムを落としているんですか……? ウソでしょう……?」
「事実だ。私もウソであってほしいと願っているんだがね」
「一体、どんな状態で走っているんですか?」
「全く集中を欠いている。『早く部活が終われ』とでも思っている風だ」
 部活が終われ……。
 待ち合わせ場所の昇降口にやってくる時の、笑顔の彩加……。
「『部活辞めるか!』と発破を掛けたこともある。『辞めたっていいです』と返してきた。その時は私が折れたが、百瀬の言葉には真剣味があった」
 ここで女生徒が口を開く。白磁のような肌。黒のロングヘア。美人だ。
「あなたは百瀬さまのどこに惚れたのですか?」
「『強くて綺麗でカッコいい』ところです」
「では、あなたは百瀬さまになにを求めていますか? 肉体であればわたしのを使ってくれて構いませんよ?」
 なんだと? ハァ?
「バカ言うな! いい加減にしろよ!」
「では、なにを?」
「『3年越しの恋』だ。愛情に決まってる!」
「では、あなたからはなにを?」
「ハァ?」
「ですから、あなたからは百瀬さまになにを与えられるのです?」
「なにをって――」
 言葉に詰まった。
 俺が彩加にあげられるもの……?
「……『全て』です」
 女生徒は首を傾げた。
「全て?」
「そうです。心も身体もなにもかも、全てです」
「それを受け取った場合、百瀬さまはどうなると思いますか?」
「どうなるって?」
「あなたは百瀬さまの『強くて綺麗でカッコいい』ところに惚れ込んでいるのでしょう? 百瀬さまが『弱くて醜くてカッコ悪く』なっても構わないんですか?『あなたのせいで』、です」
「俺のせいで……」
 俺は、たとえ彩加が「弱くて醜くてカッコ悪く」なっても愛し続けられる自信がある。
 だが、俺のせいで彩加が落ちぶれるというのなら……、苦しい。
 男性コーチが述べる。
「ハッキリと言おう。百瀬はキミに『依存』している」
「依存……?」
「そうだ。キミなしでは生きていけない、そんな風に思っているのだろう」
 式守順平が書いた小説の中で、田村倉助はこう言う、「そなたなくして我は存在できぬ」。それに対し、堀木ふみはこう返す、「ならば消滅せしめよ」。美人局だったのである。
 他者依存とは不健全なのだ。
「だ、だったら、カウンセリングでもなんでもして、依存しないように矯正して……」
「インターハイに間に合わない」
「分からないでしょう?」
「そう、分からない。不確定要素を伴っていては実行に移せない」
「俺があなた方の説得に応じたとして! だから彩加が持ち直すかどうかも不確定でしょ!」
「百瀬は中学3年の時に、病に伏せった祖母を心配して、成績を悪くした」
「それは知っています」
「だが、祖母が亡くなったあと、すぐに、百瀬は自己ベストを叩き出した」
「はぁ? だから、何なんですか?」
「百瀬は独りになればなるほど強くなる」
 俺は茫然とした。
「正直に言えば、キミには死んでほしい」
 ふふっ、と笑ってしまった。
「本当に歯に衣着せずに言いましたね」
「それは叶いそうにないから、百瀬と別れてくれ、と言っている。これでも譲歩している、というわけさ」
 彼もまた、ふふっ、と笑った。
 その目は真剣だったが……。
 いやはや、怖ろしや。
「……彩加と相談します」
「良い返事を期待しているよ」
「コーチさん、連落先を交換しませんか? 都度都度、その日の彩加のベストタイムを教えてください」
「いいだろう。まずは百瀬の自己ベストと、今日のタイムを教えるよ。ちなみに自己ベストを出したのは4月頭の記録会だ。この学園に誰も友人がいなかった時さ。分かるね?」
 4月頭……。俺がまだ彩加に話しかける勇気がなかった頃だ。
「独りになればなるほど――、ですか」
 言うまでもない、と無言が返ってきた。

  *

 重たい雲が世界に蓋をする今日。
 待ち合わせ場所の昇降口に、彩加は不気味なほどの満面の笑みでやってきた。
「雨音が聞こえるわ」
「なぁ彩加、カフェにでも行かないか?」
「ええ、いいわよ」

