秘密の願い事(よろしくね)

梗概
 高校へ進学した蒼助は、医師を目指しながら友人の公治や獣医志望のレオナと出会い、幼なじみの葉月とも再会する。家では病弱な義妹・陽菜と、人語を話し人間の姿にもなれる不思議な猫ルゥと暮らしていた。
 やがて葉月の一家が急速に老化する怪異に遭遇し、その原因が願いを叶える「おまじない」にあることを知る。
 蒼助は病弱な妹を救うため自らもおまじないを使うが、陽菜と身体が入れ替わるという予想外の結果を招いてしまう。さらに陽菜自身が「家族の愛情を得たい」という思いから、自ら病弱になる願いをかけていた事実が判明する。その願いを解けば、ルゥは人間性を失い普通の猫へ戻ってしまうため、蒼助は妹とルゥの両方を救う方法を模索する。
 友人たちや家族の支えを受けながら答えを見つけた蒼助は、再びおまじないを用いて願いの在り方そのものを変え、陽菜の健康とルゥの存在をともに守ることに成功する。そして、人を救いたいという本当の想いを胸に、新たな一歩を踏み出す。

「秘密の願い事(よろしくね)」
   The Fructose

 俺には夢があった。願いがあった。それは「医者になること」だ。
 小学校4年生の頃から、俺が願う夢だ。
 簡単じゃないことは分かっている。幼馴染みの葉月にからかわれたりもした。……人の夢を嗤うなんて、アイツは性格が捻くれてやがる。
 閑話休題。だから、俺は勉強をたくさんした。そうして、この地域では一番偏差値の高かった私立陽映学園高校へ入学したのだ。
「よろしくな、蒼助」
 前の席の公治が笑顔で言った。俺も笑顔を作って返した。ぎこちなかったと思う。何せ緊張していたからだ。
 入学式後、教室では担任教師からの簡単なお祝いの言葉と、学園の説明が行われたのち、懇親会と称すればいいのか、雑談の時間が設けられたのだった。そこでのことだ。
 初めての高校、初めての教室、初めてのブレザー、初対面の公治……。逆に尻込みせずに話し掛けてくれた公治のことを凄いヤツだと思った。ただ、不信感も覚えた……。
「ああ、よろしく」
 そして公治は、俺の隣の席の女の子にも挨拶をした。
「レ、レオナさんも、よろしく」
 緊張気味の声だった。彼も緊張するのか……。それを知って、共感して、少し安心した。彼も俺と同じなのだと。
 しかし、そりゃ緊張するよな……。
 レオナさんはかなりの美人さんだった。目鼻立ちが整っているのはもちろんのこと、白磁のような透き通る肌を持ち、それとコントラストをなすように黒く長い、美しい髪をなびかせている。何よりも小顔の割りにスタイルがよかった。長身で長い脚に、豊満なバスト……。
 葉月とは大違いだ。
 彼女はパーフェクトな美少女と言えるだろう。俺はその隣に座れて幸運だったと、神に感謝すべきなのかもしれない。
 しかし、俺は神が嫌いだ。というより、その存在を信じちゃいない。故に此度の幸運にも、裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
 例えば公治が入学早々、話し掛けてくれたのは、地政学的な理由なのではないか、という不信感だ。つまり、俺と仲良くなりたいのではなく、俺の隣の席のレオナさんと仲良くなるための口実が欲しかっただけだったのではないか、ということだ。
 レオナさんは美しい微笑を浮かべて公治の挨拶に応えた。
「ええ、よろしく」
 その声はまるで鈴の音のように輝かしかった。
 しかして「“よろしく”」、その言葉が飛び交う教室内を俺は見渡した。
 入学式を終え、教室での担任教師からの説明会の後。皆が皆、作り笑顔だった。
 そんな中で、地黒の肌に茶色の短髪を持つ公治の瞳には“本気”が宿っていた。
「ええと、オレの好きな物は音楽だ。楽器が弾けねぇ聞き専だけど、音楽を愛してる。ロックンロール!」
「おっ、いけいけ」
 俺は無責任に煽った。
「ロックンロール!」
「よっ、ミリオンセラー」
「リズム・アンド・ブルース!」
「うーん、うん? それはどうだろう?」
 公治のヤツ、レオナさんにアピールしたいがために空回りして、自分でもわけ分からなくなっているな? これが“思春期”という名の魔物か……。
 当のレオナさんはというと……。小首を傾げていた。そんな仕草も美しかった。
「どうしてR&Bに走ったの? ロック魂を貫いてほしかったわ」
「確かにそうだね。信条がブレるのはよくないね」
 俺は彼を煽り立てた口でそう言った。
「日和ったな、公治?」
 公治は頭を抱えた。自身の失敗を呪い、打ちひしがれているのだろう。
 彼とは仲良くやっていけそうだ、と思った。
「音楽性の違い、か!」
 解散!
 しかしやはり、公治はレオナさん狙いのようだ。俺もお近付きになりたいのは山々だった。あまりテレビを見ないので、レオナさんほどの美人さんなんて初めて見たような気分だった。
 公治のアシストついでに、俺も話し掛けてみようか。
「レオナさんは、趣味とかあるの?」
 まるでお見合いのかのような、我ながら没個性的な質問をしてしまった。
「私の趣味は、ネコちゃんの――」
 うん? ネコちゃん?
「あっ、いや……。ない! 趣味はないわ!」
 彼女は激しく動揺した。自身の失敗を呪い、打ちひしがれているに違いない。
 こうなると悪戯心が湧くというものだ。
「ねぇ、今『ネコちゃん』って言ったよね? ネコちゃんの、なぁに? 飼っているの?」
 彼女は顔を真っ赤にした。可愛いなぁ。この可愛さを形容できる言葉を持たないことが如何にももどかしい。まるで女神の恥じらいだ。そこに宗教的なものすら感じ、俺は背徳感を覚えた。けれど、神など信じちゃいない。故に俺は、気分が高揚したのだった。
「飼ってはいないけれど……、ぬいぐるみとか、グッズを……」
 どんどん声が小さくなっていく。どんどん顔も赤くなっていく。俺の気分も高まっていく。
 公治も聞き耳を立ていていた。
 もう少し、もう少しだけイジってみようか……。大丈夫、大丈夫、まだいけるだろう?
「そういえばさ、レオナさんの学生鞄にネコのぬいぐるみが付いてるよね? 集めるのが好きなんだ?」
「そうよ! 子供っぽくて悪かったわね!」
 彼女は耳まで顔を真っ赤にして、プリプリと怒った。
 あー……、怒らせてしまった……。しかしなんだろう? この、積み木が崩れた時のようなカタルシスは? 有り体に言ってしまえば、身体がゾクゾクした。
 彼女は眉間にしわを寄せていようとも、そのご尊顔は美しかった。そして美しさと共に、どこか幼さのような、愛らしさのようなものを感じさせた。彼女のこんな一面を見られただけ、怒られ儲けというものだ。
 それにしてもレオナさんはネコ好きなんだな。
 ウチでもネコを飼っている。あの“特殊なネコ”を見せたらどう思うのだろうか?
 とにかくフォローしなくては。嫌われたくはないからな。
「別に悪くはないと思うけれど。なぁ、公治?」
「とても可愛らしい趣味だと思います!」
 鼻息が荒い。そして何故、敬語? 公治もレオナさんの愛らしい怒りっぷりにノックダウンされた側の人間か? やはり仲良くやっていけそうだ。
「公治の言う通りだよ。大人でもぬいぐるみが好きって女性は多いらしいし、恥ずかしがることないよ」
「けれど……、私のミステリアスな雰囲気が台無しに……」
 わお、自分で自分のことミステリアスとか言っちゃうんだ? そんな感じの人なんだ? 彼女のこんな一面を見せられて、俺は戸惑いを覚えた。
 まぁいいだろう。その美貌に変わりはない。内面はこれから知っていけばいいのだ。そう、時間を掛けて、ゆっくりと。
 そんな、彼女(ついでに公治も)と交友する未来を想像し、俺は気持ちを明るくした。楽しい学園生活になりそうな予感がした。
 レオナさんは、もうなんだかヤケになって述べる。
「とにかく! 私の夢は『美人獣医になって、可愛いネコちゃんたちを救うこと』なの!」
 わお、自分で「美人獣医」って言っちゃうんだ?
 だが今の発言は聞き逃せなかった。
 彼女にも夢があるのか……、想い願っている大事な夢が……。
「そっか。いい夢だね。俺の夢は『医者になること』なんだ。一緒に頑張ろう」
 そして返事をくれた。こうして俺は、彼女を好ましく思うようになった――。

  *

 午前中に学校は終わり、公治から「遊んで帰ろうぜ」と誘われたが遠慮した。
 そうして俺は急いで家に帰った。
「ただいま」
 返事がない。これはよくない合図だ。
 俺は陽菜の部屋へ急ぎ、声を掛ける。
「入るぞ、陽菜」
 そうして扉を開いた。
「遅くなってごめんな。体調はどうだ?」
「お兄ちゃん……、おかえり……」
 そう言って陽菜は小さなリスのぬいぐるみを手に握って起き上がろうとする。それを押し止めて、横たえた。
「寝ていていいから。すぐにお昼作ってやるからな。食べられそうか?」
「……たぶん、少しだけなら」
 よかった、食欲はあるようだ。俺はホッと胸を撫で下ろす。
「分かった。良い子だ。ちょっと待ってろよ」
 そうして俺は卵粥を作り始めた。
 煮ている間に長年飼っている白猫のルゥにご飯をあげた。「彼女」はガツガツと食べ、すぐに完食する。陽菜もこんな風に食べてくれたらいいのだけれど……。
 料理が完成し、部屋へ持っていく。
 戸を開けると、ルゥが先に部屋に入っていった。
 あとから俺が入ると、ルゥはベッドの上で陽菜に撫でられていた。
「ここに置いておけばいいか?」
 俺は陽菜が寝るベットの横に備え付けているキャビネットの上に卵粥が入った器を置いた。
 そのキャビネットは、元は学習机の可動式の引き出しを流用した物だった。その学習机は、滅多に使われることはない……。
「食べさせて、お兄ちゃん」
「今日から中学3年生なのに、陽菜は甘えん坊だな」
 だが、いつものことだ。俺はスプーンですくった卵粥にふーふーと息を吹きかけ、よく冷ましてから陽菜の口に運んだ。
 陽菜はカールした長い茶髪を耳に掛け、卵粥を小さな口に含む。
「美味しいっ。ありがとう、お兄ちゃん」
 陽菜は笑った。
 そう、なんてことはないんだ。笑ってくれるだけで、お礼を言ってくれるだけで、俺の心は満たされるんだ。
「うん」
 俺も笑顔で応じた。
 陽菜は病弱で、平均して週に3、4回は熱を出す。特に土日はいつもだ。今朝も微熱を出して寝込んでいた。けれど、その世話なんか、なんてことはないんだ。俺はただ、陽菜に健康になってほしいんだ。
 陽菜が何故病弱なのか、その原因は不明だった。
 だから俺は、医者になって、陽菜を治すんだ。それが俺の心からの願い事だ。
「お兄ちゃん、高校はどうだった?」
「うーん、高校? まぁ、友達ができた、かな?」
 こんな何気ない雑談も愛おしい。
 それと、高校には少し気になる娘もいてね、なんて――。
「女?」
 陽菜は低い声でそう言った。
「へっ?」
 俺は間の抜けた返事をする。
 我が妹の、ハイライトを失くした真っ黒な瞳が問い掛けてくる。
「女?」
 同じ問いだ……。怖いなぁ、怖いなぁ。
 俺は怖気づきながら、「いや、その……、どうだろうね?」と曖昧に答えた。
「ふーん? 否定しないんだ?」
 すぐに陽菜はケータイを取り出した。その電話口に向けて叫ぶ。
「葉月ちゃん、すぐ来て!」
「おい、やめろ、陽菜。入学式の後だぞ? 葉月はきっと新しい友達と遊んでいるよ」
 そう言って止めるが、陽菜はケータイに向かって話を続けた。
「お兄ちゃんに女ができた!」
「できてないよ!」
 俺は叫ぶが、その声は虚しく響いた。
「……うん、……うん、そう。『できてない』って言ってるけど怪しいの」
 怪しくなどない、俺は清廉潔白だ。俺がレオナさんに感じたのは「人間的に好ましい」というだけだ。
 ――「蒼助くん、頼りないかもしれないけれど、私を“よろしくね”!」
 ……たぶん、そうだ。

 そして、十数分後――。
「蒼助、女ができたってどういうこと? アタシという者がありながら!」
 葉月が家に来た。
「なんだその言い草は? 誤解を生むだろう?」
「でも、お嫁さんにしてくれるって約束してくれたのは本当じゃん?」
「保育園の時の話じゃないか。……チビ」
 彼女は高校デビューで金に染め上げたショートヘアを揺らした。と、思ったら陽菜のベッドに座る俺の頭に、彼女の頭突きが飛来した。
 俺は呻き声を上げる。ジンジンと痛んだ。
 葉月も同様なようで、「痛ーい!」と言って頭を押さえていた。
 頭突きなんかするから痛み分けになるんだ。全くもう……。
「とにかくチビって言うな。アタシはまだまだ、これから伸びるんだからね。お父さんもお母さんも170あるし」
 そうは言うが、今は陽映高校のブレザーを着ているから大人びて見えるとはいえ、身長からして中学1年生かと見紛うほどに小さかった。140センチちょいくらいか?
「あのなぁ、葉月、世の中には隔世遺伝というものがあってだな? 葉月んトコのおじさんとおばさんが長身でも――」
「お爺ちゃんもお婆ちゃんも、お母さんたちと同じくらいだもん!」
 他人の身体的特徴を嗤うなど、本来ならば憚られるところだが、幼馴染みという仲が俺の口を軽した。……悪いとは思っている。
「それにしても、蒼助に女ねぇ……」
 頭を上げて仰け反り、瞳を下瞼に近付けて言う姿が、非常に小憎たらしい。
 陽菜はベッドでルゥを撫でながら「そう、その話!」と声を上げた。
 小盛りだったが、卵粥を完食してくれて一安心だ。
 葉月が「ああ、そういえば」と言って話し出す。
「2組の男子が噂してたっけ。蒼助のクラスに、ミステリアスな美人さんがいるって。もしかして……」
 ミステリアスだって? なんと、レオナさんの“自己演出”は成功していたようだ。
 そんなミステリアスとはかけ離れた彼女の側面を知っていることに、多少なりとも優越感を覚えてしまったのは仕方のないことだろう。
 ちなみに葉月は2組で、俺は1組である。
「ミステリアスな美人なんて知らないね。俺の隣の席の娘はネコのグッズ収集が趣味の、ファンシーな女の子だ」
 俺が「ネコ」と発話すると、ルゥがビクリと反応した。
「やはり、女……」
 陽菜がジトっとした目付きで俺を見る。
 よせよせ、それが癖になっちゃったら傍目が悪いぞ? 怖いなぁ、怖いなぁ。
「葉月ちゃん、私が認めてるのは葉月ちゃんだけなの! お兄ちゃんがどこの馬の骨とも分からない女にたぶらかされないように、ちゃんと目を光らせていて!」
「おい、陽菜? 勝手を言うのはよくないぞ? 葉月にだって、都合というものがあるんだ」
 葉月は人気者だ。小学校の頃から、ずっとである。葉月自身、人懐っこい性格だし、その背丈も相まって、まるで小動物かのようにクラスのみんなから可愛がられていた。
 それは彼女の個性だ。きっと高校へ入っても変わらないだろう。そんな彼女の学園生活の邪魔をしてはいけない。俺たちはたまたま家が隣同士というだけで家族ぐるみの付き合いをしているけれど、分別はわきまえないくてはいけない。
「葉月も言うこと聞かなくていいぞ。あんまり陽菜を甘やかさないでくれ」
「けど……、でも、本当に蒼助が……」
 葉月は小声でわけの分からない途切れ途切れの言葉を呟いたのち、被りを振った。
「いやぁ、陽菜ちゃんから頼まれちゃったら断れないなぁ。仕方ないなぁ。ちょっと様子見するくらいならいいわよ、安心して、陽菜ちゃん!」
 葉月の言い方にどこか、わざとらしさを感じたのは俺だけだろうか?
「ありがとう、葉月ちゃん!」
 陽菜は葉月に想いを託せて安心したのか、眠たそうに目を擦った。
「陽菜、お昼ご飯も食べたことだし、少し眠ったほうがいいんじゃないか?」
「うん……、そうする……」
「ルゥ、こっち来い?」
 そう言うと「彼女」は俺の言葉に従って陽菜の部屋を出た。
「またな、陽菜。おやすみ」
 陽菜はベッドに横になり、リスのぬいぐるみを抱いて「おやすみなさい」と返事を返した。
 俺は葉月と共に部屋を出て、扉を閉めた。
「葉月、いつも陽菜の話し相手になってくれてありがとう」
「いいの、陽菜ちゃんはアタシの妹も同然だと思ってるから」
 そんな風に想ってくれていることには素直に感謝している。小学校の頃から3人一緒に育ってきて、陽菜のことで葉月に世話を掛けたことは一度や二度などではない。多大な、本当に多大な恩を感じている。有難い話だ。俺はいい幼馴染みを持った。
「けれど、本当に俺なんかの様子見なんてしなくていいからな。別に特別、何かあるってわけではないんだし。葉月だって入学したてで、友達作りで忙しいだろう?」
「まぁ、そうだけど……」
 彼女は何か考え込むような複雑な表情をする。しかし、ウチのことと、クラスのことで板挟みになってほしくなかった。そこまでの迷惑は掛けられない。特に入学直後は友達作りをする上で最も重要な時期だと言っても過言ではないだろう。
「今日だって、急に呼び出して悪かった。けれど来てくれて有難かったよ。葉月が暇な時にまた陽菜と遊んでやってくれ」
「うん、そうだね。また来るからね」
 彼女は笑顔でそう言った。今日教室で散々見てきた作り笑顔とはまるで違う、本物の笑顔だ。
 葉月の笑顔を見ると、安心する自分がいた。それが何故かは分からない。幼馴染みとして一緒に過ごしてきた時間の長さが、俺に安心感を抱かせるのかもしれない。ともかく俺は、葉月といるとリラックスすることができた。
「アンタはまた勉強?」
 無論だ。葉月も答えが分かって聞いてきているのが伝わってきた。
 そう、俺の夢は「医者になること」なのだ。
「そのつもりだよ。今日はありがとう。またな」
「またね」
 そして葉月は足元へ視線を移して言う。
「ルゥちゃんもまたねー」
 そんな別れの挨拶をして、葉月を見送った。
 そうして俺は、ルゥと自室へ入る。
「蒼助も見る目があるにゃあ。ネコ好きの乙女と交友を持つとは」
「ネコ好きだからじゃないよ。勘違いするな」
 俺は勉強机の椅子を引いて座りながら、カーペットの上にいるルゥに言葉を返した。
 ウチのネコは喋る。
 陽菜がウチに住むことになった時に一緒に連れてきたネコだが、俺が中学に上がった頃から喋るようになったのだった。
 最初はもちろん驚いた。しかし、真っ先に考えたことは「陽菜を驚かせてしまう」、だった。
 故に「喋るのは俺の前でだけにするように」と、その場でルゥと取り決めた。
 彼女は取り決めを守ってくれるし、俺ももう慣れてしまっていた。
 だから、何故人語を話すのかについて、深く考察していなかった。
 ……そうして、油断していたんだ。
 こんな異常現象を体験しておきながら、俺が神を信じず、嫌う理由は、もちろん陽菜のことだ。陽菜を病弱にするだなんて、それが神の采配であるというのなら、恨まずにいられるか? そういうことだ。
 俺はレオナさんのことを考えた。彼女が喋るネコのことを知ったら、一体どんな反応をするだろう? そんな想像をすると、楽しい気持ちになった。
 彼女にも夢があると言っていた。「美人獣医になって、可愛いネコちゃんたちを救うこと」だ。そんな彼女に俺は「一緒に頑張ろう」と声を掛けたのだ。不義理はできない。
「じゃ、俺は勉強するから、静かにしていてくれな」
 ルゥは俺の指示に従って、黙ってベッドに昇った。俺は机に向かう。
 すると――。
「にゃにゃ! にゃにゃにゃにゃっ?」
「おーい、うるさいぞ?」
 俺はベッドのほうへ振り向いた。
「にゃにゃー? こうにゃっちゃうかぁ」
 よ、よ、幼女? 小学校高学年くらいの幼女が、全裸でベッドの上にっ?
 一体何故っ?
 俺は反射的に立ち上がり、布団で幼女を覆った。
 なんだ? 何がどうなってる? そこにはルゥがいたはずだが……。
 ……いや、まさか、ルゥが“幼女になった”のか?
 布団を被せられた「ルゥ」は暴れて、隙間から顔を出した。
「息苦しいにゃ!」
「ああ、ごめん」
 謝っている場合か。
「お前は、ルゥなのか?」
「そうにゃあ」
 その言を信じるならば、本当にこの幼女はルゥらしい。
「この状況は一体なんなんだ? 何が起こった?」
「うーむ、人型ににゃってしまったようだにゃあ」
「なんで、どうして!」
 頭の中からは疑問しか湧いてこなかった。まるでクエスチョン・マークが頭骨に詰め込まれているような感覚だった。
「どうしてだろうにゃあ?」
 ルゥはニヤリと笑った。彼女の言葉に表情が付くと、こうなるのか……。
 顔が少し陽菜と似ているような気がした。
 元が白猫だったからか、髪色は白、それなりに長い。ボブヘアーと言うのだろうか? しかし、人を小馬鹿にしたようなニタニタ顔が鼻についた。
 ともかく全裸の幼女が今ここに……。まぁ、こんな葉月みたいな幼児体型には興味がないので、こちらとしては何も問題はないのだけれど、なにぶん傍目が悪い。
 何よりも一番の問題は、こんなものを見せたら、陽菜を驚かせてしまうということだ。
 もしかしたらショックで寝込んでしまう可能性もある。それだけはどうしても避けたい。
「ネコ型には戻れないのか?」
「こうにゃってしまった以上、無理だと思うにゃ」
「人間体で『にゃ言葉』を話されると気持ちが悪いな。けれど、無理なのか……」
 ならばどうする? この姿を陽菜に見せずに隠し通せたとしても、今度は「ルゥがいなくなってしまったこと」で悲しませることになる。それも避けたい、全て説明して驚かせることも避けたい。うーむ、あちらを立てればこちらが立たず……。
 その時、玄関のインターホンが鳴った。その音に俺の心臓は跳ね上がった。
 一体誰だ、こんな時に?
 居留守を使うか……?
 すると、俺のケータイが鳴った。またしても飛び上がって驚く。さっきから心臓に悪い。
 ケータイのほうは、どうやらメッセージのようだ。
 確認してみると葉月からだった。「鞄を忘れてしまったから取りに来た」とのことだ。
 ということは、つまりインターホンを鳴らしたのは葉月なのだろう。
 ダメだ、居留守は使えない。
 とにかく、人型ルゥは隠すしかないよな。
「ルゥはそこでじっとしていてくれ」
「はいにゃー」
 彼女は呑気に布団の中で仰向けになり、寛いだ。人の気も知らずに、このネコ娘め。
 ひとまず、俺は部屋を出て玄関へ向かい、葉月を招き入れた。
「やっほ、蒼助。ごめんね、バタバタしちゃって」
「か、構わないよ。鞄の忘れ物だったな?」
「うん、そうだけど――」
 そうだけど? なんだ?
「顔色悪いよ?」
 だろうね。
 俺の話でよかった。ホッと息を吐く。
「たぶん陽菜ちゃんの部屋だと思うんだよね」
「そ、そうか。なら、陽菜を起こさないように、そっと取っていってくれ」
「うん、分かった」
 そうして俺たちは陽菜の部屋の扉をそっと開ける。
 どうやら陽菜は眠っているようだった。その寝顔は人型のルゥを連想させた。それほどまでに2人は似ていた。そして俺はコトがバレた時を想像し、身震いした。
「あっ、見付けた」
 確かにベッドの横の床に、鞄が置き去りになっていた。
 葉月は足音を忍ばせて部屋へ入り、言った通りに陽菜を起こさず戻ってきた。
「これで葉月の用は済んだな?」
「うん、ありがと」
「なら、見送れないけれど、またな」
「でも、ちょっと――」
 葉月は何か言いた気な様子を見せる。
「うーん、その話は後で聞くよ。少し俺も、陽菜の部屋に用事があるんだ」
 何はともあれ、まずは人型ルゥに服を着せないとな。
 俺もそっと陽菜の部屋に入り、扉を閉めた。
 そうして陽菜のタンスを開ける。あの幼女にはサイズが合わないかもしれないけれど、仕方がないだろう。
 タンスの中から、陽菜が昔気に入って着ていて、サイズが合わなくなった猫耳フード付きのスウェットを見付けた。それを取り出して、タンスの引き出し閉める。
「……お兄ちゃん」
 ハッとして振り返る。
 猫耳スウェットは後ろ手で隠した。
「なんだ……。寝言か……」
 俺が胸を撫で下ろした時、再び声がした。
「お兄ちゃん……?」
 陽菜の目が薄く開いている。
 起こしてしまったようだ……。
 不味い、陽菜の服を持っていることを気付かれないようにしなくては。
「大丈夫だぞぉ、陽菜。そのままお眠り?」
「うーん……」
 唸るような声を上げ、陽菜は身体を起こした。
「お、おい、どうした? 寝ていていいんだぞ?」
「……お手洗いに」
「あ、ああ、そうか。熱は大丈夫か? フラつくようなら肩を貸すぞ?」
 肩など貸した時点で、陽菜の服を持っていることがバレてしまうわけだが、そんなことよりも陽菜の安全が最優先だ。
「ありがとう、平気だと思う……」
「よ、よかった。気を付けろよ?」
 俺は陽菜に背を向けないように後退し、後ろ手で扉を開いた。
 そのまま部屋を出て、壁を背にして立つことで、手に持つ服を隠した。
「アンタ、何その――」
「は、葉月! 後で説明するよ、だから今は――」
 黙っていてくれ!
 葉月には、部屋を出る際に猫耳スウェットを見られてしまったようだ。
 ぐぅ、陽菜が起きてこなければ葉月にも上手く隠し通せただろうに……。まぁ、その言い訳は後で考えるとしよう。
 リスのぬいぐるみを手に持ち、お手洗いに入った陽菜を見届けてから俺は自室に飛び込んだ。
「ルゥ、これを着ておけ」
「……はいはい、にゃー」
 眠そうな彼女。全く、呑気にしやがって。
 俺はすぐに自室を出る。
 そんな俺の行動を不思議そうに眺める葉月に、苦笑を返した。
 さて、どう言い訳したものか……?
 陽菜は「おやすみなさい」という言葉と共に自分の部屋に戻っていった。
 残りの処理すべき案件は、案件は……、山ほどあるが、今、この場だけであれば、葉月をどうするかだ。妹の服を自分の部屋に持っていくところを見られ、「後で説明する」とも言ってしまっている。
 どうしよう? どうすればいい? 俺の心臓は早鐘を打っていた。
 そうして俺は大きく息を吐き、自室の扉を開いた。
「葉月、話したいことがあるんだ。部屋に入ってくれないか?」
 いっそ、開き直ることにした。
 俺がルゥのことを隠したい理由の全ては「陽菜を驚かせて、心労を掛けてしまわないようにするため」だ。別に葉月を驚かすことになろうと構わないと判断したのだった。
 それと――。
 俺は葉月を招き入れ、彼女に事情を全て説明した。いつからかルゥが人語を話すようになったこと、そして今、人型になってしまったことをだ。
「ええっ! そんなことってあり得るのっ?」
 無論、彼女は驚愕した。けれど、それが落ち着いてくると、俺が悩んでいる点に関して寄り添ってくれた。
「そっか、それは困ったね……」
 ……それと俺は、こんな風に相談相手が欲しかったのかもしれない。独りで抱え込む秘密にしては、コトが大きすぎたのだ。
「八方塞がりでさ。助けてくれないか? どうしても陽菜を驚かせるわけにはいかないんだ。心労を掛けたくない」
「分かった。そういうことなら、ルゥちゃんはアタシが『ウチで飼ってみたい』って言って借りていったことにすればよくない?」
「うん? あっ、ああ、ネコ型ルゥのことね」
「ああ、そうそう、『ネコちゃんのルゥちゃんは』って話。ややこしいなぁ」
 確かにややこしい。けれど、葉月の案で、ネコ型ルゥがウチからいなくなった問題は解消される。
「いい案だと思う。本当にありがとう。葉月が相談に乗ってくれてよかったよ」
 彼女は照れてしまったのか、頬を染めた。
「でも、人型になっちゃったほうはどうにもできないよ?」
「コイツは俺がなんとかするよ。長い付き合いなんだ。話が分かるヤツでね。この部屋から出ないように言えば、そうしてくれると思う。どうだ、ルゥ?」
「ご飯と寝るトコさえあれば、ワタシはなんでもいいにゃ」
 話は決まったように思われたが、葉月は未だに顎に手を当てている。
 彼女はスウェットを着て猫耳フードを被っているルゥを見つめる。
「……女」
「はっ?」
「ルゥちゃんは、女の子なのよね? 2人きりで、1つの部屋……、共同生活……」
 何を心配しているのやら……。
 俺は幼児体型に興味などないし、それに――。
「なぁ、葉月、ここは俺の部屋だ。いいか? 俺の勉強部屋なんだ。分かるだろう?」
「そっか、『ガリ勉くん』だもんね、蒼助は。それなら大丈夫か」
 その「ガリ勉くん」というのは余計だ。
「そうだ。俺には夢がある。『医者になる』っていうな。できれば、とんでもなく学費が掛かる私立じゃなく、公立大学の医学部に入りたい。そのためには死ぬほど勉強しなくちゃいけない。陽菜の世話もあるし、ルゥと遊んでいる余裕なんてないんだよ」
 葉月はその夢の意味を知っているから、微笑んだ。
「安心した。ひとまずはなんとかなりそうだね」
「葉月のおかげだよ。本当にありがとう」
「いいの。陽菜ちゃんのこともそうだけど、アタシは助けになれて嬉しいの。だから、いいの」
 そう言って笑った。葉月の笑顔は、やはり俺を落ち着かせてくれる。パニック寸前だったさっきまでが、まるで嘘だったかのようにリラックスできた。
「そう言ってくれると助かるよ」
 そこで俺は思い出した。
「さっき、何か言おうとしていたよな? 鞄を持って陽菜の部屋から出てきた時にさ。あれはなんだったんだ?」
 葉月は膝を打った。
「ああっ! そうそう、蒼助に勉強を教えてもらおうと思ってさ」
「入学式の日から予習か? 葉月も相当ガリ勉だな」
「アタシは違うもん。今日はたまたま蒼助の家に来たから、そのついでだもん」
 そう言って、この3月に金色に染めたショートヘアを弄る。
 こんな風に葉月は、中学時代もよく俺から勉強を教わっていた。それで勉学に興味を持ったのか、自分でも勉強を進めて成績をぐんぐんと伸ばし、結果、俺と同じ陽映高校へ入学したのだった。大したものだと思う。陽映に入ることはそんなに容易なことではないのだ。
「いいよ。春休みを挟んだから、久し振りだな。怠けてなかったか?」
「怠けてたに決まってるでしょ? 春休みは休むためにあるんだから。受験が終わっても勉強し続けてるのなんか蒼助だけだよ」
 俺は「そうかもね」と言って笑った。
「よし、じゃあ、数学の予習から始めようか」
「うん、お願いね」
 こうしてその日は、晩ご飯の時間まで葉月と勉強したのだった。

