その25「行事」 Archives『THE NIKKEI MAGAZINE Ai』プレミアムクラブ会員向けメールマガジン/歌舞伎編
(2015年11月~2023年3月配信/文:Katsuma Kineya、編集:講談社、配信元:日本経済新聞社)
※俳優名と公演情報は配信当時のものです
※敬称略
年中行事の見どころと見せどころ
2021年12月10日配信
12月は南座が顔見世興行で、若手から重鎮まで、東西のスターが勢ぞろいしています。演目も人気の高いものが並び、華やかです。歌舞伎座は11月が顔見世興行でしたが、この顔見世興行とはいったい何なのか、ほかの年中行事も含めてご紹介します。
顔見世
江戸時代、歌舞伎俳優の各座との契約は11月に更新されました。そのため11月から翌年10月までの1年間にはこの顔ぶれで芝居を打ちますというメンバー紹介を兼ねた興行を、11月に行いました。それが顔見世です。歌舞伎の世界ではこの11月が一年の始まりであり正月だったため、3日間は雑煮を食べるなどの祝いごとをしました。
メンバーが決まり初めて顔合わせをするのが寄初(よりぞめ)で、10月17日の夜に楽屋や芝居茶屋で行われ、劇場や茶屋の前に贈り物が飾られるなどにぎやかな雰囲気。その見物をする人々も集まり町中が浮き立つ行事でした。
演し物は、江戸では9月12日に世界定が行われました。世界とは狂言の題材、背景となる時代や事件のことで、登場人物の役名や役柄、人間関係から筋立てまでを含みますが、顔見世にかぎっては、たとえば演目の『暫』や演出の「だんまり」を入れるなど、さまざまな決まりごとがありそれに従って上演しました。その決まりごとは江戸と上方で異なります。
顔見世興行では顔寄せという行事があり、座頭が公演の狂言名題と配役を読み上げました。市川團十郎が座頭の際には「元禄見得」で観客をにらんでみせました**。現在では基本的に1月に行われるこのにらみは、当時からご利益があるとされていました。
現代の顔見世興行では、こうしたしきたりは踏襲されていませんが、豪華な顔ぶれで行われ観客にとってワクワクする公演であることは、江戸時代と同じです。興行月は、10月御園座、11月歌舞伎座、12月南座で行われるのが慣例。ただし、劇場改修工事やコロナ禍などの影響もあり、必ずしもこの通りには行われていません。今年は異なりますが、2016年まで、南座は昔の慣行に合わせて12月公演でも11月30日から始めています。
初春狂言
春狂言、春芝居ともいい、正月に行われる興行やその演目のことです。曽我物を上演することが決まりで、これは、正徳5(1715)年に中村座が『坂東一寿曽我』をかけたことが始まりとされています。上方では顔見世よりもこちらの初春狂言のほうが大がかりで派手な構成でした。
今年同様、2022年も新春浅草歌舞伎が中止のため、歌舞伎座の初春公演で「浅草」の文字を入れた演目がかかります。浮かれた観客(笑)にとっては、大歌舞伎と花形歌舞伎を一度に観られるような豪華な公演となっています。
弥生狂言
3月に行われる興行やその演目。3月は大奥や大名の奥向きに勤める御殿女中の宿下がり、つまり休暇の時期だったため、同じ立場の女性が出てくる『伽羅先代萩/めいぼくせんだいはぎ』や『鏡山(加賀見山旧錦絵/かがみやまこきょうのにしきえ)』などがかかりました。また、團十郎が出る場合は『助六由縁江戸桜』も上演されました。もともとは初春狂言が4月まで行われるロングランでしたが、飽きられたためできた興行です。
夏狂言
夏芝居、盆芝居、土用芝居とも。江戸時代は人気役者が夏期休暇を取っていた旧暦6〜7月の公演で、若手が活躍し、ときには大役を立派に勤めて名を成した俳優もいました。納涼を兼ねた怪談物などがかかるのは、今も同じです。
12月は歌舞伎座も猿之助早替わりの『伊達の十役』、ほのぼのとした森鴎外原作宇野信夫作・演出の『じいさんばあさん』、玉三郎の『信濃路紅葉鬼揃』など盛り沢山です。
(参考資料:『年中行事事典【改訂版】』三省堂、『【新版】歌舞伎辞典』平凡社、『歌舞伎ハンドブック第3版』三省堂、『ART RESEARCH CENTER VIRTUAL MUSEUM_もっと知りたい! 歌舞伎の世界』立命館大学**、『歌舞伎用語案内』、歌舞伎公演筋書)
*マーク1つずつ削除2025年10月7日
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團菊祭の見どころと見せどころ
2021年4月23日配信
ほぼ毎年五月に催される團菊祭。團十郎家と菊五郎家を中心に行われる興行で、昨年と今年は開催されていませんが、一昨年は丑之助が初舞台を踏んだことでも話題になりました。
