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100記事目の自己紹介 〜何者かになりたかった私が、どう生きるかを考えるまで〜

本日でnoteを始めて100記事となりました。

平日コツコツと毎日書き続け、今では思考の整理、アーカイブ、アウトプットの場として活用し、書くことがすっかり習慣になっています。

初回に簡単な自己紹介はしたものの、これまで詳しく書いたことはありませんでした。

100記事という節目でもありますので、改めて私自身のことを書いてみたいと思います。

振り返ってみると、私の人生はずっと「何者かになりたい」という思いと共にありました。

音楽で何者かになりたいと思った10代。

ビジネスで何者かになりたいと思った20代、30代。

そして40代になった今、その考え方は大きく変わりました。

少し長くなりますが、私がどんな人生を歩み、何を考え、今に至ったのかを書いてみたいと思います。



第一章 何者かになりたかった少年

1982年10月31日、新潟県にて4人家族の次男として生まれました。

小学校の頃は、学校では比較的おとなしく、家ではひょうきんなことをする子でした。勉強も運動も特別できる訳ではなく、ごく普通の少年だったと思います。

中学、高校ではバスケットボール部に所属し、ガードとして毎日練習していました。

レギュラーにはなれませんでしたが、シックスマンとして試合に出る機会もありました。今振り返ると、主役ではないけれど、いつか自分も活躍したいと思いながら過ごしていたような気がします。

高校では部活以外にもアルバイトをしたり、バンドをしたり、スケートボードをしたり、多少の悪さをしたりと、比較的アクティブに活動していました。

(この頃に開けた大きなピアスの穴は、今でも残っています。笑)