 学園の最寄り駅から少し離れた場所にある喫茶店へ向かった。
 住宅地に隣接しいる個人経営のお店で、こじんまりと申し訳なさそうに佇んでいる。
 その名を「カフェ・アンクル・ピーター」と言うようだ。木製で小窓のついた扉に、金属製で縦長のドアノブがついている。いわゆるアンティーク調というヤツだ。
 カランカランというドアチャイムの音と共に扉を開いた。
 入店すると、その外観に似合わず奥行きがあり、カウンター席が四つと四人掛けのテーブルも四つあった。客は俺たち以外いなかった。BGMとしてピアノ独奏曲が掛かっている。ショパンかな、と俺は思った。
 なんにせよ、奢侈だな、と感じた。
 奥のほうではバイトのお姉さんがモップ掛けをしていた。彼女のポニーテールが忙しなく揺れている。
 手前のテーブル席を選び、俺は彩加と向き合って座った。
 俺はブレンドコーヒーを注文し、彩加はいつものように同じ物を頼む。そして、いつものように彩加は、自分のカップへ真っ白なシュガーとフレッシュを注ぐ。小さなスプーンによって攪拌され、黒と白が渦を巻いて混ぜ合わさる。
 それを見届けてから、俺は言葉を吐いた。
「なぁ彩加、部活の調子はどうだ?」
「問題ないわ。平気よ」
 コーチから送られてきた自己ベストと、いまのタイムとを見比べた。酷い有り様だった。
「なぁ彩加、もし俺がいなったら、どうする?」
「いなくなる……?」
 彩加はホットコーヒーの入ったカップを両手で包んで弄んでいたが、その手が止まった。
「……生きて、いけないわ」
 依存、か……。
「じゃあ、俺が『別れよう』と言ったら?」
「私の研究会とやらの人たちに唆されたの?」
「唆されたよ。決まってる」
 彩加は拳でテーブルを叩いた。ドンッという音と共に、ガチャリと、コースターに乗ったカップが音を立てる。
「別れるだなんて、許さない」
 俺はコーヒーを一口飲んた。
「百瀬彩加研究会の面々に『殺すぞ』と脅された」
「だったら死になさい。私もあとを追って死ぬわ」
「ははっ……」
 乾いた笑いが零れる。
「俺は自分の命が惜しい」
 そんな言葉に耳を傾ける様子もなく彩加は言う。
「私が先に死ぬから、あなたは覚悟を決めて、私のあとを追いなさい」
「バカを言うな」
「ねぇ聡助。それなら私、部活を辞めたっていい」
「ダメだ。俺は彩加の『強くて綺麗でカッコいい』ところに惚れ込んだんだ。脅しに屈する姿は見たくない」
「いいじゃない。脅しに屈したって。その『強くて綺麗でカッコいい私』とやらは、死んだと思ってちょうだい」
「なにを言ってるんだ。いまの彩加は『強くて綺麗でカッコいいまま』生きている。俺のせいでそんな彩加が死んだら、浮かばれない」
「人は移ろい変わるものよ。あなた、私のことを骨董芸術かなにかだと思っていない?」
 彩加は被りを振った。
「やめてよね」
「彩加は俺にウソをついたよね?」
「なによ?」
「陸上部でのタイムが下がってる」
「それって、いけないこと?」
「さぁね」
 彩加はコーヒーを一気に飲み干した。
「ねぇ聡助、私と一緒に逃げてくれない?」
 俺は押し黙る。
「私はあなたと一緒に逃げてあげたじゃない!」
「そうだね」
「なら、ホテルへ行きましょう? 私がどんなにあなたを愛しているか、教えてあげるわ」
「魅力的な提案だ。けれど、最低な提案だ」
「なによ、なんなのよ、もう!」
 彩加は頭を掻いて、髪をくしゃくしゃにした。
「俺はさ、こう思うんだ」
「なに!」
「相談してみて、よかったって」
 俺は領収書の紙を取って、席を立った。
「別れよう。彩加」
「イヤ! 絶対にイヤ!」
「それなら、ひとまず頭を冷やそう」
 彩加独りを残し、俺は喫茶店をあとにした。

  *

 翌日、朝からずっと、お喋りせずに静かにしている俺と彩加を心配してか、お昼休みに渡辺が振り向いて言った。
「二人ともどうしたの? ケンカでもしたの?」
「ちょっとした別れ話をね」
「ええ! 別れるの?」
 同時だった。
「別れる」
「別れない」
 それきり、会話はなかった。

  *

 午後イチのホームルームの授業では、9月末に行われる学園祭に向けて、出し物を決めることになった。
 30分と経たずに出し物が決まり、クラスは時間を持て余した。
 そこで担任教師の藤社女史が提案した。
「席替えでもしましょうか」

 風紀委員のアマのせいで、俺は廊下側から二番目の最前列に配された。周作も、窓の近くなので俺の席からは遠いが、最前列だった。髪を染めているのが気に食わないらしい。
 ちなみに右隣には渡辺がいた。けれど落ち着かない。俺の右隣、その場所は彩加の場所だ。
 全くもって落ち着かなかった。当の彩加の席は、遠くのはずれ。アイコンタクトすら取れない位置だ。
「なぁ渡辺、俺は死んだほうがいいのかな?」
「ええ! 急になに?」
「彩加は俺が死んだら追いかけて死んでくれるってさ。あの世への逃避行だ」
「縁起でもない……」
「同感だ」
「どしたん綿原。シケた顔してよぉ?」
 左隣は村川さんだった。
 金髪ゆえの最前列である。
「まっ、この席順なら仕方ねぇか」

