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生まれつき、ハードモード。

ハードモードな人生

「あー、これで落単したらマジで人生ハードモードやわ」
大学の友人が、期末テストに追われながらそんなことを言っていた。部活が忙しくてバイトができず合宿代が足りないとか、単位を落として留年しそうだとか、彼らの言う「ハードモード」を聞くたびに、僕は心の中で静かに毒づく。

そんなことでハードモードなんて言うなよ。

僕の人生は、生まれたその瞬間に、強制的に「ハードモード」のスイッチが押されていた。

原因は、新生児脳出血。

後遺症として右半身に不完全な麻痺があり、特に右手はほとんど使えない。でも軽い物を持ったり歩いたりすることはできる。

一見すると普通の人。でも、日常のあらゆる細かい動作ができない障害者。


僕は約20年間、この曖昧な狭間を生きている。
普通の人が「当たり前にできること」が、僕にはできない。だからこそ、僕は彼らの何倍もの努力をして、ようやく同じスタートラインに立ってきた。これは、そんな僕が「一人の人間」として認められたくて、泥臭くもがき、戦った中高生時代の記録だ。

特別な体をもつ僕

小学校の同級生は、僕を1人の小学生として、いつも優しく関わってくれていた。外遊びにも誘ってくれたし、一緒に登下校もした。僕が助けてほしいときは、特に何も言わなくても察して手伝ってくれる子たちが多かった、そんな気がしている。

ただ、僕は中学受験をして、みんなとは違う学校に進学した。
そこではまた、1から人間関係の作り直しだった。

新しく出会った人に、自分の体の病気についてどう言えばいいのか。

小学生のときは、いつどんなきっかけでみんなが僕の障害を知ったのかを覚えていなかった。話すタイミングがわからず、一旦は障害を隠し、普通の人として学校生活を送ることにした。

部活は卓球部に入った。運動部に入りたかったが、片手でやっていけるスポーツが見当たらなかった。「卓球ならバレずにいけるんじゃないか」と思ったのだ。
しかし、現実はそう甘くはなかった。サーブのオープンハンド(手のひらを開いて球を乗せる動作)ができないことに気づき、結局、同級生と顧問には障害のことを打ち明けた。

ただ、先輩には言えないままだった。
12月頃、球出し(ボールを打ち返す練習のサポート)の担当になったときのことだ。ボールを2個以上右手で保持したまま球を出すことができない、という壁にぶち当たった。

でも、先輩にはバレたくない。言うのがめんどくさい、というよりむしろ

言ったあとに変な目で見られたりするのが怖くて言えなかっただけだった。

そんな気持ちを抱えていたため、先輩に球出しの仕方で注意されても、僕は無視をしてしまった。もちろん、そんな態度は先輩からしたら許されない。何人かの先輩に呼び出され、「先輩を舐めるな」と激しく叱責された。ラリーする音すらも聞こえない、静寂な空間での出来事だった。

「先輩は良いよな、両手が使えるんだから。僕の気持ちなんてわかるわけない」

僕はそう思っていた。でも、当時の僕には黙ることしかできなかった。障害のことを隠したいがために、見かけ上、先輩の圧力に屈するしか無かった。

僕の右手を守るという行動は、先輩のプライドのために利用されないといけないのか。

そんな自分の体が悔しくて、泣きながら顧問のところへ行った。次の日、僕は部活を休み、顧問から部員たちへ僕の病気について説明してもらった。
人に言うタイミングがわからず、みんなが当たり前にできることができず、悔しかった。この頃は無駄にプライドが高かったため、できないことを隠すしか道がなかったのだ。

『転んでも、大丈夫』

中学2年になり、学校行事として弁論大会が開催されることになった。その時、国語の先生から「人の心が動く弁論をしなさい。」と言われた。
仲の良い人にしか障害について言っていなかったため、これは絶好の機会だと思った。クラスの人に僕の障害について打ち明け、当たり前のことができないという事実を正直に言おう、と心に決めた。