そんな日々を過ごしていましたが、最初の転機はバンドの大会に出たことでした。

多くの観客の前で歌う気持ちよさ。

何者かになれたような感覚。

その高揚感が忘れられませんでした。

そこから月に何度もライブに出演し、レコーディングを行い、音楽中心の生活になっていきます。

しかし今振り返ると、音楽そのものが好きだったというより、

「目立ちたい」

「すごいと言われたい」

「何者かになりたい」

そんな気持ちの方が大きかったように思います。

その後、比較的大きなティーンズミュージックフェスティバルに出場し、北陸大会まで進むことができました。

さらに、当時流行していた麻波25というミクスチャーバンドの前座を務めさせてもらったり、音楽専門学校から入学金免除で声をかけていただいたりする機会もありました。

その頃には、

「自分は何者かになれるかもしれない」

と本気で思うようになっていました。

そして、その時組んでいたバンドメンバー4人全員で音楽専門学校へ進学します。

大学や就職という道は考えませんでした。

音楽で生きていく。

それ以外は見えていなかったと思います。

しかし現実は甘くありませんでした。

私は歌が特別上手い訳でもなく、作曲が得意だった訳でもありません。

それなのに、

「ロックはセンス」

「基礎練習なんてダサい」

そんなことを本気で思っていました。

今考えれば、どこからそんな自信が出ていたのか分かりません。

ボイストレーニングも真面目にやらない。

授業もあまり出ない。

アルバイトや遊びはしっかりやる。

そんな中途半端な若者でした。

当然、結果は出ません。

そしてある日、バンドメンバーから

「このまま続けても難しいだろう」

と言われ、バンドは解散することになります。

気付けば、

歌も上手くない。

曲も作れない。

何かを極めた訳でもない。

私は何も持たない状態になっていました。

それでも不思議と絶望はしていませんでした。

むしろ、どこかに根拠のない自信があった自分は、

「こんなところにいても仕方がない」

「東京に行こう」

そう考えていました。

19歳の春。

当時乗っていたTWというバイク一台で東京へ向かいました。

親は心配していたと思います。

ただ、

「25歳くらいまでやってダメなら諦めなさい」

と言いながら、送り出してくれました。

賛成30%、反対70%。

そんな気持ちだったのではないでしょうか。

東京では縁があって新宿のロックバーで働き始めます。

はじめは同郷の友達が住む、風呂無しアパートに住まわせてもらったりしながら、貧乏暮らしをしていました。

今考えれば、非常に良い経験になったと思います。

何もなくてもなんとかやっていける。そんな根拠のない自信でしょうか。

音楽活動を模索しながら過ごしていたある日、そこでの出会いがきっかけとなり、音楽制作会社でアルバイトをさせてもらえることになりました。

私の仕事はいわゆるローディーです。

楽器を運び、ライブやレコーディングの準備をする仕事でした。

当時所属していた事務所には、河村“カースケ”智康さんや柳沢二三男さんといった日本を代表するミュージシャンが在籍しており、私はすぐにプロの現場で仕事をさせていただくことになりました。

PUFFY、一青窈、藤井フミヤ、椎名林檎、Chara、河村隆一、Bank Band、Do As Infinity、aiko、大塚愛、絢香、JUJU、平井堅、大黒摩季など、当時テレビで見ていたような方々のライブやレコーディングに関わらせてもらいました。

刺激的な毎日でした。

夢に描いていたミュージシャン。そんな人に近づくことが出来た。早くあっち側に行ってみたい。そんな想いがあったことを思い出します。

東京に出てからもバンドを組み、アコースティックユニットをやり、オールディーズバンドで歌わせてもらうなど、音楽活動も続けていました。

バンドを結成して初めて新宿でライブした時は、7-80人ほどは集まり、
幸先の良いスタートを切れたこともありました。

また、アコースティックユニットでは小学校に呼ばれて歌ったり、オールディーズバンドでは一日7,000円程度ですが、お金をもらって歌を歌うという経験も出来るようになっていきました。

路上ライブをしては、1万円をもらった経験や、音楽関係者に声をかけてもらったこともあります。

音楽業界のいたため、有名なプロデューサーにCDを渡して聞いてもらったり、できることはやったつもりです。

しかし、プロの現場に近づけば近づくほど、現実も見えてきます。

知れば知るほど、

自分より歌が上手い人。

魅力のある人。

努力している人。

そんな人たちが山ほどいました。

東京に出れば何かになれると思っていました。

しかし東京には、自分より上の人がいくらでもいました。

そして少しずつ、

「自分は特別な存在ではないのかもしれない」

そう思うようになりました。

そして25歳になった時、私は音楽を諦める決断をします。

当時すでに社員として働いていた音楽制作会社にも退職を申し出ました。

10代の頃から追い続けてきた、

「何者かになりたい」

という夢。

その第一章は、こうして幕を閉じることになります。


第二章 サラリーマン時代

音楽を諦めた私は、音楽制作会社を退職し、転職することを考え始めました。

音楽制作会社での後半は、どこか諦めモードになっていたこともあり、マーケティングの勉強をしていました。

幸い、楽器を運ぶだけでなく、ライブやイベントのスケジュール管理、楽器の在庫管理、所属アーティストのチラシ作成、ホームページ更新、ポッドキャストの収録・配信など、幅広い業務を経験させてもらっていました。

イベントやスクールのチラシをデザインして、印刷屋にオーダーして、自分でポスティングまでしました。それで反響もあったりと、集客の一連の流れを一通りやっていたんだなと後で気付いたものです。