  *

 陽菜は葉月がルゥを借りていったという説明に納得してくれた。
「少しだけ寂しくなるけど、ルゥちゃん可愛いもんね。飼いたくなる気持ちも分かるなぁ。私だって、ルゥがお兄ちゃんにばっかり懐いてたことに少し嫉妬してたしね」
 そうだったのか。気付かなくてごめんな、陽菜。
「ご飯をあげているかどうかの違いだよ。陽菜も元気になって、ルゥにご飯をあげるようになればもっと懐いてもらえるよ」
「そうかもね。でも、そっか……。ルゥちゃんとは、しばらく会えないんだね……」
 やはり陽菜が寂しがる姿というのは、見たくないものだな……。

 人型ルゥとの共同生活は慣れればどうということはなかった。
 父の帰宅はいつも遅いので晩ご飯は俺が作るのだが、1人前多く作ってこっそり部屋に入れてしまうだけでいい。普段から俺は勉強のため、また陽菜は発熱のため、それぞれ自分の部屋で食べることが多かったということもある。
 ただ、ルゥは人間の料理の味に痛く感動した様子だった。
 また、猫耳スウェットを気に入ったらしい。確かに猫耳フードを被っている姿は、とてもよく似合っているし、可愛らしかった。
 フードを被って白髪が隠れていると、この服を着ていた当時の、一昨年くらいの陽菜を思い出させた。
 それほどにまでルゥと陽菜は顔付きがよく似ているのだ。
「こんにゃに美味しい物をいつも食べてたにゃん? どうして教えてくれなかったにゃあ!」
「ネコ型の時代はネギとかチョコとかを食べさせちゃダメだったけれど、人型になって消化器官が変わって、味覚も変わってるんだよ、きっと」
 俺はいつも通り自室の勉強机に向かっていたけれど、少しペンを置いて受け答えしていた。
「うーん、確かに今まで食べてたカリカリの匂いを嗅いでも、全然食指が動かにゃいにゃあ」
「少し違う話だけれど『虫の目・鳥の目・魚の目・コウモリの目』ってヤツさ。その立場になってみないと分からないんだよ」
「この身体ににゃった甲斐があったにゃあ」
 彼女は本当に美味しそうに夕食を食べていた。こんな風に食べてくれるのなら、俺も作った甲斐があるというものだ。
 それにしても、数日経っても変化なし、か。
 寝て起きたら元通り、そんな都合のいい話はなかったな……。
「……なぁ、どうしてそうなったのか、心当たりはないか?」
「にゃいにゃあ」
 ベッドに腰掛けてカレーライスを食べている彼女は白髪を揺らし、ニタニタと笑って答えた。ニタニタ顔はいつものことなのに、どうにも「にゃいにゃあ」という発言を胡散臭いと思ってしまった。
「それにしても、その『にゃ言葉』はなんとかならないのか?」
「ネコ時代からの口癖だからにゃあ、染み付いちゃってるのにゃあ。最初はお遊びのつもりだったんにゃけど」
 お遊びだったのかよ。
 しかし、人語を喋るネコ程度であれば、インコみたいなものだと自己暗示を掛けて無理やり納得していたのだが、人型となると一気に話は変わる。
 全く「質量保存」あるいは「エネルギー保存の法則」はどうなっているんだ? ちゃんと働け。
 この、葉月より少し小さいくらい――140センチくらいだろうか?――の身体は何で構成されているのだろう? まぁ、ネコから変身したのだから、炭素生物として相応のものなのだろうけれど。
 うーん、「パスツールの実験」によれば「生物は何もないところから自然発生することはない」。その解釈を応用すれば「生物は何もないところで質量を増やすことはない」と述べてもいいだろう。
 このネコ型ルゥから人型ルゥへの変身という現象は、人類が積み上げてきた自然法則から著しく逸脱している。そう、SFの世界だ。いや、サイエンス・フィクションというよりもずっとファンタジー寄りだけれど。
「ところでにゃんにゃけど、『ルゥ』って名前も、もう期限切れな気がするにゃあ」
「ああ、ネコと『根っこ』を掛けて、英語の『ルーツ』から『ルゥ』にしたんだっけ」
「ずっと思ってたんにゃけど、女の子にその名前は可愛くにゃいにゃあ」
 俺は笑った。そんなことを気にしていたのか。
 身なりは幼女で、元はネコでも、そんな乙女心があるんだな。
「まぁ、アレだ。ネコ時代からのものだからなぁ、染み付いてしまっているんだよ。最初は他愛ないダジャレだったんだけれど」
「にゃー! 意趣返しされたにゃー!」
 そう言ってルゥはベッドに「ぼふんっ」と横たわった。夕食を食べ終えたらしい。
 陽菜も言っていたが、ネコ時代から俺に懐いて、俺の言うことをよく聞いてくれるので、可愛がっていた。それは今も変わらない。
 お箸を使う練習にもちゃんと取り組んでくれるし、人間用のトイレやお風呂の入り方も覚えたし、服も――下着を買う時は気恥ずかしかったが――揃えてやったし、頭を撫でてやると気持ちよさそうにする。ちなみに尻尾は生えていない。
 初めは俺が床で寝ていたが、ネコ時代の癖なのだろう、ルゥはベッドから降りて、俺の布団の中に入って暖を取った。故に結局、今では2人一緒にベッドで眠っている。可愛いヤツだ。
 大丈夫、陽菜にはバレずにやっていけるだろう。
 残る問題は「どうすれば元に戻るのか?」だ。
 これに関しては全く見当もつかないが……、なんとかするしかない。

 そんな風にして、入学式後の暮らしは進んでいった。
 そうして今日から、本格的に授業が始まる。
 俺は洗面所の鏡に映った自分の姿を見つめる。そして、父親譲りの直毛の黒髪を弄った。
「お兄ちゃん、ちょっと半分借りるよー」
 眼鏡姿の陽菜がやってきた。中学の制服を着て、ウェーブする癖のある茶髪を櫛でとかす。
「体調は大丈夫か、陽菜?」
 茶色い髪は陽菜の地毛だ。
「うん、今日は大丈夫そう」
 俺の母は、俺を生んだ時に亡くなった――。
「もし気分が悪くなったら、すぐ保健室に行くんだぞ?」
 母の死後すぐに、父が“外で”こさえてきたのが陽菜だった。
「いつもみたいに連絡くれたら迎えに行くからな」
 陽菜の母親は水商売の女性で、本当に父親が俺と同じなのかも分からない。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 それでも、たとえ血の繋がりがなくとも、陽菜は俺の妹だ、家族だ。
 俺は、“家族”の、陽菜のために医者になるんだ。
 身だしなみを整え、いざ、学び舎へ――。

  *

「――そんなにネコが好きならさ、ネコを飼おうとは思わないの?」
 レオナさんは本当に悲しげな、儚い表情で答える。
「ウチの親が動物嫌いでね……。ペット禁止なのよ……」
 たったそれだけのことを述べたに過ぎないにもかかわらず、その姿がまた、宗教画にでも描かれそうなほど美しかった。
「それは残念。ウチはネコ飼ってるから、指南できたんだけれどな」
「ええっ! 蒼助くんのウチにはネコちゃんがいるのっ?」
 彼女は瞳を輝かせた。そんな子供みたいな純粋な目で見つめられると照れてしまう。
 最近人型になちゃったんだけれどね、とは言えず、俺は曖昧に肯定した。
 入学式以降の短縮授業の間に、公治ともレオナさんとも随分と仲良くなった。
 だからこうして、お昼休みにお弁当を広げながら談笑しているというわけだ。
「公治は――」
 何か動物飼ってるの? と聞こうとした時。
「ねぇ、蒼助くん! 写真はっ? 動画はっ?」
 食い付きが凄い……。どうした? 興奮しすぎでは? マタタビでも嗅いだか、レオにゃんさん?
「あるけれど、見る?」
「見る!」
 ノータイムで彼女は答えた。かなり重症らしい……。
 そうして俺はケータイを弄る。そんな俺にレオにゃんさんは肩を寄せてきて……、近い、近いんだよなぁ。はぁ、いい香りがする。頭がクラクラする。不健全だ、全く不健全だよぉ……。
「ほら、これだよ」
「きゃあ! 可愛い白猫ちゃん! 名前はっ?」
 キミのほうが可愛いよ。
「ルゥって言うんだ」
「へぇ! ルゥちゃん、可愛い!」
 レオナさんはさらに接近してくる。これは役得。ルゥ、面倒だと思ったこともあったけれど、ありがとう。本当に、ありがとう。
 俺は幸せに包まれながら、更なる幸せとして目の保養をしようと思った。つまりはレオにゃんさんの顔を覗き見ようとしたのだ。
 そのために、横を見た瞬間だった。
 ……背筋が凍った。
 目の端で捕らえてしまったのだ。教室の出入り口から、こちらの様子を伺う、背丈の低い少女の姿を――。
 一つ教訓を得た。「幸せを欲張ってはいけない」。
「……レ、レオナさん、もう終わりにしよう」
「もうちょっと、ねぇ、もうちょっとだけ、見せてっ!」
 そう言って彼女はさらに肩を寄せてきて、もはや俺の身体は45度に傾いていた。
 俺はチラリと出入り口のほうを見る――。
 ハッ! アレッ? 居ないなぁ、出入り口のところに居ないなぁ?
「へぇー、毛が長い子なのねー! ブラッシングしてあげたーい!」
 おや? 公治、どこを見ている? キミはさっきまでレオにゃんさんの笑顔に釘付けだったはずだろう? にもかかわらず、今やその視線は俺、を通り越して――。
 ハッ! 背後!
 怖くて振り返れないが、いるのか? いるのか、公治? 俺の背後に……?
「……レ、レオナさん、ケータイ貸すから、ちょっと離れようか」
「貸してくれるのっ? ありがとう!」
 そう言って、大変名残り惜しいが、レオナさんは俺から離れていった。その余韻に浸る余裕もないのが惜しいところだ。
「こ、公治は何か、動物は飼っていないのか?」
 先刻、聞きそびれてしまった問いを投げ掛けた。
 しかし彼は黙ったまま、未だに俺の背後を見ている。
 信じ難いが……、いや、信じないようにしよう……。そうすれば、その間だけは、心は平穏だから……。
「いや、それよりもお前――」
「公治! 公治ぃー……、俺の質問に答えてくれぇー……。会話というのは、キャッチボールだ、公治ぃー……。教えてくれ、キミが動物を飼っているのか、いないのかを……」
「いや、今は飼ってないけれど……。お前、でも――」
「『でも』なんだっ? 公治ぃー……、昔は飼っていたりしていた、という話か?」
「確かに昔は犬を飼ってたなぁ……」
「そうか……」
 公治は指を差して言う。
「お前、そろそろ、後ろ振り向いたら?」
 俺は大きく息を吐いた。年貢の納め時か……。いや、まだだ……。まだ信じない、信じない。
「……なぁ、公治、その犬の名前はなんだったんだ?」
 肩を叩かれた。それは一度で、まるで丸めた布団で叩かれたかのように重かった。けれど、丸めた布団、そんな睡眠導入要素のあるものでは決してない。
 俺は信じない、背後に“彼女”がいるなんて――。
 公治は何故か狼狽えた様子で返答する。
「あ、ああ、名前はケルだ」
 その時、再び肩を叩かれた。それは二度で、一回一回がまるで着ぐるみを着たゆるキャラの手で叩かれているかのように重たかった。けれど、ゆるキャラ、そんな癒されるものでは決してない。
 俺は信じない。俺は信じない。
「ケルか、いい名前だね」
 肩を掴まれた。それはまるでトカゲの手に掴まれたかのようで、有り体に言えば、爪が立っていた。
 ああああ!
 俺は公治と会話のキャッチボールを続ける。続けるのだ。
「名前からしてオスかな?」
「ちょっと蒼助!」
 肩をグイと引っ張られ、俺の半身が後ろを向く――。
 その鬼の形相を確認し……、俺は元の姿勢に戻った。
「犬種は? 小型犬? それとも大型?」
「蒼助! 無視しないで!」
「ハハッ」と俺は乾いた笑いを漏らした。
 俺は怯えた様子の公治の顔を見ながら述べる。
「無視なんかしてないさ。ああ、無視なんかしてはいないとも。ただ、俺の心身の不調でそちらに顔を向けないだけでね」
「あっそ」
 簡単にそう言って、彼女はツカツカと歩き、俺の目の前に顔を寄せた。
「これで見えるよね?」
「ああ、よく見えるとも。この顔は、うーんと、そうだなぁ、ああ、そうだ。葉月という女の子の顔だ。そう、笑顔が似合う、葉月という娘のね?」
 彼女は口角を不気味に上げ、笑顔を作った。
 いやぁ、怖い笑顔がよく似合うなぁ……。
「やぁ、葉月。こんにちは。紹介するよ、彼は俺の友達、公治だ」
 公治は軽く震えながら、「ど、どうも」と言って深く頭を下げた。
「アタシは葉月。よろしくね、公治くん。それと蒼助? もう1人のお友達も、紹介してくれる、よ・ね?」
「ああ、もちろん良いとも。いや、しかし、彼女は多忙な人だからなぁ。うーん、今はやめにしておこう。また今度、紹介するよ」
「い・ま、紹介して?」
 仕方ない、観念するか……。
 俺のケータイに夢中な、レオにゃんさんに声を掛けた。
「レオナさん、少し時間いい?」
「え? どうかしたかしら?」
 彼女はこちらへ顔を向け、俺は葉月に向かって述べる。
「こちら、俺の隣の席のレオナさんです……。すいません」
 葉月からの圧力に屈し、つい敬語で、しかも謝罪の言葉を口にしてしまった。
「どうも、レオナさん? アタシは保育園の頃から蒼助と幼馴染みの葉月です。家も隣で、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいております」
 なんだ、そのアピールは? 何目的なの?
「へぇ、そうなんですね? なら、ルゥちゃんとも会ったことがあるんですか?」
 もう、レオナさんはネコのことばっかり!
「はい、もちろん」
 葉月は即答した。
「触り心地はどうです?」
 まだネコの話を続けるんだなぁ。レオにゃんさんは、本当にレオにゃんさんだなぁ。
「サラサラしてますよー」
「そうなのね、私も触りたいわ!」
 レオにゃんさんからの羨望の眼差しが純粋すぎて眩しい。
「ダメです」
「おい、なんで葉月が拒否するんだ」
 葉月は俺の手を掴んで引っ張った。その握力はそれほど強くはなかったが、まるで手錠を掛けられたかのような、抗いようのない法的な力を感じた。
「ちょっと来て」
 俺は従った。従うより他なかった。

 廊下にて、葉月は声を荒げる。
「どういうこと? ミステリアス美人のレオナさんじゃん!」
 彼女はショートヘアの金髪を振り乱した。
「けれど、全然ミステリアスじゃなかったろう?」
「それはそうだね。あんな人だとは思ってなかったなぁ。……って、そういう話じゃないの!」
 おっと、ノリツッコミとは、葉月も腕を上げたな。
「なら、一体どんな話なんだ」
 まぁ、大体の想像つくけれど。
「そりゃ、もちろん、陽菜ちゃんから頼まれた、蒼助の監視よ!」
 葉月は胸を張って答えた。やっぱりか。陽菜の言うことは聞かなくてもいいと言ったのになぁ。
「監視ねぇ……」
 俺は思案し、話題を替えることにした。
「それにしても、葉月、あの態度はどうかと思うぞ?」
「あの態度って?」
 葉月は腕を組み、不満げに問うた。いつものように顔を仰け反らせ、瞳を下瞼に近付ける小憎たらしい顔だ。
 ここはあまり刺激しないよう、言葉に気を付けて話そう。
「無論、レオナさんに対する刺々しい態度さ。葉月はもっとこう、みんなから愛されるキャラクターだったはずなんだがなぁ? 俺もそんな誰にでも優しい葉月が好きだし」
「す、好きっ? 好きっ? へ、へぇ……、ふーん? そうなんだ?」
 彼女は頬を染めた。褒められて照れているのだろう。こういう褒め言葉に素直な反応を見せるところが彼女の美点だ。
 中学時代からクラスの人気者だったが、驕らずに、彼女はいつも自然体なのだ。ただ家が隣というだけで根暗な性格の俺とも、ずっと友人関係を続けてくれている。そこには本当に感謝しかない。陽映に入った同じ中学出身者は葉月だけだが、彼女でよかったと本気で思っている。
 だからこそ――。
「俺の友達に、幼馴染みがそんな態度を取っている姿は見たくないんだ。分かってくれるか?」
 彼女は眉間にしわを寄せた。「一体何に引っ掛かっているのか?」は敢えて想像しないようにするが、彼女なら俺の言いたいことを理解してくれるはずだ。それくらい、俺は彼女を信頼していた。何しろ、10年以上の付き合いなのだから。
「うーん、分かる、分かったけど、でも、うーん……。あんなに接近して、イチャイチャして、やっぱりダメ! 不健全!」
 やはりそこに引っ掛かっていたのか……。あの無言の鬼の形相で、なんとなく予想していたけれど。
 しかし、あれは誤解だ。言い訳――ではなく、弁解しなければ。
「あれは……、イチャイチャしていたわけじゃないよ。レオナさんはネコ狂いなんだ。それで周りが見えなくなっていただけさ。俺も初めてのことで戸惑っているんだ」
 戸惑っていたのは本当だ。内心で喜んでいたのも本当だが……。
「でも、鼻の下を伸ばしてた!」
 はい、その通りです。すいません。
「……反省しています。ごめんなさい」
「今後、レオナさんとは5メートル以上近付かないこと!」
 横暴だ。一体何を言っているんだ?
「無理に決まっているだろ、席が隣なんだぞ?」
「じゃあ、50センチ」
 変わらないだろ。それに、50センチだろうと、レオナさんと引き離されるのはご免だった。せっかくあんな美人さんとお近づきになれたというのに、もったいない。というか、なんの権利があって葉月は俺の学園での楽しみを奪おうというのか?
 横暴だ。よそ見などせず集中すべき授業と授業の合間の休み時間、その限られた俺のリフレッシュ・タイムを、頼むから奪わないでくれ。
「なぁ、そんな決まりを作ったって意味ないよ。アレだろう? 色恋沙汰にならなかったらいいんだろう?」
 要はそういう話だろう?
「まぁ、そうだけど……」
 葉月は訝しげな視線をこちらに送る。何も怪しむ必要などないというのに……。
「だったら、安心してくれ。俺は恋愛にかまけている暇なんてないし、レオナさんだって、俺なんか対象外さ。あんな美人さん、既にカレシがいたって不思議じゃないしな」
 我らが1組の男子たちは何度かレオナさんに遊びの誘いを掛けていた。それを彼女は全て断ったのだ。そんな様子を「きっとカレシさんがいるんだろうなぁ」と思って俺は眺めていたのだった。
 レオナさんにカレシさんが1人や2人いようとも、彼女が俺の隣の席で、俺に癒しをくれるという事実は変わらない。問題にならない。俺なんかが彼女のカレシになれるだなんて思い上がりは、最初から持ち合わせていないのだから。
「それがね、レオナさんにカレシはいないらしいの。中学から一緒だったって子がね、『男っ気なんて全然ないよ』って言ってたからね」
 マジか。なら、今レオナさんと一番仲が良い男子は俺ってこと? マジか。ワンチャンあるか? いや、ないか……。いや、ワンチャンくらいなら……。
 いいや。俺は被りを振る。そんなことにかまけている暇なんか、俺にはない。
 それにしても――。
「流石の交友関係の広さと、情報の速さだな、葉月」
 しかしてレオナさんは、ミステリアスを自己演出しているような、いわば“変人”だしな……。男っ気がなかったという話にも合点がいった。
 恋愛に興味がないのだろうか? いや、彼女には“夢”がある、大事な夢が……。
 俺と同じなのかな? 夢のために他は切り捨てる。「寂しい人」と“普通の人”は言うかもしれない。
 けれど、もしそうなら俺は彼女を応援したい。「一緒に頑張ろう」と告げた言葉に偽りはないのだから。
 これじゃ、俺もまた“変人”だな……。
 しかしながら、ワンチャンすらなくなって少し寂しいような気もする。まぁ、元々恋仲になるつもりはなかったけれど。
 とはいえ、今日から通常授業が始まったばかりなのに、他クラスの情報も把握している葉月も大概“変人”だ。流石は小動物系愛されキャラ。その本領発揮といったところか。
「とにかく教室に戻ろう。もうすぐお昼休みも終わるの時間だ。葉月、このままだと、印象悪いぞ? 行こう。ちゃんと俺からも紹介するから」
 これは葉月のため、というより俺のためだ。先刻言った、刺々しい態度を取る彼女を見たくない、というのは本心からの言葉なのだ。
「そう……? 蒼助の『色恋沙汰にはならない』っての、言質取ったからね」
「はいはい、録音でもなんでもしてくれていいよ。早く行くぞ」

 そうして俺たちは教室へ戻った。
「公治、レオナさん、さっきも紹介したけれど、改めて。俺の幼馴染みの葉月だ。本当は人懐っこい性格で、2人とも仲良くなれると思う。よろしくしてやってくれ」
 俺が紹介すると、葉月は一礼した。こういう素直なところは本当に彼女の良いところだ。
「2組の葉月です。蒼助のことをよろしく頼みます」
「お前は俺の保護者か」
 そう言うと、レオナさんが微笑ましそうに目を細めた。品があって、とつもなくフォトジェニックだった。内面は変人なのに。そう思うと笑えた。彼女に対する遠慮が消えていくのが自分でも分かった。
「2人は本当に仲良しなのね?」
 そう言うレオナさんに葉月は再び丁寧に頭を下げた。俺が言ったことをちゃんと聞き届けてくれたようだ。そのことが純粋に嬉しかった。
「レオナさん、さっきは変な態度を取ってごめんなさい」
 レオナさんは「変な態度?」と首を傾げた。
 おやおや、どうやら全く気にしていないらしい。カッコいいな。懐が深いと言えばいいのか、ただの鈍感、いや、天然さんと言えばいいのか。いずれにせよ、彼女の株は俺の中で急上昇した。
「私のほうこそ、醜態を晒してしまって恥ずかしいわ。ネコちゃんのこととなると、つい、ね?」
 醜態だなんて、俺はレオにゃんモードの彼女も至極可愛いと思ったけれどな。子供みたいにはしゃいで。卑下する必要なんかないのに。
 俺の想いに葉月が同調してくれた。
「そんなそんな、可愛らしかったよ?」
 葉月は言葉を続ける。
「あの、『レオナちゃん』って呼んでもいい?」
 まだ少し固さは残っているが、徐々に葉月は元の調子を取り戻しつつあるようだった。
「ええ、そうね。さっきの姿を見られてしまったんだもの。仲良くしましょう?」
 いいなぁ。俺も「レオナちゃん」って呼びたいなぁ。
「ありがとう!」
「私からも『葉月ちゃん』と呼んでもいい?」
「うん! そうしてくれると嬉しい!」
 美しき哉、2人の友情に幸あれ。
「さっきも思ったけれど、葉月ちゃんって小動物みたいで可愛いわね」
 レオナさんは何の気なしに言った。
「……小動物?」
 葉月は眉をひそめた。
 哀しき哉、2人の友情にひび割れ。
 ここは俺の出番かな。
「ああ、レオナさん、葉月は背丈のことがコンプレックスなんだ。そこのところには触れないでやってくれ」
「そうなのね、失礼したわ。ごめんなさい」
 そう言って、レオナさんは座りながらだが頭を下げた。
 葉月は手をひらひら振ってレオナさんの謝罪に応じた。
「いいの。慣れてるしね。誰かさんのせいで」
 葉月は俺を睨み付けた。
 はい、すいません。
 公治も声を上げた。
「葉月ちゃんかぁ。さっきは驚いたけど、よろしくな」
「うん! よろしく!」
 葉月は満面の笑みで応じた。「よろしく」、その言葉にぎこちなさが全くない。こんなところが彼女の魅力で、ファンを増やす秘訣なのだろう。
 その時、お昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
「じゃ、アタシは自分の教室に帰るね。またね」
 そんな挨拶をして葉月は帰っていった。
 するとすぐに公治が言う。
「なぁ、蒼助。葉月ちゃん、可愛いな!」
 公治は色めき立っていた。早速ファンになったのか?
「もしかしてお前のカノジョ?」
 公治は本当にその手の話が好きだなぁ。
 葉月がカノジョか……。昔はちょっとした“やり取り”もあったけれどなぁ。今となっては、俺は幼女体型に興味はないのだ。ここは明確に否定せねばなるまい。
「違うよ、ただの幼馴染み。葉月にも失礼だから、その勘違いはやめてやってくれ」
「じゃ、オレにもチャンスあるかな?」
 幼馴染みの俺にとって、葉月の顔は見慣れてしまっていて、可愛いのかどうかも分からなくなっていたが、公治の目には好意的に映ったらしい。
「公治は気が多いなぁ。まぁ、頑張ってくれ」
「そのためには蒼助の協力が必要だ。頼むぜ?」
 俺にどうしろと言うんだ? 俺は曖昧に「善処するよ」と伝えた。
 一悶着あったが、授業が始まる前にちゃんと切り替えておこう。
 授業には集中しなければ――。

