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関宿、いくつもの時が交わる場所

導入

瓦屋根が幾重にも折り重なりながら、奥の地蔵院、さらに鈴鹿の山並みへと続いていく。この町にはいくつもの時間が重なっている。

関宿は東海道47番目の宿場町。だが歴史はさらに古く、「関」の地名は、672年の壬申の乱の頃に置かれた古代三関「鈴鹿関」に由来する。東西1.8kmにわたり、江戸から明治の町家が200軒あまり残る。これほどの町並みが残った理由は、この町が単なる宿場ではなく、二つの街道が交わる「追分」だったからだ。


分岐点としての関宿

高札場の跡。法度や掟書を掲示する高札が復元されている。徳川家康の茶屋御殿があったとも伝わる場所だ。


その跡地には今、関郵便局が建つ。代官支配の拠点が、そのまま現代の公共機関に置き換わっている。


虫籠窓を三連に並べた土蔵造りの町家。黄色い壁と黒格子の対比が心地よい。


百五銀行の店舗が、古い町家の構えにそのまま嵌め込まれている。


同じ通りを別の角度から。軒の連なりの先に、現役の店の看板が並ぶ。


旅人宿「石垣屋」の暖簾。宿場としての機能が屋号にそのまま残っている。


商家の意匠、重なる時代

出格子と二階格子窓を持つ大きな町家。ここを起点に、商家群の意匠を見ていく。


破風を見上げる。鬼瓦と軒丸瓦の紋様が連なり、木部には光が回り込む。


「オガナ薬局」。資生堂やブルドスの看板が残り、昭和の広告文化がそのまま息づいている。


「東亜足袋」の金文字。日差しを受けて文字が立体的に浮かぶ。


水色タイルにアーチ窓の看板建築。大正から昭和初期にかけての洋風化が、この町にも届いていた証だ。


モルタル壁にアーチ窓が並ぶ建物。同じ系統の意匠が通りに点在している。


「深川屋」の庵看板。1642年の創業以来、忍者の末裔が考案したと伝わる銘菓「関の戸」を370年余り作り続けている。街道に唯一残るこの看板は、旅人の道しるべでもあった。「関の戸の味 変えるべからず」――代々血判を押して継いできた掟だという。和三盆をまぶした一口大の餅菓子は、鈴鹿の峰の雪をモチーフにしている。


今も続く宿場

会津屋の外観。かつて「山田屋」という旅籠だった店だ。


山菜おこわの定食。敵討ちの旅に出た母がこの旅籠で客死し、遺された関の小万はここで育ったという。旅籠の跡で今、蕎麦をいただく。


「食卓塩・精製塩」――古い看板がそのまま残る商家。


岩木屋(吉澤家)

同家は屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌醤油醸造業を営み、酒倉から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。明治十七年の建築で、連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。

関町教育委員会

灯りの専門店「akari」。江戸期の町家が、新しい商いの器になっている。


タナカ理容店の認可プレート、肖像画工房の看板。関宿が観光地ではなく生活の場であることを、それらが静かに語っている。


ひまわりが一輪、朝の光の中で咲いていた。奥に地蔵院、さらに山並み。前景・中景・遠景がひとつの画面に重なる。


冒頭の俯瞰に戻る。瓦屋根の重なりは、江戸から令和まで続く時間そのものだった。追分の町は、街道が交わっただけでなく、時代そのものが折り重なって今日まで生きている。


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