今振り返ると、マーケティングの基礎は実務を通じて自然と身についていたのだと思います。

とはいえ、学歴もなく、音楽業界しか経験していない私を採用してくれる会社はそう多くありません。

それでもご縁があり、コールセンターアウトソーシングを行うベンチャー企業へ営業職として入社することになりました。

初めの3か月は現場研修として、実際にコールセンターのオペレーター業務やテレアポ業務を担当し、その後、営業職で業務を行いました。

ところが、この仕事が思いのほか自分に合っていました。

新宿のロックバーで培ったコミュニケーション能力。

音楽制作会社で身についた段取り力や先回りする力。

それらが営業の現場で意外と役に立ったのです。

問い合わせ対応も営業活動も比較的スムーズに進み、次第に成果が出るようになりました。

当時の私は、夢を諦めた人間でした。

何かを極めようというよりは、日常を楽しもうという感覚だったと思います。

学生時代にやっていたバスケットボールを再開したり、友人と飲みに行ったり、ごく普通の会社員としての生活を楽しんでいました。

時々、「なんか自分、普通の人みたいな人生を歩んでるな」

そう思って、複雑な想いになることはありました。

「これまでの経歴で、普通になれたのは、素晴らしいじゃないか」
と思ってみたり、

「こんな自分が、サラリーマンになって満足しているなんて、落ちぶれたのだろうか」

色々な思考が駆け巡ります。

「音楽やめちゃったの?」
と声をかけてくる当時の仲間もいました。

しかし、売上が伸び、成果が出るようになるにつれて、心の奥に眠っていた感情が少しずつ顔を出し始めます。

「今からでも何者かになれるかもしれない」

そんな気持ちでした。

音楽では叶わなかった夢。

それを今度はビジネスで実現できるかもしれない。

そう思うようになったのです。

そして28歳の頃、中小企業診断士の資格を取るための勉強を始めました。

財務。

法務。

企業経営理論。

それまでまともに勉強してこなかった私にとっては、どれも簡単な内容ではありませんでした。

平日の朝1時間、仕事が終わって1時間。休みの日は資格の学校に行ってみっちり勉強しました。

700時間近く勉強して挑んだ一次試験。

しかし結果は、7科目中わずか2科目合格。

正直、かなり落ち込みました。

「やっぱり自分には無理なのかもしれない」

何度もそう思いました。

しかし中小企業診断士試験には科目合格制度があります。

受かった2科目は翌年免除になる。

そう考えれば、次は5科目に集中すれば良い。

そう自分に言い聞かせ、仕事と並行して毎日2時間以上勉強を続けました。

勉強を続ける中で、ビジネスに対する理解も深まりました。

話せる内容も増えました。

提案できる範囲も広がりました。

担当していたクライアントの売上も大きく伸び、年間2億円程度の売上を上げられるようになりました。

勤務先が買収され、広告代理店への出向なども経験し、少しずつですが自信もついていきました。

そして次第に、

「そろそろ次のステージに行きたい」

そう考えるようになります。

前回の転職は未経験業界だったから苦労した。

でも今回は違う。

営業経験もある。

マーケティングも学んだ。

資格取得も目指している。

実績もある。

そう思いながら転職活動を始めました。

しかし現実は思ったほど甘くありませんでした。

コンサルティング会社。

IT企業。

様々な企業の面接を受けましたが、なかなか上手くいきません。

学歴もない。

その業界での経験もない。

今思えば当然だったのかもしれません。

そうか、自分はバッターボックスにも立たせてもらえないのか。
とこれまでの人生を否定する感情も湧いて来ました。

結局、今の延長でそこそこまでやる人生になってしまうのか?

チャレンジと失敗の繰り返しで、自問自答をしていたことを思い出します。

そんな時、一緒に働いていた仲間や先輩たちから、

「うちで働かないか?」

という声をかけてもらう機会がありました。

その時、私の中にこれまで考えてもいなかった選択肢が浮かびます。

「独立する」

という選択肢です。

このまま転職しても、

また誰かが作った会社で働き、

誰かが決めた評価基準の中で生きていく。

もちろん、それも素晴らしい生き方です。

しかし当時の私は、

「一度くらい自分で勝負してみたい」

という気持ちの方が強くなっていました。
(正確に言えば、音楽で失敗しているから二度目の勝負ですが)

大手企業に入れる訳でもない。

このまま同じようなベンチャー企業で結果を出し続けても、せいぜい部長職くらいかもしれない。

それなら、自分で会社を作ってみよう。

そう決意し、転職ではなく独立という道を選ぶことになります。

今思えば、何も実績がないなら、独立したって難しかっただろうに、
当時の自分に「ナイス勇気」と言ってあげたい気持ちがあります。

音楽で叶えられなかった「何者かになりたい」という想いは、

今度はビジネスという舞台で続いていくことになるのです。


第三章 独立をして(〜5期目まで)