  *

 今日一日、陽菜から連絡がなかったということは、無事に体調が崩れずに持ちこたえてくれたということだ。そのことがとても嬉しかった。
「ただいま」
 家に帰ってそう言うと返事が聞こえてきた。
「おかえり」
 陽菜はリビングで寛いでいた。体調はよさそうだ。
 俺は陽菜の状態を確認して安心し、それから自室にこもって勉強に勤む。
「今日の晩ご飯は何かにゃあ?」
 すっかり人間の食事の虜となったルゥが尋ねる。
「今日はグラタンだよ。ネコ舌のルゥには食べられないかもな」
「にゃにを言う。人の身体ににゃったんにゃから、そんなの大丈夫にゃあ」
「それもそうだな」
 ルゥがベッドから降りて近寄ってくる。どうしたんだろう?
「頭を撫でてほしいにゃ」
 猫耳フードを脱いで彼女はそう言った。ネコ時代から聞き慣れた言葉ではあったのだが、幼い女の子姿のルゥが言うと、より一層可愛げがあった。
「そういえば、人型になってから、撫でてやる機会も減ったっけ。仕方ないなぁ」
 俺はルゥの頭を撫でた。髪がサラサラしていて撫で心地がとてもよかった。
「気持ちいいにゃー……」
 彼女は目を細めた。すると、いつものニタニタ顔が鳴りを潜めた。
 顔が陽菜と似ているせいか、なんだか不思議な気分だ。
 陽菜も小学生の頃は頭を撫でて欲しがったっけ。いや、それは今もたまに言うか。そんな記憶がオーバーラップして、ルゥへの愛しさが増した。
 この時を契機に、未だにネコとして見ていたルゥを、1人の人間として認識するようになったのだった。
「こんな部屋に閉じ込めて、悪いとは思っているよ」
「蒼助がいれば、それでいいにゃ」
 健気なことを言ってくれる。愛しさもひとしおというものだ。
 しかし「俺さえいれば――」か。逆に言えば、俺がいなければいけないということだ。気を引き締めて、ちゃんと相手してやらないとな。
 1人の人間に対して、ぞんざいな扱いなど決して許されないのだ。
「寒さが落ち着いたら、外を散歩しような。それまでは部屋の中でちゃんと可愛がってやるからな。して欲しいことがあったら、なんでも言ってくれよ?」
「じゃ、背中も撫でてほしいにゃ」
「いいよ」
 彼女はベッドの上で背中を上にしてうずくまった。ネコ型だった時と同様のポーズだが、人型だと一段と愛らしかった。顔を横に向け、笑顔を見せてくれる。
 俺は服の上から彼女の背中を撫でる。
「久し振りにゃー……」
 彼女はお尻をフリフリと動かした。ネコ時代もこんな感じだったっけな。俺が好きだった可愛らしい仕草の1つだ。
「蒼助、好きにゃ」
「きゅ、急にどうした?」
「ゴロゴロ鳴けなくなった変わりにゃ」
 俺がロリコンだったら、大変なことになっていたぞ?
「ありがとう、ルゥ」
 幼い姿とはいえ、ルゥは女の子だ。少しだけ照れてしまった自分が恥ずかしかった。
 しばらく、ルゥの背中や、頭を撫でた。それは俺にとっても癒される行為だった。
「次はお腹にゃ」
 ゴロンと転がって、彼女は仰向けになった。
 ネコ時代と同様に腕と脚を曲げて上げている。癖になっているのだろうが、疲れないのだろうか? しかしてネコの姿であっても、幼い女の子の姿であっても可愛らしい恰好だった。
「ワガママなのは相変わらずだな」
 そうして俺はお腹を撫でた。
 ルゥは気持ちよさそうに目を瞑った。
 全く、可愛いヤツだ。
 公治は昔、犬を飼っていたと言っていた。しかし、今は飼ってはいないと……。
 俺は、亡くしてしまったのだろうと想像した。
 動物の寿命は短い。
「ルゥ、長生きしろよ?」
 返事はなかった。眠ってしまったのだろう。俺は彼女に毛布を掛けてあげた。
 その時だった。
 部屋がノックされたのだ。
「お兄ちゃん、今いい?」
 緊張が走る。
 なんでもない風を装って答える。
「いいけれど、少し待ってくれ」
 俺は扉からベッドで眠るルゥの顔が見えないように勉強机の椅子を最大まで引いた。
 薄く扉を開けて陽菜に応じる。
「どうした、陽菜?」
「勉強を教えてほしいと思って。お兄ちゃんの部屋に入ってもいい?」
 部屋にだって? ダメに決まっている。
「いやぁ、部屋はちょっと……」
 陽菜の目がジトっとしたものとなる。
「何か隠してる?」
 ああ、隠しているとも。
 返答はどうする? 隠していないといえば、「なら、入れてよ」と言われるだろう。
 俺はおそらくとびっきり渋い顔をして答えた。
「か、隠している……」
「何を?」
 ノータイムで聞いてきた。こちらに思考させない算段か?
「ええと、陽菜には見せられないものだ」
「何?」
 相変わらずジトっとした目付き。
 なぁ、それやめてくれないか? 怖いんだけれど……。
「それは……、そう、エッチな物だ! とてもエッチな物を隠しているから、陽菜を部屋に入れるわけにはいかないんだ」
 ああああ!
 しかして、陽菜は引き下がってくれた……。
「まぁ、お兄ちゃんも年頃だしね……。じゃ、私の部屋に来て」
「はい……」
 陽菜の視線は、さっきまでとは打って変わり、憐れむような、あるいは軽蔑するような冷たいものとなっていた。
 ああ……、今まで積み上げてきた「兄としての威厳」が一瞬で崩れ去ってしまった。
 早くルゥの一件を解決しよう。俺はそう心に固く誓った。

 しばらく陽菜の部屋で勉強して、少し休憩することになった。
「ねぇ、お兄ちゃん。昔した『おまじない』の話、覚えてる?」
 陽菜はこちらの目を見据え、真面目な顔をして問うた。
「ああ、『願い事を叶えてくれるおまじない』だっけ? 確か、やるにはたくさんステップと、たくさんの時間が必要なんだよな。全部は覚えていないけれど」
 陽菜は視線を逸らした。顔色が窺えない。
「私は全部覚えてるよ」
「へぇ、なら、その『おまじない』の手順を教えてくれよ」
「ダメだよ」
 その声色には真剣味が宿っていた。
「どうしてだ?」
 陽菜は固い表情で言った。
「……本当に効果があるから」
 俺は生唾を飲み込んだ。
「陽菜は、試してみたことがあるのか……?」
「うーん……、秘密」
「ええ、ナイショか?」
「そう。お兄ちゃんがやり方を忘れてるならそれでいいの。じゃ、勉強再開しよっ」
 俺が忘れていることの確認がしたかったのか? なんだか腑に落ちないが、これ以上、聞いてもなしのつぶてだろう。諦めるしかないか。
 だが、頭の隅には置いておくとしよう――。

  *

 それから1ヶ月が経った。
 学校では葉月がお昼時に、よく1組に来るようになっていた。
 そこでのことだ。
「長期休暇に入るし、ちょっと試してみようかな?」
「何を試すんだ、チビ?」
 彼女はぶすっとした顔を向ける。
 何か言い返してくるかと思ったが、彼女は何故か微笑んだ。それが逆に不気味だった。
「蒼助には秘密」

 そうして、ゴールデンウィークに入った。
 学園生活にも慣れてきた。ついでに家庭では俺はルゥの全身を毎日撫でるようにしていたし、夜には2人で散歩に出掛けるようになっていた。
 とはいえ、未だにルゥを元に戻す手立ては思い浮かばない。
 陽菜の病弱体質も相変わらずで、ゴールデンウィーク中も発熱を繰り返した。
 だが、学校がお休みであればずっとそばにいられる。言い方はおかしいが、陽菜も安心して体調を崩した。俺は肺炎などに悪化させないよう、細心の注意を払いながら看病した。
 陽菜の体調が落ち着いている時は、中間試験が迫っていることもあり、勉強に励んだ。
 葉月が「勉強を教えてくれ」と言ってウチに来るかと思ったが、一度も来ることはなかった。
 入学式の日に「予習がしたい」と言ってきた時は感心したものだが、学園生活を送る内に怠け癖でも付いたのだろうか? 春休み同様、「ゴールデンウィークは休むためにあるものだ」とでも思っていそうだ。

 そうしてゴールデンウィークが明けた。
 その日のお昼休みのこと。
「なぁ、蒼助、今日は葉月ちゃん、来ないのか?」
 公治に尋ねられても「分からない」としか言えない。
 しかし、葉月はかなりの頻度でお昼休みにウチのクラスに顔を出していた。そして、公治やレオナさん、あるいは1組のメンツとさえ、持ち前の人懐っこさで仲を深めていた。
「あーぁあ、来てくれねぇと寂しいなぁ……」
 公治のそんな言葉が耳に残った。
 ……確かに、ゴールデンウィーク中、葉月が家に来てくれなくて、俺は少し寂しかったかもしれない。
「公治は葉月が好きなのか?」
「ああ、好きだぜ?」
 発言が軽いな。そう思いながらも、複雑な心境の自分がいた。「その軽さでは葉月は渡せない」だなんて、俺は葉月のお父さんか?
「『可愛ければ誰でもいい』という本心が透けて見えるんだが?」
「あっ、バレた?」
 彼は笑った。
「しかしなぁ、蒼助、お前はもったいないことをしてると思うぜ?」
 公治は発言に含みを持たせた。一体どういう意味だろう?
「俺が、もったいない?」
「ああ。葉月ちゃんのことを『チビ』とか言って、からかってよぉ。せっかくあんなに可愛い娘が幼馴染みなんだぜ? オレなら放っておかねぇけどなぁ」
 そう言って、何かを想像するように、公治は顎に手を当てた。
 うーむ、公治が謂わんとすることは理解できる。「もったいない」か……。
 実は葉月は俺の初恋の相手だったりする。保育園の時の話だ。「お嫁さんになってください」なんて言って、おもちゃの指輪を渡したこともあったっけな。
 そんな彼女と未だに交友関係が繋がっていて、進学した高校も同じで、改めてアプローチを掛けないというのは、確かにもったいないことなのかもしれない。
 けれど――。
「公治は公治、俺は俺なんだよ。葉月のことは見慣れ過ぎていて可愛いかどうかも分からないし、それに、俺には色恋沙汰にうつつを抜かしている暇なんかないんだ」
「『医者になる夢』か。蒼助のそういう、夢にまい進する姿はロックでカッコいいと思うぜ。見慣れるってのも分かるなぁ。オレにも妹がいるし」
 そう、初恋の相手として葉月を意識しなくなったのは、家に“妹”の陽菜が来てからだった。
 祖母が亡くなって、陽菜の病弱体質に拍車が掛かって、「医者になろう」と決心して、そうして勉強に精を出し始めた頃からだ。遡ること小学校4年生の頃である。
 公治に妹がいるとは初耳だが、俺と葉月の間柄の状況は掴んでくれたようだ。
「ありがとう、公治」
 葉月にはからかわれた、俺が夢を追う様を「カッコいい」なんて言ってくれたのは公治が初めてだった。有難い話だ。
「おかげで、葉月ちゃんはフリーでいるわけだしな。オレにお鉢が回ってくる可能性もあるって話だ」
「コノヤロー、結局そういうことかよ」
 そう言って、俺たちは快活に笑った。

 いつも通り足早に家路につくと、俺の家の前でしゃがみ込んでいる人影が見えた。
 誰だろう? そう思いながら近付くと、向こうもこちらに気付いたようで、すくっと立ち上がる。
 彼女は俺よりも、あるいはレオナさんよりも高い背丈の持ち主だった。そしてレオナさん同様、豊満なバストをお持ちだった。大変いやらしい。
「やっほ、蒼助」
 長身にロングの黒髪を持つ、20代くらいの大人びた女性。服は明らかにサイズが合っておらず、へそ出しルックとなっており、スカートもミニとなっていた。大変いやらしい。
 そんな女性に気安く話し掛けられ、俺は赤面した。
 しかして誰だ? その顔はどこか――。
「どちら様ですか? 葉月の親戚……、イトコの方でしょうか?」
 ……その顔はどこか、葉月に似ていたのだ。だが、葉月よりも大人びて見える。
 葉月の顔など見慣れてしまって可愛いと思わなくなってしまったと感じていたのだが、こうしてお姉さんの身体の上にくっついていると、美形に見えた。
 彼女はにこやかに微笑み、ひらひらと手を挙げて答える。
「アタシが葉月だよ」
 いやいや、何を仰る? 葉月はチビだ。対してこの方は長身だ。葉月は幼児体型だ。対してこの方のバストは豊満だ。見間違いようもない。そしてその豊満なバストは作り物なんかではなく、先刻立ち上がる時に魅惑的に揺れていた。あれは本物だった。あれは本物だった。
「嘘でしょう?」
 俺の知っている葉月とは顔と声色以外、まるで違う。葉月と会わなかったのはゴールデンウィークの間だけ。その間に、1人の人間がこんなにも変化するなんてことは、あり得ない。いくら成長期といったって、あり得ない。
「俺をからかってます?」
 彼女は「うふふっ」とアダルトなフェロモンたっぷりに微笑んだ。それだけでもう、大人な女性耐性のない俺など、悩殺されてしまいそうだった。
「からかっていると言えば、そうかもしれないね」
 ありがとうございます。からかわれて大変嬉しゅうございます。
 俺はニヤケながら咳払いした。落ち着け、俺。相手は初対面だ。冷静に応対しなければ。
「そ、それで、どちら様なんですか?」
 俺の質問には答えず――いや、答える余裕もなさそうに、彼女はかがんで膝をさすった。それから肘もさする。顔をしかめていた……。
 ……心配だ。
「大丈夫ですか? 痛むんですか?」
「うん、ちょっとね……」
 こんな通りで座り込んでいたのは、痛みが酷かったせいか。それでも立ち上がって挨拶してくれたのは、彼女の気丈さ故か……。
 彼女自身の気持ちの強さがそうさせたとはいえ、俺のために立ち上がって、それで痛みが増したのなら、俺のせいだ。何か、俺にさせてほしいと思った。
「大変ですね、ひとまずウチに入りませんか? 目の前が俺の家なんです」
「ありがとう。そうさせてもらおうかな?」
 彼女は痛みに顔を歪めながらも微笑んで、お礼を言ってくれた。やはりタフな人だ。
 そうして俺たちは、連れ立って家に入った。
「ただいま」
「お邪魔します」
 返事はなかった――。
 ……俺は心をざわつかせた。
「ちょっと失礼します。リビングで寛いでいてください」
「分かった」
 その応えを聞き届けたのち、俺は陽菜の部屋に急いだ。
「入るぞ、陽菜」
 扉を開ける。「おかえり」の返事がなかったということは――。
 案の定、陽菜はリスのぬいぐるみを抱いて、ベッドに横になっていた。
「……おかえり、お兄ちゃん」
 身体を起こそうとする陽菜を押し留め、寝かせた。
 俺なんかに気を遣わなくていいのに。
「起き上がらなくていいんだよ」
「うん、ありがとう。……家に帰ってから、少しね」
 熱が上がったのか……。陽菜は首に冷却シートを貼っていた。
「無事に家に着いてくれてよかったよ。偉いな、陽菜」
 俺は陽菜の頭を撫でた。彼女は気持ちよさそうに目を瞑る。
「今、ちょっとお客さんが来ているんだ。だから、ごめんな?」
 関節の痛みを訴えるお姉さんも心配だけれど、早く楽になってもらって、俺は陽菜のそばにいよう。
「大丈夫だよ。本当に微熱だから。少し眠れば治ると思う」
 薄っすら目を開いて、陽菜はそう述べた。長年の経験がそう言わせるのだろう。哀しいことだが、その言葉は信じられる。ここは陽菜に任せても大丈夫そうだ。
「それなら、行ってくるよ。また様子見に来るからな?」
「うん……。ありがとう……」
 そうして陽菜は目を閉じた。そして小さなリスのぬいぐるみを抱き締める。
 俺は布団を首元まで掛けてやった。
 部屋を出ると、先刻のお姉さんが心配そうに言った。
「陽菜ちゃん、体調崩しちゃったの?」
 自分もツラいはずなのに、気に掛けてくれるとは有り難い。
 だが何故――。
「ええ。けれど症状は軽いようなので、安心してください」
 だが何故、陽菜の名前を知っている?
 ――「やっほ、蒼助」
 そういえば、俺の名前も知っていたっけな……?
 一体何者なんだ、このお姉さんは?
 彼女はリビングの椅子に座って、膝をさすっていた。
「痛むのは膝と……、肘ですか?」
 そう言うと彼女は同意するように肘をさすった。
「うん。あと脛と踵も。何故だかね……」
 葉月に似たお姉さんは、その顔をしかめる。
 なんとかしないと。いや、なんとかしてあげたい。
 顔が葉月に似ているからだけじゃない。俺の夢が、「医者になること」だからだ。ここで患者を放っておくようでは、立派な医者になれるはずがない。
「ホットタオルを用意しますね」
 そう言ってから俺は、タオルによく水を染み込ませてから、ラップで包んで電子レンジで温めた。
 温め中、「冷やしたほうがいいのかもしれない」と思った。けれど、彼女はそのどちらも、何も言わなかった。おそらく、どちらも試していない、ということだろう。
 ならばと俺は、冷やしタオルも作ろうと思い、冷凍庫に水で濡らしたタオルを少し絞って、ラップで包み、氷の下に埋めた。
 そうしている間に、ホットタオルが出来上がる。
 少し冷まして、よく水を絞ってから、彼女に手渡す。
「これで患部を温めてみてください」
「ありがと。あったかい」
 しかし、未だにお姉さんは葉月に似た顔をしかめている。
 うーむ、処置を間違えたか? ならば、冷やしたほうがいいのだろうか?
 俺は冷やしタオルを冷凍庫から取り出した。充分とは言えないが、少しは冷えている。タオルに沁みた水をもう一度だけ絞った。
「じゃ、こちらを試してみてください」
 そう言って彼女からホットタオルを受け取り、冷やしタオルを渡した。
「ああ、こっちのほうが、なんか楽になったかも。ありがと」
「そうですか、よかった……」
 俺はホッと胸を撫で下ろした。
 安心したら心に余裕ができて、長い生脚にタオルを押し当てるなまめかしさに目を奪われてしまった。ミニスカートが作る“秘密の影”の向こう側が見えそうで、見えなくて……。ドキドキハラハラさせられる……。
 俺は被りを振る。痛みで苦しんでいる人をそんな目で見るだなんて、どうかしている。
「そ、それで、お姉さんと葉月の関係性はなんなんですか?」
「『お姉さん』? いい響き……」
 そう彼女は呟いて、何故かうっとりとした。その表情がまた色っぽい。「お姉さん」と呼ばれ慣れていないのか? こんなにも“お姉さん味”に溢れているのに。
 そうしてお姉さんは「コホン」と1つ咳払いをしてから、色っぽさ3割増しで言う。
「そうねぇ、イトコ、とでも言っておきましょうか」
「あれ? けれど、それはさっき、お姉さんが否定なされていませんでしたっけ?」
「『お姉さん』……」
 彼女は再びうっとりしながら「お姉さん」という言葉の響きを堪能した。俺はそんなお姉さんの姿を堪能した。
 いやいや、俺の問いに答えてくれ。
「それは……、ええと、少しからかってみただけだよ」
 そう言って彼女は悪戯に微笑んだ。ああ、なんてことだ。こんな美人なお姉さんにからかわれるだなんて、俺はもうメロメロだった。もっと手玉に取ってくれ。
「困りますよ、お姉さん。あの……、お名前をお聞きしてもいいですか?」
 そう問うと、彼女は何故か狼狽えた。狼狽えるお姉さん、可愛い。
「名前? そうね、ええと……、卯月、そう、卯月だよ」
 いい名前だなぁ。というか、彼女の口から発せられるものなら、なんでもいいものに聞こえてしまう。俺も大概だ。
「卯月さんですか。分かりました。それで、葉月の様子はどうです? ゴールデンウィーク中に見掛けなかったもので、ちゃんと勉強しているのかと心配で」
「ゴールデンウィークは休むためにあるものでしょ?」
 まるで葉月みたいなことを言う。
「卯月さんはそう思うかもしれませんが、中間テストも近いですし、陽映学園に入学した以上、授業にちゃんとついていかないと大変なことになってしまうんです。ウチの学園は授業の進み方がとても早いので」
「そ、それはその通りかもしれないね……」
 当人でもないはずなのに、彼女は動揺した。何故だろう? しかし、動揺するお姉さん、可愛い。お姉さんなのに動揺するお姉さん、可愛い。
 その時、陽菜が部屋から出てきた。
「あっ! 陽菜ちゃ――」
「陽菜、大丈夫か?」
 お姉さんと同時に俺は声を上げた。発言を遮ってしまって申し訳ない。
「うん、お手洗い――」
 陽菜の瞳からハイライトが消えた。
「……誰、その女?」
 怖いよ、もう……。お兄ちゃん、陽菜のことが心配。
「おい、陽菜、お客さんに失礼だぞ? こちらは葉月のイトコの卯月さんだ。ほら、ちゃんと謝りなさい?」
「葉月ちゃんの? すいませんでした! 本当だ、お顔がよく似てらっしゃいますね」
 うむ、素直でよろしい。
 卯月さんは少しビビってらっしゃるが……。
「う、うん。卯月です……。よろしくお願いします」
「蒼助の妹の陽菜です。葉月ちゃんには兄が本当によくお世話になっておりまして」
「はい、聞いてます」
 陽菜は卯月さんに駆け寄り、その手を取った。
「兄を任せられるのは葉月ちゃんしかいないと思っておりまして!」
「はい、そうなんですね?」
 卯月さんは陽菜の勢いに押されて仰け反った。
「いずれは兄のお嫁さんになっていただきたいと思っておりまして!」
「はい、はい!」
 仰け反っていた卯月さんは、その勢いを増して陽菜を押し返した。
 今の陽菜の勢いに対抗できるだなんて凄い。
 しかし、幼児体型の葉月をお嫁さんにするより、俺としてはお姉さんな卯月さんのほうをお嫁さんにもらいたいのだけれどな。
「おい、陽菜? 卯月さんを困らせてはいけないぞ?」
「でも、お兄ちゃん、これはチャンスだよ!」
 何を言っているんだ、陽菜?
「チャンスとは?」
「もう、お兄ちゃん! なんでお茶も出してないのっ?」
「ああ、忘れていました。申し訳ありません、卯月さん」
 冷やしタオルだのを作ることや卯月お姉さんに夢中になってしまって、すっかり失念してしていた。
「いいの、もうお暇しようと思ってたトコだし」
「そうですか?」
 そんな、もう行ってしまうんですか?
 だが、そうだ。俺は陽菜の世話をしなければならなかった。卯月さんの関節の痛みが解決したのなら、帰ってしまうのは当然だよな。もう少しお喋りしたかったけれど、仕方がないか。
 卯月さんは立ち上がった。
「タオル、本当にありがとね」
 笑顔でそう言う彼女にタオルを返してもらい、お見送りの段となった。
 痛みに顔を歪ませていた彼女が、笑顔で帰っていく……。
 こんな俺でも、彼女の役に立てたのかな?
「冷却シートなら、ウチにたくさんありますから、どうぞお使いください」
 そう言って俺は、箱買いしていた物を一箱彼女に手渡した。
「有難く使わせてもらうね。じゃ、またね」
 卯月さんは笑顔で手を振った。ああ、これで彼女のおへそとも、長い生脚とも、たわわに揺れる胸ともお別れか。寂しくなるな……。
「『お兄ちゃんを頼みます』と葉月ちゃんにお伝えください!」
 別れ際、陽菜が声を掛けた。どんな伝言を頼んでいるんだ、全く陽菜のヤツ……。
「分かりました。確かにお伝えしておきますね」
 そうして名残惜しいが、卯月さんは帰っていった。
 俺は閉じていく玄関扉をぼんやりと眺めていた。
 そして、ずっと気になっていた疑問を吐き出す。
「なぁ、陽菜、葉月に女性のイトコが居るなんて話、聞いたことあったか?」
「ううん。確かイトコさんは男の子ばっかりって言ってた気がするよ?」
「だよなぁ……」
 俺は首を捻り、陽菜はお手洗いへ入った。