とは言っても、どのように伝えたらいいかわからず、原稿を書くのに苦戦していた。その時、小学生の頃に夏休みの宿題で読んだ本のことを思い出した。
臼井二美男さんの『転んでも、大丈夫――僕が義足を作る理由』という本だ。

何度つまずいたっていい。転んだら、また立ち上がればいい

本が教えてくれたメッセージを、僕の経験になぞらえて伝えよう。そう決めてから、一気に原稿を書き始めることができた。

弁論当日、僕に障害があることにクラスメイトは皆驚いていた。
「僕には、右半身に障害がある」
そう言って右手を挙げたとき、教室中の視線が僕の右手に集まるのを感じた。
「左ばっかり使うから変だと感じてたけど、極端な左利きの人なのかと思ってた」
「人に言いにくい内容なのに、全体の場で打ち明けられる勇気がすごい」
終わったあと、みんなからそんな言葉をかけられた。

結果として、僕の弁論は高く評価され、学年全体の弁論大会のクラス代表に選出された。これによって、クラスだけでなく学年全体に僕の障害を知ってもらうことになった。

あのとき、みんなに打ち明けようと思わなかったら。
「人にどう思われるかわからないから怖い」と思い続けていたら。

僕は弁論大会でも口を閉ざし、生きにくい中学生活を過ごしていただろう。殻を破り、勇気を出して伝えることの大事さを学んだ瞬間だった。

弱さを認める

弁論大会では、もう一つ大きな気づきがあった。それは弱さを認めるということだ。

言い換えるなら、
自分ができないという状況から逃げるのではなく、できないということを認め、素直に人の助けを借りたり、相談したりする
ということ。

これは、同じくクラス代表になった女子生徒が、祖父との会話を基に述べていたことだった。

彼女の祖父は耳が遠くなったのに、補聴器は頑なにつけたがらない。そんなプライドが邪魔をして生活が不便になっていることを、孫の視点から批判的に捉えた弁論だった。

当時、できないことに対して悔しがり、隠すことばかり考えていた僕にとって、この言葉はものすごく刺さった。これ以降、僕は人に「助けて」と頼むことができるようになった。
今でも僕の座右の銘になっている、大切な言葉だ。

「障害者だから。」

弁論大会のおかげで、多くの人が僕が「できないこと」を理解してくれて、学校生活はかなり過ごしやすくなった。
困ったことがあったら遠慮なく頼っていい。
その安心感だけで、ずいぶんと心が救われた。
しかし、みんなに打ち明けたからこその弊害もあった。

「あいつは障害者だからな。」

そんな陰口が聞こえるようになったのだ。
中学2年生という思春期真っ只中の時期だったこともあり、悪口を言われたり、明らかに仲間外れにされることも増えた。先生に言えば大問題になってしまうため、仲の良かった友達にだけ相談していた。

しかし、その友達も陰口を言っていた。

僕が何も言わなければ、陰口なんて始まらなかったかもしれない。

「障害者は、自分より劣っている。」

当時の僕は、みんながそう思っていると感じざるを得ないほど精神的に追い込まれていた。
実際は違ったのかもしれない。
でも、中学2年生の僕には、そう思わずにはいられなかった。

「障害者だから」

その一言だけで、人との距離が急に変わってしまった気がした。
だからこそ、僕は嫌われることを覚悟しつつも、多くの人と積極的に関わるようにした。できること、できないこと、そして、
できないとしても、まずはやってみる姿を、行動で伝えていった。

出会い

仲間外れが増え、信じていた人からも悪口を言われるようになったため、僕はこれまで関わったことのなかったタイプの人たちに声をかけることにした。
彼らはクラスでは物静かなタイプだったが、話してみるともの凄く面白い。会話の魅力に惹かれ、そこから一緒に行動するようになった。彼らの友人たちも含め、グループの人数は僕を除いて8人。かなり大きめのグループになった。
彼らに救われたのは、僕の障害について