  *

 その日、陸上部での彩加のコーチから連絡が届いた。
 ……彩加はタイムを伸ばしていた。
 だが、自己ベストには遠く及ばない。

  *

 翌日のお昼休みのことだ。
「なぁ渡辺」
 渡辺はお弁当に箸をつけていた。箸を持ったままだが、顔をこちらに向けた。
「周作とはどうだ?」
「どう、って言われても……」
「別れ話とかしてない?」
「ふふっ」
 不躾な俺の言葉を渡辺は笑って受け止めてくれた。
「綿原くんはお仲間が欲しんだね?」
「そういうことになる」
「残念ながらそんな話は出てないよ」
「そっかー。けれど天に誓ったはずだろう? 我ら四人、付き合った日は同じで、死す時もまた同じ日同じ時を願わん、ってさ」
「そんな『桃園の誓い』みたく言われても……」
「じゃあ、こういうのはどうだ?『俺を殺してくれ。さもなくば死より苦しい』っていうウォルター・ライトの台詞」
「誰? その人?」
「カール・クロネリーが書いた小説の相棒役」
「つまり綿原くんは、百瀬さんと別れると言いつつ後ろ髪を引かれるんだね」
「さぁね。とにかく苦しいのは事実さ。主役に殺してほしいもんだ」
「ウォルター・ライトは、主役のことを愛してるんだね」
「嫌味なことを言うね」
「そう?」
「ああ、そうさ。ウォルター・ライトは女遊びが大好きなんだ」

