伝えたい。人生をかけてひとを変えた上司の“本物”のコーチング
忘れもしない。
誰にも見られないように半泣きの顔を隠して庁内を歩いたときのこと。
1. 始まり
2020年の春、僕は大学時代を過ごした思い出のまちに戻り、市役所の職員として働くことになった。
学生だった僕に人生の転機を与えてくれた思い出の場所で仕事ができることもあってモチベーションも十分。
ただ、初めの1年はしんどかった。
出勤初日から3時間の残業。
その後2カ月ほど毎日3〜5時間の残業が続いた。
明らかに向いていない業務内容に慣れず、自分の素の人間性を押し殺しながらやり過ごす日々。
時々、友達に愚痴や悩みをぶちまけながらなんとか1年耐えしのいだ。
2. 思いもしなかった出来事
耐えしのぐ1年は過ぎ、2年目の春を迎えた。
僕の部署異動はなかったけど、課長が異動となり新体制が始まる。
新たに配属された課長は温厚な方で、最近あった話や自分が学んできたことを毎朝おもしろおかしく話してくれた。
そんな雰囲気だから課員も自分から「僕はこんなことがありました!」とか、「私はこう思います!」など自由な発言をするようになって、課の風通しも人間関係も一転した。
「めちゃくちゃ恵まれてるな」
毎日そう感じながら、ようやく慣れた業務をこなしていた。
この頃になると苦手なところは人に頼れるようになり、残業も一気になくなったし、先輩方に頼られることも増えた。
…が、僕はぶっ倒れた。
出張から帰宅すると、急に血の気が引く感覚、焦燥感、不安感、喉の苦しさ、動悸、全身の震え、脱力、倦怠感に襲われ救急で病院へ。
全く歩けず、車椅子で移動させられた。
検査の結果は、模範的な健康優良児。
一晩休めばすぐに退院してよしとのこと。
でも、残念ながら翌日も体調は最悪。
その日の夜中は人生で一番苦しんだ。
原因不明の体力発汗、焦燥感、不安感、震え。
夜中に緊急搬送されてくる患者の声。
赤ちゃんの金切り声。
入院中の患者の声とつながれている機械音。
「ここは地獄なのか?」
朝を迎えても症状は収まらず、段々と意識が遠のいてきて身体も1ミリたりとも動かなくなった。呼吸も浅い。
いっそのことこのまま意識を飛ばしてほしかった。
それでもしばらくすると徐々に意識が戻り始める。
どうやら重度の脱水症状で悪化してしまったようで、点滴を猛スピードで注入されていた。
そこからの回復は早く、ふらつきながら何とか歩いて退院することができた。
診断は、自律神経失調症とのこと。
仕事は到底できそうになかったから、しばらく休暇をとってから出勤することに。
課長と相談して、すこーしずつ勤務時間を戻していくように調整した。
久しぶりの出勤の日、課員全員に休みを繋いでくださったお礼をしてから、課長と出勤の仕方について相談をしに人事担当者のもとに向かった。
3. 一喝
僕、課長、人事担当者の3人でこれから少しの間どうやって勤務していくかを話しあった。
課長は、「絶対に無理だけはさせたくない、この方法はどうか」と真剣にかけ合ってくれた。
それに対して人事担当者は「制度上でそれはできなくて…」を繰り返す。
(そうだよな…、仕方ないよな…。)
それでも課長は一歩も引かなかった。
話が平行線になって、悶々とした空気が立ち込めてきた頃…
「制度制度って…、ひとのことを考えろ。」
ベテラン公務員は感情的になることは滅多にない。なんの解決にもならないから。
制度には太刀打ちできないことなんて百も承知のはず。
にも関わらず、課長がここまで感情的になる理由はこのときはまだ知る由もなかったけど、僕にとってはこの言葉は他のどんな言葉よりも嬉しかった。
「よし、また一生懸命頑張ってみよう。」
嬉しさと情けなさ、制度への怒りがごちゃ混ぜになっていたけど、このとき、半泣きを隠しながらそう決意することができた。
4. あれから2年
身体は完全にもとに戻ることはなかったけど、有給休暇をうまく使いながらなんとか2年間仕事ができた。
この間、課長はずっと僕の体調のことを気にかけてくれた。
この2年で、課長は部長に昇進。
僕も第1志望の部署に異動することができた。
部長になり部署異動されてからも、相変わらずおんぶに抱っこでお世話になり続けていた。