  *

 次の日、学校へ行き、俺はお昼休みを待った。
 そして時間になってから、葉月が居るであろう2組へと向かった。
 教室を見回し、葉月がいないことを確認する。一体どこへ行ったのだろうか?
 出入り口近くでお弁当を食べていた女子生徒に尋ねてみることにした。
「あの、葉月はいますか?」
「葉月ちゃんならゴールデンウィーク明けから来てないよ?」
「えっ? 葉月はここ2日間、お休みしているんですか?」
「そうだけど……。どうかしたの?」
 彼女は不思議そうな顔をした。
「いや、なんでもないです。教えてくれてありがとうございました」
 俺は葉月のことを心配しながら1組に戻り、席に着いて自分のお弁当を広げた。
「蒼助、葉月ちゃんは今日も来ないのか?」
 公治が言った。ゴールデンウィーク前はほとんどいつもお昼時に顔を見せていたから、公治も気になっているのだろう。
「昨日も今日も学校休んでいるんだってさ。アイツ、連絡も寄越さないで、心配させやがって……」
 公治にそう答えると、会話を聞いていたレオナさんが口を開いた。
「せっかく仲良くなれたのに連休が明けても、ずっと会えなくて寂しいわ」
 儚げな表情を見せる彼女。卯月さんも魅力的だったけれど、レオナさんもやはり負けず劣らず魅力的だ。
 お姉さん成分に欠けるところはあるが、補って余りある個性が備わっている。それは内面的な部分なので、こうして親しくなってみないと分からなかったことだけれど。
 俺は改めてレオナさんと親しくなれてよかったと思った。
 それにしても――。
「うーん、昨日、葉月のイトコのお姉さんがウチに来たんだけれど、何も言っていなかったんだよなぁ……」
 そのことが疑問だった。
 俺の発言に公治が食い付く。
「へぇ、どんな人だった? 可愛かったか? やっぱり背は低かった?」
 公治は本当に女性の話が好きだな。ロックと女は切っても切り離せないってか?
「それがレオナさん以上の長身でさ、可愛いと言うよりも、美人さんって感じだったよ」
「うひょー、それは見てみてぇぜ!」
 俺ももう一回会いたいなぁ。
「なんだかミステリアスな人でね、最初は『自分が葉月だ』って言い張っていて、後から『からかっていただけ』だなんて言ってさ」
 これにレオナさんが反応する。
「ミステリアスは私の専売特許のはずよ。そういうことされると困るのよねぇ……」
 レオナさんはお困りのようだけれど、自称ミステリアスさんがこうして気軽に話してくれるようになったことは、俺にとっては僥倖だった。なので、笑顔で応じる。
「いいえ、レオナさんはもはや、ただのネコ狂いです」
「誰のせいよ。これ見よがしにネコちゃん画像を見せつけてきて。そういうことされると困るのよねぇ……」
 これ見よがしに? そんな覚えはない。毎回レオナさんが見たいとせがむのだ。「ねぇ……、またお願いしてもいい……?」と頬を染めながらせがむ姿が色っぽくて、俺はニヤケる口を手で隠しながらケータイを手渡すのが常だった。
「聞いたことなかったけれど、どうしてレオナさんはミステリアスに振る舞いたいの?」
「人は誰しも他人からどう見られているか気にするものでしょう? 他人が描く自分像を、自分の思い通りにしたいと思うのは当然の願望じゃない?」
 前半部分は理解できた。しかし後半部分は上手く飲み込めなかった。
「他人が描く自分像を? 俺にはよく分からないな。他人にどう思われているかは気になるけれど、それを変えたいとまでは思わないからさ」
「そうかしら? 例えば、葉月ちゃんが『周りから大人っぽく見られたい』と思っているようなことよ」
「なるほど、少しだけ分かった。それに関して言えば、レオナさんは『ミステリアスに見られたい』と思っているわけだ」
 彼女はむず痒そうに頬を染める。
「ハッキリ言われると恥ずかしいわね。けれど、私って元々ミステリアスじゃない?」
「そうなの?」
「そうなのよ……」
 そうなんだ。自分で言っちゃうんだもんなぁ、この人。そんなところが個性的で彼女の魅力の1つなんだけれど。
 そして何故だか彼女は表情を暗くした。
「小学校の頃から、周りから一目置かれていたというか、正直に言って、少し避けられていたというかね……」
 過去のレオナさんに「男っ気がなかった」ゆえんがそこにあるようだ。けれど、こんなにも美人さんなら尻込みしてしまうクラスメイトたちにも共感できるというものだ。
 だが、俺はそんな彼女の行いに本気で感心した。
「凄いね、レオナさんはそれを逆手に取ったんだね」
 彼女は再び顔を赤くし、美しい黒髪を弄ってから耳に掛けた。
「ま、まぁ、そういうことになるのかしら……?」
 周りから距離を取られる経験は俺にもあった。
 医者になるために勉強ばかりして、友人付き合いも碌にしてこなかった俺は、クラスメイトたちから「ガリ勉くん」と呼ばれ、葉月以外からは避けられ気味だったのだ。夢のためとはいえ、ツラい経験には違いなかった。そんな状況を、俺はただただ甘受するのみだった。
 にもかかわらず、レオナさんは違う。その状況を逆に自己演出のために利用したのだ。似た境遇にいた俺には分かる。それは本当に凄いことだ。
「本当に物凄い発想の転換だよ。コペルニクス的だ。あるいは『コロンブスの卵』かな。実際、ミステリアスな雰囲気のレオナさんはカッコいいし、思惑が成功しているんだから素晴らしいね」
 故に俺は、こんなにも彼女を褒めちぎるのだ。
「そ、そんなに褒められても……、えーと、えーと……」
 彼女はケータイを弄る。
「お気に入りのネコちゃん動画しか出てこないんだからっ!」
 そう言って彼女は、これ見よがしにケータイの画面を見せつけてきた。
「あ、『お手』をするネコだ、可愛いね」
「でしょう! お利口さんでしょう! あと他にもねー、たくさんネコちゃん動画を入れてて――」
 嬉々としてネコちゃん動画を見せてくれるレオにゃんさん。可愛らしいレオにゃんモードを堪能したいのは山々だが、さっきの話を聞いてしまうと、止めざるを得ないだろう。
「あの、レオナさん? ミステリアスな雰囲気が台無しだよ?」
「あ……。またやっちゃった」
 彼女は「失敗」と言ってペロっと舌を出した。こんなコミカルな一面もあるのか。目の保養なり。
「まぁ、俺はレオナさんもレオにゃんさんも、どちらも魅力的だと思うし、好きだけれどね」
「す、好き……? というか、レオにゃんって何よ?」
 ネコ狂い状態のキミのことですが何か?
「けれど、レオナさんが周りからミステリアスに見られたいという意思は尊重するよ」
 彼女は耳まで顔を真っ赤にしていた。今日はレオナさんの照れ顔ばかり見ている気がする。彼女の内面の、深いところの話をしたのだから当然のことかもしれない。
「いえ、少しくらい、イメージが崩れたっていいわ……」
 頬を上気させたまま、彼女は俯いて呟いた。
「そう? けれど――」
「いいの。『好き』だって言ってもらえるなら、そういう一面も隠さなくていいのかなって、思っただけよ。全然、他意なんかないんだから!」
 彼女はプイっと顔を横に向けて背けた。なんだかツンデレのテンプレのような発言も聞こえたけれど、レオナさんはどれだけ“属性”を欲しがるんだ? 欲しがりさんだな。個性の塊ではないか。彼女の魅力が高止まりしていて困るんだが……。
「とにかく、無理しないように頑張ってね」
 彼女は顔を伏せる。そして自分自身に語り掛けるように話し始めた。
「私、自分で自分のこと、友達付き合いが苦手な人なんだと思っていたけれど、そうでもないみたい……」
 周囲から一目置かれ、距離を取られていた頃の経験が、彼女にそう思い込ませていたのだろう。けれど、こうして親しく話していれば分かる。葉月ほどではないが、レオナさんもまた、人好きする性格だ。
「そうだね。レオナさんと話してると楽しいよ。なぁ、公治?」
 俺は公治に話題を振った。
「ああ。途中からしか話は聞いてなかったが、オレもレオナさんがはしゃいでるところ見てるのは好きだぜ。目の保養になるからな」
 公治の発言には同意しかない、ないのだが――。
「公治が言うと、急に話の品格が俗っぽくなるな」
「えっ?」
 どうしてだろう? 俺が心の中だけで留めていることを、公治は全て明け透けに言ってしまうからかな?
「そこが公治のいいところなんだけれどさ」
 つまりは素直ということだ。美点に違いない。
「そうか? ならよし!」
 公治のような素直な人は信用できる。言葉に嘘がないということだからだ。いい友人を2人も作れて、俺は陽映学園に入ってよかったと思った。
 ともかく、他人から自分がどう見られているかは、重要なことらしい。
 けれど、取り繕わない素の自分の姿を他人に受容してもらうことは、もっと重要なことのように思えた――。

  *

 陽菜は昨晩に熱を出したが、朝には引いていたので学校に出席していた。
 体調が崩れないか心配していたが、陽菜からの連絡はなかった。無事、家に帰り着いたということだろう。
「ただいま」
「……おかえり」
 返事は返ってきたが、何やら不穏な雰囲気を纏った声だった。
 玄関からリビングへ向かうと、陽菜が制服のまま突っ立っていた。
 俺はその陽菜の背中に問い掛ける。
「ど、どうした陽菜? 身体を冷やすぞ?」
 よく見ると、何かを手に持っている。
「……ねぇ、お兄ちゃん、これ、なぁに?」
 ゆっくりと、陽菜はこちらへ振り返った……。
 ハイライトの消失。陽菜の瞳は真っ黒なブラックホールと化していた。
 そして見せてきたのは白くて長い1本の髪の毛だった……。
 きっとルゥの物だ。お風呂やトイレ、あるいは夜の散歩に出る時にでもリビングに落とした物だろう。
「ええと、昨日の、葉月のイトコの、卯月さんの若白髪なんじゃないかなぁ……?」
「へぇ……。若白髪がこんなにも……?」
 そう言って、もう一方の手に持っていた十数本もの白い髪の毛を見せつけてきた……。
 二つ教訓を得た。「ルゥの毛づくろいは念入りに行うこと」、そして「リビングの掃除をマメにすること」だ。
 陽菜は真っ直ぐ俺の目を見据える、ハイライトが消失した真っ黒なその瞳に見つめられると、今にも吸い込まれそうに思われた。まさにブラックホールだ。
 すぐさま俺は目を逸らして、「知らない」ととぼけた。それだけで精一杯だった。
「この長さ、女だよねぇ、お兄ちゃん?」
 証拠は全て上がってしまっている。言い逃れはできない。家庭内では黙秘権もない。
「し、知らない」
 白を切るより他、手立てはなかった。
「この本数……。ねぇ、いつ連れ込んだの? 何回連れ込んだの? 葉月ちゃんじゃないよね? 誰? 誰! 誰!」
 怖いなぁ、怖いなぁ。
 そもそも連れ込んでいないしな。元々この家にいたし、そこの俺の部屋の中には今もいるからな。
 今更、人型ルゥを見せて「変身したんだよ」と言ったところで信じてもらえるはずもない。
 ああ、こんなことになるのなら、初めから情報を開示しておけばよかったんだ……。丁寧に、ゆっくり説明すれば、陽菜の驚きと心労も軽減されていたかもしれないのに……。
 無念、後悔先に立たず。
「お兄ちゃん、私は質問しているんだよ? 答えて、お兄ちゃん? お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
 ああああ! もうどうにでもなれ!
「……葉月だ」
 葉月か? 葉月なのか?
「そう、葉月だ! アイツ、金髪から白に変えたんだ!」
 そうだ、そういうことにしよう。我ながら名案だと思った。
「ふーん、ゴールデンウィーク中の話? そうだとしても、葉月ちゃんはショートヘアだよね? この髪はボブくヘアーらいの長さはあるよ? ねぇ、おかしくない?」
 確かにおかしいな、どこが名案だ。
 俺は何も言い返せず、沈黙した……。
「お兄ちゃんは今、嘘を吐いたの? 嘘を言ったの! 嘘を述べ立てたの!」
 はい、嘘です……。けれど、そんなに怒らないでくれ、妹よ……。
 陽菜は俺から目を逸らさず続けた。
「ねぇ、家族に嘘吐いたの? それとも、私は家族じゃないの? お兄ちゃんと血が繋がってるかも分からない私は! お兄ちゃんの家族じゃないんだ!」
 そう叫んで、陽菜は瞳からボロボロと大粒の涙を零した。
「それは違う! 陽菜! それだけは違う! 陽菜は家族だ! それだけは何があろうと、天地がひっくり返ろうと、それは変わらないんだ!」
 俺は陽菜の肩を抱いた。真正面からその真っ黒な瞳も見つめた。
 今は向き合って、しっかりと言葉にして、陽菜に伝えるべきだと思った。
「信じてくれ、陽菜。俺は陽菜を本当の家族だと思っている。だから、俺の夢は、陽菜の身体を健康にするために、医者になることなんだ! そのためにはどんな犠牲も厭わない! いくらだって勉強する! たとえ青春を棒に振ったって、その夢のために俺は真っ直ぐ一直線に進むんだ! なぁ、陽菜、俺が色恋沙汰にうつつを抜かすことは決してない! 信じてくれ、俺は、陽菜のことを本当の家族だと思っているよ!」
 陽菜は床にへたり込んだ。
 そして、大声を上げて泣きじゃくった……。
 俺はかがんで、そんな陽菜を抱き締めた。このぬくもりを守るために、俺は夢の実現を誓うんだ!
 すると陽菜は涙に枯れた声で、ポロポロと内心を吐露し始めた。
「ずっと不安なの……! ずっとずっと、子供の頃から、私なんか他人で、家族だと思ってくれてないんじゃないかって……。だけど、熱を出して、看病してもらっている時だけは、安心できるの……。でも、それ以外の時間は、反面ね、こんな病弱な女なんか、家族じゃなければよかったって思われてるんじゃないかって、不安なの……、ずっと、ずっと、ずっと……」
 俺は陽菜を強く抱き締め、「そんなことはないよ」、「大丈夫だよ」と声を掛け続けた。
「だからね、お兄ちゃん。お兄ちゃんの心が私から離れて、他の女に行っちゃうのが嫌なの……」
 そうだったのか、だからこんなに真に迫っているのか……。
 俺は言葉を掛けてやることしかできない。故に、言葉を掛け続けた。
「陽菜から心が離れることは絶対にないよ。大丈夫だよ。安心してくれ。大丈夫だ、陽菜」
「うん、うん。お兄ちゃんが優しいのは分かってるの……。でも、だけど、不安が消えてくれないの……。血の、繋がりが……、あれば……」
 血の繋がりだって? 俺は叫んだ。
「血縁なんか関係ない! 俺たちはどれだけの時間、一緒に暮らしてきた? どれだけの経験を、一緒に積み重ねてきた? 血の繋がりなんか、関係ないんだよ、陽菜。だってそうだろう? 夫婦も元は他人同士なんだ。一緒の時間が、共有した経験が、他人同士を家族にするんだよ。……なぁ、陽菜。俺たちが一緒にいた時間は短かったか? 共有してきた経験はまだ足りないか?」
 陽菜は大声を上げて涙した。それだけで、俺の問い掛けに返答はなかった。
 言葉だけで、不安な気持ちが消えるわけではないのだろう……。故に俺はただ、寄り添うことしかできなかった……。

 しばらく時間が経ち、陽菜が落ち着いた頃。俺のケータイが鳴った。
「出なくていいの、お兄ちゃん?」
 枯れた声で陽菜はそう言った。
「いいよ。今は陽菜が大事だ」
「もう大丈夫だから、ケータイ出て? ごめんね?」
 陽菜は涙を拭った。健気で良い子だ。
「分かった。けれど謝らなくてもいいよ、陽菜」
 そう言ってから、俺はケータイを取り出した。そこで着信音は途絶えた。
 画面を確認すると葉月からだった。
 すぐにメッセージが届く。一言のみだった。
「……どうしたんだろう、葉月?」
 こんな時なのに、葉月……。気に掛かることを……。
「葉月ちゃんからだったの?」
「ああ、『助けて』って、それだけだった」
 それだけ、急いでメッセージを打ったような感じで……、心配だ。
「じゃあ、行ってあげて?」
「いいのか?」
 もう大丈夫か、陽菜?
「うん。もう平気。言いたいことが言えたから、少し気持ちが楽になったよ」
「そうか? それならよかった……」
 俺は陽菜を抱き締めていた手を解いた。だが、陽菜のぬくもりの残滓は確かに感じている。俺の、家族のぬくもりだ。俺が守るんだ。この気持ちは、いつまでも忘れずにいよう。
「なら、少し行ってくるけれど、陽菜は身体を温かくしておくんだぞ?」
「うん。分かった。だから、早く行ってあげて」
 陽菜は立ち上がった。まだ目尻が赤い……。
「見送りはいいから、部屋に戻ってベッドにに入りな?」
 俺の言うことに従って、陽菜は自室へ入っていった。
 閉じた扉を、俺はしばらく見つめていた。
 陽菜も心配だが、葉月のほうも心配だ。
 俺は制服のまま家を出た――。

  *

 葉月の家のインターホンを押す。慌てた様子の葉月の声がして、「入って!」と言われた。
 玄関の鍵は開いていた。
「お邪魔します」
 葉月の家に来るのは久しぶりだな、おばさんもおじさんも元気かな――?
 などと感慨に耽っている暇もなく、家の奥から大声が轟いた。
「大丈夫っ? お母さん!」
 何かあったのか!
 俺は声の聞こえたほうへ急いだ。
 そこはキッチンダイニングだった。
 キッチンのほうに卯月さんの姿が見えた。
「卯月さん! どうかしたんですかっ?」
 卯月さんはキッチンの向こうで膝をついていた。
「蒼助! よく聞いてね、アタシは卯月なんかじゃない、アタシが葉月なの!」
 その声、その表情、俺を見据えるその瞳は真剣そのものだった。からかっているのではないと直感した。
「周りにも影響があるなんて、知らなくて、アタシ、アタシ……!」
 動揺し、挙動不審な「葉月」のほうへ近寄りながら、俺は声を掛ける。
「落ち着け! まずは何があったのかを――」
 キッチンの向こうに見えたのは……、倒れていたのは……。
 誰だっ? 老婆っ?
 毛先だけが黒く、あとは長い白髪の、痩せこけた老婆が横たわっていた。
「お母さん! 目を開けて、お母さん!」
「お母さんだって? この、この人が、おばさんなのかっ?」
 そんな、まさか! おばさんは確かまだ40代で、もっと若くて、こんな……、まさかこんな老婆がっ?
「昨日今日で、こんなに年老いちゃって、それで、つい今、倒れちゃったの!」
 年老いたっ?
 そういえば、よく見ると「葉月」の顔には小じわが目立ち、40代から50代くらいの年齢感だった。
「葉月、お前は本当に葉月なんだな?」
 まずは現状確認だ。冷静に、冷静に、俺、冷静さを保て!
「うん、そうだよ、アタシが葉月……」
 卯月さんの正体は、成長した葉月だった!
 成長……、成長、か……。
 待て、待て、現状確認! 葉月とおばさんはここに居て――。
「おじさんはどこだ?」
「今日は仕事が休みだから部屋に……。まさか!」
 葉月も気付いたようだ。
 おばさんだけじゃない。おじさんも、もしかしたら……。
「ここは看てるから、様子を確かめに行ってくれ!」
 そうして「葉月」は駆けていった。
「お父さん!」
 遠くから声が聞こえる。やはり同じ状況か……。
 すぐに「葉月」は戻ってきた。
「お父さんはかろうじてまだ意識はあったけど、もう立ち上がれないみたいなの! どうしようっ?」
 おじさんも、おばさんと同じく年老いていて、立ち上がれない……。しかし、意識はある。
「意識があったのなら、より重篤なほうを看よう!」
 キッチンには、野菜が途中までカットされた状態でまな板の上に乗っていた。料理している最中に立てなくなって、こうして倒れているのだろう。
 俺は「葉月」がおじさんのところへ行った時から、老婆の――いや「おばさん」の脈を取っていた。手首に三本指を添えている。
 しかし、おばさんの腕はかなりの痩せぎすで、骨ばっていた……。元からスレンダーな体型だったが、これほどまで痩せていたか? いいや、そんなはずはない。
「大丈夫、『おばさん』は生きてる。けれど、呼吸が浅い……。それに、こんなに痩せているのはどうしてだ……?」
 考えろ! このアラフォーに見える女性が葉月とするなら、彼女は急激に成長したということだ。
 葉月が思い出したかのように述べる。
「アタシも、ここ数日ずっとお腹が空いてて……。お母さんもそうだったんだと思う……」
 空腹だった……?
 その時、俺の頭をよぎったのは「エネルギー保存の法則」だった。
 成長……、つまりは、加齢……。
 この長い髪、長い時間経過を感じさせる……。おばさんとおじさんが葉月のように急激に加齢したと仮定すると、もしかして……。
「成長に伴って、新陳代謝のエネルギーを必要としたのか……! それでカロリー摂取が間に合わなくて、こんな痩せぎすに……?」
 おばさんの呼吸はとても弱く、遅く、今にも止まってしまいそうなほど、儚かった。
「推測だけれど、急激な加齢による衰弱状態なんだろう……。もっと言えば、この現状は……、老衰、か……?」
「老衰っ? お母さん、このまま死んじゃうのっ? そんな、お母さん!」
 しかし、異常だ……。そう、異常現象が起きている……。
 落ち着け! 俺には「異常現象」ってヤツに心当たりがあるじゃないか!
「葉月、少しだけ待っていてくれ!」
 俺はおばさんの腕から手を離し、立ち上がる。
「ちょっと待って!」
 葉月が、すがるように「待って!」と俺の手首を掴んだ。
「どこ行っちゃうのっ?」
 こんな状況の中で独り取り残されるのが心細いのは当然だろう。
 俺は「信じてくれ!」と述べてから強く握られている葉月の手を引き剥がした。
「すぐ戻るよ! 大丈夫だ、信じて待っていてくれ!」
 説明する時間すら惜しかった。
 俺は駆け出した。

「これはこれは、大変にゃことににゃってるにゃあ」
 俺は葉月の家のキッチンに、ルゥを連れてきたのだった。
 ルゥはニタニタ笑いを顔に貼り付けて、床に膝をついている俺たちを見下ろして立っている。まぁ、140センチ強の身長では、見下ろすといっても視線の上下に大差はないが。
「ルゥ、お前が人語を喋っていたことや、人型に変身したことと、関係があるんじゃないか?」
「にゃはは!」
 ルゥは白い髪を揺らして笑った。
 何を笑ってやがる。そんな状況じゃないだろう。おばさんの呼吸は、今も徐々に弱まってきているというのに……!
 ルゥは話を続けた。
「葉月、『おまじない』を使ったにゃあ?」
 葉月は黙りこくった。心当たりがあるようだ。
 だが、俺には理解できなかった。
「『おまじない』? 陽菜が言っていた『願い事を叶えてくれるおまじない』のことか?」
 俺はおばさんの脈を取っていた手を離して、葉月の肩を揺すった。
「葉月、答えてくれ! 事態は一刻を争うんだ! おばさんの命が危ないんだぞ!」
 そう言うと、葉月は「ハッ」として答えた。
「使った……、使ったわ!『おまじない』を使ってこうなったの!」
 ルゥの言った通りか……。ルゥを連れてきてよかった。
 此度の一件は「おまじない」とやらが原因らしい。「おまじない」に、まさか、本当に、こんな効果があったとは……。
 ――「へぇ、なら、その『おまじない』の手順を教えてくれよ」
 ――「ダメだよ」
 ――「どうしてだ?」
 ――「本当に効果があるから」
 陽菜とそんな会話をした日を思い出した。
「だったら、その『おまじない』を解除する方法はっ?」
 葉月は頭を抱えて叫んだ。
「それを知らないの! 聞いてないの!」
 葉月は解除方法を知らない……。いや、まだ絶望する時じゃない。
 大丈夫だ、何故なら――。
「ルゥ、お前なら知っているんじゃないか?」
「そうだにゃあ、確かにワタシは“聞いている”にゃあ」
 やはりか……! よかった! 繋がった!
「なら、早くそれを教えてくれ!」
 俺はルゥに大声でせがんだ。
「教えてもいいのかにゃあ? せっかく『願い事』が叶ったのに?」
 俺は再びおばさんの腕を取り、脈拍を測りながら、葉月のほうに目を遣った。
 長身で、スタイルがよく、グラマーで、色っぽくて、大人っぽい葉月は、俯いて苦しそうな顔をしていた。
「おい、何を迷っているんだよ! おばさんを助けるためだぞ!」
「迷ってるんじゃない! ただ……、後悔してるの……。浅はかだったって」
 ……不味い。
 俺は手首に当てていた三本指を離した……。
 そして、おばさんの腕を、ゆっくりと床に置いた――。
「……今、おばさんの呼吸が止まった」
 冷や汗が垂れた。
 おばさんの胸を上下させていた呼吸は、段々と弱くなっていき、ついにはなくなったのだった……。
「えっ! 呼吸がっ? 死んじゃったの!」
 葉月は目に見えて狼狽えた。
 冷静に、俺! 冷静になれ! 葉月をパニックにさせちゃダメだ! 葉月がパニックに陥れば、もう収拾がつかなくなる。
 まずは“俺が”冷静でいるんだ! 大丈夫、呼吸が止まっても大丈夫だ!
「呼吸が止まっても心臓はまだ動いているはずだ。ただし、本当にもう時間はない」
 動いているとはいえ、その心拍は弱弱しい。俺は心臓マッサージを開始した。
 葉月は覚悟を決めて顔を上げた。
「ルゥちゃん、教えて! 解除方法を!」
「分かったにゃ。簡単なことにゃ。『おまじない』に使った『依り代』を壊せばいいのにゃあ」
 葉月は再び黙りこくった。
 俺は汗を垂らし、心臓マッサージを続けながら、葉月に問うた。
「葉月、使った『依り代』はなんなんだ?」
 彼女は口を開いた。
「なるほど、そういうことね……。『自分にとって一番大事な物を依り代に選ぶこと』ってのは……」
 そうして彼女は立ち上がり、階段を駆け上がっていった。
 葉月の部屋は2階にある。自分の部屋に「依り代」を取りに行ったのだと思われる。
 瞬きする間に彼女は戻ってきた。
 その手の中には、小さなおもちゃの指輪が握られていた。
「“それ”……、まだ持っていたのか……」
「覚えててくれたんだ?」
 葉月は寂し気に微笑んだ。お姉さんの姿に、そんな笑顔は似合わない……。
「保育園の時に、俺が葉月にプレゼントした――」
「そうだよ。『お嫁さんにしてあげる』なんて言ってさ。子供の癖にませたこと言っちゃって。本当笑っちゃう……」
 そう言いながら、葉月は涙を零した……。
「でも、覚えててくれたなら満足だよ。記憶の中に残り続けるなら、それで……、大丈夫だから……」
 葉月は力を込めて、おもちゃ指輪を半分に割った。それをさらに半分に……。プラスチック製の指輪は、いとも容易く破壊されていった……。
 するとその時、おばさんが大きく息を吸った。
「おばさん!」
 俺は心臓マッサージをやめ、手首に三本指を当てた。橈骨動脈は強く脈を打ち始めていた。
「脈拍が正常になった! 呼吸も深く、大きくなった! きっと、もう大丈夫だ!」
 土色だったおばさんの顔にも、みるみる生気が宿っていく。
「お母さん!」
 葉月はおばさんに抱きついた。
「よかったよぉー! お母さぁん!」
 彼女は泣きながら歓喜の声に出した。
「これで、段々元に戻っていくんじゃにゃいかにゃあ?」
 ルゥは相変わらずのニタニタ顔でそう言った。
「ルゥちゃん、蒼助、本当にありがとう!」
 葉月はおばさんに縋りつきながらお礼を言った。
 俺は大きく息を吐いて、額の汗を拭った。そして、心臓マッサージで荒くなった息を整える。
「本当によかった……。ギリギリだった……、呼吸が止まった時にはどうしようかと……」
「でも、冷静だったじゃない」
 葉月は心底ホッとした様子で、さっきまでの状況を振り返った。
「まぁ、医者を志す身としては当然のことだよ。俺がパニックになったら、周りもパニックになっちゃうからね……」
「うん。蒼助の冷静さに助けられたよ。ありがと!」
 そう言って涙を零す葉月の顔は、40代にも見えた先刻から、「卯月さん」と名乗っていた頃と同じくらいの年齢感に戻っていた。
 そこで俺は気付いた。
「そうか、葉月が手足の節々を痛がっていたのは、成長痛だったんだな?」
「ああ、そっか! なるほどね。痛みで学校にも行けなかったんだけど……」
 ここで、俺もようやく余裕を持ってこの状況を見ることができるようになってきた。
「しかし……、葉月が成長すると、こんな風になるんだな……」
 こんな、大人な、お姉さんな、美しい女性に……。
 ――「チビって言うな。アタシはまだまだ、これから伸びるんだからね」
 そう言っていたが、本当だったんだな……。
 未来の葉月、か……。
「でも、明日からはまた『チビ』のアタシに逆戻りよ……」
 目の前の「卯月さん」の顔は、憂いを帯びていた。
「後悔、しているのか……?」
 せっかく大人になれたんだもんな……。散々俺がからかって、葉月も悔しがって……、それを見返せるところだったんだもんな……。
 だが、葉月は首を横に振って、涙を拭った。
「ううん。後悔してるのは『おまじない』を使ったことだよ。大人っぽくなりたくて『早く大人になりたい』って願ったせいで、こんなことになって……」
 彼女は渋い顔をした……。そんな彼女に、俺は言葉を掛けてやることしかできない。
「気に病むことはないよ。知らなかったんだろう? 周囲にも効果が波及するなんて」
 そうして葉月はポロポロと、言葉を零すように内心を打ち明けた。
「それはそうだけど、『おまじない』に頼ったこと自体が、バカだったなぁ、ってね……。他人からどう見られてるか、ばっかり気にして……。本当にバカみたい。そんなこと、全然大したことじゃないのにね……。お母さんもお父さんも『ゆっくり成長していけばいいんだよ』って言ってくれてたのに。その意味が、こんな大事にならないと分からなかったなんて……」
 彼女は内省的に語り、また一粒、涙を零した。
 ノーテンキなヤツだと思っていたが、葉月も葉月なりに「他人が描く自分像」を気にして、悩んでいたんだな……。からかったりして、本当に悪かった。
「身長のこと、からかってごめんな……」
「本当よ。人の身体的特徴を嗤うなんて、最低だよ」
 そんな風に言いつつ、葉月は「そんな頃も懐かしい」とでも言いたげに微笑んだ。
 外はもう黄昏時を過ぎ、日が落ちていた。
「葉月、あとのことは任せてもいいか?」
「うん、もう大丈夫」
 俺はルゥに目を遣った。相変わらずニタニタと笑っていた。
「ルゥ、帰るぞ」
 それから何度も葉月に感謝の言葉を聞かされて、別れた。