  *

 放課後、俺は肩を落としながら文芸部室へ向かった。
 三度ノック。そして入室すると、堀田部長がいる。
 いつものようにコーヒーを――。
「キミ、百瀬くんと別れるの?」
 開口一番がそれだった。
「困っちゃうわね……」
「困るんですか?」
「まぁまぁ、しんみりした話はここまでにしましょう」
 部長が早々に話を切り上げようとした時だった。
「綿原さん、えっ? 別れたんですか?」
 いつの間にか部室の扉が開いており、目を真ん丸にした美浜が入ってきていた。
 そして突っ立ったまま言ったのだった。
「括弧仮だけれどね」
「仮って?」
「まだ相手の了承を得られてないってこと」
「じゃあ、綿原さんは別れる気なんですね……?」
「さぁね」
「なんですか、その曖昧な返事」
「『曖昧さを欠いている。伸びた爪だよ。折れやすい』」
「またそうやって!」
「なんだよ、気に食わないのか?」
 美浜は突っ立ったままだ。
「席に座れよ」
「座りません!」
 美浜は俯いた。
「今日は……、座りません……」
 俯いたまま、美浜は言う。
「釣り合わないんですよ……」
「かもな」
「違うんです。ワタシと綿原さんが釣り合わない、って話です……」
 美浜は顔を上げる。
「けれど! 綿原さんみたいな人、他にいないんです!」
 ……七夕さま。
「この間、引用していましたよね、ミコル・マルコーニの言葉。『秘することは悪ではない。自身の棘にならない限りは』と。棘になっているんです。この恋心を隠しておくことは、もう棘に……」
 ……七夕さま。変に願いを叶えないでくださいよ。
「綿原さん! ワタシは陽の光が好きです! ワタシは湿気った梅雨時だから、陽の光が好きなんです!」
「梅雨は、美浜、梅雨はさ――」
「綿原さん! ねぇワタシ!」
 美浜の声は段々と小さくなっていった……。
「綿原さんのことが好きです……」
 美浜は背を向けた。
 扉のほうへ歩きだすと、肩掛けカバンがずり落ちた。床とぶつかってガサリと音を立てた。
「……カッコつかないなぁ」
 涙に枯れた声だった。
 待ってくれ……。
 美浜、待ってくれ……!
 すぐさま美浜はカバンを拾い上げた。このままじゃ、部室から出ていってしまうだろう。
 待ってくれ!
「美浜、日本の梅雨は、ずっと雨が降り続くわけじゃない……」
 なにを言ってるんだ、俺は?
 まただ。また「言葉足らず」だ。
 俺の本心を、いま美浜に伝えなければ一生その機会を失う。そう思った。
「美浜、待ってくれ。いま、いま考えるから。引用じゃない。本音の言葉を紡ぐから」
 彼女は俺に、部室に背を向けたまま、立ち止まっている。
 俺の言葉を待ってくれている。
 言わなくちゃならない。
「俺はこの部室が好きなんだ。癒されるんだよ。ここは俺にとって、穏やかな陽光が降り注ぐ場所だった」
 その時、頭に浮かんていたのは、彩加の笑顔だった――。
「美浜も堀田部長も、俺にとっては『陽の光』だった。それでも――」
 それでも。
「ごめん。美浜に告白されて気づいたよ。俺は彩加のことが、まだ本気で好きらしい。だから、ごめん」
「えへへ……。分かってました。やっぱり、ワタシじゃあ釣り合わないんです……。けれど、伝えずにはいられなかったんです……」
 美浜は部室の天井を仰いだ。
「心の棘が抜けて、スッキリです。それにしても、蛍光灯の明かりは不健全ですね」
 美浜は部室の扉に手を掛けた。
「今日のところは帰ります。また明日から、よろしくお願いします」
 そう言い残して、美浜は出ていった。こんな時にも美浜らしく、律義に音が立たないように扉は閉まった。
「ああ、困ってしまったわ……」
 堀田部長は眉を寄せ、本当に困った顔をした。
 困った、か……。美浜が来る前の、あるいは美浜が俺に告白する前の「困ってしまう」、から過去形に変わった……。
「ねぇ綿原くん。お願いだから百瀬くんと別れないでほしいの……」
 点と線が繋がった。
「百瀬くんの想いが恋愛に傾いたら、陸上選手としてのこんなにも成績を悪くするなんて。想定外だったわ……。『陸上部のエース』という肩書きがもっと効力を発揮すると思っていたんだけれど……」
 なぜ部長はレストランの割引券をくれたのか?
 なぜ映画のチケットを四枚もくれたのか?
 そして、美浜がいる時といない時との話題の違いは?
 そもそも、なぜ部長は俺と彩加の恋愛をずっとアシストをしてくれていたのか?
「堀田部長、部長はお釈迦さまか何かですか?」
「なんの話かしら?」
「まず、村川さんが周作へプリントを届ける係だということを知っていたから、俺を彼女の下へ遣ったのでは?」
「どうかしらね?」
「次に、俺の妹の友達が、周作の妹だと知っていたんじゃないですか?」
 部長は押し黙って、眉間にシワを寄せた。
「さらに、周作が渡辺のことを好きだとを知っていた。だから周作の外見を改めさせようとした。公開告白しようと決起させるために」
 ついに堀田部長は口を開く。
「二つ目は本当に知らなかったのよ? 知っていたのは、単に相澤くんの家がキミの近所だということだけ。あと順番は逆よ。百瀬くんのキャラクターを調査している間に、不可抗力で相澤くんの恋を知って、その流れで村川くんがプリントを渡す係だと知ったの」
「それで?」
 俺は青いカップに注がれたコーヒーを一口含んだ。冷め切っていたが美味しい。そういう銘柄を選んでくれているのだろう。微に入り細に入り、部長の気遣いが行き届いている。あるいは「神経質」とも言える。エイベル・アトキンソンのように。
「キミについての身辺調査をくまなく行ったの。あとは人間観察。百瀬くん、相澤くん、渡辺くん、そしてキミがどんな子なのか、ってね。相澤くんは外見をどうにかすれば腹が据わる子。再び公開告白をすると思っていたし、渡辺くんは奥手な子。告白を聞いてもすぐに答えを出せないと思っていたし、それを慮って、キミは百瀬くんに公開告白をすると思っていたわ。そうしてキミは百瀬くんと付き合う」
「そこまで分かっていたんですね……。『どうして』と……、聞いてもいいんでしょうか? 繊細な話になるんじゃないかって、思うんですけれど……」
「……いいわよ。話すわ」
「もしかして、美浜のことを、その……、部長は……」
「『この愛は赦されないのかもしれない。だが、ゆくのを止める堰堤はない』」
「ダイアナ・デイン、『愛のまたたき』ですか」
 部長は首肯し、俺は首を掻いた。
「そういうのが聞きたいんじゃないんですよ。引用っていう仮面を脱ぎ去った、部長の本音が聞きたいんです」
 部長は「ふぅー……」と長く息を吐く。カムアウトする覚悟を決めるためだろうか。
「ボクはね、『レズビアン』なの」
 ああ、と思う。
 なぜ俺は気がついてしまったんだろう、と。
「ボクは美浜くんのことを愛しているの。だから、執念よ。キミには早急に誰かと恋人関係になってほしかった。そうすれば、美浜くんはキミへの想いを胸の内に仕舞い込むと思っていたから……。けれど……――」
 部長はうつむき、暗い表情を見せる。その中には“絶望”のようなものを感じさせた。
 俺はそんな部長の姿を見ていられなくなって、急ぎ口を開く。
「すいませんでした。暴いたのは、悔しかったからってだけなんです。手のひらの上で躍らされることに苛立つのは仕方ないことでしょう?『舞台上で演じる。観衆の思うがままに。嫌気が差したんだ。予定調和に』」
「『予定調和の中でバケツがひっくり返る。掃除婦が転ぶ。運命なのだ』。全てが運命なのよ。ボクの行動もね」
「『偶然ではない。事実と事実が手を繋ぎ、運命と化す』とスタンリー・サマーズは言います。運命は初めから決められているものではないんですよ。運命とは事実と事実が積み重なった時に生じるんです。“思惑”を積み重ねるのとは『趣き』が違いますよね? 全てが運命だなんて言わないでください」
「趣き、ね……。キミらしいわ」
「自由恋愛なので過度な口出しはしませんが、部長、美浜を傷つけたら許しませんよ」
「同感。傷つけたくないわ」
「それと、堀田部長自身が傷つくことも禁じます」
「ふふっ……。キミは厳しいわね……」