2014年5月。

私は現在の会社であるシーアンドエイチコンサルティング合同会社を設立しました。

独立すると決めたものの、もちろん不安はありました。

営業経験はある。

実績もある。

しかし、会社員と経営者はまったく別です。

仕事がなくなれば収入はゼロ。

誰も守ってくれません。

それでも幸運だったのは、前職でお世話になった方々や、仕事を依頼してくれる先輩方がいたことでした。

独立してすぐに仕事をいただくことができ、私は営業代行としてサービスを開始します。

月額20万円から50万円程度で数社を担当し、営業活動やマーケティング支援を行っていました。

クライアントからすれば、社員を一人雇うよりも安く、必要な分だけ仕事を頼める存在でした。

私も無駄な会議や社内調整に時間を使うことなく、成果に集中できたため、お互いのニーズがうまく噛み合っていました。

そして独立した年の8月。

私はついに、2回目のチャレンジで中小企業診断士の一次試験に合格します。

さらに、その年の二次試験にも合格し、無事に資格を取得することができました。

本来は資格を取ってから独立しようと思っていました。

しかしタイミングを優先し、資格取得前に独立してしまったため、

「これは絶対に受からないとまずい」

というプレッシャーが良い方向に働いたのかもしれません。

父親に合格を報告すると、非常に喜んでくれました。

音楽を目指して上京した息子が、ビジネスの場で一定のお墨付きのようなものが得られたから安心したのかもしれません。

資格取得後は仕事の幅も少しずつ広がっていきました。

資格=仕事に繋がるわけではないのですが、強みが更にプラスされ、非常に意味のある資格でした。

業務委託という働き方も世の中に浸透し始めていたこともあり、独立2年目には月商100万円を超えるようになっていました。

経済産業省のシステム開発プロジェクトに参加させてもらったり、先輩の会社の立ち上げを支援したり、数々の営業代行案件を担当したり。

とにかくがむしゃらに働いていました。

サラリーマンと違い、残業という概念はないし、やればやるほど成果に繋がるため、振られた仕事は喜んで受けていました。

当時は、

仕事をしているか、

走っているか、

どちらかだった気がします。

趣味で続けていたマラソンでは、フルマラソンで2時間59分という自己ベストを記録しました。

その後は70〜80kmを走るトレイルランニングにも熱中し、仕事も趣味も充実していました。

振り返ると、人生で最もエネルギーに満ちていた時期かもしれませんが、何かの不安をかき消すかのように、激しい運動を欲していたという側面もあったと思います。

しかし独立して5年ほど経った頃、ある不安が頭をよぎるようになります。

「いつまで営業代行を続けられるのだろう」

という不安です。

営業代行という仕事は、自分の時間を売る仕事でもあります。

働けば売上になる。

しかし、働かなければ売上は止まる。

クライアントが増えれば増えるほど忙しくなり、収入も増える。

一見すると理想的です。

しかし、その一方で、

「この働き方をあと10年続けられるのだろうか」

という疑問も大きくなっていきました。

40代。

50代。

60代。

その時も同じように営業代行を続けている姿が、どうしても想像できなかったのです。

さらに、不安を打ち消すように、お酒を飲む量も増えていきました。

仕事は順調でした。

収入も増えていました。

周りから見ればうまくいっているように見えたと思います。

しかし、自分の中では少しずつ違和感が大きくなっていました。

自由になるために独立したはずなのに、

気付けば仕事に追われている。

