見出し画像

なぜ麦茶は地味で退屈な飲み物なのか?

「はい、麦茶。」

麦茶は、実に不思議な飲み物です。 甘くもなければ、炭酸のような強烈な爽快感があるわけでもない。コーラのような刺激も、コーヒーのような中毒性も、エナジードリンクのような高揚感もありません。正直なところ、純粋な「美味しさ」という指標だけで比べるなら、もっと派手で分かりやすい選択肢は、世の中にいくらでも溢れています。

それなのに、夏が来ると、私たちはどうしようもなく麦茶を欲してしまいます。 冷蔵庫を開け、あの透明なポットに満たされた茶色い液体が視界に入るだけで、どこかホッとする。喉がカラカラの時に「麦茶あるよ」と声をかけられると、なぜか少しだけ救われたような気持ちになる。 改めて考えてみれば、麦茶は驚くほど地味な存在です。

味は淡白。香りはどこまでも穏やか。何か特別な健康効果や覚醒作用を期待して飲むものでもありません。カフェインさえ含まれていないため、それを飲んだからといって元気になるわけでも、眠気がスッキリ覚めるわけでもない。 つまり麦茶は、私たちの心身に何かをプラスしてくれる飲み物ではないのです。 では、なぜ私たちは、この退屈な飲み物をこれほどまでに強く求めるのでしょうか。 おそらく、麦茶がくれるのは刺激ではなく、何も起きないという安心だからです。

夏という消耗戦の中で

夏は、立っているだけで疲れます。 猛烈な暑さ、止まらない汗。外を一歩歩くだけで、私たちの体力と精神力は削り取られていく。気づかないうちに、身体も頭も、限界近くまで消耗しています。 そんな限界の状態にある時、人は無意識に、これ以上、自分に何も負荷をかけてこないものを渇望します。

コーラは甘すぎて、喉にベタつきを残す。エナジードリンクはあまりに強すぎて、疲れた身体を無理やり叩き起こそうとする。スポーツドリンクでさえ、どこか頑張って回復しようという意気込みが強すぎて、気圧されてしまうことがある。 そんな中で、麦茶だけが「ただ、ここにあります」という至って平熱な顔をして佇んでいます。 現状を無理に変えようとしない。無理に元気にさせようともしない。ただ、冷たくて、ほんのりと香ばしくて、静かに喉を通っていく。 その存在感は、飲み物というよりは、むしろ実家や家という概念に近いものです。

味ではなく「記憶」を飲んでいる

実際、私たちが麦茶を飲む時、そこには味以上の膨大な記憶が溶け込んでいます。 終わらない夏休み。結露した冷蔵庫。使い古されたプラスチックのコップ。部活から帰ってきた夕方の気だるさ。お風呂上がりの脱衣所。夜、扇風機の前で喉を鳴らしたあの一杯。 麦茶を飲む時、私たちは単なる液体を摂取しているのではなく、あの頃の絶対に安全だった時間を一緒に飲み干しているのです。

だからこそ、麦茶は強くなってはいけません。 強くなる必要が、最初からどこにもないからです。 炭酸のように無理にテンションを引き上げることも、コーヒーのように神経を研ぎ澄ませることも、エナジードリンクのように、もっと頑張れ、と背中を押すこともしない。 麦茶はただ、「もう、頑張らなくて大丈夫ですよ」とだけ告げてくれる。 たったそれだけの飲み物です。 けれど、人は本当に疲れ果てている時ほど、そのたったそれだけという無干渉さに救われるのです。

「鬼茶」という優しさと、私たちが求めていたもの

ここに、一つの象徴的な出来事があります。 HIKAKIN氏がプロデュースした「鬼茶」が話題になった時、一部では「麦茶はそのままでいい」「余計なアレンジをしないでほしい」という切実な反応がありました。 鬼茶はきっと、麦茶という地味な存在をもっと面白く、もっと派手でワクワクするものに変えようとした、サービス精神の結晶だったのでしょう。

例えるならそれは、子供たちにもっと「おばあちゃん」を好きになってほしくて、大好きなおばあちゃんに鬼のお面をかぶせ、派手な服を着せて、お年玉を配り歩かせ、「ほら、こんなに楽しいおばあちゃんだよ!」と周囲が懸命に盛り上げている状態に近いのかもしれません。 もちろん、その根底にあるのは優しさです。もっと注目してほしい、もっと喜んでほしいという純粋な願いです。 けれど、多くの人にとって、おばあちゃんの真の価値は、最初から「刺激」の中にはありませんでした。

ただ静かにそこにいてくれること。特別な言葉をかけてこないこと。帰宅した時に、いつもと全く変わらない空気で迎えてくれること。 麦茶の価値もまた、そこにあるのです。 刺激がないからこそ、価値がある。地味だからこそ、心から安らげる。退屈だからこそ、極限まで疲れている身体にも、スッと受け入れられる。 麦茶をもっと面白くしようとした瞬間に漂うあの違和感は、麦茶が変わってしまったことへの拒絶ではなく、私たちが麦茶に求めていた変わらなさが損なわれることへの不安だったのかもしれません。

最後に帰ってくる場所

人は誰しも、派手なものに惹かれます。 新商品、期間限定、有名人とのコラボ、そして鮮烈な刺激。分かりやすい違いは、私たちの日常に彩りを与えてくれます。 それは確かに、心躍る体験です。 けれど、魂の底から疲れている時、人が最後に戻っていくのは、いつだって変わらないものです。

使い慣れたタオルの肌触り。聞き飽きたはずの実家の匂い。何度も歩いた通学路。長年愛用している欠けたマグカップ。 そして、冷蔵庫の中で冷えている、あのなんてことのない麦茶です。 夏の終わり、少しぬるくなった麦茶を飲んで心の底から安心するのは、そこに驚きが一つも含まれていないからです。 何も起きない。何も足されていない。いつも通りの、何の変哲もない味がする。 私たちは、毎日を生きるために、それほど多くの刺激を必要とはしていないのかもしれません。

本当に欲しているのは、「変わらないものが、今日も変わらずにそこにある」という、静かな確認。 だからこそ麦茶は、どれほど地味で退屈と言われようとも、夏になると私たちの生活の真ん中に居座り続けるのです。 あれは、美味しいから飲んでいるのではありません。 自分がちゃんと帰ってこられる場所があることを、身体が必死に確かめようとしているだけなのかもしれません。

いいなと思ったら応援しよう!