  *

 その日も彩加のコーチから連絡が届いた。
 彩加はタイムを伸ばしていた。
 だが、未だ自己ベストには及ばない。

  *

 美浜に告白されて以来、俺は文芸部から足を遠ざけていた。彩加と昇降口で待ち合わせもしていない。
 彩加は記録を伸ばし続けている。自己ベストにはまだ届かないが。
「ただいま」と帰宅。
「おかえり、おにぃ。最近早いねぇ?」
 一階のリビングの戸を開けて朋李が迎えてくれた。
「まぁね」
「じゃあ、今日勉強会に付き合ってよ」
「いや、俺にも期末テストが――うん? 勉強会?」
「あっ、お兄さん。おかえりなさい」
 リビングからひょっこり顔を出したのは愛子ちゃんだ。
「た、ただいま……」
 周作との仲違いの一件以来、愛子ちゃんとは顔を合わせていなかった。
 故に少し戸惑ってしまう。
「ねぇ、おにぃ、勉強!」
「い、いいのか?」
「いいよね? 愛子ちゃん?」
「助かります」
 久しぶりに会った愛子ちゃんからは、おどおどした雰囲気がなくなっていた。まるで憑き物が落ちたかのようだ。
「わ、分かった」と、おどおどするのは俺のほう。
「じゃあ、愛子ちゃん、休憩は終わりにして、あたしの部屋行こっ」

 そうして朋李の部屋へ。ピンクを基調としたガーリーな部屋。いつものように平べったいクッションの上に座らされる。
 勉強が始まる前に、愛子ちゃんが言った。
「わたし、諦めてませんからね。絶対陽映に受かって、お兄さんに近づいてみせます」
「ヒュー! 言うぅ!」と煽る朋李はうるさい。
 ……七夕さま。変に願いを叶えないでくれってば!
 鼻を明かしてやる相手は、もう隣にいないのに――。

  *

 翌朝、村上さんから挨拶をもらった。
「綿原おはー」
 ん? と思う。
 あれ? と思う。
 おかしいな、と思った。

  *

 お昼休み、村川さんはいつものように席を立ち、教室を出ていこうとする。
「待って! 村川さん!」
「なにさ、綿原?」
「俺も行く!」

 屋上扉前。久しぶりだ。
 余って使われていない机が固めて置かれている中、椅子を下ろして桜井さんが座っていた。
 俺も椅子を下ろし、桜井さんの右隣に腰を落ち着ける。
「綿原、おひさー」
 挨拶はいらないだろう。
「さっちゃん」
「ハァ? なんだよ、おめぇ? 馴れ馴れしいんだケド!」
「ははっ。やっぱり桜井さんが『さっちゃん』だ」
「おめぇ、それどこで知った!」
「緑掛かった黒髪の女の子を連れた『がっちゃん』に会った」
 さっちゃんは「はぁー……」と大きな溜め息を吐いた。
「おめぇ、二度とウチを『さっちゃん』って呼ぶな!」
「はーい」
 桜井さんは再度溜め息を吐く。
「なんか用があって来たんだべ? めんどくさっ」

 そうして桜井さんと村川さんを、校舎二階西側の、あの窓前まで連れていった。
「ここからさ、陸上部のグラウンドが見えるんだ」
 村川さんが「ゲッ!」と言う。
「なにお前、覗き?」
 桜井さんは黙ったまま、窓の外を眺めていた。
「ねぇ桜井さん、俺が『もっちゃん』と付き合ってたの知ってた?」
「は? お前が? 釣り合わねー」
「まぁ別れたんだけど」
「別れたんかよ!」
「括弧仮でね」
「仮?」
「うん。彩加は別れたくないって言ってて」
「へぇー! まぁアイツ、昔っから頑固なトコあっからなぁ」
「幼稚園の時?」
「そそ。かけっこ勝負してさ、勝つまでやめねぇの、アイツ。こっちが体力なくしてバテバテになったところで、ようやくもっちゃんが勝つんさ」
「かけっこ勝負ね……」
「まっ、そん時に『おっきくなっても、かけっこしようね』っつって約束したわけ。そんでお互い陸上始めて、陸上に強い陽映に入って……」
 それ以上、桜井さんは言わなかった。
「ねぇ桜井さん、彩加が陽映で自己ベスト出した時のこと知ってる?」
「知ってるもなにも、ウチが見てる目の前で出しやがったかんな。マジ引いたわ」
「そんで桜井は部活辞めたんよな?」
「村川、うっせぇ!」
「やっぱりおかしいな……」
 村川さんが「どしたん?」と問うた。
「百瀬彩加研究会って知ってる?」
 桜井さんはケタケタと笑った。
「知ってる知ってる! マジアホ集団だよな! 要するにファンクラブだべ?」
「本当に『アホ』なのかも。バカにするわけじゃなくてね」
「どゆことよ?」
 それから俺は自論を語った。