  *

「ルゥ、話がある」
 自室で俺はそう切り出した。陽菜は葉月の家に行く前に話し合った時の疲れからか、部屋で眠っていた。
 そして俺は、勉強机に向かいながらルゥに問うた。
「キミは、何を隠している?」
 彼女はベッドにうつ伏せなって寛ぎながら、足をバタバタさせて笑った。
「にゃはは! 単刀直入だにゃあ」
 それはそうだろう。何故「願い事を叶えるおまじない」について詳しく知っていたのか? 気にならないはずがない。此度の一件ではその知識に助けられたわけだけれど、それとこれとは話は別だ。
 ルゥは、何かしらの秘密を俺に隠している。
 彼女は寝返りを打ち、仰向けになった。
「でもにゃあ、どうしても話せないこともあるにゃあ」
 そう言って、ルゥはニタニタ笑いをやめた。そうして顔を見れば、本当に小学生の頃の陽菜とよく似ている。そこも謎の1つだ。
「何故話せないんだ?」
 その時、ルゥは少し、寂しげな顔をした。それは、幼い姿にはあまりにも似つかわしくなかった。
「……誰だって、死ぬのは嫌にゃ? それと同じにゃあ。怒らないでほしいにゃ?」
 死ぬ……? そんなに深刻な理由があるというのか……?
 ――「ルゥ、長生きしろよ?」
 そう言ったのは俺だ。ルゥには長生きしてほしい。たとえいつもニタニタ笑っていようとも。たとえその裏に、哀しみの影がチラつこうとも……。
「分かったよ、怒らない。それなら、話せることだけ話してくれ。『おまじない』の方法とかさ」
 彼女はニタニタ笑いを取り戻した。慣れてしまったせいか、最初は鼻につくと思っていたその顔でなければ、今となっては居心地が悪かった。
「それにゃらいいにゃ。やり方はまず――」
 そうして俺は、「願い事を叶えるおまじない」の方法を知った。いや、思い出した、と言うべきか。昔、一度陽菜から聞かされていたのだから。
「ありがとう、ルゥ。さぁ、気を取り直して、ご飯の時間だぞ」
 俺は椅子から立ち上がって言った。これ以上ルゥに詰問することは憚られたのだ。
「やったにゃあ!」
 俺はルゥの頭を撫でた。するとルゥは、気持ちよさそうに目を細める。
 こんな時間が、なんだか儚いモノのように想えるのは何故だろう……? 死ぬだなんて、ルゥが言ったせいかもしれない。
 俺は、葉月が、おばさんが、若返っていく早さを思い出していた。「おまじない」が解ける時はあっけないモノなのだ。それはまるで、夢が醒めるかのように……。

 夕食時、陽菜とダイニングで食事を摂っていると、インターホンが鳴った。
 出てみると、葉月とおばさん、おじさんも、一家揃っての訪問だった。みんな元通りの姿だった。その髪以外は。
 おじさんが紙袋を差し出しながら述べる。
「蒼助くんには、どうやら世話になったみたいだね。これはもらい物のお菓子なんだけれど、受け取ってくれるかな?」
「いいえ、全然! お構いなく。ご無事で何よりです」
 そう言いつつ、いただいてしまった。有難いです、勉強には糖分が必要なので。
 俺は陽菜を呼ぶ。
「陽菜? お菓子をいただいたから、陽菜からもお礼を言おうか?」
「はーい!」
 駆けてくる陽菜。そして、葉月たち一家の姿を見て驚いた様子を見せた。
「あ、あの……。いえ、ありがとうございました」
 俺たちは頭を下げた。
「蒼助、アタシ明日から学校通えると思うからよろしくね!」
 チビの葉月がそう言ってから、一家は一礼して帰っていった。
 俺たちはダイニングへ戻る。
「いやぁ、ついもらってしまったなぁ」
 俺はもらった紙袋から、クッキーの缶を取り出しながらそう言った。嬉しいなぁ、これは。
「ねぇ、お兄ちゃん、葉月ちゃんのところのおじさんとおばさんって、最近ウチに来た?」
「うん? どうしてそんなことを――」
 ハッとした。なるほど!
「ああ! 来た来た。ちょうど陽菜が寝込んでいる時だったから知らなかったかな?」
「へぇー、だからだったんだー」
 そうだよ? だからだったんだよ?
「リビングに落ちてた白い髪の毛は、おじさんたちのだったんだね! 疑ってごめんね、お兄ちゃん」
 しょんぼりしながら陽菜は謝った。
 そう、おじさんもおばさんも、白髪のままだったのだ。特におじさんの髪の長さは、ルゥの髪の毛と同じくらいだった。
「誰にだって勘違いはあるさ。気にしなくてもいいぞ、陽菜?」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
 嘘を吐いたことに良心の呵責を覚えたが、あの瞳からハイライトが消えた怖い陽菜はもう見たくないからな……。
 今度から家の掃除は頻繁にしよう。そう心に誓った。

  *

 次の日、授業後の休み時間でのことだった。
 前の席の公治が振り向いて言った。
「蒼助、悪りぃ、今の授業のノート見せてくれね?」
「……え? ノート?」
 俺はぼんやりしながら受け答え、机の上のノートを、ぼんやりしながら公治に手渡した。
「いつもすまんな、すぐ返すから」
 公治は前を向いた。
 そして、すぐまた振り向く。
「って、白紙じゃねぇか! 蒼助も授業聞いてなかったのか?」
「え? ああ、ごめん」
 俺は公治にぼんやりしながら答えた。
「あの蒼助が……。珍しいこともあるもんだなぁ」
 そう言いながら公治は俺にノートを返却した。
 レオナさんが心配そうに声を掛けてくれる。
「蒼助くん、朝からボーっとしているけれど、大丈夫?」
「うーん、ちょっと考え事をしていてね……」
 少し心配掛けちゃったかな? 大したことではないんだけれど……。
「そう? どんなことを考えていたの?」
「それは……、秘密。大丈夫だから、心配しないで、レオナさん」
 考え事というのは、もちろん陽菜、そしてルゥに関してのものなのだが、話せるはずもなく……。
「困るのよねぇ……」
 レオナさんが呟いた。
「え? 何が?」
「そういうミステリアスな言動されると……」
 俺は吹き出して笑った。
「専売特許だから?」
「そうよ」
 そう言ったのち、レオナさんは真剣な表情になる。
「悩み事なら、相談に乗るから」
 そんな言葉を言い慣れていないのか、彼女は頬を染めた。
「ありがとう。本当に大丈夫だよ。ちょっと、将来のことでね、迷っているだけなんだ」
 ここで、公治が反応した。
「将来のことだって? 医者になるの夢、諦めるのか?」
「違うよ、公治。諦めるとかではないんだ。必要性の問題でね」
 そう、夢の必要性だ。
「必要性? もしかして、妹さんの症状が改善してきたのか?」
 そうではないのだが、話せるはずもなく。俺は曖昧に返事をした。
「……まぁ、そんなところかな?」
「よかったじゃん! おめでとう!」
 俺は30点くらいの笑顔を返した。
「ああ……。ありがとう」
 その時、休み時間終了を告げる鐘が鳴った。
 身が入らないまま、再び授業が始まる……。
 俺には夢があった。そう、あったんだ――。

 昼休みになった。
「おっ! 葉月ちゃん、久し振り!」
 公治が色めき立つ。
 葉月は以前のようにショートヘアの金髪に戻っていた。
「染め直したんだ?」
 俺は少しドギマギしながら葉月に話し掛けた。あの「卯月さん」が葉月の未来の姿だと知ってしまって、どう彼女と接したらいいのか、分からなくなってしまっていたのだった。
「うん。あの後、家族で美容院に行ってね」
 それから葉月は1組の友人たちに「久し振りー」と挨拶して回る。
 そんな姿を見て、レオナさんがホッとした様子で呟いた。
「元気そうでよかったわ、葉月ちゃん」
「そうだね」
 昨日は大変だったもんな……。おばさんの呼吸が止まった時のことなんか、今思い出しただけでもゾッとする。もし医者になろうと思ったら、研修医時代にあれ以上の緊急事態を体験しなくちゃいけないんだろうな……。
 俺は、もしかしたら医者には向いていないのかもしれない……。だとすれば、よかったのかも……。
 そうこう考えていると、葉月が戻ってきた。
「蒼助、ごめんなんだけど、中間テストも近いし、今度勉強見てくれる?」
 そう言って手を合わせ、片目を瞑った。チビの葉月のそんな表情は見慣れていたのだが、やはり「卯月さん」がチラついて、俺は少し赤面した。そんな葉月の顔を直視できなくて、俺は顔を背けた。
 そして、曖昧な返事をする。
「あー……。どうかな?」
「うん? どうしたの?」
 ここで公治が説明しようとする。
「蒼助な、今日ノートも――」
「待て、公治!」
 公治に目配せする。「葉月には心配掛けたくないんだ」と。そんなアイコンタクトが通じ合うほど俺たちは仲を深めていた。
 彼から返答が返ってくる。「分かったよ。葉月ちゃんには勉強ができる『蒼助くん』でいたいんだな?」と。
 うーん? そういうわけではないんだけれど……。まぁ、黙っていてくれるのなら細かいことはどうでもいいか。
 しかし、レオナさんが首を傾げながら言ってしまうのだった。
「蒼助くんね、朝からボーっとして――」
「ちょっと、レオナさん!」
 俺はパチクリと目配せを送った。
 レオナさんは首を捻る。
 あれー? 伝わらないかなぁ?
「蒼助がどうしたって?」
 おい、話を促すな、葉月!
「レ、レオナさん?」
 そう言っても、やはり小首を傾げるレオナさん。
 あれー? おかしいなぁ? 俺たちの仲は――。
「勉強が手につかないらしいのよ」
 あーぁあ、言っちゃったよ。
 ま、まぁ、アイコンタクトで通じ合えるのは、男同士の公治だけ、ということかな……。
「えっ! なんでっ? どうしちゃったのっ?」
 葉月は目を丸くした。心底驚いている様子だ。
 ほら見たことか。こうなると思ったんだよ。
「……仕方ない、あとで説明するよ。あとでね」
「うーん、分かった」
 昨日のこともあるし、まぁ……、葉月になら話してもいいかもしれない。
「へぇ……。葉月ちゃんには秘密にしないんだ?」
 レオナさんが頬を膨らまして不満を述べる、もう、本当に可愛いなぁ、この人は。その膨らんだ頬を突っつきたい――。
 と、思った時にはもう、突ついていた。
 ぷしゅぅーと音を立てて彼女の頬はしぼみ、代わりに赤くなった。
「ちょっ、やめてよっ、もーう」
 恥ずかしがる彼女を見て、俺は堪らず笑みを零した。
 すると、彼女もつられて笑った。可愛いなぁ、もう。
 ハッ! 葉月がすぐそばにいるのに、俺はなんてことを……! また「イチャイチャして」とか言われてしまう。今回は言い逃れできないのに!
 恐る恐る、葉月のほうを見ると……、面白くなさそうな表情をしているものの、以前のような鬼の形相ではなかった。
 そんな姿を不思議そうに眺めていると、俺の考えが伝わったのか、葉月が答えをくれる。
「アタシ、大人になったもーん」
「なるほどね」
 本当に昨日まで大人になっていた葉月が言うと説得力が違うな。
 そうして葉月は颯爽と去っていった。
 それからようやく俺たちはお弁当を広げ、昼食を摂り始めたのだった。

  *

 俺は陽菜の身体を治すためなら“なんでもやる”。
 最初は医者になるつもりだった。しかし、高校で3年、大学で6年、研修医の期間は初期・後期合わせて5年、締めて14年もの歳月が必要となる。
 例の「願い事を叶えるおまじない」に効果があるのであれば、明後日にでも陽菜を健康にしてやれるんだ。
 ……やらない手はないだろう。
 俺は勉強に費やしてきた日々のことを想った。周りから「ガリ勉くん」と揶揄されながらも耐えて、堪えて、頑張ってきた時間だ。
 葛藤がないと言えば嘘になる。
 今までの俺はなんだったのかと……。
 医者になるという夢は、願い事は、陽菜を治すためという以上に、俺の生活の基盤であり、拠り所でもあったのだ。
 陽菜が「看病してもらっている時だけは安心できる」と言っていたように、俺もまた、勉強している時だけは安心できた。
 医者になったって、病弱体質を治せるという保証はないのだ……。
 故に俺は“安心感”を欲していた。それが勉強という行為だった。
 俺の生き甲斐そのものだったとすら言える。
 しかし、その必要もなくなって……、今後のことを想うと、未来のことを想うと、まるで断崖の端に立っているかのように心を不安定にさせる。
 みんな、“未来”とどう付き合っているのだろう?
 こんなにも不安なものだとは知らなかった。
 とにかくだ。俺の感慨など思案の外にしてでも、やる。必ずだ。「おまじない」の決行は土曜日。
 熱を出した陽菜の世話をしながら、俺はコトを開始した。
 急ごう。
『ステップ1 小さな紙に願い事を書くこと』
 朝、紙切れに「陽菜が健康になりますように」と書いた。
『ステップ2 自分にとって一番大事な物を依り代に選ぶこと』
 依り代には、陽菜が小学生の頃に授業で書いてきてくれたお手紙を選んだ。「お兄ちゃん、いつもありがとう。」などと書かれている物だ。
『ステップ3 依り代にステップ1の紙を、文字が内側に来るように押し付け、気密性のある物でそれらを覆うこと』
 お手紙と紙切れをラップでくるんだ。
『ステップ4 ステップ3で作った物(依り代包み)を12時間、水中に沈めること』
 朝から鍋に水を張り、依り代包みを重しに乗せて沈ませ、蓋をして棚にしまった。
『ステップ5 依り代包みを12時間、土の中に埋めること』
 日が落ちてから、庭に穴を掘り、依り代包みを埋めた。
『ステップ6 依り代包みを6時間、日光に当てること』
 次の日、日曜日は運良く晴れの日だった。朝から依り代包みを掘り出し、庭の目立たないところに置いて日に当てた。
『ステップ7 依り代包みを6時間、月光に当てること』
 そのまま庭に放置し、月明かりに当てた。
『ステップ8 以上のことを、誰にも見付からずに行うこと。依り代を包んでいた覆いを外し、願い事を書いた紙を見て、文字が消えていれば成功。文字が残っていれば失敗』
 月曜日の朝、庭でラップを剥がし、紙切れを確認した――。
 ……文字が消えていない!
 失敗らしい。
 何故だ? 手順は完璧だったはずだ。何故失敗した? 一体、何故……?
 分からない。
 ひとまず俺は学校へ行き、授業そっちのけで考えた。それでも何故なのか、さっぱり分からなかった。
 家に帰ってからも考えたが、分からない。
 ヘルプといこう。
「ルゥ、どうして失敗したと思う?」
 珍しく彼女は真剣な顔をした。やはり幼いその身体には似合わないな、と思った。死に関して話した時もそうだ。
 ――「……誰だって、死ぬのは嫌にゃ? それと同じにゃあ」
 あんな言葉、ルゥには似合わない、そう感じた。彼女は何か、大きな秘密を抱え込んでいる……。
「やっぱり、蒼助は『おまじない』に手を出したのにゃあ……」
「ああ。でなけりゃ、手順をルゥから聞き出したりなんかしないさ」
「残念にゃけど、ワタシにも失敗した理由は分からないにゃあ……。もしかしたら、ワタシが“聞かされていない”ルールや法則があるのかもしれないにゃ」
 また……、「聞かされていない」、ね……?
 ――「そうだにゃあ、確かにワタシは“聞いている”にゃあ」
 検討ならついている。しかし「彼女」に尋ねるのは先送りにしたい。
 ならば、どうする? こうして2人で話していても答えは出ないだろう。
 つまり第三者が必要だ。
 ヘルプその2といこう。彼女には「あとで説明するよ」と言ってしまっているしな。
「蒼助! なんで『おまじない』を使ったのっ? ウチら家族がどんな目に遭ったか、知ってるはずじゃん!」
 呼び出したのは葉月だった。
 コトの概要を話すと、彼女は苛烈に怒った。
 自分の部屋に、現状はぺったんことはいえ、将来はたわわになる女の子がいると思うと、たとえ相手が気心知れた葉月だとしても、ドキドキしてしまう……。
 しかし、言うべきことは言わなければ。
「葉月なら分かるだろう? 俺は陽菜のためなら、なんだってやるんだ」
 葉月は苦悶の表情を見せた。
「それは、分かる……、けど、でも、ダメだよ! きっと『おまじない』は『願い事を叶える』ものなんかじゃないんだよ。周りに厄災をまき散らす、『呪いのおまじない』なんだよ」
「……なるほど」
 俺は顎に手を当てた。
 葉月の言は一理ある。「早く大人になりたい」と願った葉月に、約2日で30歳ほども加齢させたのだ。それは葉月にとっては明確な「災い」だったろう。
 翻って、俺が願ったことは「陽菜が健康になりますように」だ。「呪おう」という時に、そんな願いは叶えられないのかもしれない。何かしらの「被害」が伴わなければ叶わない、ということか……。
「ありがとう、葉月。助かったよ」
「助かったって、何っ?」
 彼女は未だにご立腹のようだった。
「まさか、また『呪いのおまじない』を使おうとか、考えてないよね?」
 ……使うに決まっている。
「もう使わないよ」
「本当に? 約束して」
「ああ、いいよ」
 ……陽菜のためなら、俺は約束だって破る。
「約束、破ったら容赦しないからね」
「それは怖いな……」
 一体どんな罰が待っているのだろう?
 ……だが、罰を受けようとも、俺は陽菜のために――。
「こっちから勝手呼び出しておいて、言いにくいんだけれど、葉月? こんな時間まで男の部屋にいるもんじゃないぞ?」
「『こんな時間』って、まだ6時じゃん?」
 そう、もう日が暮れている時間だ。
「いつも、7時くらいまでこの部屋で勉強とかしてたじゃん? 急にどうしたの?」
 なんと説明したらいいのやら……。「未来の葉月のことを想うとドキドキしちゃうから」とは言えず。俺はとにかく「いけないよ」と述べる。
「お、女の子が夜遅くまで男部屋にいた、今までがおかしかったんだよ。葉月はもう大人になったんだろう? その辺の貞操観念もアップデートしても、いいんじゃないか?」
 葉月は表情をだらしなくし、口をニヤケさせた。
「ふーん? もしかして……、アタシの魅力に気付いちゃった?」
「ぐっ……」
 俺は言葉を詰まらせた。
 ――「蒼助、お前はもったいないことをしてると思うぜ?」
 ――「葉月ちゃんのことを『チビ』とか言って、からかってよぉ。せっかくあんなに可愛い娘が幼馴染みなんだぜ? オレなら放っておかねぇけどなぁ」
 ふと、公治の言葉を思い出した。
 確かに今、俺の目には葉月のことが「可愛く」見えていた……。
「へぇ……、あの一件も、悪いことばっかりじゃなかったみたいだね」
 葉月はベッドから立ち上がった。
「分かった、今日は帰るよ、帰りますよー、『お姉さん』ですからねー」
「今はお姉さんじゃないだろ」
「……今は、ね?」
 そう言って「うふふ」と悪戯に笑った。
「じゃ、帰るね。ルゥちゃんもまたねー」
「またにゃあ」
 俺たちは別れの挨拶を交わし、葉月は帰っていった。
 さぁ、「呪いのおまじない」を始めよう!
 願うことは――。

  *

 次の日は火曜日で、陽菜は熱を出し、学校を休んだ。月曜日は大丈夫だったのに……。
 俺は「おまじない」を、前日の夜半から開始し、火曜日の夜に「ステップ5 依り代包みを12時間、土の中に埋めること」を実行。それから朝に掘り起こし、庭先に「依り代包み」を設置した。そして、学校へ行き、そのまま眠りについた――。
 これで全ステップ完了のはずだ。

 そうして迎えた水曜日。
 朝、ベッドの中で目が覚めると、身体が熱っぽく、ダルかった。
 確認するまでもない。「おまじない」は成功だ! 庭先の「依り代包み」に添えた、願い事を書いた紙片からは、文字が消えていることだろう……。
 しかし……、陽菜はいつもこんな苦しみの中にいたのか……。コトを急いで正解だったな。
 だが、あれ……? いつもと違って、ルゥが布団の中に入り込んでいない。
 俺は布団をめくった――。

 願ったことは「俺の命を陽菜に分け与えてください」だ。

 ああ……、それが、こんな形で叶うわけね……。やはり「呪い」と呼ぶにふさわしいのかもしれない。
 俺はフラつきながら部屋を出て、キッチンへ向かった。
 とにかく、朝食を作ってやらないと……。
 だが、頭が上手く回らなかった。そういえば、体温も測っていない。失念していた。
 大丈夫、大丈夫だ……。炊飯は昨晩からタイマーをセットしている。あとは、おかずを作るだけだ。大丈夫……。全く食欲はないが、大丈夫だ……。
 目玉焼きでも焼こうと思ったその時だった。
「きゃあ! 何これ! 誰、キミ!」
 扉越しに「俺」の叫び声がした。どうやら向こうも目覚めたらしい。
 そっちほうのことも失念していたが……、健康な身体なら、いくら驚いたっていいだろう。
 もういいか……。目玉焼きくらいなら作れるだろうし、朝食は任せよう……。
 俺は、熱で限界だ……。学校には行けそうにない。眠らせてもらおう……。
 そうして俺は部屋に戻り、布団を被った。
 すぐに「俺」が部屋に入ってきた。
 入ってきたはいいが、「俺」は恐る恐るといった感じだ。それはそうだろうな、相手の“中”に誰が入っているかなんて、想像することしかできないのだから。
 こんな時、いつも陽菜は起き上がろうとしてくれたっけ……。こんなにも身体がダルいのに……。
 俺はなんとか身体を起こし、「俺」に話す。
「陽菜、おはよう……」
「お、お兄ちゃんなの……?」
 見た感じ「陽菜」は「やっぱり……」という表情だが、しかし戸惑いの色は消えない様子だった。
 正確には「俺の身体に精神が入った陽菜」だ。
「心と身体が、入れ替わっちゃったってこと?」
「ああ、そうだ。悪いんだけれど、学校へ『お休みする』って連絡を入れてくれないか?」
「でも……、だけど……」
 ああ……、こうして起き上がって話しているだけで身体がツラい……。陽菜は偉いなぁ……。それでもいつも、起き上がろうとしてくれていたんだから。
 心配げな「俺」の顔を見る。そんな顔を見せられたら「気丈に振る舞わないといけない」と思ってしまう……。
 失敗だった。今までずっと失敗していたんだ……。
 陽菜の身体に入って、陽菜の立場になって、初めて気が付いた。ビジネス用語だけれど、「虫の目・鳥の目・魚の目・コウモリの目」というヤツか……。その立場になってみないと分からない。
「あれ? 俺の学校には、俺が電話しないとダメか……」
 頭が回っていなかった。俺の声で俺がお休みの連絡をしては不都合が生じるだろう……。
 仕方ない……。
 俺はベッドから立ち上がろうとした。
 しかし、フラついて、後ろに倒れてしまった。ベッドに仰向けになる。
「大丈夫っ? お兄ちゃん!」
「ああ、平気だ、こんなの……。俺のケータイを取りに行こうと思ったんだけれど……」
「私が取ってきてあげるから。その間に体温を測って待っててね」
 俺は陽菜に言われた通りに従って、ベッドに横になって体温を測った。しばらくして、俺の姿をした陽菜が戻ってきた。
 俺は起き上がる。
「はい、お兄ちゃんのケータイだよ。体温はどうだった?」
 俺の身体とはいえ、陽菜がテキパキと動く姿に、感動していた……。
 これで、よかったんだ……。俺は心からそう思った。
「ありがとう、陽菜。ええと、体温は――」
 俺は測るだけ測って、確認するのを忘れていた体温計を見る。
「――38度5分だ……。けれど、大丈夫」
「大丈夫じゃないよ! 38度5分まで上がったら、かなりツラいでしょ?」
 経験者は語る、か……。哀しい体験談だが、それも今日までだ。
「いいや、大丈夫だ。俺はお兄ちゃんだからな……」
 陽菜は笑った。俺の顔なのが残念なほど、完璧な笑顔だった。
「今はもう、私の妹でしょ」
「それもそうか……」
 そうして俺は陽菜の声で陽映に、陽菜は俺の声で中学校に欠席の連絡を入れた。
「陽菜は、高校に行ってもよかったんだぞ?」
「行けるわけないでしょ! こんな状態で!」
 陽菜は何かを確認するかのように「俺」の身体を触る。その手付きがなんだか、いやらしく感じたのは、俺が熱に浮かされているせいかな……?
「とにかく、少し眠らせてくれ……」
 そう言うと、陽菜は「あっ!」と声を上げた。
「お兄ちゃんの部屋にいた女は誰?」
 妹よ、「女」とか言うな?
 いつものように、「俺」の瞳からハイライトが消失していた。俺の顔だと、より一層怖いなぁ。まるで暗殺者のそれだ。
「ルゥだよ。詳しくは本人から聞いてくれ」
 陽菜は「俺」の目を丸くした。
「えっ! ルゥちゃんなの!」
「そうだ――」
 答えようとした時、咳が出た。
 陽菜が背中をさすってくれる。
「分かった、詳細はルゥちゃんから聞くから、お兄ちゃんはもう寝てて?」
 慈愛に溢れた手で撫でてもらうことは、とても心地よかった。
 けれど、やはりなんだか手付きがいやらしいような……。
「ああ、そうさせてもらうよ。けれど、朝食、目玉焼きなら作れるよな?」
 眠る前に、それだけでも言っておかないと。
「もう、私の心配はいいから……」
「そうか……」
 そうして俺は、眠りに落ちた――。

