見出し画像

障害者支援。『目的』は、もっと先にあるはず。


 SNSをぼんやり眺めていたら、福祉の界隈では有名で、何冊も本を出されている偉い方の投稿が目に飛び込んできました。

​『過介護になってないか?』

​ふむふむ、と読んでみると、要約するとだいたいこんなことが書いてありました。

「人は一つの欲求が満たされると、自信や達成感を得て、さらに次の目標へ向かう意欲が生まれる」

 誰かに認められ、努力を評価されることは、人が生きる力を育てる。
 支援職員への依存が強くなりすぎたり、何でも代わりにやってしまったりすると、利用者は自分でできることを失ってしまう。
 そうなると、達成感や自己肯定感を得る機会が減ってしまう。
 支援員は、利用者の身体状況や能力をよく観察し、「何をしてあげるか」ではなく、「どうすれば本人が自分でできるか?」を考えよ。


 ​なるほど、一見すると、めちゃくちゃ耳障りがいい。ぐうの音も出ない正論のようにみえます。

 その方が挙げられていた例え話は、こういうものでした。

​コンビニでお菓子を買う場面。

ヘルパーがお財布からお金を取り出して代わりに支払いを済ませちゃうのはNG。

「お金の計算が難しいから」
「時間がかかるから」

って代わりにやっちゃうと、本人が「買い物をした」っていう体験を十分に得られない。
自分でお金を差し出し、商品を受け取る。
その一連の経験こそが大切。


駅の券売機で。

「この人はお金が分からないから」

とヘルパーが切符を買っちゃうと、経験を奪うことになる。
たとえ料金を理解していなくても、お金を投入して自分でボタンを押し、切符を受け取る。
その経験の積み重ねが、自信や生活能力につながっていく。


体育の時間が迫っているときの、お着替え。

 
時間に追われて、ボタンを外すのに時間がかかる子がいたら、周りの子や先生が「早く早く!」って全部やってしまいがち。
だけど、その子がボタンを一つでも外せるなら、その部分は本人にやってもらうべき。
全部できなくても、できるところは本人がやって、できないところだけ手伝う。

 特別支援学校では、この考え方が徹底されている。
それが本来の支援。

「させてあげる」というのは上から目線かもしれないけれど、本人の力を信じて挑戦する機会を作ることが大切。
 本当に難しい部分だけを支援することが本人の達成感につながる。

「本人ができるところまで、やってしまってはいけない」

​ 画面の向こうでは、「素晴らしい!」「その通り!」と賛同するコメントが、きれいに並んでいました。

 ​場面によっては、確かに適切な対応かもしれません。

​ しかし、ボクは、どうしてもそれに賛同できません。

 特に気になったのは、
特別支援学校では、この考え方が徹底されている。

​むしろ、モヤモヤを通り越して、ヒヤリとした危機感すら覚えています。

 本人が求めている本来の目的(欲求や希望)とか、支援の対象が、『療育(教育)』という大義名分の下で、いつの間にか別のモノにすり替えられているんとちゃうやろか?と。

 アップデートできていない支援者が、旧態依然とした
「やってあげてる私、見守ってる私」
自己満足に酔いしれているだけやないのか?

 この考え方が徹底され、行き過ぎたら、そのうち良かれと思った「指導」が虐待を生んでしまうんやないか?

 ボクは危惧しています。

 ​お菓子を買う場面を、考えてみてください。

 ​本人が本当に求めているのは、『買い物をする体験』なんやろうか?
 いや、違う。絶対に違う。
シンプルに『お菓子を手に入れること』のはず。

​「お金の計算が難しいから」
「時間がかかるから」

 もしも『お菓子を手に入れる』本来の目的が、現金での支払い作業のせいで困難になっているなら、カードか、〇〇Payで電子決済を選べばいい。

 それこそ、リーズナブルな購入手段の調整です。

 現実に、ボク自身ここ数日、現金で買い物をした記憶が一切ありません。

 ​もちろん、世の中には現金しか使えないお店も確かにあります。
 けど、今や大手チェーンは大抵、自動支払い精算機を導入していますね。
 もし、どうしても、昔ながらの、よろず屋のおばあちゃんちで駄菓子を買うってノスタルジックな状況なら、その時こそ支援員がパッと支払ってあげたらええ話。

 ​もう、令和の時代。
自分たちの生きた昭和から、世の中の仕組みはすっかり変わっているんですよ。

 リーズナブルな対応を選択せず、
「本人ができるところまで、やってしまってはいけない」
と頑なになるなんて、時代錯誤も甚だしいじゃあ、あーりませんか。


 ​駅の券売機だって。

 本人が求めているのは、『切符を購入する体験』ではなくて、『電車に乗る』こと。
いや、もっと言えば、目的はその先にある『USJへ電車に乗っていって、マリオに会うこと』かもしれません。

 ​現実に、ボクは『切符を購入する経験』を、もう何年もしていません。
 もちろん引きこもっているわけではなくて、電車には乗りまくっていますよ。
 じゃあどうしているかというと、交通系のICカードを改札機にピッ、とタッチしているだけ。