  *

 土・日、そして期末テストを挟んだので、すぐには実験できなかった。
 ただ、試験後の土・日も彩加のタイムは伸びていた。自己ベストには届かないが――。

 その土曜日のこと。
 俺は朋李に確認を取った。
「なぁ朋李、彩加が中学3年の時、おばあさんが亡くなったあとのことは覚えてるか?」
「あとのこと?」
「そうだ。もしかして彩加のご両親か誰かが部活の様子を見に来ていたんじゃないか?」
「うん、そうだよ? 百瀬さまが自己ベストを出した時だからよく覚えてる」

  *

 期末テストを終え、夏休みに入る前の間隙である。
 実験を敢行した。
 俺は陸上部での活動が始まる前に、彩加にとあるメッセージを送ったのだ。

 部活終了後、彩加のコーチから連絡が届く。
 その日の彩加のタイムは、自己ベストに匹敵するものだった――。

  *

 俺が彩加に送ったメッセージはこうだ。

『彩加、校舎から陸上部のグラウンドが覗ける窓の場所は分かるか? 二階の窓だ。そこから見てるぞ。さっちゃんと、あと村川さんと一緒にな。精々そのプレッシャーを感じやがれ』

  *

 カレンダーは、めくれていく――。

  *

「おめぇも献身的よな、毎日毎日よぉ」
 窓のサッシに肘を乗せながら桜井さんは言った。
「これもひとえに愛のなせるわざ、ってね」
 俺は窓の横に壁にもたれかかり、横目で、まさに覗き、といった風にグラウンドを見ていた。
「はぁー……。おめぇみてぇなカレシが欲しいもんだ」
「桜井、高望みすんな?」
「うっせぇ、村川!」
「俺が高く望まれる男だなんて照れちゃうな」
 そう言って俺は両手を頬に当てた。照れちゃうな、のポーズだ。
「桜井さんはまずその青髪をやめたら?」
「うっせぇ。これはもうウチの個性だっつーの」
「そっか。ならその髪色を含めて、丸ごと愛してくれる人が現れるといいね」
「あっ! いまアイツこっちチラッと見たぞ」
「ははっ。青髪だから桜井さんは向こうからも目立って見えてるだろうね」
「桜井、やっぱコンティニューしようや」
 以前そう言って、村川さんは桜井さんから絶交を言い渡されていたが、大丈夫だろうか。
 不安だったが桜井さんは……、黙っていた。

  *

 過去に彩加が自己ベストを出した「二度」。

・中学3年、祖母が亡くなったあと、親御さんが見に来ていた時に。
・高校1年の4月、さっちゃんの目の前で。

 その「二度」を検証し、俺は一つの仮説を立てたのだ。
 俺と付き合うまで成績を保つことができていたのは「陸上部のエース」という看板を背負っていたからではないか?
 一度目、祖母のことが気掛かりでタイムを落としていた彩加。その祖母が亡くなったあと、彩加を心配して練習を親御さんが見に来た。
 気負ったことだろう。
 そんな中で彩加は自己ベストを叩き出した。
 二度目、高校入学後、友人の桜井さんが見守る中での初めての記録会。
 気負ったことだろう。
 そんな中で彩加は自己ベストを更新した。
 つまり彩加は「メンタルよわよわ」なんかじゃなく、むしろ逆。“メンタルお化け”なのではなかろうか?「気負う」ほどに彩加は強くなる、というのが俺の自論だった。

  *

 彩加研究会がなんだってんだ!
 彩加のことを一番理解しているのは俺だ!

  *

 夏休みへ入った。
 それでも学校へ通い、校舎二階の窓から練習を見守り続けた。

  *

 彩加はチラりとこちらを見遣る。
 唇が動く。なにかを呟いているようだ。
 そうしてクラウチングスタートのポーズを取る。
 笛の音が鳴る。
 駆け抜ける――。

  *

 ついに、彩加は4月に出した自己ベストを更新した。
 まだタイムは安定しないが、それでも、その一日、確かに更新したのだ。

  *

 梅雨は明けた――。

  *

 学内の「第一会議室」へと呼び出された。
 今回はあの美人な女生徒はおらず、また、がっちゃんもいなかった。
 相手は彩加のコーチのみ。「ロ」の字になっているホワイトの長机の、窓際に彼が座り、その向かいに俺が腰掛ける。
 こちらから覗ける窓にはシャッターカーテンが敷かれていた。しかし、その隙間から、梅雨明けの強い日差しが射し込んでいる。
 ともかく一対一、タイマンだ。
「まさかね」
 彼が言った。
「不甲斐ない」
 クーラーの音が上から降り注ぐ中、彼は言う。
「これまで大会の前には『平常心で臨め』と言ってきたが、今後は言葉を変えるよ。『プレッシャーを、その重みを全身で感じろ』とね」
「きっと良い成績を出せると思います」
「だが、百瀬が恋愛にうつつを抜かせば、タイムを落とすことに変わりはない」
「分かっています」
「それでも、キミには大会を観に来てほしい」
「知り合いを連れていきますよ。人数は少ないですけれど……」