  *

「この娘が本当に蒼助くんなの?」
 うん……? レオナさんの声が聞こえたような気がしたが……。
「信じられないかもしれないけど、本当みたいよ。このバカ。アタシの忠告を無視してこんなこと……。本当にバカなんだから!」
 怒った葉月の声がする……。
 重い瞼を薄く開けると、俺を覗き込むレオナさんと公治の顔が見えた。そこへ葉月の顔が加わる。
「起きた、蒼助?」
 やはり葉月の顔は鬼の形相だった。しかし、レオナさんと公治の顔は、本当に心配そうな表情だ。
「……夢か?」
「夢じゃない! 約束を破った罰だよ! 精々2人に心配掛けなさい!」
 やるなぁ、葉月。流石は付き合いが長いだけのことはある。俺が一番嫌なことの1つが「他人に心配を掛けること」だとよく分かっていらっしゃる。2人には、心配をお掛けしてしまって、本当に申し訳ない……。
 俺は身体を起こした。
「お、おい、無理しなくていいぜ?」
 公治がそう言ってくれるが、ここは無理するしかない。気丈に振る舞うしかない。せっかくお見舞いに来てくれたみたいなのだから。
「丸一日眠って、もう大丈夫だから……」
 本当は未だに身体はダルいし、重いし、頭痛もするし、体調は最悪だった。
 それでも俺は、なんとか心配させまいと笑顔を作る。
 すると、レオナさんが俺の額に手を当てた。
「レオナさんの顔をこんなに近くで見られるだなんて、風邪も悪くないね……」
 平気アピールで、そんなジョークを言ってみた。
 レオナさんは頬を赤く染めながらも、真剣な顔をしていた。そのアンバランスさが笑えた。
「妹さんの口でそういう冗談を言わないの。その言い草を聞くに、本当に蒼助くんなのね」
 彼女は額から手を離した。
「……まだ熱が高いわね」
 そう言って葉月に「冷却シートはある?」と問い掛けた。
 葉月からそれを2枚受け取り再び俺に向かう。
「じゃ、貼り替えるわね」
 そして首に貼っていた2枚を取り替えてくれた。
「ありがとう、ずいぶん楽になったよ。レオナさん、流石だね。獣医志望なだけあるよ」
「それはキミもじゃない。額じゃなく頸動脈にシートを貼っているだなんて。流石、医者志望ね」
 元・医者志望だけれどね……。
「けれど、本当に流石だよ。動きがテキパキしていたし、冷静だったもの」
「それはそうよ。私がパニックになったら、患者さんまでパニックにしてしまうでしょう?」
 同意見だった。
 やっぱり流石だなぁ。こんな、人の身体と心が入れ替わっているだなんて、わけが分からない状況だったろうに。
 どこまで話を聞いているんだろう?「おまじない」のことを……。
 あれ? そういえば陽菜はどうしたんだろう?
「蒼助くん、身体拭いてあげるわね。寝汗で気持ち悪いでしょう?」
 レオナさんに身体を拭いてもらえるだと? そ、そんなことあっていいのか……?
「な、なら、お願いしようかな……?」
「じゃ、公治くんは外に出ていてね。私もタオルを持ってくるわ」
 そう言ってレオナさんと公治は部屋を出ていった。
 葉月と2人きりになって、俺は彼女に尋ねた。
「なぁ、2人にはどこまで話したんだ?」
 葉月は悪戯に笑った。
「まず、陽菜ちゃんからアタシに連絡が来てね。それで2人には、蒼助が“危険な”『呪いのおまじない』に手を出したみたいだよ、って話して。あとは大体の概要かな」
 コノヤロー、「危険な」ねぇ……。2人の心配を煽りやがって。
「ルゥのことは話したのか?」
「うん。陽菜ちゃんにはバレちゃったんでしょう? だったら、話しておこうと思ってね。もちろん最初は信じてもらえなかったけど、様子が違う蒼助と『にゃあにゃあ』言うルゥちゃんを見せたら一発だったわ」
 そうか、「俺」とルゥを見せたのか。どちらもインパクトがあるからなぁ……。
 レオナさんを見た時の「俺」のリアクションも気になるところだが、ルゥを見た時のレオナさんのリアクションも気になるところだ。
 けれど、どちらも大体想像はつくな。前者は「俺」が瞳からハイライトを失くし、「女……」と呟くのだろう。レオナさんは、哀しいことだが、やっかまれることに慣れているようだし、そんなことを言われたって気にしないのかな? けれど、それを言っているのが「俺」だからなぁ……。多少キョトンとした顔はするかもしれない。見たかったなぁ……、キョトン顔のレオナさん。
 そして後者は、俺が見せていた白くて毛の長いネコ型のルゥと人型のルゥの毛髪に類似性を見出して同定するだろう。その前に公治が騒ぐかもなぁ、女の子が「にゃあにゃあ」言っているんだから。それでレオナさんが「撫でてもいい?」なんて言って、ルゥが「撫でてほしいにゃあ」とか言って、「きゃあー! 可愛い!」だなんてレオナさんがはしゃぐんだ。
 どちらも見たかった。どちらも見られなかった……。風邪を引くって、こういうことか……。寂しいなぁ……。
「そういえば、葉月は『卯月さん』のことを話したのか?」
「ううん、話してない……。ズルいよね、アタシ……」
 葉月は苦い顔をした。そんな顔しないでくれ……。悪いのは全て俺なんだから……。
 俺は彼女に声を掛けようとした。「……どうしてそんなこと言うんだよ。約束を破った俺への罰なんだろ? 葉月が気にすることないさ」と。
 しかし、そう言おうとした時、部屋のドアが開いて、レオナさんが入ってきた。
「レンジを使わせてもらって、ホットタオルを作ってきたわ」
 俺は言えなかった言葉を飲み込んだ。レオナさんと公治に心配を掛けたこと、そして、葉月に迷惑を掛けたこと、それらが俺への罰なのだ。甘んじて受け入れるしかないだろう……。葉月には近い内にいつか謝ろう。そう心に誓った。
「それじゃ、身体拭くわね」
 レオナさんに優しく促され、俺は「よろしくお願いします」と言って上着に手を掛けた。それを脱いでキャミソール一枚になると、葉月が声を上げた。
「ちょ、ちょっと、よくないんじゃない? 兄とはいえ、妹の裸を見るっていうのは……」
 い、言われてみれば確かに……。
 けれど、俺は今後ずっとこの身体なんだし、いずれは見ることになると思うんだが。
 それでもダメなのか? というか普段、陽菜の身体を拭いてやる時に背中からチラリと見えたりすることもあったんだけれど、まぁ、それは目を逸らして見ないようにしてはいたが。
 とにかく、葉月は手で俺の目隠しをした。それで満足なら、いいけれど……。
 俺はキャミソールを首までめくり上げて、レオナさんに身体を拭いてもらう。
「ひゃ! く、くすぐったい、なんだ、これ……?」
 つい嬌声が漏れた。自分からこんな高い声が出るとは、やはり状況は異常だった。「呪いのおまじない」、ヤバいな。本当にファンタジーの世界だ。
「ごめんなさいね」とレオナさんが謝る。
 目隠しされているから表情は読めないが、なんだか楽しそうに感じた。
「初めてだから勝手がわからなくてね」
 それからも目隠しされながら身体を拭いてもらった。
 とても不思議な体験だ。何も見えないから、次にどこを触られるかも分からない。故に、触れられるたびに俺は「ひゃあ!」と嬌声を上げ続けた。
 次はお腹? そこからまた背中に戻るのっ? 大きく前に、レオナさんの腕が回されたと思ったら、デコルテというのか? 鎖骨周りを拭いてもらった。もちろん俺は「ひゃあ!」と声を上げた。
 レオナさんも段々面白くなってきたようで、「次はどこでしょうねー?」なんてこちらを煽ってくるようになっていった。俺は「か、勘弁して!」と慈悲を乞うが、「綺麗にしなくちゃダーメ」と受け入れてはもらえない。
「蒼助、これも約束を破った罰よ」
 葉月が冷たく言い放った。これもですか?
 レオナさんは笑いながらランダムに身体に触れてきて、もはや「身体を拭く」という行為なのかどうかすら怪しくなってきた。ともかく俺は、甲高い声を上げ続けたのだった。
「ふぅ……。つい不覚にも、楽しんでしまったわ……。女の子の身体を拭くのが癖になりそう……」
 変な癖はやめてください。ミステリアスなレオナさんなら、趣味の欄に「女の子の身体を拭くこと」とか書きかねないから、やめてください。というか俺も、変な性癖に目覚めそうになってしまった……。本当に勘弁してくれ……。
 俺はようやく目隠しを解いてもらい、額の汗を拭うレオナさんに感謝を述べた。
「ありがとうございました」
 貴重な体験をさせていただきました。身体もスッキリしたし、本当に有難い。汗をかくくらい大変だったろうに……。俺はまた、迷惑を掛けてしまった……。
「ああ、そうだ、陽菜は今どうしているんだ?」
 そういえば目が覚めてから、「俺」を見ていない。何をしているんだろうか?
 その疑問には葉月が答えてくれた。
「陽菜ちゃんとルゥちゃんにはね、お粥を作ってもらってるの」
 ああ、キッチンに居るのか。なるほど。
 うん? それにしても時間が掛かっているような……。お粥なんて、炊き上がったお米があるんだからすぐにできそうなものだが……?
 その疑問にはレオナさんが答えてくれた。
「それが……、さっき部屋を出た時にキッチンの様子も見てきたんだけれど……」
 何故言い淀む? キッチンは今、どうなっているんだ? 気になる……。大変なことになっていなければいいのだが……。
 そういえばルゥは無論のこと、陽菜にも料理をさせたことはなかったな。けれど、なんたってお粥だぞ? お米を水に浸して温めるだけじゃないのか?
「ひょっとして、フライパンって……、どうなっていた?」
 今朝、目玉焼きを作るように言っておいたモノだ。
「フライパン? ああ、あの真っ黒な円盤がそれなのかしら……?」
 あちゃー、焦がしちゃったのか。円盤と言うからにはきっと卵ごと……。ウチの大事なフライパンが……。金だわしでゴシゴシ洗わなくちゃ。
 この先を聴くだけで怖ろしいのだけれど……。レオナさんは苦悶しながらも、なんとか言葉を続けた。
「お粥のお鍋も噴き零しちゃっていてね……。今は公治くんが見てくれているわ」
 大変なことになっていた。ああ、お鍋の底が焦げ付いていそうだ……。洗うのが大変そうだ……。
 これから陽菜とルゥにはゆっくりと料理のことも教えていかないとな。
 頃良く公治がドアをノックし、こちらからの返事を聞き届けたのち、部屋に入ってきた。
「蒼助、食欲はあるか?」
 この問いは……、どっちで答えるのが正解なんだ?「食欲はない」と、「料理ができていなくても大丈夫だ」と答えるべきか、それとも……。
 いや、公治は手にお盆を持っていた。何かしらの料理は完成したらしい。
 ならば――。
「少しくらいなら、食べられそう、かなぁ……?」
 食べられる物を頼むぞ、公治。信じているからな。
「そうか、じゃ、食べてみてくれ」
 公治が持ってきた器の中には、リゾットが入っていた。
 凄いぞ。美味しそうだ。惨状の中からよくぞ作ってくれた。感謝!
「冷蔵庫にある物借りてな、お粥の上澄みに牛乳とチーズを混ぜてから、コンソメとバターを加えて、黒コショウを振っただけの簡単柔らかめリゾットだ。味見してみたが、まぁ、食える味にはなってると思う」
 近くで見ると、いい匂いが食欲を掻き立てた。緑茶も淹れてくれている。なんてできる男だ、公治!
 俺は「ありがとう、いただきます」とお礼と挨拶を述べて、一口食べた。
 旨い。コンソメとバターの風味はもちろんのこと、牛乳がコクと旨味を押し上げている。そこへ振り掛けられた黒コショウがいいアクセントとなって、とても旨い。
「凄く美味しいよ。お腹にも優しそうだし、本当にありがとう!」
 公治はホッと安堵した様子を見せた。大変だったんだろうな……。俺は、またしても迷惑を掛けてしまった。
「公治は料理とかするの?」
 この出来は手慣れた者の仕事だ。きっと経験があるに違いない。
「オレにも妹が居るからな。たまにだが、料理はするんだ」
 ああ、聞いたことがあるなぁ、公治に妹がいるという話は。
 俺は俺、公治は公治、お互いに事情があるらしい……。
 公治と一緒にルゥも部屋に入ってきていた。
「ワタシも手伝ったにゃあ」
「そうか、偉かったな」
 俺はルゥの頭を撫でた。手伝った以上に、迷惑を掛けたんじゃないのか? そう問い掛けたくなったが、気持ちよさそうに目を瞑るルゥの顔を見ていると、そんな言葉も吹き飛んでいった。
「ネコのルゥちゃん、可愛いわよねぇー……。私も撫で撫でしてもいいかしら?」
 レオナさんがうっとりとしながら言う。とても魅惑的だった。初対面の時もこんな感じだったんだろうなぁ……。
「俺はご飯食べているから、レオナさんに撫でてもらえ?」
「分かったにゃ」
 そう言ってルゥはレオナさんにおねだりに行った。
 レオナさん、もとい、レオにゃんさんは「きゃあー! 可愛い!」と言ってルゥを撫で回した。
 ルゥを見ながら公治が内省的に呟く。
「『にゃ言葉』の女の子って初めて実物見たけど、やっぱり迫力が違うなぁ……。可愛い……」
 確かに可愛いし、インパクトがあるのも分かる。
 どうやら俺が想像した、初対面時の状況はあながち間違っていないらしい。
 俺はリゾットを完食し、再び公治にお礼を述べた。
「ありがとう、公治。それで、ちょっと俺、トイレに行きたいんだけど……」
「ダメだよ!」
 葉月が叫んだ。
「トイレがダメってどういうことだよ。目隠しでもなんでもいいから、行かせてくれ」
 そう言うと「仕方ないなぁ」と折れてくれた。
 俺は部屋を出て、トイレへ向かう。「俺」の姿を見掛けないが、一体どこへ行ったんだ?
 トイレに入ると、俺はタオルで目隠しされ、ズボンと下着を降ろされた。
 ……恥ずかしいな、これ!
 葉月の「はい、座って」の言葉に従う。
「耳も塞ぐからね」
「耳もっ?」
 そんな問い掛けも虚しく、耳に葉月の指が突っ込まれた。
 用を足し終え、葉月に拭いてもらう。確かに、このガサゴソはいやらしいな……。最初は葉月にやってもらってよかった――って介護か?
「はい、立って」
 葉月に促されて立ち上がって、ズボンを履かされた。
 目隠しのタオルを外してもらってから、俺は葉月に問い掛けた。
「なぁ、今日だけこんなことしても意味なくない?」
 彼女は目を丸くした。
 うん? 何故だろう? 俺、何かおかしなことを言ったか?
「まさかと思ってたけど、アンタ、ずっとこのままでいるつもりなの?」
 まさかも何も、俺はそのつもりだ。陽菜の病弱な身体は俺が引き受けるんだ。
 身体が「陽菜」になってしまったことは予想外だったが、「俺の命を陽菜に分け与えてください」という願いは叶えられた。陽菜には健康な「俺」の身体で生きていってもらう。
 こうして入れ替わって、病弱体質の大変さを知ったからこそ、よりそう思うのだった。
 故に俺は、葉月にこう答えた。
「無論だ。『陽菜に健康な身体を与えること』、それが俺の願いだからな」
 すると、葉月は大きな溜め息を吐いた。
「本当にバカなんだから……」
 何か言いたげな様子だったが、葉月はそれ以上、何も言わなかった。
 俺たちは部屋に戻り、体温を測った。
「37度5分か。だいぶ熱が下がって楽になったよ。みんな本当にありがとう! 心配掛けてごめん!」
 俺は頭を下げた。
 みんな、各々「頭まで下げなくてもいいわよ」だとか「謝んなよ。こういうのはお互いさまだろ?」だとか、有難いことを言ってくれた。葉月だけはぶすっとしたまま、無言だった。
「それで陽菜は?」
 公治が答えようとした。
「陽菜ちゃんなら、外に――」
 その時だった。
 扉が開き、陽菜が入ってきたのだ。
「見付けたよ、お兄ちゃん」
 陽菜は手に、俺の依り代包みを持っていた。
 待て、陽菜、それをどうするつもりだ。
 陽菜は依り代を包んでいたラップを無慈悲に剥がしていった。
 待て、待ってくれ!
「せっかく健康な身体が手に入ったんだぞ!」
 聞く耳を持たず、陽菜はラップを剥がし終わる。白紙の紙切れがポロリと落ちた。そこに書いていた願い事は、見事に消えていた。「おまじない」は成功しているのだ。なのに……。
「陽菜、俺の人生をお前にやるから……! だから、そんなことはやめろ!」
 そう叫んでも、陽菜の耳には届かない様子だった。いや、届いてはいるが、敢えて無視しているようだ。
 一体何故だっ? 風邪を引くことは、熱を出すことは、こんなにもツラくて、寂しくて、苦しいものなのに。そんな身体から、ようやく陽菜は解き放たれたはずなのに……!
 俺の“願い”は、それだけなのに!
「お兄ちゃん、私たちやっぱり兄妹だね……。依り代の隠し場所が私と一緒だったよ。バケツの影……。でも、日光と月光に当てなくちゃいけないから、丸見えだったけど」
 そうだ、俺たちは兄妹だ! 妹が病弱な体質なら、代わりに引き受けてやりたい! そう思うのが兄だ!
 ……ああ、そういうことか。
 妹も、そうなのか?
 陽菜も、俺が病気なら、代わりに引き受けたいと思ったのか……? 今まで散々熱を出して、苦しんできたのに……? そんなバカな……!
「よせ、やめろ!」
 俺の言葉を遮って、陽菜は語る。「俺」の瞳から、そして俺の瞳から、涙が零れ始めていた……。
「お兄ちゃんはこれを依り代に選んだんだ……。私、それだけで嬉しいよ……。こんなお手紙なら、これからも何枚だって書いてあげるよ。でも、私の人生は私のものだから――」
 陽菜は「俺」の手で、男らしくお手紙を破った。
 まずは半分に……。
「これは“私が選んだこと”だから……。私に人生を返して! ありがとう、お兄ちゃん!」
 そう言って、さらに半分に引き裂く……。陽菜から俺へのお手紙は、大袈裟なほど大きな音を立てて、破かれていった……。
「……バカなことをしやがって」
 ビリビリに裂かれたお手紙は、俺の手の中にあった。
 陽菜は、いつものようにベッドの中だ……。
 変わらなかった……。変えられたはずだった……。なのに、変えられなかった、何も……。
 俺は、俺と陽菜は、涙を拭った……。
 ベッドで起き上がっている陽菜を、いつものように横に寝かせた。
「まだ37度5分も熱があるからな? 横になっているんだぞ?」
 俺は努めて優しく言った。
 陽菜がしたことを、叱る気にはならなかった。何故なら全て、陽菜になんの相談もなしに「おまじない」に手を出した俺の責任だからだ。
 俺が葉月との約束を破った罰は、レオナさんと公治に心配を掛けたこと、葉月に迷惑を掛けたこと、それに加えて、陽菜を困らせてしまったことだ……。
 公治が目を丸くして声を上げた。
「すげぇ! それで身体と心が元に戻ったのかよ!」
 俺はきっと、渋い顔をしていた。いや、もしかしたら罰を目の前にして苦笑していたかもしれない。
「……ああ、戻っちまったよ」
 レオナさんはキョトンとしていた。今起きた現象に驚いてはいるのだろうが、まだ飲み込めていないといった様子だ。
「今……、蒼助くんは蒼助くんで、陽菜ちゃんは陽菜ちゃんなの……?」
 言い回しは妙だが、その通りだ。
 俺は「そうだよ……」と言って肯定した。
 ルゥはいつものニタニタ顔だ。その表情からは、何を考えているのか全く掴めない。見当もつかないな……。
 葉月は腕を組んで仰け反り、瞳を下瞼に近付けていた。いつもの癖だ、不満を感じた時の……。
「最初にも言ったけど、バカなのはアンタよ」
 俺は自分の無力さにうな垂れた。そして、ただ謝ることしかできなかった。
「ごめん……。みんなも、本当にごめん……」
 それから感謝を告げた。何度も何度も……。

 そうしてその場は解散となった。
 別れ際、レオナさんから声を掛けられた。
「蒼助くん、明日からは学校へ来れるのよね? 来週には中間テストがあるから、ちゃんと勉強しなくちゃダメよ?」
 中間テストか……。もはや興味ないな……。
 既に「医者になる」という夢を失ってしまった俺には、もう――。
 俺は曖昧に返事をした。