頑張れば頑張るほど忙しくなる。

そんな状況でした。

そしてある日、

「このままじゃいけない」

そう思いました。

当時は37歳くらいだったと思いますが、40歳までに事業の根幹を変えなければ手遅れになるな。そう感じたのを覚えています。

そして、営業代行の仕事を少しずつ減らし、その時間を別のことに使おうと決めたのです。

当時月間30-40万くらい頂いていた案件を、「経営支援の仕事に集中したいので、辞めさせて欲しい」
そう冷や汗をかきながら、言ったことを覚えています。

仕事を断れば、もちろん収入は減ります。

それでも、

身を切らなければ新しいことは始まらない。

そう自分に言い聞かせ、一社、また一社と仕事を整理していきました。

そして空いた時間を使い、中小企業診断士としての経営支援へ少しずつ舵を切り始めます。

今振り返れば、この決断がその後の人生を大きく変える転機になったように思います。

よく、捨てることで何かが入ってくると言いますが、
確かに当時は、もう何も持てないくらいの荷物を持っていたので、
この選択肢が良かったのだと思います。

少しずつ、少しずつ、微調整しながら立て直しを図る自分の人生。

よし、音楽を諦めて、サラリーマンになって、その後独立も出来た。
今回も思い切った行動だけど、なんとかなるだろう。

こんな風に思える事は出来ていました。

しかし、当時の私はまだ知りませんでした。

この先、コロナ禍という大きな時代の変化が訪れ、そして人生の価値観そのものを見直す出来事が待っていることを。


第四章 独立(6期目〜)

独立して5年ほどが経った頃。

先輩の中小企業診断士の方に相談したり、補助金申請の仕事を手伝わせてもらったりしながら、少しずつ経営支援の仕事へと軸足を移していきました。

営業代行の仕事を減らしたことで収入は多少下がりましたが、

「身を切らなければ新しいことは始まらない」

そう自分に言い聞かせながら、地道に活動を続けていました。

そんな中、世の中は大きく変わります。

コロナ禍です。

多くの企業が営業活動を止められ、仕事を失い、不安を抱えていました。

一方で、私の仕事は一気に忙しくなりました。

国や自治体による補助金や支援制度が次々と立ち上がり、多くの企業が活用を検討し始めたからです。

クライアントの事業内容をヒアリングする。

課題を整理する。

設備投資や新規事業を含めた3年〜5年の事業計画を作る。

資金調達や投資計画を考える。

私はその時初めて、

「これこそが本当にやりたかった仕事かもしれない」

と思いました。

単なる営業代行ではなく、

企業の未来を一緒に考える。

経営者の悩みに向き合う。

会社の方向性を整理する。

そんな仕事に大きなやりがいを感じるようになっていったのです。

そして補助金需要の追い風もあり、売上は大きく伸びました。

営業代行時代と比較すると、3倍近い売上になった時期もありました。

音楽を目指して東京へ出てきた若者が、

40歳を迎える頃には、

中小企業診断士として経営支援を行い、多くの企業から相談を受ける立場になっていました。

周囲から見れば順調だったと思います。

仕事も収入もクライアントもいる。

独立した当初に思い描いていた姿には近づいていました。

しかし、

そんな日々の中で、少しずつ違和感が大きくなっていきます。

多少のお金はある。

仕事もある。

信頼してくれる人もいる。

それなのに、

なぜか満たされない。

その感覚をうまく説明することができませんでした。

私は何に引っかかっているのだろう。
一体自分はどうなったら気持ちいい毎日を過ごせるようになるのだろう。
もっとお金が必要なのか?もっと有名になる必要があるのか?