團菊祭と九代目、五代目
團菊祭の團菊は、天保9(1838)年生まれの九世團十郎と天保15(1844)年生まれの五世菊五郎のこと。幕末から明治維新・文明開化を経て明治時代まで活躍した二人は、ともに明治36(1903)年に相次いで亡くなっています。当時はこの二人を称すのに名跡をつけず九代目、五代目だけで通るほどの人気でした。
九世團十郎は七世の五男。生後まもなく控櫓河原崎座の座元六世河原崎権之助の養子となり、役者になるべく厳しい修行を積みます。権十郎と名を改めて3年後、座が焼失し本櫓の森田座再興、河原崎座は興行権を失い、安政4(1857)年養父とともに市村座に出勤。以来しだいに大きな役をこなすようになり、25歳で『助六』、27歳で『暫』を初役で演じています。明治2(1869)年32歳で七代目河原崎権之助を襲名、明治6(1873)年弟に名跡を譲り自身は團十郎代々の俳名三升を使った河原崎三升を名乗ります。そして翌明治7(1874)年、市川家に戻り、九代目市川團十郎(以下九代目)を襲名しました。
この花形役者時代、ともに江戸の人々を楽しませていた役者が当時十三代目市村羽左衛門を名乗っていた、後の五世菊五郎です。五世菊五郎は市村座の座元で俳優を兼ねた十二世羽左衛門の次男。つまり九代目も五代目も幼少のころは座右元の御曹司で似たような境遇もあってか竹馬の友でした。五代目の母は三世菊五郎の三女です。嘉永元(1848)年市村座の若太夫として番付に初掲載、嘉永4(1851)年8歳で十三代目市村羽左衛門を相続し座元に。明治元(1868)年太夫元を弟に譲り自身は母方を継ぎ五代目尾上菊五郎(以下五代目)を襲名します。
二人が九代目と五代目を襲名して後は、團菊と並び称されるようになります。森鴎外の弟で劇評家の三木竹二がこの呼び方をして一般に定着しました。この團菊時代は、維新によって武家社会の崩壊とともに能が衰退し、逆に歌舞伎は新政府に優遇されていく時期でした。その勢いに乗り、政財界人や学者の後援を得て九代目は活歴物に熱中し、目に見えない人の内面を演じる肚(はら)芸を生み出し、新歌舞伎十八番を制定しました。一方の五代目は明治の文明開化の世相や風俗を描いた散切物を確立し、世話狂言をきわめ、新古演劇十種を制定。ともに演技をきわめるだけでなく、新しい時代の歌舞伎の発展にも尽力した名優なのです。
團菊祭は昭和11(1936)年、朝倉文夫作の二人の胸像が歌舞伎座に飾られるのを記念して生まれた公演。戦時ほかしばらく中断した時期もありますが、ほぼ毎年恒例で現在まで続いており、胸像も歌舞伎座2階のロビーに展示されています。
團菊と初世市川左團次
團菊時代にもう一人活躍した俳優がいます。天保13(1842)年生、明治34(1904)没の、初世市川左團次です。團菊とは異なり、生まれは座右元ではありませんが、51歳で明治座の座主になっています。九代目、五代目に初世左團次を加える際には、團菊左と称しました。三人は反目し合うこともあったものの、互いに力を貸し合う仲でもありました。
歌舞伎座が落成し開場式を行ったのは明治22(1889)年のことですが、このときは團菊左が出演しています。
河竹黙阿弥と團菊
九代目と五代目の人気に貢献した人物の一人が、作者の河竹黙阿弥。現在でも團菊祭となればその作品が1~2演目は上演されています。役者、見物、座元に親(深)切の「三親(深)切」を信条とした作者で、文化13(1816)~明治26(1893)年と、江戸と明治時代でほぼ等分に活躍しました。
九代目には『極付幡随長兵衛』『北条九代名家巧(通称高時)』など、五代目には『梅雨小袖昔八丈(通称髪結新三/かみゆいしんざ)』『新皿屋舗月雨暈(通称魚屋宗五郎)』などを、それぞれに当てて書いています。
今回はかいつまんでまとめましたが、「團菊祭」と公演に冠を付けるだけあって、團菊の話は無尽蔵にあります。毎回筋書きにもいろいろな話が載っていますので、鑑賞する機会があったら入手してみるのもおすすめです。


(参考資料:『演劇界’96年5月』演劇出版社、『歌舞伎座誕生』朝日文庫、『かぶき手帖』日本俳優協会・松竹・伝統歌舞伎保存会、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『歌舞伎ハンドブック』三省堂、『悲劇の名門團十郎十二代』文春新書、『市川團十郎・代々』講談社、『歌舞伎芸と血筋の熱い裏側』講談社ビーシー/講談社、歌舞伎公演筋書)
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