  *

 その後は後片付けに追われた。
 救われた。作業をしていれば、何も考えずにいられる。
 レオナさんから「真っ黒な円盤」と称されたフライパンの中の、スクランブルエッグのような大量の何かをこそぎ落とし、公治が上澄みだけ使ったお粥が入った鍋の、焦げ付いた底の部分と格闘しながら、夕食を作った。オーブンレンジを使ったチーズドリアだ。
 ご飯とミネラルウォーターを持ったいった時、陽菜は部屋で寝ていた。俺はお礼を言うことも謝罪することもできず、キャビネットの上にドリアを置いて戸を閉めた。
 このキャビネットも、本来の勉強机の引き出しとして使われていたはずだったんだ。俺の願い事が今も、叶い続けてさえいれば……。
 未だに俺は、現状に納得がいっていなかった。陽菜は今この瞬間も苦しんでいる……。
 ルゥの分のドリアを部屋に届け、俺は独りダイニングに座って、夕食を摂りながら「次はどんな願い事にしようか」と考え始めた時だった。
 陽菜が起きてきた。リスのぬいぐるみを手に持っている。
「体調はどうだ? ご飯は食べたか?」
 陽菜はゆっくりと静かに頷いた。
 何かを言いたそうにしている様子だが、何かを言い出す気配はない。
 少しの沈黙ののち、俺は再び陽菜に問うた。
「……どうした?」
 陽菜はキッチンに目を遣り、ようやく口を開いた。
「水が飲みたくて」
 それだけだった。それだけ言って、陽菜は台所へ向かって歩き始めた。
 もっと、例えばレオナさんのことだとか、何か言われることを覚悟していたのだけれど。
 俺は違和感を覚えながらダイニングに座って、台所の向こうの陽菜を見守った。
 陽菜はガラスのコップに水を注ぎ、一息に飲み干した。
 そして、シンク下の物入れをゴソゴソやったと思ったら、台所の影から身体を現した。
 俺は驚いて声を上げる。
「おい! 何をするつもりだっ?」
 陽菜は左手にリスのぬいぐるみを、右手には包丁を持っていた。
 その表情は何かを思い詰めているかのように暗かった。
 陽菜はぬいぐるみの包丁の切っ先を当てる。
「……『何を』ってお兄ちゃん、『おまじない』を解くんだよ」
 大体想像はついていた。大体見当はついていた。だが俺は、考えないようにしていた……。
 ――「そうだにゃあ、確かにワタシは“聞いている”にゃあ」
 ――「もしかしたら、ワタシが“聞かされていない”ルールや法則があるのかもしれないにゃ」
 ルゥが誰から「おまじない」のことを“聞かされていた”のか。
 前回の「卯月さん」になった葉月が、誰から「おまじない」のことを聞いたのか。
 ――「熱を出して、看病してもらっている時だけは、安心できるの……」
 陽菜はそう言っていた。「それ以外の時間は、家族だと思ってもらえていないのではないか」と不安だと……。
 しかし、まさか、本当に……?
「陽菜は……、『おまじない』に願ったのか……?『病弱な身体になりますように』と……」
 俺がそう問うと、陽菜は暗い表情のまま、怪しく口角を上げた。
「そう……、そうだよ。おばあちゃんが死んじゃった時にね……」
 陽菜が小学3年生に上がってすぐの頃で、俺が4年生の時だ。
 確かにそれまでの陽菜は、熱を出すのは月に1回程度だった。陽菜の病弱体質が加速し始めたのは、確かに祖母が亡くなって、3人家族になってからだった。
 祖母がいなくなって、俺が看病するようになって、俺が医者を目指すようになったきっかけでもある。
「でも、それも今日で終わり……。お兄ちゃんがこんなことをするなんて……。こんなことまでしてくれるなんて……。私、満足だよ?」
 陽菜は笑った。
 しかし、表情は暗いままだ。
「……今まで、騙しててごめんね?」
 想像通りだった。見当通りだった。だが俺は、混乱した。
 陽菜は自ら望んで病弱体質になっていた……。わざとだった、騙されて続けていたんだ……。
 怒りが湧いてきた。陽菜を看病することはずっと大変で、重荷だった。いつも心配していた。朝は元気に学校へ行っても、途中で体調を崩していないか、ケータイをマメにチェックして、報告がないか確認していたんだ。
 俺は神さえも呪っていた。濡れ衣だったと、神さまに謝らなくちゃな……。
 それが全て、陽菜による自己演出だったのだ。怒りもするだろう。
 だが、「医者になる」という夢をくれたことも事実だ。おかげで俺は陽映学園へ入学できたし、公治やレオナさんと出会えた。勉強もツラいだけではなかった。知識欲や好奇心を満たす喜びを知ることもできた。
 それも全て、陽菜のおかげなんだ。悪いことばかりではなかったんだ……。
 ついでに俺も、陽菜の世話をしていると、本当の家族になれた気がしていた。陽菜の言う通りだ。看病していると安心できた。「血が繋がっていなくても、家族になれるんだ」と……。
 だから――。
「やめろ、陽菜!」
 陽菜は眉間にしわを寄せ、口を一文字にして首を傾げた。
「どうして! 私のワガママで、6年間もお兄ちゃんに、お父さんに、迷惑を掛けたんだよ? 許されないよ……」
 ぬいぐるみには包丁の切っ先が当たり、凹んできていた。すぐにでも突き刺さってしまいそうだった。
「落ち着け、陽菜……。落ち着け、な? 落ち着こう……。まずは包丁を置け……」
 しかし陽菜は、包丁を手放す素振りを見せない。
 落ち着け、落ち着け、俺。
 確かに陽菜が自分に掛けた「おまじない」を解けば、陽菜は健康な身体になれる。それはいい、それはいいんだ。
 けれど俺が、この可能性に見当がついていて、敢えて思案の外にしていた理由はなんだ?
 確かにその理由は存在しているはずだ。
 なんだ?
 異常現象を引き起こすのが、あの「おまじない」だ。
 そう、「異常現象」……。異常現象と言えば――。
 俺は叫んだ。
「ルゥ! 部屋から出てきてくれ!」
 少し間が空いてから、ゆっくりと俺の部屋の戸が開いた。
 眠そうに目を擦りながらルゥが出てくる。
「なんにゃあ……? 大声で……」
 しかし、すぐに目を丸くする。
「にゃ! 陽にゃ! にゃにをしてるにゃ!」
 そうだ、ルゥだ! 陽菜を元気にしてやる方法として、俺がこの選択肢を排除していた理由、それがルゥだ!
 この「おまじない」は変なところで現実的だ。「卯月さん」の一件の時、葉月は「やたらとお腹が空いていた」と言っていた。老婆と化していたおばさんも痩せぎすになっていた。
 エネルギー保存の法則が適応されていたんだ。
 ルゥに関しても、似た話ができるだろう。
 ウチのルゥは陽菜が小学校2年生の時に拾ってきたネコだ。祖母と一緒に、陽菜もよく世話を焼いていた。それは病弱になってからもそうだ。ご飯は陽菜に代わって俺の担当となったが、ルゥといつも遊んでやっていたのは病床の陽菜だった。
 願いが叶い、陽菜の生命力が減った分、それがルゥへ渡ったのではないか?
 3年間、人間の生命力を受け取っていたからこそ、ルゥは人語を喋るようになったのではないだろうか? そして、それがさらに3年間続いて、生命力が溜まりに溜まって、ついに人型になったのでは?
 だからルゥの顔は、陽菜とよく似ていたのだ。陽菜が失ったエネルギーはルゥへ流れることで保存されていたのだ。
 そう、つまり――。
「いいか、陽菜。その『おまじない』を解除すれば、ルゥがただのネコに戻っちまうんだ」
 ――「……誰だって、死ぬのは嫌にゃ? それと同じにゃあ」
 ルゥにはそれが、なんとなく分かっていたんだ。だから、あんなことを言っていたのだろう。
 ただのネコに戻るということ……。
 つまり、人としての知性を失うということだ。
 それは、今のルゥの人格が死ぬも同然だろう。
「嫌にゃあ……。“消える”のは嫌にゃあ……」
 ルゥが寂しそうに呟いた……。
「でも、どうすることもできないのかにゃあ……? 消えるしか、にゃいのかにゃあ……?」
 彼女は涙を零し始めていた。
「お願いにゃあ……。陽にゃ、ワタシ、消えたくにゃいにゃあ……」
 彼女はうずくまり、土下座をした……。
 人間の身体を手に入れて、することが土下座だなんて、全くもって不憫だ、可哀想だ。
 どうにかして、救ってやれないものか……?
「どうすればいいって言うの!」
 陽菜は苛立った様子で、包丁の柄で台所の上のまな板を叩いた。
「方法は何か、俺が考えるよ。だから――」
 落ち着け。そう言おうとした時、玄関の扉が開く音がした。
 いつもより早いな。今日は飲みに行かなかったのか?
 親父が帰ってきた。
 この場を見られる……。ルゥの姿も……。
 いや、構うもんか! 親父なんかに!
「お前らどうした。なんの騒ぎだ」
 親父はスーツ姿のまま突っ立って俺たちの様子を眺めた。
 そうして口を開く。
「その白髪の娘は誰だ? 蒼助の友達か?」
 親父のことは気に入らない。母さんが死んでから、すぐに“外で”陽菜をこさえてきたことや、家庭での態度含め、そのほとんどが気に入らない。
 故に俺は、ぶっきらぼうに答えた。
「親父は、『願い事が叶うおまじない』のことを知っているか?」
 隠し立てするつもりはない。陽菜の心労にならないのなら、誰に何を知られたって、どうでもよかった。
 特にこの場合、相手は親父だ。これから生活していく上で、知らせておいたほうがいいだろう。
「『まじない』か……。確か、菜々子がそんな話をしていたな……」
 菜々子さんとは、陽菜の母親の名前だ。まだ未就学児だった陽菜を、ウチに預けていってから、今どこで何をしているのか、俺は知らない。ケータイに番号は登録されているけれど、それも10年ほど前のものだ。
 ともかく「おまじない」は菜々子さんから陽菜に受け継がれたもののようだ。
 俺は説明を続けた。
「その『おまじない』には本当に効果があって、それでネコのルゥが人の形になったんだ」
 親父は「ふん」と鼻で笑った。
「食費が掛かりそうだな」
 それだけだった。それだけ言って、親父は着替えに自室へ入った。
 親父はこういう何事にも無頓着な性格なのだ、息子にも、娘にも……。
 俺は立ち上がり、キッチンへ向かう。途中、陽菜の手から包丁を奪い取って戸棚にしまってから、チーズドリアを温めた。
 親父には一応感謝もしている。働いてくれているからだ。働いてお金を家に入れてくれている。それだけでも感謝に値する。
 特に俺は、公立よりもお金が掛かる、私立の高校に通わせてもらっている。故に、気に入らないことは多いが、頭は上がらなかった。
 出来上がったドリアをスプーンを添えて机の上に置いた。
 そして陽菜に、語気を強めて告げる。
「陽菜、さっき言い掛けたことだが、俺が何か方法を考えるから、早まったことはするな。分かったな?」
 もう少しちゃんと話し合いたかったが、親父が帰ってきた。陽菜には悪いが、話は終わりだ。
 ルゥもそれを聞いたのち、安心した様子で俺の部屋に戻っていった。
 ここで陽菜が述べる。
「ちょっと待って。お兄ちゃんのお話は分かったけど、ちょっと待って。ルゥちゃんはお兄ちゃんの部屋で寝るの?」
 今までもそうだったしな。これからもそうするつもりだったのだけれど?
 陽菜はどうも一言あるようだ。
「それはダメだよ。お兄ちゃんが私以外と――じゃなくて、女の子と一緒に寝てるのはおかしいよ!」
 うーん、ルゥとの夜の散歩もあるしなぁ……。
 けれど、陽菜がそこまで言うのなら、やめておくべきか?
「なら、ルゥはどこで寝かせればいいんだ?」
 陽菜は頬を膨らます。
 おや? ご不満?
「私の部屋で寝ればいいじゃん!」
 うーん、それはそうなんだが……。
 けれど、俺が解決策を思い付くまでは体調が不安な陽菜には落ち着いて眠ってほしいし……。
「ルゥはベッドにもぐりこんでくるぞ? 寝返りが打ちづらくなるけれど、大丈夫か?」
 陽菜は即答した。
「それくらい大丈夫だよ。ルゥちゃんがお兄ちゃんと一緒に眠ってることを知っちゃった以上、むしろ、それが気になってよく眠れないもん」
 何が気になるんだろう? 別にルゥは暖を取りたいだけで、一緒に寝たって何もやましいことはないんだけれどな。
 だが、陽菜が「よく眠れない」と言った以上、これは死活問題だ。陽菜が安心して眠れるよう、最大限の配慮をしなければならない。
「分かった。今日以降はルゥと夜、散歩に行った後、陽菜の部屋に連れていくから。それでいいか?」
 そう言うと、陽菜はひとまず納得してくれたようで、膨れた頬をしぼませた。そして頷く。
 話は纏まったな。
 親父にもルゥの存在を話したことだし、早速散歩に出掛けよう。それで早めに陽菜の部屋に送り届けよう。
「なら、陽菜は明日に備えて部屋で横になっていな? 明日は学校に行けるといいな」
 陽菜は素直に「分かった」と言って部屋に戻った。
 そして俺は、ルゥと散歩へ出掛ける。
 一緒に歩く夜道も、もう慣れたものだ。
 ルゥは俺の横に並んで、楽しげに歩く。これからは陽の下も歩かせてやりたいな。
 俺は陽菜の病弱体質もなんとかしてやりたいが、ルゥのことも守りたい。
 そのためには、どうすればいい――?

  *

 木曜日、俺は学校へ。
「昨日は大変だったな」と公治に、レオナさんからも「本当にね。凄いものを見ちゃったわ」と言われたが、俺は生返事を返した。
 ルゥと陽菜を守る解決策が思い付かないのだ。
「2人のおかげで陽菜は今日、体調を戻したよ。ありがとう」
 そう言うだけで精一杯だった。

 何も進展しないまま、日付だけが過ぎていった。
 金曜も、やはり身が入らないまま授業を受けて、土日が過ぎて、月曜日になって……。
 火曜になった。土日、陽菜は体調を崩して、このままではダメだと思いつつも、水曜日から3日間執り行われる中間テストを想うと、解決策を考えようにも集中できなかった。
 そうして、なんとか中間テストを終える。
 あの「おまじない」に効果があると知った「卯月さん」事件以前に、俺にまだ「医者になる」という夢があった頃に、授業の予習をしていたおかげで、テストではどうにかそれなりの点数は取れたと思う。
 それでも、どうしても、陽菜とルゥのことが頭をもたげた。
「蒼助、中間も終わったことだしよ、今日はお疲れ様会ってことでファミレスにでも行かねぇか?」
 公治から、試験の最終日、金曜日に声を掛けられた。
 今までなら、「医者になりたかった」中学の頃なら、試験後こそ周りと差をつけるチャンスだと思って、そんなお疲れ様会なんて断っていたが、今なら気分転換に参加してもいいかもしれない。
 けれど――。
「公治はいいのか?」
 そう、公治には俺以外の友達がたくさんいた。俺なんかに時間を割いていいのか?
 そんな懸念に対し、公治は笑って返事をした。
「いいに決まってんだろ? 話はつけてあるんだ。なぁ? レオナさん?」
 レオナさんも来るのか? お疲れ様会みたいな俗っぽいことには参加しないように思うのだけれど。
 レオナさんはぎこちなく微笑んで答えた。
「……そうね、行くわ」
 無理していないか? 大丈夫かな?
 しかし、レオナさんが来るということで、公治がこちらの予定を優先した理由が分かった気がする……。
 その答え合わせとなる発言を公治はした。
「野郎同士で遊ぶより、やっぱり女の子と一緒のほうが華があるよなぁ」
 公治らしいなぁ。なんて欲望に忠実なヤツなんだ。これがロック魂か? いや、きっと違う。
 しかして、こんな明け透けなところが公治の魅力だと再確認した。
「葉月ちゃんも誘ってるんだぜ。蒼助が来るなら、葉月ちゃんも来てくれると思うんだ。やったぜ!」
 葉月だって2組の友達と遊びに行くんじゃないのか? どうして俺が行くなら葉月も来るということになるのだろう? 疑問に感じたが、結局、来る来ないは葉月の意思次第だ。俺はとりあえず、流れに身を任せることにした。
 そうして、俺たちはファミレスへ向かった――。

  *

 葉月もお疲れ様会にやってきた。
 俺たちは試験後、昼間からファミレスのボックス席に座る。俺の右隣は公治、前には葉月が座り、斜め前にはレオナさんという配置だ。
「俺、ファミレスに来たのなんか、小学校4年生以来かも」
 俺の発言に公治が「え、マジでっ?」と驚く。
 祖母が亡くなってすぐの頃、料理のできない親父が連れていってくれたっけな。その時は、祖母がいなくなった喪失感が大きくて、何を食べていたのかも覚えていない。
 その後、陽菜が「おまじない」を使って病弱に拍車が掛かって、家で食事を摂らざるを得なくなって……。そう、俺が料理を始めたきっかけだ。
 最初は今の陽菜のように、フライパンやお鍋を焦がしたりして、碌な夕食を作れていなかったけれど、陽菜は黙って食べてくれていたっけ……。そんな健気な陽菜を見て、「医者になること」を決意したんだ。
 ……今では、それも遠い思い出になってしまった。
「私は、ファミレスに最後に来たのがいつなのか、覚えてもいないわ」
 レオナさんは俺に同調した。
 普通なら中学時代にみんな、友達とファミレスに行くのだろう。
 だがレオナさんも、「ガリ勉くん」だった俺同様に、小・中の頃は友達から一目置かれてしまっていたと聞く。故に、ファミレスとは縁遠かったということだろう。
 そんな俺たちを見てから、公治と葉月が視線を交わした。
 そして公治が言う。
「じゃ、今日は初級者の2人にファミレスの楽しみ方を教えてやるぜ」
「そうだね」と葉月が続いた。
 ファミレスの楽しみ方?
 食事を楽しむのではなく?
 一体どういう意味だろうか?
 俺には公治と葉月のしようとしていることが、全く見当つかなかった。
「いいか? ファミレスじゃなぁ、必ずドリンクバーを注文するんだぜ」
 ああ、聞いたことがある。確か各種ドリンクを混ぜて遊ぶのだと。
 食べ物で遊ぶな、と言いたいところだけれど、ニコニコと楽しそうな公治たちに水を差すのもどうかと思い、俺は言葉を飲み込んだ。
 けれど、全くもって「幼稚だ」と思った。
 俺たちは一通り注文を終え、食事が到着する前にドリンクバーコーナーへ向かった。
「蒼助、レオナさん。ドリンクバーじゃ、どれだけ不味い飲み物を作れるか競争するんだぜ?」
 不味い物を作る競争だって?
 嘘だろう、と思っていると、葉月が呟く。
「久し振りだなぁ」
 本当なのか!
 どういうことだ?
 どうなっている?
 俺は困惑し、レオナさんも訝しげだ。
「初心者にアドバイスしてやろう。コーンポタージュを使うと、めちゃくちゃ不味くなるぜ!」
 そんなアドバイスは要らない。
 何故なら不味いドリンクなど飲みたくないからだ。
「ああ、それと、自分で作った飲み物は自分で責任持って飲み干すことな」
 全くもって意味不明である。それは罰ゲームなのでは?
 そう思っている内に、公治は早速“不味いドリンク”を作り始めた。
 ええ、本当にやるのか?
「わ、私はコーヒーでいいわ……」
 レオナさんは顔をしかめて、そう言った。
 しかし、その逃げ道を葉月が塞ぐ。
「ダメだよ、レオナちゃん。これは勝負なんだからね。負けられないんだよ……! 本当は不味い飲み物を作れなかったら罰ゲームを設定するんだけど、まぁ、2人は初めてだし、罰ゲームは勘弁してあげるね!」
 いやだから、不味いドリンクを飲む時点で罰ゲームだろうに。
 どうしてそんなに必死なんだ? 罰ゲームを設定しないのなら勝っても負けてもいいではないか。本当に意味が分からないし、それ故に、目をギラつかせている公治と葉月が怖い。
 そうして様子見している間に、公治と葉月はドリンクを作り終える。
 彼らのコップの中には、まるでヘドロのような物が入っていた。
 お前ら本当にそれを飲むの?
 そして、俺もやらなくちゃダメなの?
「じゃ、じゃあ、まずはカルピスを……」
 コップに注いだ。
「おおー、いいチョイスだな、蒼助」
 公治に褒められた。
 全く嬉しくなかった。
 その後、色々混ぜて、最後にコーンポタージュを加え、初心者の俺でも熟練者たちと似たようなヘドロを作ることができた。
 全く嬉しくなかった。
 そして席に戻って飲み比べをする段となる。
 男女混合ということで、勝負は男ペアと女性ペアで行うことになった。
「じゃ、蒼助、これ飲んでみてくれ」
 無邪気に公治がヘドロが入ったコップを渡してきた。
 飲みたくないなぁ。
「なぁ、公治……。これ、味見はしたのか?」
 俺の素朴な疑問を、彼は一刀両断した。
「するわけねぇだろ?」
 確かに俺も怖くて味見はしていない……。
 とにかく我々はお互いにドリンクを交換した。
 恐る恐る公治の作ったヘドロを口に近付ける……。
 一体、どれほど不味いのだろうか……?
 凄くドキドキして……、俺の顔は、不思議とほころんでいた――。
「まっず! なんだこれ! ハハッ!」
 俺は開放的に笑った。
 そして俺が作ったドリンクを今にも口にしようとしている公治の姿を、ニヤケながら見守った。
「まっじぃ! やるじゃねぇか、蒼助! うええー!」
 彼は吐きそうになっているが、やはり顔は笑っていた。
 その姿を見て、俺も笑う。
 何故だろう?
 本当に、とても楽しかった――。
 その時だった。向かいに座る葉月が大声を上げた。
「ゲエェー! しょっぱい! レオナちゃん、何入れたのっ? ゲエェ!」
 レオナさんは微笑みながら答える。
「机の上にあった、お醤油を少々ね」
「うわぁ、不味そう! 聞いただけで不味そう。優勝だろう」
 俺は堪らず口走った。
 男子チームでよかったと、俺はホッと息を吐いた。
「ドリンクバーにない物を使うなんて卑怯! 反則だよ!」
 葉月が抗議の声を上げる。
 しかし、抗議しながらも、葉月は「きゃははっ!」と如何にも楽しそうに笑っていた。
「いや、葉月? そんなルールは初心者の俺たちには聞かされていないなぁ? 説明不足はそちらのミスだろう?」
 俺の指摘に葉月は「それはそうだけど! 不味すぎるよ!」と笑顔で応じた。
 そんな中、レオナさんも葉月が作ったドリンクを飲んだ。
「ふふっ! 不味い!」
 レオナさんは、今まで俺に見せたことのない歪んだ笑顔を浮かべた。
 それは悪い意味ではなく、不味さでしかめた顔と楽しくて笑った顔とを、まるでドリンクバーのように混ぜ合わせたものだった。
 不味い物を飲んでいるのに、みんな笑顔になるのは何故だろう?
 関係性かな? みんな友達で、友達同士で悪ノリして、はしゃいで。そんな雰囲気がそうさせるのかな?
 公治が言った「ファミレスの楽しみ方」は、正しいものだと認めよう。
 そうして俺たちはコップを再び交換し、自分で作ったドリンクを飲む。口々に「不味い、不味い」と言いながら、俺たちは盛大に笑い合った。
「蒼助のほうが不味いな」
 公治から勝者認定をもらう。
 全然嬉しく――いや、違うな。正直に言って、嬉しかった。
 そして葉月が要らないことを言う。
「でも、やっぱりレオナちゃんのが一番不味いよ、絶対。みんなも醤油入れてみない?」
「嫌だ! けれど、入れよう!」
 レオナさんが焦りながら注意喚起する。
「身体に悪いから、みんな本当に少しだけにしてね」
 言われた通り、お醤油を小さじほど入れてみると、ワンランク上の不味さになった。
 お醤油って凄いな。
 公治も驚いた様子で述べる。
「ビギナーズラックだな。これはオレの知ってる歴代でも、最高に不味いぜ!」
 ここで俺は不安を呈する。
「なぁ? これって、本当に自分で全部飲むのか?」
 そこは流石、熟練者。アドバイスをくれた。
 公治が言うには、一気に飲み干すか、あるいは少しずつ飲みながら、減った分をコーラなどを入れて薄めて飲み切るのだそうだ。
 葉月からも提案があった。
「もうさ、今回はみんな、『せーの!』で一気飲みしない?」
 確かに、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言うしな。
 その提案に乗り、みんなで乾杯して、一気に飲んだ。
 全員吐きそうになって、ドリンクバーへ走った。
 口直しに各々好きなドリンクをコップに注いで飲む。そうしてまた、みんなで笑い合った。
 バカだなぁ、俺たち!
 いや、俺たちだから、バカになれるのかな……?
 これまで勉強漬けだった俺なんかには、縁遠かった世界だ。
 なんだか、感慨深かった――。

 そうこうしている内に、注文の品がテーブルに届いた。
 レオナさんが、カルボナーラに手を付ける前に口火を切った。
「蒼助くんが元気そうでよかったわ」
「え?」
 不意の言葉に、俺は声を漏らした。
「だって、最近ずっと『心ここにあらず』という感じだったから」
 それは確かにそうだった。陽菜とルゥのことばかり考えて……。学校では常にボーっとしていたっけ。
 それは今でも解決できていない問題なのだけれど……。
「あっ……、もしかして今日のお疲れ様会は、俺のために……?」
 俺は公治のほうを向いた。
 彼は深く頷いた。
 俺はそんなに、みんなに心配を掛けていたのか……。
 俺はそんなに、みんなから想ってもらえていたのか……。
「ありがとう……」
 俺は素直に、みんなに感謝を述べた。
「もう、アンタは本当に、陽菜ちゃんのことになると周りが見えなくなるんだから」
 葉月の言葉に公治が続く。
「そうだぜ? 先週は驚かされたからな。蒼助のシスコンも相当だし、陽菜ちゃんのブラコンも相当だったぜ」
 陽菜がブラコン? そう言えなくもないのかな?
 というか、俺がシスコンだって? ま、まぁ、そう言えなくもないのかな……?
 葉月の言う、「陽菜のことになると周りが見えなくなる」というのも、頷けるところはあった。もしかしたら俺は、陽菜ファーストに考えすぎているのかもしれない。
 言い方を変えれば、「依存」か……。いや、陽菜もそうだとすれば「共依存」……。
 俺たちは健全な状態ではないのかもしれない。
 この問題に他者の介入を許さない、という態度がいけないのかもしれない。
 本当は、気付いているのに――。
 レオナさんは「それにしても」と苦い顔をして語り始めた。
「先週、蒼助くんの看病をした時、少し考えてしまったわ……」
 公治がハンバーグに手を付けながら「何を?」と問う。
「『獣医になりたい』という私の夢よ。看病するだけで、あんなに一杯一杯になるなんて、自分で自分が情けないわ……」
 どういうことだろう? レオナさんはあの時、ちゃんと冷静に対処してくれたではないか。
 同様の疑問を公治も思ったらしい。
「そんなに一杯一杯には見えなかったけど?」
 レオナさんは首を横に振った。
「いいえ、そんなことないわ。表面上は取り繕っていたけれどね……」
 そういえば「自分が冷静でないと周りもパニックにしてしまう」と言っていたっけ。その時は「流石だなぁ」と思ったのだけれど……。
 しかし俺も「卯月さん」事件の時に同じようなことを考えた……。「自分は医者は向いていないのでなないか」と……。
 故に、レオナさんになんと声を掛ければいいのか、全く分からなかった……。
 だが公治があっけらかんと言う。
「高校1年なら当たり前じゃね? 最初からそんな肝っ玉が据わってるヤツなんか、そうそういないだろ」
 俺はハッとした。
 公治の言う通りだ。俺もレオナさんもまだ子供で、これから場慣れしていけばいいだけで……。自分で自分の限界を決めてしまうには時期尚早だ。
 レオナさんもパスタを持ち上げた手を止めて、固まっていた。
「そういうものなのかしら……? 私なんか、動物が好きだから『獣医になりたい』と思っただけの、安直な発想なのに……」
 俺だってそうだ。
 これも陽菜への「依存」で、「陽菜のために医者になりたい」と思っただけなのだ。全く自分本意ではなかった。今にして想えば、本当に情けない。
 ところが、公治は口にライスをモグモグと含みながら首を横に振った。
 話せない公治の代わりに、葉月が言う。
「夢なんてそんなもんじゃないの? 最初は『好き』から始まってさ。……まぁ、夢なんかないアタシが言うのもなんだけど。っていうか、現時点で夢があるだけ凄いと思うよ? 普通将来の目標なんて、大学入試を目前にしてから悩んで決めるもんでしょ? それでも決まらない人のほうが多いと思うし」
 公治はモグモグしながら「その通りだ」と言いたげに首肯した。
 葉月はカレーライスをスプーンですくいながら笑う。
「だからアタシなんか、小学生の時に『医者になる』だなんて言い出した蒼助のこと、嗤っちゃったもん」
 葉月が俺の夢を嗤ったのは“そういうこと”だったのか……。
 性格が捻くれているだなんて思っていたが、間違いだった。すまない、葉月。
 しかし「普通なら」か……。
 俺も陽菜に「依存」して決めるのではなく“普通”に、“自分で”自分のことをよく見つめて、“自分で”自分の夢についてよく考えなくちゃいけないな……。
「……難しいなぁ」
 フォークに巻いたミートスパゲティから、ソースがポロリと零れるように俺は呟いた。
 レオナさんのほうは、決意を瞳に宿してカルボナーラを頬張った。
 そして嚥下してから、斜め向かいに座る俺の目を見据えて言った。
「以前、蒼助くんから言われた言葉を返すわ。『一緒に頑張りましょう!』」
 ――「私の夢は『美人獣医になって、可愛いネコちゃんたちを救うこと』なの!」
 ――「いい夢だね。俺の夢は「医者になること」なんだ。一緒に頑張ろう」
 そうだ、俺は彼女にそう告げたのだった。
 そんな言葉を掛けたにもかかわらず、今日までの腑抜けた態度は“不義理”だった。
 すっかり忘れてしまっていた。
 かつては「不義理はできない」と机に齧り付いて勉強に励んでいたのに……。
 俺はなんと答えればいいのだろう?「一緒に頑張りましょう」と言われて……。
 レオナさんはなんて答えてくれたんだっけ……。
 あれは入学式当日だった――。

  *

 レオナさんは、もうなんだかヤケになって述べる。
「とにかく! 私の夢は『美人獣医になって、可愛いネコちゃんたちを救うこと』なの!」
 わお、自分で「美人獣医」って言っちゃうんだ?
 だが今の発言は聞き逃せなかった。
 彼女にも夢があるのか……、想い願っている大事な夢が……。
「そっか。いい夢だね。俺の夢は『医者になること』なんだ。一緒に頑張ろう」
 俺の発言に、何故か彼女は頬を染めた。顔を赤くした女の子って可愛いなぁ……。
「『一緒に』、なんて。そんな……」
 彼女は口ごもった。
 初対面の人との沈黙が怖くて、俺は急いで口を開いた。
「ええ、ダメ? どうして?」
 彼女は取り繕うように、美しい黒髪を振り乱して被りを振った。
 その時、女の子特有のいい香りがした。そっちに気を取られそうになって、俺も被りを振りたい気分だった。
「いいえ、違うの。『一緒に』とか『仲間』とか、私、慣れていなくて……」
 なるほど、そういう意味か。「拒絶」でなくて一安心。
 それにしても「一緒」や「仲間」に慣れていないなんて意外だ。こんな美人さん、周りが放っておかないと思うんだけれどな。
「慣れていようがいまいが関係ないよ。特に今回のことに関してはさ、将来まで継続しての話なんだから。これは連帯というよりも『確認』だよ」
 レオナさんは美しい角度で首を傾げた。流れる黒髪も美しい。
 そして「確認?」と問う。
 彼女の美しさにドキドキしながら俺は答えた。
「自分が夢に向かって頑張るのはもちろんだけれど、同じように頑張っている人がいるんだっていう『確認』。俺はさ、友達に嗤われたりしながら、独りで頑張ってきたけれど、『独りじゃないんだ』っていう確認ができれば、もっと頑張れると思うんだよね」
 彼女は深く頷いた。何か思い当たる節でもあるかのように。
 だが、頷いてくれたのなら了解は取れたということだ。
「分かったわ。お互いの存在を励みにして頑張るということね? もし片一方が、迷うことがあるのなら、その助けをしてあげるような……」
 前半は俺の謂わんとしていたことなのだが、後半部分は少し踏み込みすぎのような……。そこまでいくと、それは「仲間」というヤツだろう。
 しかし、俺は夢に迷うつもりはないし、レオナさんが迷った時には助けてあげたい。ならば、後半部分も「よし」だ。
 続けて、レオナさんは言った。
「蒼助くん、頼りないかもしれないけれど、私を“よろしくね”!」
 そんな返事をくれた。こうして俺は、彼女を好ましく思うようになった――。