  *

 カレンダーは「黒」、「青」、「赤」、そしてまた「黒」と繰り返し、めくれていった。

  *

 インターハイが行われる会場のエントランスにて、俺はお呼び立てした面々を出迎える。

「よぉ周作。それに渡辺。今日は来てくれてありがとう」
「こんにちは」と渡辺。
「綿原……。その、なんだ、愛子は強い女の子だったよ。模試の成績が伸び続けてるんだ。あんな『お願い』をして悪かった」
「いいさ。言ったろう? 周作の思い通りには動かないけれど、考えは尊重するってさ」
「ハハッ。でも結局、百瀬さんと別れたじゃねぇか」
「ヤなこと言うなよ」
 そして俺は二人に告げる。
「『絆の言葉は端的がいい。強く響く』って言っているヤツがいるんだ」
「誰だよ、そんなこと言ったのは」

 次に現れたのは朋李と愛子ちゃんだった。
「受験生なのに悪いな」
「百瀬さまの晴れ舞台を観れるんだから、そりゃ来るよ!」
 朋李は瞳を輝かせていた。
「お兄さん、今日は敵情視察です。お兄さんがどんな人を好きになったのか」
「ははっ。周作が言ってたよ。愛子ちゃんは強い子だって」
 そして俺は言う。
「『仲良き鳥二羽、天高く飛ぶ』って言うヤツがいる」
「出たよ、おにぃのひけらかし」

「来てやったぞ、綿原」
 村川さんはそう言うが、桜井さんは黙ったまま。
「ほら、桜井の大好きな陸上だぞ?」
「うっせぇ、村川!」
「桜井さんはどうするの? 戻る気になった?」
「おめぇはもっとうっせぇ!」
 桜井さんそっぽを向いた。
「でもまぁ? 陸上部のほうがウチを欲してるかもな?」
「あの窓から、一緒に練習を見守ってくれて本当にありがとね」
 そうしてこんな言葉を送る。
「『遅いなんてことはない。なにもかもが待っている』って言っているヤツがいてね」
「うっせぇなぁ! 誰だよ、そんなこと言ったヤツ!」

 美浜と堀田部長がやってきた。
「久しぶり」
 俺は美浜から逆告白を受けて以来、文芸部室へ顔を出していなかった。校舎二階の窓から桜井さん、村川さんと陸上部の練習を覗いていたからだ。
「本当は来るかどうか迷ったんですよ? けれど、綿原さんに会いたくて……」
 美浜は頬を桃色に染める。
「綿原くん。ボクの調査によればね、百瀬くんは『雨音が聞こえる』が口癖になっているそうよ? 心当たりはあるかしら?」
 雨音が聞こえる。温かい雨が降っている。結露した窓に書くのは、キミの“名前”。
「さぁ、どうでしょう」
 俺は文芸部の二人にも言葉を送る。
「『秘密は隠すもの。秘密は告げるもの』ってね」
「それは誰の言葉ですか?」