 もし、そのタッチすら難しい人がいるなら、支援者が駅員さんのいる改札へ一緒に行って「お願いします」と言えばええ話。

 それこそ、リーズナブルな乗車手段の調整です。

昭和を生きた方なら、
​「いやいや、電車に乗るにはお金が要るっちゅう仕組みを教えたいから、あえて、経験させてるんやで」
と、おっしゃるかもしれません。

 だけど、もしその仕組みを教えたいなら、今まさに電車に乗るぞって直前のバタバタした瞬間ではなく、事前に、ICカードにお金をチャージする方法と、お金の流れを丁寧に教えてあげるほうが、よっぽどリーズナブルやないかと思うわけで。

​ 体育の時間が迫っている時の着替えだって。

 本人が求めているのは、『ボタンを外す体験』ではなくて、『体育の授業を受けること』。
もしかすると、
「今日の体育は大好きなダンスだから、一秒でも早く着替えて楽しく踊りたい!」
と思っているかもしれません。

​ ボタンを外すのが苦手だと分かっているなら、「さあ、自分で外してみようね」
と見守る前に、
 そもそもボタンのないTシャツを用意することはでけへんのかい?
 靴ひもが結べへんなら、スリッ〇ンを履けばええんちゃうん?
と、思ってしまうんです。

 それこそ、リーズナブルな生活様式の調整です。

​……こんな風に書いていると、
「あ、こいつ、本人が独力で生活できるように指導するのを全否定しとるな」
と、受け取られそうやけど、そうやない。
〇か✕かの極論を言いたいわけでは、ないのです。

 ​大事なのは、本人の中に「独力で生活できるようになりたい」欲求が本当にあるかどうか、です。

 ​生活と一口に言っても、いろんな場面があります。

 たとえば、左利きの人が紙を切りたいのに、目の前には右利きのハサミしかない。

 その時、右利きの人が代わりに切ってあげるか、あるいは事前に左利きのハサミを用意してあげるのが、まっとうでリーズナブルな対応のはず。

 それなのに、右利きのハサミで不器用に、苦戦しながら紙を切る姿を「がんばれ、がんばれ」と見守ってどないすんねん。
 右手でもなんとかギリギリ切れた経験、その後の人生で、役に立つのかもしないけれど。
 いずれにしても、本人が、右手でもハサミを上手く使えるようになりたいと、希望しているかどうかを最重視しなければなりません。


 ​車を運転したいと思う人。

 本人が
「私はどうしてもクラシックカーに乗りたいんです!」
 とか
「フォークリフトを自由自在に操作したい!」
とまで望んでいないのなら、クラッチを踏むマニュアル車の練習をさせる必要なんてどこにもありません。 
 ただ目的地に車を運転していきたいだけなら、オートマ限定の免許で、何の問題もない。
 まさしく、リーズナブル。


 ​成人式で綺麗な着物が着たい女性。

 そこで周りが
「手伝ってあげるから、自分で着なさい」

 本人は、自分で上手く着られる自信なんてないし、ちょっと手伝ってもらったところで絶対無理と思っている。
しかも、人生でたった一日だけのことなのに。
「自分で着物を着られるようになりたい」
なんて、これっぽっちも思っていない。

 ​自分で着られないなら、成人式の着物姿はあきらめさせますか?
成人式までの間、着付けの練習に取り組ませますか?

 そんなわけがない。
プロの着付け師さんに頼んで、綺麗に着せてもらえばいい。
 ただ、それだけのこと。


 ​障害のある本人からしたら、世間の「あんな小さな子でも簡単にできること」が、着物の着付け並みに難易度マックスのミッションであることがザラなんです。

​ 『独力でできること』を増やす指導の何が難しいかって、それを続けていると、支援者の側に
「あんな小さな子でもできるのに、どうしてあなたは……」
いら立ちや蔑みの呟きを生んでしまいがちだから。

​ そして、もっと恐ろしいのは、失敗した時のダメージ。

​・独力でコンビニに行って、上手くお金が支払えなくてお菓子が買えなかった。

・独力で券売機で切符を買っている間に、目の前で電車が出発してしまった。

・独力でボタンが上手く外せなくて、楽しみにしていたダンスの時間に遅れてしまった。

​こういう事態が起こった時の、本人の心の傷、絶望感の大きさは半端ないはずです。

​目の前にある
「ボタンが外せた」
「切符が買えた」
支援者にとって都合のいい些細な達成感の積み重ねよりも、本人が本当に求めていた
「お菓子を食べたい」
「電車に乗って出かけたい」
「ダンスを踊りたい」
本来の欲求(目的)を、絶対に見失ってはいけないのです。

 目の前の小さな達成感は、本当に本人が望んでいたものなのか、支援員の、
「こんなことまで、できるようにいたしました!」
って、独り善がりではありませんか?

 本人が望んでいる本当の欲求(目的)は、もっと先にあるのではありませんか?

本人からの発信を、ちゃんと受け止めてますか?

 障害者の支援にあたる方々には、
「本人ができるところまで、やってしまってはいけない」
と、盲目的に信じ、ただただ見守る前に今一度、本人からの発信を思い返して、適切でリーズナブルに調整した支援に当たって欲しいものです。



 『リーズナブルな調整』
  ⇒ 『Reasonable adjustment』
   ⇒ 『合理的配慮』

いいなと思ったら応援しよう!