僕もあの出来事があってから前向きに仕事をする事ができて、新たに【若手職員と市長の意見交換会】を企画、部長と相談しながら実現できた。
部長も、僕の一件があってから時差出勤制度の導入に尽力し、実現された。
ただ、信じがたいことも起こってしまった…。
部長の奥さんが病で他界。
「なんで?なんで、部長に限ってこんな辛い目にあわんとあかんの?」
自分ごとのように腹が立った。
心底ムカついた。
それでも部長はいつもと変わらぬ振る舞いで僕らに接してくれた。
僕の出勤方法をかけ合ってくれていたときに感情的になられていたのも、奥さんと少し重なるところがあったからだとなんとなく理解できた。
それからしばらくして、部長が長期休暇をとることになったと小耳に挟み、力が抜ける。
奥さんを亡くされてから、徐々にエネルギーを無くされていたように感じていた。
嫌な予感は的中。
今度は部長が入院することになった。
結局、部長は入退院を繰り返され、定年まで残り1年(だったかな?)のところで自主退職。
僕は少しでも感謝を伝えたいと思って手紙を書いた。
「こんなことまで…。ありがとうな、頑張れよ!」
と、逆にエールをもらってしまった。
最終出勤日、部長は「まだまだ、みんなと仕事がしたかった」と涙を抑えながら震える声で言葉を残し、沢山の職員に見送られながら庁舎を後にした。
今思えば部長の周りにはいつも人がいて、みんな生き生きしていた。
「どれだけ多くの人がこの人に生き方に元気をもらってきたんだろう。」
5. 再会
部長が退職されてから数カ月。
僕も部署異動してから体調不良が悪化してこまめに通院をしていた。
ある時、久しぶりにたまたま病院で部長とばったりお会いできた。
「この前旅行してきたで!笑」
少しお痩せになられた気もしたけど、元気にそう教えてくれた。
「また会おうな!頑張れよ!」と、またまた僕の応援をして部長は去っていった。
6. 自身の退職と…
僕も体調が悪化し、いよいよ仕事どころではなくなり部長の背中を追うように退職を決意した。
退職をしてからは実家でゆっくり次のことを考えていた。
相変わらず原因不明の自律神経失調症は良くならない。
生きるためには仕事をしないといけない。
でも、身体は言うことをきかず勤められない。
できることはないかと、毎日のように紙にアイデアを書き起こすも、それを実行する能力が全くないことに気づいては、その紙を捨て続けるばかり。
恐怖と焦り、無力なことに対する自己嫌悪のスパイラル。
魂の抜けた肉塊として生きことの辛さのようなものを感じた。
そんな日々を過ごしながら数カ月が経ったある日、お世話になっていた先輩から連絡があった。
「部長が亡くなりました。」
頭が真っ白になった。
スナックで一緒に馬鹿やってた部長の姿
病院で旅行の話をしてくれた姿
一緒に食事をしていた時の想いを語ってくれた姿
出勤方法について真剣に取り合ってくれた姿
一気に押し寄せてきた。
もうあの元気な部長をみることはできないし、今後の僕の活躍も直接報告できない。
「なんでなんだよ!」
「なんの罪もない、人想いの方がなんでこうも早くに命を落とさないといけないんだよ!」
そう思った。
同時にふと、部長が毎朝してくれていた話のネタ帳をもらっていたことを思い出し、久しぶりに読んでみた。
部長がみんなの前で笑いながら話をされている毎朝の光景がよみがえる。
以前まではあまり気にしてはいなかったけど、こんなことが書いてあった。

「義を見てせざるは勇無きなり」部長の全てを表していた。
「制度制度って…、ひとのことを考えろ。」
他の人からしたらなんとも無い怒りの一言かもしれないけど、公務員離れした部長の言葉がなければ仕事を続けていなかった。
そのおかげで、公務員として濃い時間を過ごすことができた。
この時間がなければ今はない。
キャリアコンサルタントの国家資格も取っていなかったと思う。
部長が作ってくれた時間と経験を糧にしてこれからの人生を歩きたい。
まだ身体も本調子じゃないし、クソほどしんどいときもあるけど、この経験を乗り越えて今度は僕が、同じように悩んでいる他の誰かを救う番になる。
そしていつか、部長のお墓の前で笑って自慢げに話をしたい。
部長、ありがとうございました。
またお会いしましょう!