「綿原聡助」

  *

 その時が訪れる。彩加が現れる。
 ストレッチを行う。身体を温める。

 位置につく。

 彩加はチラりと応援スタンドを見遣る。

 唇が動く。

 きっとこう呟いている。「雨音が聞こえる」。
 彩加は裏切らない。いくら重圧が掛かろうと、彩加は決して裏切らない。そこに、裏切っていない証を立てるのだ。

 クラウチングスタートのポーズ。

 時が流れる。すぐさまだった。永遠だった。

 こんな言葉がある。「我らは進む。時の針を追い越して」。
 轟くは、スターターピストルの号砲。
 皆を裏切ることはない。

 彩加は駆け抜けた――。

  *

『あたまに陽が当たって熱くなってる。
 いまにも熱中症になりそうだ。
 しあい見てたぞ。
 てりつける太陽。
 る、は……、思いつかないなぁ……。』

『言葉足らずね』

  *

 試合後、エントランスで彩加を待った。
 彼女は口を真一文字にして現れた。なにか表情を我慢している様子だ。
「よぉ彩加、2着おめでとう」
 彩加は銀賞だった。
「試合を見てるヤツが銀頭じゃなかったら……!」
 ふふっ、と俺は息を噴き出して笑う。
「1位の女の子は可愛かったなぁ」
「あっそう。連絡先を聞いてくれば? どうせワタ埃なんか相手にされないでしょうけど」
「銀ね! この頭、ギンギラ銀だから! 彩加もさっき銀頭って言ったろう!」
「そんなことより渡良瀬――」
「綿原ね!」
「ごめんなさい? ずいぶん会ってなかったから」
「忘れないで! 綿原聡助!」
「ねぇ聡助?」
「なんだ?」
「ありがとう」
「なぁ彩加。メンタルをどうにかしてくれ。ちゃんと自分でコントロールできるように」
「分かっているわ」
「恋愛にうつつを抜かしていても、自己ベストが出せるようにさ」
「分かっているってば」
「こんな言葉を思いついたんだ。『陽光が差す。熱く赤く心を焦がす。瞳を閉じればキミがいる』」
「安い言葉ね」
「じゃあ、あと一言付け加えようかなぁ」
 うーむ、と俺は考え込むフリをして唸る。
「なによ? 早くして」
 俺は彩加の瞳をしっかりと見据える。
「『愛してる』」
「バカ」
 彩加は堪えていたのであろう表情を晒す。黄色く咲く、くしゃくしゃの笑顔だ。だらしないニヤケ面である。
「手厳しいなぁ」
「ねぇ私、花火が見たいわ」
「ちょうど俺もそう思っていたところだ」
「明日は花火大会らしいわね?」
「へぇ、なんて偶然だ」
「無知ね。『偶然ではない。事実と事実が手を繋ぎ、運命と化す』とスタンリー・サマーズは言うのよ? ちなみにアンナ・エイリーが書いた小説の主人公ね」
「ふうん? そう言えば俺たち、たくさん『事実』なるものを積み上げてきたっけ」
 彩加は言う。深く深く、心を込めて。
「『運命』なのよ」
「出会って、告って、フラれて、告って、付き合って、ケンカして、別れて。『事実』を積み上げてきた。それで?『運命と化したもの』ってのはなにを指すんだ?」
「あなたが言いなさいよ。甲斐性なし」
「『愛し合うこと』」

  エピローグ

 花火大会はくだんの海にて催される。ヤツは弱みを見せない上に、洒落ついた姿を見せつける腹積もりらしい。
 多くの人々が海岸に集っていた。
 青白い三日月の夜。星々は遠慮がち。
 俺たちは並んで立っていた。俺が左で彩加が右。
「綺麗ね」
 彩加は“月を見て”そう言った。
 俺は前回のように「そうかな?」とも「イエス」とも言わなかった。
 はたまた「死んでもいいわ」、あるいは「月下、踊ろうか。シャロン」というグレン・ゴダードの言葉を引用することもなかった。
 まぁ、「お前のほうが綺麗だよ」とは言ってもよかったかもしれない。膝で尻を蹴飛ばされていただろうけど。
 ……俺は沈黙を返す。
 代わりに返答したのは――。
 大輪の花。
 空に咲く。
 花火大会が始まり、俺は彩加の肩を抱く。彩加は頭を俺の右肩に預けた。その頭を撫でてやる。髪質はさらっとしている。全く、天パの俺にとっては羨ましい限りだ。
 ハンナ・ヒッチコックが書いた小説の悪役、ダリル・デイヴィスは『満ちぬ。ついぞそなたを得ようとも』と言う。あれはウソっぱちだな、と思う。さすがは悪役だ。
 俺の心はこんなにも満ち足りている。
 そして真っ赤だ。
 その形は無論――。
 以前ここへ来た日の7月6日。
『百瀬彩加』
『綿原聡助』
 以前、俺と彩加が結露した車窓に書き合った名前。
 彩加はそこに、傘マークを描き、さらに“それ”を添えた。
 この梅雨の間、何度相合傘をしただろうか。
 てっぺんに咲いたもの。それは「ハート」。
 無論、それが俺たち二人が持ち合わせている「真っ赤な心の形」。
 決まってる。「運命と化した」のだから。

 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
 色彩豊かな花びらが月下に舞う。
 今日まで、俺と彩加は多くを語ってきた。語り合ってきた。会話劇を演じてきた。
 けれど、もはや言葉は不要となったのだ。
 光輝く花びら舞う中、俺たちは黙って見つめ合った。
 黙っていたって想いは伝わってくる。
 彩加は心の中で「陽光が差す」と言っている。
 口に出されたら俺は「夜なのに? あれかな、『夜こそだ。太陽が告げる』。ダイアナ・デインの『愛のまたたき』?」なんて返すだろう。
 すると彩加はツーンとしながら「野暮ね」と言い放つ。俺の尻を膝で蹴飛ばして。
 そうなのだ。そもそもこんなやり取り自体が「野暮」なのだ。
 陽光が差す。熱く赤く心を焦がす。瞳を閉じればキミがいる。
 彩り鮮やかな花びらが舞う中、そこに色を加える。
 真っ赤だのハート形だの、そういったものは比喩に過ぎず、現実には具象されない。
 だが、確実にそこにある。「愛情」は、そこに。

 無言で見つめ合い、口づけを交わす――。

“天然色”の「愛情」が、世界中に満ちる。
 そんな、彩りが加わった。
                  了

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