完成形は、となりにある
休日の朝は、平日よりも音が少ない。カーテン越しの光が、時間を決めかねているように床に落ちている。テレビもつけず、スマートフォンも伏せたまま、私はリビングの真ん中にヨガマットを敷いた。
窓の外では、どこかで洗濯物が揺れる音がする。季節の境目の風は、少しだけ慎重で、家の中まで踏み込んでこない。
今日はティラピスをする、と昨夜から決めていた。理由は特にない。ただ、身体を動かしたいと思った。それだけで十分な朝だった。
マットに座り、背筋を伸ばす。呼吸を意識するたび、胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりほどけていく気がした。先生の動画の声が、小さく流れる。正しい姿勢、正しい角度。画面の中の人は、迷いなく動く。私は同じようにやろうとして、すぐに力が入ってしまう。
呼吸に合わせて、伸ばすだけ。
それだけなのに、思ったより難しい。
吐く息が浅くなると、心まで追いつかなくなる。学校でのことが、ふいに浮かぶ。友だちの言葉、教室の空気、誰も悪くないのに生まれる、微妙な距離。うまく説明できない違和感が、日々の隙間に挟まっている。考えすぎだと分かっていても、無視するには繊細すぎる。
「気持ちいいところで止めてください」
動画の声に、少し救われる。正解よりも、自分の感覚を選んでいい。その言葉が、思いのほか胸に残った。
そのとき、ソファの上から気配がした。
飼い猫が、のんびりと体を伸ばしている。前脚を遠くに投げ出し、背中をゆるやかに反らせて、まるで見本のような動きだった。力が抜けきった姿は、最初から完成しているみたいで、思わず息が漏れる。
「……先、行かれた」
小さくつぶやくと、猫は何も知らない顔で目を細める。こちらを見るでもなく、ただそこにいるだけ。それなのに、比較していた自分が、急にばかばかしくなった。
猫は正しいポーズなんて知らない。ただ、伸びたいから伸びている。呼吸も、気分も、誰にも合わせていない。
私はマットの上で、少し肩の力を抜いた。形をなぞるのをやめて、今の身体が欲しがる方向に、ほんの少し傾けてみる。
すると、不思議なことに、呼吸が深くなった。胸の奥まで空気が届き、背中の緊張がほどける。気持ちも、少し軽い。さっきまで頭の中を占領していたざわめきが、窓辺の光みたいに薄まっていく。
学校では、答えを求められることが多い。正解か、不正解か。速いか、遅いか。うまくやれているか、そうでないか。
でも、ここには採点する人はいない。猫も、動画の先生も、私を急かさない。
マットの上で横になる。天井を見上げると、光がゆっくり移動しているのが分かる。時間はちゃんと流れているのに、追い立ててこない。その感覚が、胸にしみた。
猫がマットの端に降りてきて、私の足元で丸くなる。呼吸のリズムが、静かに伝わってくる。合わせようとしなくても、いつの間にか同じ速さになっていた。
何かを乗り越えたわけでも、答えを見つけたわけでもない。ただ、今の自分が、ここにいる。それだけの事実が、十分だった。
立ち上がると、身体が少し軽い。心も、同じくらい。
完成形は、きっと遠くにあると思っていた。でも、となりで丸くなっているそれは、今この瞬間を生きているだけだった。
窓の外の風が、さっきより近づいている。
私はカーテンを少し開けて、光を入れた。
この感覚を、忘れずにいられたらいい。
そう思えたこと自体が、たぶん小さな変化なのだと感じながら。