そんなことを考える時間が増えていきました。

当時の私は、こんなことを考えていました。

・クライアント支援といっても、資本主義という大きな仕組みの中の一部に過ぎないのではないか

・上には上がいるし、下には下がいる。比較している限り満足なんてできないのではないか

・補助金支援は企業にとって価値がある仕事だ。しかし、本当の意味での経営支援とは何なのだろう

そんな問いが頭の中をぐるぐる回っていました。

後になって振り返れば、これはミドルエイジ・クライシスだったのかもしれません。

人生の折り返し地点が見え始め、

これまでの人生を振り返らざるを得なくなったのです。

そして、ある時ふと思いました。

「自分が目指していた“何者か”って、一体何だったんだろう」

音楽を目指していた10代から20代前半。

ビジネスで成功したいと思っていた20代後半から30代。

ずっと追いかけてきたものがありました。

それは、

人より優れていたい。

認められたい。

すごいと言われたい。

そんな承認欲求だったのだと思います。

もちろん、その気持ちがあったからこそ、東京へ出て、勉強して、独立して、ここまで来ることができました。

だから決して否定するつもりはありません。

しかし同時に、

それだけでは幸せになれないことも分かりました。

富や名声。

売上や肩書き。

それらを追いかけ続けても、

必ずもっと上がいる。

比較している限り終わりはありません。

そう考えた時、

人生の後半も同じ価値観で生きるのは、少し違う気がしました。

だから私は少しずつ、

他人軸ではなく、自分軸で生きることを意識し始めました。

何者になるか。

ではなく、

どう生きるか。

どんな毎日を過ごしたいのか。

誰と関わりたいのか。

何に時間を使いたいのか。

そんなことを考えるようになりました。

そして今、

私が大切にしているのは、

・目の前のクライアントの困りごとに真剣に向き合うこと。

・やりたいと思ったことをやること。

・家族との時間を大切にすること。

・いつかのためだけでなく、目の前の一日を丁寧に生きることです。

これから先、自分がどこへ向かうのかは分かりません。

また価値観が変わることもあるでしょう。

それでも、

「何者かになりたい」

と追いかけ続けた人生があったからこそ、

今の自分の考え方に辿り着けたのだと思います。

人生は色々なアプローチがあります。

学生時代に思いっきり勉強して、いい大学に入って、いい会社に入る。
そのまま幸せになる人もいれば、実は親の期待に応えてきただけの人もいる。

一方、スポーツや音楽、ビジネスで何かを成し遂げた人が、
急に燃え尽きたように生きる意味を失う人もいる。

自分のように、目指すものを変えながらも迷い、行き着いた場所でやっていく人もいる。

そして、色々な生き方や考え方がいる中で、私が人生の過程で考えたことや学んだことを残しておきたい。

そんな思いで、今日もこうして文章を書いています。


おわりに

振り返ってみると、

私の人生はずっと「何者かになりたい」という思いと共にありました。

10代の頃は音楽で。

20代、30代はビジネスで。

人より上に行きたい。

認められたい。

すごいと言われたい。

そんな気持ちが原動力になっていたのだと思います。

もちろん、その思いがあったからこそ、東京へ出て、勉強し、独立し、今の仕事にも繋がりました。

だから決して無駄だったとは思いません。

しかし40代になり、

仕事もある。

収入もある。

家族もいる。

それでもどこか満たされない感覚を経験した時、

私は初めて気づきました。

追いかけていたものは、本当に欲しかったものではなかったのかもしれない、と。

今でも成長したい気持ちはあります。

売上も伸ばしたいです。

新しい挑戦もしたいです。

でもそれは、誰かと比較するためではなく、自分が納得できる人生を送るためでありたいと思っています。

目の前のクライアントと向き合うこと。

家族との時間を大切にすること。

読みたい本を読むこと。

走りたい時に走ること。

書きたいことを書くこと。

そうした日々の積み重ねの中に、私が探していたものがあったような気がしています。

100記事を書いた今、改めて思います。

noteは集客のためでも、収益化のためでもなく、私にとっては「思考のアーカイブ」です。

その時々に考えたことを残し、未来の自分が振り返るための場所。

そして、もしその過程が誰かの役に立つのであれば、それはとても嬉しいことです。

これから先、どこへ向かうのかは私にも分かりません。

生活もあるし、ある程度のバランスもとらなければならない場面もあるでしょう。

ただ一つ言えるのは、

10代から追い続けてきた問いの答えは、

「何者になるか」ではなく

「どう生きるか」

だったのかもしれません。

”いつかのためでなく、今を生きる”

100記事目の節目として、そんなことを思いました。

#創作大賞2026 #エッセイ部門

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