考えてはくれるけれど、重くは扱わない

という絶妙な距離感だった。
他の人たちは、僕にギリギリ聞こえるか聞こえないかの位置で陰口を言うが、彼らの面白いところは、
逆にあえて堂々と「いじって」くるところ
である。
例えば、僕は右手首の関節が弱く、幽霊のように常に手の甲を見せている状態がデフォルトになっている。
彼らはその手を「お化けやん」といじってくる。たまに、僕の思いつかないような斜め上の角度からツッコミが入ることもあった。
この友人たちのおかげで、僕は障害のことをもう少し軽く、ポジティブに捉えられるようになった。彼らとは高校時代も共に過ごし、大学生になった今でも、ほぼ毎日連絡を取り合うほど仲が良い。最高の、個性的な仲間たちだ。

諦めたくなった出来事

高校に進学すると、芸術科目の選択授業が始まった。音楽、美術、書道の中から1つを選ぶ。
僕はあえて、最も困難が予想される「音楽」を選んだ。絵が下手で、書道は左利きだと書きにくいという理由もあったが、どうせなら両手を使う楽器にチャレンジしたかったのだ。
一番苦労する道を選ぶことで、自分の限界に挑もうと決めた。

そして1学期、ギターの授業が始まった。もちろん両手を使う。
学校の練習時間だけで弾けるようになるはずもなく、僕は学校からギターを借り、家に持ち帰って練習した。「2週間後にテストをする」と言われてからは、毎日3時間、狂ったように弦を弾いた。テストはたった1分の曲。
しかし、僕が弾きこなすためには、それだけの時間をつぎ込まなければ間に合わない。

まずは、動かない右手でも一番弾きやすい、独自のフォームを見つけることから始めた。右手は、慣れない動きを唐突にさせると攣ったような感覚になる。毎日、その痛みに耐えながら練習を続けた。
唐突に石のように硬くなる右手。電気が走ったみたいにビリビリとくる痺れ。
何度も諦めたいと思った。だが、ここで投げ出したら、何のために茨の道である音楽を選んだのかわからない。やり続けるしかなかった。親も僕の挑戦を見守り、手の動かし方についてたくさんのアドバイスをくれた。

右手が普通の人と同じだったら、こんな苦労なんてしなくてよかったのに。

ずっとそんなことを思いながら練習していた。
しかし、人間というのは面白いもので、少しずつ、だが確実に成長する。1週間が経つ頃には、かなり弾けるようになっていた。

初めてミスなく弾き終わったとき、嬉しくて親に聴かせた。その時は緊張してミスをしてしまったけれど、あの瞬間、僕は初めてみんなと同じスタートラインに立てた気がした。

本番のテストでは、ノーミスで演奏することができた。
他人から見れば、ただの「普通の演奏」だ。けれど、僕からすれば

人の『普通』のレベルにまで持っていけた!

という、凄まじい達成感に満ち溢れていた。

人一倍どころではないレベルの努力をして、やっと人並みになれる。

このことに気づけたときから、僕は努力の大切さを知った。どんなことも、人には真似できないほどの努力で圧倒してやろう、そう思えるようになった。

リーダー的存在

高校では、生徒会に2年間所属した。中学校ではコロナ禍であったがために、あらゆる行事がなくなり、たとえ、復活したとしても縮小版だった。

せっかくの高校生活を、縮小版のまま終わらせるわけにはいかない。
自分にも学校を変える力があるかもしれない
と思い、生徒会に入った。

とは言え、1年目は目に見える大きな変化を起こせなかった。学校行事を完全復活させるという僕の夢は、簡単には実現しなかった。

なんとしてでも復活させたい。そう願っていた時、同じ夢を持つ友達が言った。

「俺、生徒会長になって学校変えようと思うんだよね」

その子は生徒会未経験だったにもかかわらず、いきなり会長に立候補し、本当に当選してしまった。圧倒的な行動力を持つリーダーだった。

彼についていけば、絶対に学校行事を復活させられる。

そう確信し、僕は2年目も生徒会に残ることを決めた。

彼の夢は大きすぎて、最初は「叶うわけない」と冷ややかな目を向ける人も多かった。
人は皆、大きな夢に向かって努力する人を軽視することがある。批判する方が簡単だからだ。
しかし僕は、

