物が多くて収納を壊した私。悪いのは?壊した人?状況?

物が増え続ける家に住んでいる。
皮肉だが、
我が家というのは、
経済の範疇に収まらないのかもしれない。

そしてその原因は、いつも同じところにある。

我が家では毎週、生協の宅配が届く。
冷凍食品、野菜、調味料。
注文しているのは母親で、
その判断基準はだいたい決まっている。

安いから。後で使うから。いつか必要になるから。
それだけだ。

問題は、その商品を置く場所が本当に残っているのかを、
確認しないことだ。

冷凍庫がいっぱいでも買う。
収納棚が埋まっていても買う。
そして物が入らなくなると、今度は収納を増やす。

収納が増えるとまた物が増える。
数量把握が困難になる。

いくつあるかわからないから
また買う。
また入らなくなる。

こっそり捨てても気づかれない。

この繰り返しだ。



収納が足りないのではない。物が多すぎるのだ。

持っている物や、量を把握することはせず、
収納しきれない現実に文句を言う。

それが私の母親だ。


空いたスペースは、余白にならない

私はDIYが好きで、
ペットボトルのケースを収納する棚を作ったことがある。

というのも玄関に4ケースおいてあることに対し、
(…運気・愛想というか、なんか気持ち悪くないか?)と思っていた。

3×2の棚を作ってみた。
これで余裕ができると思っていた。

ところが6個置けるようになったら6個になった。
気づけば8個、9個になっていた。
空いたスペースは余白にならない。
新しい物で埋まるだけだ。

どこか無意識で、置けるスペース量は把握している。
しかし、置いてある量は把握していない。

人はスペースがあると使いたくなる生き物なのかもしれない。

物がいっぱいだからと、
収納個所を増やそうとする。
カラーボックスを買い足してはまた埋まる。

安っぽく見えるからと見栄えのいい棚に替えれば、
今度はそこにまた物が詰め込まれる。
そして手放すことができなくなる。

高くて気に入って買ったから、という理由で。

「減らす・捨てるという行為」を
『損失』としかとらえない。

結局、家の中はどんどん窮屈になっていく。


昭和時代の考え方

物が多いことをステータスと感じる人は、
持つことに満足して管理する側には意識が向かない。

オイルショックの時にトイレットペーパーを買い占めるような話と、構造は同じだ。

使い切れない量を抱えて、
それで自分の生活が豊かになっているのだろうか。

物は場所を圧迫しているだけで、
管理が煩雑になって身動きが取れなくなっているだけではないのか。

…私は何よりそのような状況を、
 私のせいで散らかっていると責任転嫁し
 一蹴りした母親に対して思っていることがあるのだ。


「持っている」と「把握している」は別の話だ

母親は収納場所についてはあり程度従う。
しかしその場所がどれだけ空いているかを把握しない。

置いた場所を自分で忘れる。
持っている道具がいくつあるかも知らない。
そして同じものをまた買ってくる。

冷蔵庫があるから入れられる、
家があるから置ける。

そういう大雑把な把握だけで動くから、
買った後に現実と合わなくなる。

採寸もせず、干渉も確認せず、動線も考えない。
買ってから入らないことに気づく。


収納がうまい人でも、物理の概念を超えるのは不可能

どれだけ収納が上手な人でも、
1リットルの容器に2リットルの水は入れられない。
当たり前の話だ。

なのにこの前提を無視し続ける人がいる。
片付けのプロに頼む人がいる。

しかし物を減らさないまま、
今あるものをきれいに整理してほしいというのは無理な話だ。


問題は技術ではなく、
許容値を超えた物を持ち込み続けていることにある。


「持っている」ことと「把握している」ことは、
まったく別の話なのだ。



冷凍庫の引き出しが割れた日

前々から伝えてあった。
冷凍庫はもう入らない。物が多い。限界だ、と。
にもかかわらずある日、大量の冷凍食品が届いた。
無理やり詰め込んで閉めようとした瞬間、
餃子とミンチの袋が破裂して、
引き出しのプラスチックが割れた。

母親は、壊した私を非難した。
中学時代の話だ。


だが本当に見るべきは
誰が壊したか?なのだろうか。

そこではないと思っている。

余白があれば、
整理されていれば、
そもそもこの状況は生まれなかった。

落とし穴を掘っておいて、
落ちた人が怪我をしたら落ちた人が悪いと言っているようなものだ。

事故だってそうだ。
ハンドルを切った瞬間だけを見れば単純な話になる。
だがなぜそうなったのか、何が積み重なったのかを見なければ、何も解決しない。
壊れた瞬間だけを切り取って終わらせることは、私にはできない。

何より、母親が事故にあったとき
証拠映像を見るたびに、
「母親に落ち度あるじゃん」と思うことが多かった。

なんというか、この行動一つしてなかったら事故ってないよね?
というような、一つの要因がそこにはあるのだが、
それが要因とは認めない。

まるで寝不足で事故を起こした方が悪くて、
寝不足にするまで働かせた状況には目もむけないような。



それでも母親は、物・お金を大切にしていると言う

母親はよく言う。
私は物を大切にしている、と。
私とは対極なのだ。
僕は、物は最低限でいい。
使わないもの・使えないものは直ぐに捨てる。

「お前と違って物も捨てない! 物も大切に扱っている。
 お前が捨てるものはまだ使えたもの!
 物も大切にしなければ、お金を無駄にしている」

とまで言われたことがある。
だが私には違和感がある。


手に入れたものを把握しない。
どこに置いたか忘れる。

賞味期限切れの冷凍食品を捨てれば
「もったいない」と怒る。


収納が足りないから棚を買う、
冷蔵庫が小さいから買い替える、
広い家があればと言う。

見栄を好むくせに、車は禄に管理せず事故らせる。

お金で物理的な問題を解決しようとする。

しかしお金で解決できない限界がある。
面積も体積も、いくらお金を積んでも広げられない。


お金を大切にするとは、
安い物を買うことではないと私は思っている。

買った後のこと、
管理できる状況まで含めて、初めて買い物だ。

犬や猫を飼う時はいうのに、物には何も適用しない。

どこに置くのか、
いつ使うのか、
最後まで使い切れるのか、
管理できるのか。

そこまで含めて初めて、そのお金の使い方には意味がある

それを母親にはわかってほしい。
無駄なこと、無駄なもの、
そうやっていつかは来ずに、手放している損失に気が付いてほしい。

広い家も、広いスぺ―スが確保できなければ意味はない。
物を貯めこむために、広いスぺ―スというのは愚の骨頂だ。


お金とは単なる交換券ではない。


自分が本当に必要だと思ったもの、
自分の生活を豊かにしてくれるもの、
将来も大切に扱えると思えるもの。

そういう物と引き換えるためのものだと私は思っている。

必要なものを必要なだけ買う人と、
セールだから特売だからと置ききれないほど買い込む人と、

本当に経済的なのはどちらなのだろう。

本人には見えていないようだが、
答えは見渡せばわかる気がしている。

本人がそれに気が付くことは未来永劫ないかもしれないが。


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