  *

 懐かしいなぁ……。
「レオナさん、頼りないところばかり見せちゃったけれど、俺を“よろしくね”!」
 俺の返事に、レオナさんは笑顔でもって応えてくれた。カルボナーラが口に入っていて、頬が膨れている。よく食べる女の子って可愛いなぁ。
 ――「もし片一方が、迷うことがあるのなら、その助けをしてあげるような……」
 そうか、このお疲れ様会は“そういうこと”だったのか……。
 ――「話はつけてあるんだ。なぁ? レオナさん?」
 ――「……そうね、行くわ」
 レオナさんは俗っぽいことには参加しないと思っていて、無理しているんじゃないかと勘ぐっていたけれど……。
 今日来てくれたのは、不甲斐ない俺のためだったのだ……。
 あの時は「俺がレオナさんを助ける」だなんて思っておいて、助けられているのは俺のほうじゃないか。
 葉月だってそうだ。
 ――「葉月ちゃんも誘ってるんだ。蒼助が来るなら、葉月ちゃんも来てくれると思うんだ」
 勉強に身が入っていない様子を見かねて、きっと2組の友達の誘いを断って、俺のために来てくれたのだろう。
「葉月も今日は来てくれてありがとう」
 葉月は照れ臭そうにそっぽを向いた。そして、話を逸らす。
「そ、そんなことより、蒼助、アンタ早く食べないとパスタ冷めちゃうわよ」
 ミートスパゲティを食べる前に、もう1人、お礼を言わなければならないヤツがいた。
「公治もありがとう。本当に今日は助かったよ」
 彼の発言のおかげで俺と陽菜の「共依存」に気付けたし、他にも示唆に富む言葉をたくさんくれた。感謝しかない。
 たとえ公治の下心でお疲れ様会が催されたのだとしても、感謝の気持ちに変わりはない。
「おう、構わねぇよ」
 簡単に、公治はそれだけ言って食事に戻った。それだけで充分だった、俺たちの関係性ならば。
 ああ、なんて幸せなんだろう……。
 ああ、なんて俺は幸せ者なんだろう……。
 迷っている時に気遣ってくれる友達が2人もいて、助けようとしてくれる「仲間」がいて……。
 俺はパスタを嚥下し、コーラを飲む。旨い!
 これ以上の“幸せ”があるか?
 これ以上の「祝祭」があるか?
 俺は満ち足りた気持ちの中で、3人と談笑しながら、とても楽しい食事を終えた。
「次はどこ行く?」
 そんな提案を公治がした時だった。
 俺のケータイが鳴った。確認すると陽菜からだった。「学校で体調を崩したから迎えにきてほしい」とのことだ。
 確か中学でも今日は中間テストで、昼までだったはずだ。
 迎えに行かなくちゃな。
「陽菜ちゃんから?」
 葉月が察してくれて、俺は頷いた。
 俺はしばらく考えて、それでも、みんなに告げた。
「俺、行ってもいいかな……?」
 みんな「行ってこい」、「行ってきなよ」、「いってらっしゃい」と嫌な顔一つせずに言ってくれた。
 俺は自分の分だけの料金を机に置いて、お暇させてもらうことにした。
「本当にごめん! けれど今日は、本当にありがとう、みんな! 来週から、またよろしく!」
 ……「よろしく」、そんな別れの言葉を最後に、俺はファミレスをあとにした――。

  *

 俺は中学校の保健室へ向かう。慣れたものだ。
 陽菜は試験後に体調を崩し、保健室で寝かせてもらって、それでも優れなかったため、連絡を寄越したそうだ。
 俺は養護教員さんにお礼を言って、陽菜に肩を貸しながら中学校を出た。
 学校を出てからはおんぶをして家を目指す。
 背中に感じる陽菜の身体は熱かった。
「お兄ちゃん、ごめんね……。ありがとう……」
 熱に浮かされた声で陽菜はそう言った。
「いつものことだろう? 謝罪もお礼も要らないよ。陽菜は眠っていな」
 いつものことだが、もしかしたら、すぐにこんなこともなくなるかもしれない……。
 あの「祝祭」のおかげで、俺は“勇気”をもらっていたのだ。尻込みしてしまっていたけれど、アドバイスをくれるであろう人物に会おうと考えていた。
 そう思うと、家までの帰り道も感慨深かった。
 陽菜を背負って歩く道は、俺が陽菜の病弱さを確かめる道でもあり、陽菜が俺から安心感を得る道でもあった。
 そう、「共依存」の道だ。
 俺は一歩ずつ、過去を踏みしめながら、歩みを進めた――。

  *

「ほら、ここが都市部だぞ」
「ビルが高いにゃあ」
 俺とルゥは、はぐれてしまわないように手を繋ぎながら、夜中にもかかわらず未だに四角い明かりが灯っているビルディングを見上げていた。
「帰りは良い物を食べていこうな」
「にゃ! それはいい考えにゃ!」
 ルゥは至極喜び、繋いでいる手をブンブンと前後に振った。
「にゃははー。にゃははー」とご機嫌な様子である。
 しかし俺の足は重たかった。
 俺は「彼女」に連絡を取ったのだ。
 家にはスーパーの総菜弁当を買って置いてある。
 待ち合わせはオフィス街にあるチェーンのカフェだった。
 約束の時間は夜8時。現在時刻は7時40分である。
 俺とルゥはカフェに入り、俺はコーヒー、ルゥは果物系のフラペチーノを注文した。
「甘くて美味しいにゃあ」
 どうやら気に入ってくれたらしい。
 俺のほうはよく味がしなかった。緊張しているせいだろう。苦い後味だけが舌に残った。
 ルゥがフラペチーノを飲み終わった頃(8時ちょうどだった)、彼女は現れた。
「初めまして。白髪の少女を連れていると聞いていたけれど、本当に真っ白で驚いたわ」
 年齢の割りにとても若々しく見えた。「卯月さん」くらいの見た目年齢だ。
 スーツを着込んている。“今は”なんの仕事をしているのだろう? と疑問に思った。
 しかして蠱惑的な魅力を持つ女性だった。まるでファンタジーの世界の魔法使いのようにも見える。
 髪型は、見慣れたウェーブする癖のある茶色い長髪だ。
 そして瞳にはハイライトがない。これは母親譲りだったのか……。
 俺は席を立って挨拶をした。
「初めまして、菜々子さん」
 陽菜の実の母親である。
「ええと、蒼助くん、だったわよね?」
「はい、そうです」
「へぇ、そう……、あなたが義理損ないの息子ね」
 そう言って彼女は口角を上げた。
 俺も「義理損ない」という言葉を聞いて吹き出しそうになった。
 どうやらユーモラスな方らしい。
 菜々子さんは机の上の飲み終わった2つのカップを見てから、言葉を発した。
「お店を変えましょうか。2人とも晩ご飯はまだかしら?」
「ええ、まだですけれど……?」
「それなら、美味しいお店へ連れていってあげるわ」
「にゃ! それはいい考えにゃ!」
 早速行こうと言わんばかりにルゥは立ち上がった。
 そんなルゥを見て菜々子さんは「ふふっ」と笑った。
「可愛らしい小ネコちゃんね」
「あっ、すいません、『にゃあにゃあ』言うのはコイツの口癖で……。その説明もしたいんですけれど」
「なら、落ち着いたお店に行きましょう」

 そうして連れられてきたところはフレンチ料理店だった。
 ちなみにここまでくるに当たってタクシーに乗ったが、彼女とは上手く話せなかった。彼女は助手席に座っていたし、ルゥは車に怯えてしまっていたからだ。ルゥに関して言えば、ネコ時代に動物病院へ連れていかれた経験のせいだろう。
 窓際の席に腰を落ち着ける。
「あの、いいんですか? こんな、高そうなお店……」
「いいのよ。可愛い義理損ないの息子のためだもの」
 彼女は寂しげに微笑んだ。
 彼女と天気に関する話をしている内に食前酒が届いた。彼女はシャンパン、俺とルゥは炭酸水だ。
 我々は乾杯し、三者三様にグラスを傾けた。俺は口を付ける程度に、ルゥはゴクリとのんだ。
「味がしにゃいにゃあ……」とルゥは言った。
 そして菜々子さんは舐めるように少しだけ口に含む。なまめかしかった。
「それで、話というのは何かしら、蒼助くん?」
「え、ええ」
 俺は緊張して言葉を詰まらせた。
 ケータイを取り出して述べる。
「まずはこの写真を見てください」
 ネコ時代のルゥの写真を見せた。
「このネコが、6年の歳月を掛けて、こうなりました」
 手のひらで横に座るルゥを差した。
「ふーん、使ったのね?『まじない』を」
 察しがよくて助かる。
「そうです、陽菜が」
 そうして菜々子さんに現状を説明した。
 話し終えた時を見計らって、ウェイターさんがやってきた。彼女が注文した赤ワインのラベルを見せびらかし、その場で栓を抜いてグラスに少量注ぐ。彼女はその味を確かめ、頷いた。
 そんなやり取りを眺めがら、俺は一息吐く。
「『願い事を叶えるおまじない』か……。そんなニュアンスで伝わってしまっていたのね……」
 彼女は発言に含みを持たせた。
「まぁ、幼い頃の話だし、仕方ないか……」
「そうじゃにゃいのかにゃ?」
 ルゥは素直にそう尋ねた。俺は尻込みしてしまっていたので助かった。ルゥを連れてきてよかったと思った。
「漢字で『まじない』はどう書くと思う?」
 これには俺が答えた。
「確か、『呪い』と」
「そう、よく勉強しているのね? 偉いわ。私なんか勉強はからっきしで……」
 内省的に呟いてから、彼女はグラスに残っていたワインを飲み切った。
 前菜が届けられ、早速ルゥは手を付ける。
「こんにゃに美味しい野菜を食べたのは初めてにゃあ」
「よかったな、ルゥ」
 俺はルゥの頭を撫でた。くすぐったそうにしていた。
「菜々子さん話の続きをお願いします」
「ええ、分かったわ。……あなたも食事をどうぞ?」
 促されて、俺はソースが掛けられたキャベツをフォークに刺した。
 菜々子さんはおかわりのワインを一口飲む。
「あれはね、その名の通り、『呪い』なの。神社の宮司さんをお客に取った時に教えてもらったものよ」
「ぐ、宮司さんが?」
 彼女は(“かつて”なのだろうけれど)水商売を生業としていたと聞く。
 神社の宮司といえど、欲望の発散は必要らしい。人間なのだから当然のことだ。
 俺は前菜を一口食べた。段々と落ち着いてきて、味を感じられるようになっていた。ルゥの言う通り、こんなに美味しい野菜を食べたのは初めてだ。相当にお高いお店と見受けられる。
 菜々子さんは酔い始めたのか、頬を染めていた。
「『呪う』のなら、私か健治さんをを呪って欲しかったのになぁ……」
 健治というのは俺の父の名前である。
「そのために、陽菜に『おまじない』を教えたんですか?」
「ええ、そうよ。だって、親って理不尽なものでしょう? 私も、きっと健治さんも、ね?」
 自嘲して彼女は言った。未就学児だった陽菜をウチに預けていった無責任さを自覚しているようだ。
 前菜を食べ終えたルゥが暇そうにしていた。なので俺も、少しもったいないが、急いで前妻を食べた。彼女は残すようだ。
 コース料理は進んでいく。
「それで、対応策のアドバイスをお聞きしたいんです。俺は、このルゥと陽菜、両方を助けてやりたいんです」
「そうね、『呪い』を解除したくない、けれど『呪い』の効果を阻害したい。それなら――」
 彼女は右手の人差し指を立てた。
「『目には目を、歯には歯を』、そして――」
 左手の人差し指も立てる。
 そうして俺を見つめて微笑んだ。
 俺は彼女の言葉を引き取る。
「『呪いには呪いを』、ということですね?」
 彼女は肯定する代わりにワインのグラスを傾けた。
「ありがとうございます。とても参考になりました」
 光が見えた。
 何かお礼をしなければと思った。けれど、一体何を? こんなに高いお店まで連れてきてもらって、金銭ではどうしようもない。
 あっ、と思い、俺は魚料理を貪り食っているルゥを見遣った。
 ルゥに猫耳フードを被せて髪を隠す。
「菜々子さん、これが一昨年くらいの陽菜の姿です」
「まあ、言われてみれば、目元から鼻にかけて、よく私に――」
 一瞬、色めき立ったが、彼女は首を横に振った。
「……ダメね。捨てたつもりだった。それでも、ずっと気掛かりだった。お腹を痛めて産んだ子だもの。当然のことだったわ。情は残り続ける」
「まだ、愛していらっしゃるんですね」
 10年も前の電話番号が、未だに通じていたことから、察しはついていた。
「そのことを改めて気付かされたわ。ありがとう」
「いつか、会いに来てくださいよ」
「その時こそ、私を呪ってもらおうかしら?」
 彼女は笑った。そうしてようやく彼女の食も進み始めたのだった。
 それから俺は、陽菜が兄離れできてない話をした。女性の影を見付けると態度が豹変すると。
「それも私と一緒ね。重い女だって、よくパートナーから言われたものよ」
 そう言って彼女は「ふふっ」と思い出し笑いをした。
 今夜のお礼は、彼女の愛する、陽菜の近況報告だ。
 彼女は、明確には口にしなかったが、喜んでくれたと思う。
 そして俺は今日までの、「おまじない」のせいで遭った酷い目の話をした。
 幼馴染みの一家が急激に加齢してしまった話と、陽菜と身体が入れ替わってしまった話だ。
 彼女は笑ってくれた。
 彼女の現在についての話は、敢えて聞かなかった。左手の薬指に指輪がはめられていなかったからだ。この年齢まで結婚をせずにいる女性に、プライベートなことを聞くのは、なんだか憚られたのだった。
 それに彼女からは“過去”しか感じなかった、というのもある。どこか彼女はセピア色だった。
 しかし、彼女の酒量が減るごとに、コース料理が進むごとに、彼女は色を取り戻し、現在と未来を取り戻していったように感じた。
 もしも次に会うことがあれば、近況などを聞けると思う。やたらと羽振りがいいし、ネイルサロンの社長でもしているんじゃないかな、と予想している。
 このようにして菜々子さんとの会食は終わっていった。
 帰りはタクシー代まで払ってもらってしまった。
「またいつかね、義理損ないの私の息子とルゥちゃん。陽菜を“よろしくね”」

  *

 俺は依り代包み作成し、深鍋に水を張って浸した。
 そして、12時間待つ。
 夜中、鍋から依り代包みを取り出し、庭に埋めた。
 翌朝。地中から依り代包みを掘り起こし、丁寧に土を払って、庭のバケツの影に隠しながら、日光に当てる。有難いことに、その日は晴れだった。
 夜になっても晴れは続き、月が昇るのを確認して、俺は眠りについた――。

 次の日。
 陽菜は元気に朝を迎えた。ルゥも一緒だ。
「今日はなんだか体調がいいから、ルゥちゃんと散歩に行ってくるね!」
 大丈夫だとは思うが、一応ルゥの確認をしておこう。
「ルゥ、体調に変わりはないか?」
 ルゥは首を傾げる。そして、いつものニタニタ顔で答えた。
「別ににゃんにも変わりにゃいにゃあ」
 俺はホッとして大きく息を吐いた。
「そうか、ならいいんだ。2人とも、いってらっしゃい」
 見送りの時、俺は「気を付けろよ」とは言わなかった。
 そうして庭から依り代包みを回収する。
 願い事を書いた紙を確認すると、その文字は消えていた。「おまじない」成功だ。

「陽菜が『おまじない』に願ったことが凍結されますように」

 菜々子さんからアドバイスをもらって、俺の考えた願い事は、陽菜の「おまじない」への直接攻撃だった。
 これにより、陽菜の「病弱体質になりますように」という願い事は中断され、同時に、ルゥへ流れ込んだ陽菜の生命力はそのまま保持されるだろう。
 俺は依り代に使った、“俺の”リスのぬいぐるみを、何の気なしにダイニングの机の上に置いた。
 するとその時、親父が起きてきた。今日は仕事が休みのようだ。その手には2リットル入りの焼酎パックが抱えられていた。
 親父は俺を見てから、周りを見回す。
「さっき出ていったのはネコのヤツか?」
 訝しげだ。「独りで外出させて大丈夫か?」と言いたいのだろう。
 俺は抱えていた問題が解決して、口が軽くなっていた。
「ルゥと陽菜だよ。『おまじない』を使ったから、陽菜はもう元気になったんだ」
 親父は「ふーん」と鼻を鳴らした。そして、ダイニングに座る。
「なんか酒のツマミはねぇか?」
 昼間から酒盛りかよ、と言うのも野暮だ。休みの日はいつものことなのだから。
 俺はとりあえずお昼ご飯にする予定だったウインナーを焼いて、ダイニングテーブルに置いた。
 すると、いつの間にか親父がリスのぬいぐるみを軽く弄んでいた。
 その手を止めて、ウインナーが乗ったお皿と、置いてやったコップを手元まで引く。
 早速コップに焼酎を注ぎ、ウインナーをお箸で摘まみながら、チビチビと酒盛りを始めた。
「お前もまだ、このぬいぐるみを持っていたんだな……」
 そう、俺と陽菜が持つリスのぬいぐるみは、祖母が亡くなった時に、親父がお揃いで買ってくれた物だった。「お守リス」というキャラクターだ。
 陽菜が「おまじない」にこのぬいぐるみを使ったことに、多少納得がいっていなかったが、“家族”ということなら、親父も家族だ。
 俺も大切に6年間取っておいた物だった。これだけが、親父が見せてくれた「父親」らしい行いだったからだ。
 親父は何を想ったのか、コップに8割ほど残っている焼酎を一気に飲み干した。
「……蒼助、お前には、名付けの理由を話したことがなかったな」
 そう言って、コップに焼酎を注ぎ直した。
 俺もダイニングの席に着いた。
「ああ、聞いたことはないね」
 興味があった。俺の名前の由来というよりも、母さんのことについてだ。親父は陽菜の母親の菜々子さんのことに比べて、異常に母さんのことを話したがらなかった。
 テーブルの上には焼酎が入ったコップと、ウインナーとお箸が乗ったお皿と、ティッシュ箱しか置かれていない。
 俺は神妙になって親父の話に耳を傾けた。
「オレが考えたんだぞ。オレのことなんか、どうでもよかったからな……。蒼依から一文字取って、『蒼臭くても人助けができる人間になるように』と“願って”な……」
 そうだったのか……。「蒼臭くても人助けができる人間になるように」、その言葉は、俺の胸に深く刻まれた。
 そして何故か親父は目を真っ赤にしていた。まさか、涙目になっている……?
「最初からな……、もう分かってたんだ……。『もしかしたら難産になるかも』ってな、『もしかしたら母子のどちらかが――』ってな……。その時、蒼依はハッキリと言ったんだ――」
 親父は大きく息を吐き、焼酎をまたグイと飲んだ。
 それから言葉を詰まらせながら続きを話した。
「『私の命よりも、子供のほうを優先して』ってな……」
 親父の目から、涙が零れた……。
 俺は親父が泣いたことに驚き、唖然とした。
 親父はそれでも続ける。
「蒼依は、『絶対だよ』と言ってな……。オレは何を泣いてんだ……? ダメだ、思い出したらもう……」
 ボロボロ泣きながら、親父はティッシュで鼻をかんだ。
 俺の頬にも、涙の川ができていた。母さんの願いが伝わってきて、それを受け止めた親父の想いが伝わってきて……、さらにそれを受け継いだ俺の存在が「尊いもの」なのだと、知ることができで、感極まって……。
「初めの内は、お前を見るだけでダメだったんだ……。泣けちまってな……。婆ちゃんには本当に世話を掛けた。婆ちゃん様々だ」
 そうか、俺を見るだけで死んだ母さんのことを思い出すから、外出ばかりしていたのか……。それで、寂しさを埋めるために菜々子さんのところへ行って、陽菜が生まれた……。
「俺にも、ティッシュくれよ」
 親父が抱える箱から何枚か奪い取って、自分の涙を拭いた。
 そのまま、しばらく俺と親父は沈黙した。心が、落ち着くまで……。
 そこで頃良く、陽菜が帰ってきた。
「ただいま」
「ただいまにゃあ」
 俺は気丈に「おかえり」と返す。
「陽菜、お昼ご飯は要るか?」
 陽菜は元気に答えた。
「うん! 食べる!」
 俺はキッチンへ入り、ウインナーを陽菜とルゥ、そして自分の分を焼いて、簡単な野菜と共にお皿に盛り付けた。
 そうして、親父と一緒に家族3人、いや、ルゥを含めて家族4人で昼食を摂った――。

  *

 陽菜は俺が「おまじない」と使って以来、熱を出していない。健康な身体を取り戻したのだ。
 ちゃんと陽菜に、俺が行った「おまじない」のことを伝え、納得もしてもらった。
「これから俺たちは、それぞれ、自分の人生を生きていこう」という確認も終えた。
 これで共依存関係も終わりだ。
 俺は陽映学園へ登校する。
 朝の教室に人はまばらだったが、レオナさんは着席していた。
 俺は彼女に話し掛ける。
「レオナさん、俺はまた『医者を目指す』ことにしたよ。自分自身のためだとは、正直、ハッキリとは言えないけれど……」
 陽菜のためではなくなった。だが、この願いは「蒼臭くても人助けができる人間になるように」と願った親父と母さんのためなのかもしれない。
 それでも、また俺には夢ができた。
「そう。私も美人獣医の夢を諦めたわけではないの。不安になっただけでね。蒼助くん、一緒に頑張りましょう」
 レオナさんは、この外面だけはパーフェクトな美少女は、パーフェクトな笑顔でそう言った。
 俺もそれに応えようと、裏表のない笑顔で言った。
「これからも、俺を“よろしくね”!」
 彼女は満足そうに頷いた。
 やはりその無邪気な姿は、その美しさは、まるで女神のようにも思えるほどに、とても魅力的だった。
 俺の気になる女の子――。それは、彼女の内面も含めてだ。
「ところで、ネコのルゥちゃんは元気?」
 目をキラキラさせて言う。
 ああ……、“変人”の中身が……。
「げ、元気だよ。ルゥのことを隠していた頃と違って、最近は昼間でも自由にお散歩に出掛けるようになったしね?」
 レオにゃんさんは「きゃあ!」と嬌声を上げた。
「なら、その内また蒼助くんの家に行ってもいいかしら! 私、ネコ語で喋る女の子にも興味があるみたいでね!」
 それはそれは、ニッチな嗜好でいらっしゃる……。
 しかし、俺の家にまた来てくれるというのは願ってもない話だ。楽しみにしておこう。
 ここで、公治が登校してきた。
「よう、公治。おはよう」
 公治は元気よく返事をくれた。
「おう! ロックンロール!」
 元気というか、なんだかテンションが高い。どうしたんだろうか?
 彼はその答えを教えてくれた。
「昨日、ついにギター買ったんだよ! これで弾かずの聞き専から卒業だぜ!」
 そりゃ凄い! ギターなんて確か数万から数十万くらいする、学生にとっては高い買い物だ。なるほど、テンションも高いわけだ。
「夢を追い掛けてる蒼助とレオナさんを見てたらよ、オレも何か始めたくなってな!」
 俺を見て……? なんだか気恥ずかしいな。
 けれど、悪い気分じゃない。
 こんな俺なんかが、どうあれ他人に影響を与えられたことが、自分の存在を肯定されたかのようで、この世に生まれてきた意味があったようで……。
 母さんが、自分の命よりも俺の命を優先してくれた意義を、こうやって果たしていけたらと、蒼臭くてもいい、人を助けていけたらと……。
 俺は胸の内で、そう願った――。
 その時、俺たちが居る1組に葉月がやってきた。
「葉月、おはよう。あれ……? なんか……」
 なんかいつもと違う……。
 葉月は恥ずかしそうに顔を赤くした。
 赤く……? 赤い、赤いのは頬だけではなく、どこだろう……?
 あっ!
「唇に何か付けてる?」
「えへへ、リップ変えたんだ」
 それだけで、少し大人っぽく見えた。「卯月さん」には遠く及ばないけれど、葉月も試行錯誤しているんだなぁ。
 高校に入学する時に「アタシ、髪染める!」と言った時は笑ったものだが、今では金髪のショートヘアでないと「他の髪型は考えられない」というくらいに似合っている。
 レオにゃんさんからいつの間にか元に戻っていたレオナさんが言う。
「大人っぽく見えるわね」
 俺と同意見のようだ。
「ありがとう! 急いで大人になるのはやめたんだけどね。でも、大人になった時の準備は今の内からしておこうと思って。お化粧も服装も、おしゃれ頑張るんだ」
 そっか、葉月は葉月で、自分で考えて、内面を成長させているんだなぁ。
 翻って俺は、この1ヶ月半の内に少しは成長できたのだろうか?
 激動の1ヶ月半だったと思う。
 思い返すと間が眩むほどに――。
 同様に、眩しい、ファミレスで俺にあの「祝祭」の光景をくれた笑顔が溢れる愛しい友人たちを見ながら、俺は微笑んだ。
 そして、かつての誓いを果たすために葉月に謝った。
「葉月、この間は約束を破ってごめんな。それと、また『おまじない』を使ったんだ」
 葉月は目を丸くした。
「どんなことを願ったのっ?」
「説明すると長くなるけれど、安心してくれ、危険な願い事ではないよ。それで陽菜は健康になったんだ」
 それからゆっくりと、みんなに事情を伝えた。

  *

 家に帰って、陽菜と一緒にルゥを撫でていた。陽菜の部屋のキャビネットは、本来あるべき位置に、勉強机の横に移動させた。
「最初はお前から始まったんだよなぁ……」
 ルゥは「にゃあ?」と、何が? といった風に小首を傾げる。
「なぁ、ルゥはこれからどうするつもりだ? ずっと人型のままかもしれないんだけれど、そうなると、人間社会で生きていくことになるんだ。分かってるか?」
 そう問うと、ルゥはニタニタ顔をやめて頬をプーっと膨らませる。
 何かご不満か?
「ワタシも考えてるにゃあ! まずはレストランでバイトから始めて、それからいつかは料理人になりたいのにゃ。料理して美味しいご飯をくれる蒼助と公治を見て、カッコいいと思ったのにゃ。それに、あのフレンチも美味しかったにゃー……」
 意外にやたらと現実的な将来像をお持ちのようで、俺は面食らった。
 だが、「俺を見て」か……。
 公治もそう言ってくれたし、ルぅもまた言ってくれるのか……。
 全くもって本当に、有難い話だ。
 そこへ陽菜が続く。
「私もね、健康になれて、少し考えてるんだ。これからのこと……」
 へぇ、兄としてそれは気になるな。
 俺と陽菜の身体が入れ替わった時、「私たち兄妹だね」とその口から言ってくれたんだ。もう他人だとか家族だとかにこだわってはいないだろう。
 今回の一連の事件で一番変わったのが、肉体的にも精神的にも陽菜だと思われる。
 そんな陽菜が考えていることだ。気にならないわけがない。
「一体どんなことを考えているんだ?」
 そう問い掛けると、陽菜は口に手を当てて塞いだ。
「秘密!」
                  了

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