努力すれば道は開けるということを、誰よりも体で理解していた。

人に障害を打ち明ける勇気を出したり、毎日気が狂うほどギターを弾き続けるという努力をしたりした僕にとって、学校の制度を変えることなど、絶対にできるはずだと信じていた。

制度を変えることに両手は必要ない。だから達成できないはずがない。

自分一人では口に出せなかったような大きな夢を、彼と一緒に叶えたい。僕たちは新生徒会として動き出した。

熱く生きろ

2年目の生徒会は、異例の熱気に満ち溢れていた。最高学年である高3生が4人もいたからだ。受験を控えた高3生は、普通は生徒会には残らない。それほど、僕たちは本気だった。

縮小される前の、あの活気ある文化祭と体育祭を取り戻す

この夢に向かって、先生たちと何度も話し合いを重ねた。しかし、先生たちから返ってくるのは「できない理由」ばかりだった。

文化祭での飲食の露店を復活させたいと提案しても、
「加熱調理は危ない」
「感染者が出たらどうするのか」
と、NOを突きつけられる。

「危ないと言うなら、なぜ昔はできていたのか」
「感染症に関しては、これまでの対策のノウハウを活かせるはずだ」

いくら僕らが案を出しても、校長先生も含め、学校側の態度は頑なだった。

もし、僕たちが高校2年生のときまでいた前の校長先生なら、きっとYESと言ってくれたはずだ。その昔の校長先生が、常に生徒に伝えていた言葉がある。

熱く生きろ

やりたいことを、できないと言って諦めるな。やれるところまで泥臭くやれ。そういう意味だった。
だから、僕たちはNOと言われ続けても、折れずに何度も新しい企画書を提出し続けた。

結果として、加熱調理は認められなかったものの、食品を扱う店自体は出せることになった。完全復活とまではいかなかったが、確実な一歩を踏み出した。

そして僕たちが卒業して1年後。後輩たちが僕たちの意志を継ぎ、文化祭を完全復活させてくれた。後輩たちは

「僕たちは何もやっていない。先輩たちが残してくれたものを通しただけだ。」

と周囲に語っていたそうだ。その話を聞いたとき、胸が熱くなった。

生徒会として夢に向かって突き進んだあの頃、全校生徒の代表として動いていた僕は、

「障害者」としてではなく、「1人の普通の人間」として周囲に関わってもらえている

と強く実感していた。
できないことが多くても、人の役に立つことができる。それを証明できたことが、何よりも嬉しかった。

1人の人間として

中高生時代、僕はありとあらゆる経験をしてきた。
障害があるせいで、できないことが多く、その度に
「みんなはできるのになんで自分だけこんなにできないんだろう」と、悩んだ。

何度も自分の体が嫌になった。

それでも、受け入れるしかない、使えないという現実。

できないとわかっているからこそ、目を背けず、解決策を見つけてやり切る。

周りから見れば「普通」か、あるいは「全然できていない」と思われるレベルかもしれない。
それでも、

自分の中でやり切ることができたら、それは僕にとっての大成功だ。

『障害者として見下されるのではなく、1人の中高生として生きたい。』

僕がそう願い、苦しみ、もがき続けたからこそ、今の自分がある。

人生の基準なんて人それぞれだ。僕はこの右手を抱えたまま、熱く生きてやる。

一人の人間として、自分ができないことは積極的に周りの助けを借りる。けれど、自分でできることは、人にはできないほどの努力で精一杯やり切る。そして、もし周りで困っている人がいたら、今度は僕が少しでも助けになり、寄り添いたい。

今でも、右手がうまく使えずに困る場面はたくさんある。
それでも、あの頃、「ハードモード」を生きる僕が暗闇の中で苦しみながら探していた「打開策」を、今は少しだけ、見つけた気がしている。


長文になりましたが、読んでくださりありがとうございました!スキとフォロー、コメントをお待ちしております!

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